作者注:この話はお題「檻」から続いています。
浅く、薄く。
繰り返される呼吸。
あの雨の夜から幾日たったのだろうか。いや、もしかして幾月。朝と夜が巡ってくるのはわかるのだけれど、幾つまで数えたかをどうしても思いだせない。
日に日に曖昧になっていく記憶を嘲笑うかのように、凍える現実が今日も突きつけられる。この檻の外で、帝国軍と解放軍、ふたつの大きな勢力が血で血を洗う争いをかさねていること。解放軍を率いる少年、ルーファス・マクドールの神をも畏れぬ父親殺しの顛末。この先も幾多の命を無惨に喰らうはずのソウルイーター。赤く染まっていくトランの大地。
四季の恵みを賜ったこの国は美しかった。そこに暮らす人々の心も豊かであたたかだった。戦乱など起こりうるべくもない、永遠なる祝福に包まれ繁栄するはずだった民たちに災いを招いたもの。それは。
吸って、吐く。
また吸って、吐く。
なぜ停まらない。非力な魂ひとつひねり潰すのは簡単だろうに。どうして罰を下さない。
あいつがあと幾つ、愛する者の魂を喰らえばおれは咎人になれるのか。
こんなにも浅はかで罪深い命なのに、永らえることになんの価値がある。自分よりはるかに生きる意味のあった人々があんなに呆気なく逝ったのに。
テオ様。グレミオさん。そしてあいつに道を示したというオデッサ・シルバーバーグも。
なのにどうして自分だけが、このような檻で惨めに生かされているのか。
浅く、薄く、吸って吐くをとめどもなく繰り返し。低酸素に陥らない程度に、不随意に拡張収縮する肺。
自らの意志では指先ひとつ動かすことのできない身体は、その正当な持ち主を生かすことにはひどく熱心であるようだ。最低限の栄養を摂らせ、必要な酸素と水を取りこみ、循環させ、定期的に休ませる。物理的な鎖が手足を拘束していたときに受けた深い傷もどういう手段を用いたのやら、まるで魔法のように癒えた。
なぜ殺さない。
簡単だろうに。
魔女は嘲笑う。あなたをむざむざ眠らせるわけがないじゃない、と。
肉体を抉るだけが刃じゃないのよ。
緩慢に、できるだけ永くあなたが苦しむように、じわりじわりと血を流させてあげる。
その穢れた血の最後の一滴まで、わたしが舐めとってあげる。
あなたはわたしの大切な─────
そう。大切なお人形さんよ。
くす、くす、くす。魔女が嗤う。狂気のローブをまとった宮廷魔術師ウィンディ。
27の真の紋章のひとつ、門の紋章の継承者であり、膨れあがった怨念と復讐心の花束をすべて破壊へと手向けた女。
幼かったテッドに底知れぬ恐怖を植えつけて、時の中へ姿を消した女。彼女もまた、真の紋章に運命を弄ばれる哀れな存在であることを、テッドは知ってしまった。
彼女をひとりの人間だと認めないことは、自分を人間だと認めないことといっしょだった。
悔しさと不甲斐なさでおかしくなりそうだった。三百年という長い旅路で拾いあつめたものはすべて傲り。ウィンディの前で簡単に砕けるほどの欺瞞でしかなかった。怯えて逃げまわるだけだった自分と、執着し続けたウィンディとの違いをはっきりと思い知らされて。一方は保護を乞う子供。片や孤を絶対とする信念。三百年を這いずることと歩むことは違う。ウィンディは、強い。そして自分はこんなにも弱かった。
”大切なお人形さん”
ウィンディがテッドを蔑んで遣う言葉は、彼の心をずたずたにした。激しい羞恥と悔恨。なによりもそうやって過去を嫌悪していく自分自身こそが精神を切り刻む刃だった。
それを承知でウィンディはテッドに愛を囁く。
遠いはるかむかしにハルモニアによって奪われた、彼女自身の心の具象がテッドなのだから。
愚かであればあるほどいとおしく、か弱き存在なればこそ囲ってあげたい。なんぴとも触れることのできぬ扉の奥に大切に仕舞いこみ、永遠に自分のものにしたい。
ウィンディにはそれを可能にする手段があった。比してテッドは彼女の中の暗闇に気づくに到らず、己の肉体を犠牲とすることで事を終息させようとした。
それが背負った重みの違い。
テッドが屈服することに矛盾もなにもありはしない。ソウルイーターの継承という予想外のハプニングは癪に障るが、ウィンディはひとまず満足していた。
跪くがいいわ。あなたはわたしのものなのだから。
あなたはわたし自身のもっとも忌むべき人格よ。
この世でもっともいとおしく、もっとも憎らしいもの。
あなたは、わたしが棄て去ったわたし。
くす、くす、くす。魔女が嗤う。
ウィンディはグレッグミンスター城内の小部屋をテッドに与えた。彼の新たな居場所はつねに仄暗く、湿気のからみつく重苦しい空間だった。そこはウィンディの居室に隣接していた。身のまわりの世話をする女官も魔女の塔に立ち入ることを許されてはおらず、処刑されたはずの少年が奥に囚われていることを知るものはなかった。
もっとも、その光景を目撃したところで怪しむ者もいなかったろう。少年は宮廷魔術師の寵愛する忠実な小姓に見えたはずだ。賢そうな瞳と、あるじにも似た冷たい表情が印象的な、任せるに足る存在と思うだろうから。
心を宿す操り人形とは誰ひとり気づくまい。
観客の有無では、ウィンディの嗜虐性はゆるまない。テッドは魔女の望むままに他人の言葉を紡ぎ、魔女の求めるままに魂のない笑顔を漂わした。
テッド。ご機嫌はいかが? お茶にしましょう。
はい、ウィンディ様。
テッドは優雅に立ちあがると、自分のためと彼女のためにひとつずつティーカップを手にする。慣れた手つきで茶葉をポットに入れ、熱い湯をまわしかける。立ちのぼる湯気が頬をあたたかく撫でる。
どうぞ。
ソーサーに乗せた紅茶をひとつテーブルに置き、魔女の前まで滑らせる。
うふふ、ありがとう。あなたもおかけなさいな。
はい。
向かいあった白い椅子につく。砂糖を少しと、ミルクをほんのひと垂らし。魔女の好みの分量だけはかったようにテッドは手許のカップに落とす。
熱い液体が舌を灼く。丁度を味わう自由すら彼にはない。
くす、くす、くす。
おれを見るな。嘲笑うな。いますぐその仮面の下から憎悪を剥きだしにして縊り殺してしまえ。
魔女の瞳が悪戯っぽく輝く。そうだ、いいことを思いついたわ、と。
テッド、あなたにあれをプレゼントしておきましょう。
ほらね。綺麗でしょう? あなたの可愛いお手々にぴったり。この短剣にはね、ちょっとしたおまじないをかけているのよ。
柄を飾っているこの宝石は、血石というの。あなたが乞おうが乞うまいが、石は新たな血液をあなたに与えるわ。短剣とともにあるあなたの身体は疲れを知らないでいられる。だから肌身離さず身につけていなさい。いいわね。
ウィンディはテッドに立つように命令し、革製のシースにおさめた短剣をその腰のあたりに括りつける。
加えられた重みは現実の質量よりもさらに重いはず。ウィンディはテッドがそれを自分の心臓に突きたてたいと渇望することを知っている。
病的な青白い指がシースを離れ、背から肩、首筋を這いあがり、喉を伝わって顎に触れる。
いい子ね。
重ねられるひやりとした唇。拒むどころか、支配された身体は躊躇いもなくそれを受けいれ、さらに求めようと舌を絡めだす。
目も眩むような痛苦に意識がどこかに飛びそうになる。だが艶やかな拷問はそれを許さぬと言わんばかりに続けられる。
苦しい。苦しい。苦しい。
身体は穏やかに呼吸を繰り返すのに。
目尻を濡らす小さな涙は、血まみれの心が放った絶叫のひとかけら。
あらあら、まだ抗う気力があるの。ステキだわ。ほんとうに可愛いおばかさん。もう少し、もう少しだけそうしてわたしを愉しませてくれる? そうね、あなたがそのお手々を坊やの血で染めるまで。
そうしたらご褒美に、あなたを永遠に─────
バルバロッサとテッドの会話を書こうと思ったのですが、うぃんで様がなかなか退場してくださらなくて、うっかり『セレブたちの午後のお紅茶』な話になってしまいました。次は必ず出すぞバルバロッサ。っていうかこの支配シリーズまだ続ける気? あそう。
2005-11-27