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「また、おれに頼るのか?」
 彼がそれを口にしたのは何度目だろう。いや、もはやそういう生易しいレベルではない。
 きのうも、おとといも、その前も一週間前も、テッドは判で押したように同じ顔と同じセリフを繰り返した。
 ひとこと文句を垂れなくては気が済まないのはわかるが、もう少しバリエーションというものを考えてみてはどうなんだろう。面倒だな、とかいま忙しいのに、とかいろいろあるだろうに。
 あれだけ律儀に手を貸してくれているのだから、三べんにいちどは断ってもばちはあたらないよ、テッド。
 ああ、そうか。根が真面目なのか。
 どうしようもなく、いっそ糞がつくほどに。
 本日もお日柄よろしく期待どおりの反応に、ノエルは心のなかでぷっとふきだした。
「連日の呼び出しでごめんね。きみも疲れているのに、悪いなあとは思うけど」
 人にはあまり向けたことのないにっこりスマイルを献上する。十中八九テッドはこれでたじたじとなる。
 う、とか言いながら目を反らした。そうそう、これもまたお決まりのコース。
 あどけない顔をして精いっぱい突っ張っているこの男の子が、実戦においては鍛えあげられた重戦車軍団よりもよっぽど役にたつことを認めぬ者はいない。
 使える駒なら使わにゃソンソン。
 よって軍主ノエル自らが出陣するような重大な局面には、必ずテッドを同行させるようにしている。いや、重大な局面でなくともこの生い立ちがワイルドな平民軍主は日常的にフラフラと危険なフィールドを徘徊しているのだが。
 今夜蟹鍋が食べたいよね、と双剣をきらめかせながらお誘いしたときはさすがに相手の頬もぴくぴくとひきつったが、それでも結局ついてきてくれた。
 たしかに軍主は軍主らしく作戦室のスペシャルソファにどっかと腰を落ち着けて戦況を見守るのが常識というものでありスジであろうとは思うのだが。
 しかたがないんだよね。食材確保は趣味の範疇です。
 命がけの蟹鍋は絶品だった。
 あの時だけはみなもテッドを讃えまくった。
 船の仲間たちが称する『無愛想で魂のどこかにイッちまったいやなガキ』を自由自在に操る心地よさといったらない。それに、テッドはわざと他人に嫌われようといやなヤツを装っているだけで、本性はまったくの正反対なのだ。
 下手な芝居などノエルにはすべてお見とおし。もっともその理由を彼の口から聞いたときは、かなりうろたえてしまったけれど。
 特別待遇にしたのは単に戦闘で使えるからじゃない。
 施設街の賑やかさを嫌って食事に来たがらないテッドのために個室までまんじゅうを差し入れてやったり、着替えも持っていないと見るや仕立屋フィルに口利きして似合いそうなのを選んでもらったり。
 異例ともいえる厚遇をよく思わない者もなかにはいて、テッドに対する風当たりが強まることもあった。そういう場合はこっそりアルドにお願いして、悪い噂ができるだけテッドの耳にはいらないように配慮してもらうのだ。
 なんと気の利く軍主であろう。
 ノエル、うっとりと自画自賛。
 ああそれと、ケヴィンの新作まんじゅうサプライズ。個数限定なのが惜しいけれど、施設街もしばらく活気づくな。もぐもぐもぐ。これもテッドが棺桶に片足つっこみながら獲ってきた竜のヒレがはいってるんだよね、モグ。
 戦争という殺伐とした状況のなかでも、これくらいの潤いはなくてはだめだ。
 テッドはいい拾い物だったよ、と口のまわりをぬぐいながらしみじみ思う。
 彼もまた真の紋章を宿していることを知っているのは、片手の指で足りるはずだ。現場にいて真相を目の当たりにしたリノ王とキカが固く口を閉ざしているせいでもある。軍師エレノアには話が通じているかもしれないが、秘密が漏れるおそれはあるまい。
 オベル軍は罰の紋章ひとつで手いっぱい。この上さらに厄介な代物を抱えこむとなると、群島諸国の統一どころではなくなる。もしも事態が紋章戦争に発展したら最悪の泥沼だ。
 だからテッドのことはだれも公然と口にはしない。そのかわり、似た立場の者同士としてノエルはテッドをつねに傍から離さなかった。真の紋章というものが人の手にどれだけ重いか、持った者しかわからない。
「で、今日はなに」
 不機嫌を絵に描いたような仏頂面で訊いてくる。ぶつぶつ言いながらも積極的に矢筒を背負って肩ベルトも丁寧に締め直して。
 いい子だなキミは、とどれだけその猫っぽい跳ねあがった髪の毛をよしよししたかったか。
 襟のあたりに三本ぶら下がっているベルトもいちばん上だけを器用にとめる。下二本は面倒なのかそれとも意識しているのか、いつでも放置だ。
 準備万端になったところで声をかけた。
「ではテッド、問題です」
「はあ?」
「きみは51ポッチ持っています。6ポッチのリンゴを4個買いました。さて、おつりはいくらでしょう」
 褐色の瞳がひややかな光を帯び、半分だけ閉じられた。
「……そのくだらない問題に答えたらなにかいいことでもあるってのか」
 ノエルは質問には応じず、また繰り返した。
「おつりはいくらでしょう。あと十秒。九、はち、なな……」
 地獄の底からひびいてくるような声で、テッドはぼそりとつぶやいた。
「27ポッチ」
 ノエルはにかあっと笑った。
「すごいやテッド! 大当たりだよ。おめでとう」
「おれを……馬鹿にしてるのか……?」
 不機嫌の度合いが本格的になる。けして冗談が通じないわけではないのだが、日頃から滅多にしたことのない日常会話という行為がこの船に乗って桁外れに増えたこともあり、人間関係の対処能力がいくぶん飽和気味なのだ。
 ノエルは釣りで使うような指先のない手袋をユラユラと振って、否定した。
「ちがうよ。ただ、いまから行こうとしてるところでは、その答えじゃだめだったんだ。常識がぜんぜん通用しない。危険な場所だってわかって、いちど退いたんだけど。また、きみに頼るしかないかなって。わかってくれるよね」
「……ふん」
 テッドは鼻を鳴らして、それ以上はなにも言わなかった。
 常識が通用しない世界ならテッドはずっとそこの住人だ。断るわけがない。
 戦闘能力への信頼はもちろんあったけれど、テッドが時折放つ右手の紋章をもっと見たいという思いもノエルにはあった。
 ソウルイーター。
 生と死を司る紋章。
 それがどういう性質のものなのかノエルはあまり詳しくは知らない。テッドは必要以上のことはなにも語ろうとしない。だが自分の左手に灼きつく罰の紋章と同様に、宿主を苦しめていることは容易に想像がつく。
 グレン団長から罰の紋章を受け取って、はじめて真の紋章というものの存在を知った。
 いや、存在自体は子どもの頃から知ってはいたのだ。しかし、単なる創世のお伽噺だと思っていた。
 この星の上に住まう人々はみな幼き日の寝物語にそれを聞く。この世界をつくったのはだれか、自分たちはどこからやってきたのか、小さな心にそっと教えるためだ。
 親から子へ語り継がれる、はじまりの物語。

 むかしむかし、闇がありました。闇はあまりにも長い時のはざまに生きていて、さびしさのあまり涙をおとしました。
 涙からふたりの兄弟が生まれました。剣と盾です。
 剣と盾は己を正しいと主張し、争いをはじめました。激しい戦いは七日七晩つづきました。
 剣は盾を切り裂きました。盾は剣を砕きました。
 剣のかけらが空となりました。盾のかけらが大地となりました。
 戦いの火花が星となりました。
 剣と盾を飾っていた27の宝石が散らばり、世界を動かしはじめました。

 27の宝石。
 そのひとつがノエルの左手に輝いている。その名前は、罰。
 宝石と呼ぶにはあまりにも禍々しい、血の色をした狂気だ。
 これがこの世に存在するということは、ほかの26個も世界のどこかにあるはずだと信じるしかなかった。
 真の紋章に関する文献は少なくて、あったとしてもその記述はひどく曖昧なものだった。
 文献によると真の紋章のいくつかは国家によって厳重に管理されており、その大いなる加護を得ているのだという。ハルモニア神聖国、赤月帝国、ファレナ女王国などの大国も公にこそはしていないが、真の紋章に護られた国である。
 争奪戦に巻きこまれ、行方不明になったものも多い。存在すらもはっきりとしない紋章もある。どう考えても、この広い世界でほかの真の紋章を探すことは困難に思えた。
 それが、これほどあっさりと実現してしまうとは。
 呼びあったのかもしれない。それは直感であった。生と死を司るという、彼の紋章もまた血のにおいがした。
 あるいはふたつの紋章は親友同士なのだろうか。
 どこかの港で下ろしてくれと言い張るテッドを強引に引きとめて、仲間にしたはいいものの、その右手にあるものが気になって気になって、あるときついにノエルは訊いた。
 たまたまふたりきりになった、甲板上であった。
「テッドの、その紋章は……やっぱり、命を削ったりするの」
 テッドは少し考えて、小さくうなずいた。
「ああ」
 ノエルはどきんとして、左手をきゅっと握りしめた。
 ただしテッドの答えには続きがあった。
「他人の、な」
「……え」
「他人の魂を、喰うんだ。だからこういう。ソウルイーター」
 淡々と、表情も変えず、事実だけを告げる唇。苦しいとか、つらいとか、そういう人間的な言葉はひとこともなく。
「誰でもいいってわけじゃない。こいつは、けっこうな美食家ね。おれに近いやつの魂が好みだってさ」
 ああ、そういうことだったのか。ノエルは閃いたかのようにすべて納得し、革手袋に包まれたテッドの右手に視線を落とした。
 彼が人を拒絶するのは、だれの魂も奪いたくないから。
 我が身を守るためではなく、他人を守るためなのだ。
 テッドはしゃべりすぎたという顔をして、わずかにはにかんだ。
「黙ってろよ」
 悪戯を口止めするヤンチャ坊主のようにこっそりと言う。
 力の代償に命を削る自分の紋章と、命の代償に人の魂を奪うテッドの紋章と、どちらが醜悪かだなんて比べられるはずもない。悩みを打ち明けあうことができればと近寄ってみたが、それが無意味であることをノエルは思い知った。
 こんどはテッドが逆に訊きかえしてきた。
「おまえは、覚悟ができてるんだろ、ノエル」
 覚悟。サラリと言われたそれの意味を生唾とともにノエルは呑みこむ。
 みんなのためにこの命を消費する覚悟だ。
 ノエルはうなずいた。テッドは少し微笑んだように見えた。寂しげにも、見えた。
「……すごいな。おれ、ダメなんだ。幾つになっても、覚悟なんてちっともできやしない。情けねーったら……うしろを向いてばっかりだ。おまえは、すごいよ」
 自嘲を口にして、褐色の瞳をぼんやりと中空にただよわせる。
 自らが選んだはずの圧倒的な孤独に、苛まれつづける少年。
 諦め、受けいれることにどれほどの覚悟が要るのか。人のあたたかさに囲まれているノエルには想像もつかない。
 たくさんの人に見守られた絶対的な死。
 ひとりぼっちの絶対的な生。
 正反対のきみとぼく。
 悲しかった。こらえようもなく。
「おい、なんで泣くんだよ、軍主のくせに」
「だっ……だっ、て」
「リーダーは泣いちゃいけないんだぞ」
「わ、かって、るよ、ヒック」
「ったく、ちっ……ちょっとほめたら、これだ。まいったな」
 テッドはきょろきょろしてだれもいないことを確かめると、念のため木箱の死角に引きずり込んで、震えるノエルの肩に腕をまわした。
「泣いてもいいけど、いまだけだぞ。トップがめそめそすんのは、本来ならアウトなんだからな」
「テッド……」
「ん」
「あ……りが、とう」
 テッドはなにも言わず、息を少しだけ漏らした。笑ったのかもしれない。
 肩から体温が伝わってくる。とてもあたたかくて、心地よい重みだった。
 ぼくにはスノウがいる。騎士団の友がいる。たくさんの仲間がいる。
 挫けたりなどしない。紋章の試練などには、けして負けない。この命はもうすぐ失われるだろうけれど、後悔だけはぜったいにしたくない。
 涙はこれで最後にしよう。
 弱い心や悲しみはすべていま流しつくしてしまおう。
 テッドが憶えていてくれる。永遠に。
 願わくば、この涙が彼をいつまでもあたためてくれますように。

「で、またまたおれに頼るのか?」
 エルイール要塞がそびえ立つ崖っぷちで、テッドはお決まりのごとく眉を寄せた。
「いいじゃん」
 オレーグの映写機を自動再生するような代わり映えのしない反応に、にっこりスマイルを乱発するのもそろそろどうかと思ってノエルは無下に言いはなった。
 どうやら泣いても笑ってもここは決戦の舞台であって、テッドのセリフを拝聴するのもおそらくはこれで最後なんだろうけれど。
 ここでブツクサぬかすようだったら、昨夜の内緒話、そう、あの一生のお願いとやらを大声で暴露してやってもかまわないんだよ?
 そう眼で訴えたら、案の定テッドは黙りこんだ。
 最後の最後までノエルの一人勝ちである。
「高い借りだな、チッ」
 悪態をつくことだけは忘れないらしい。
「急がないと、別働隊との連携がとれなくなるぞ」
 リノ王がうながすのを合図に、一同は緊張感を取り戻した。ノエルの口元も引き締まる。
「行くか」
 テッドがきっぱりと言った。
 前を向いている。いつも虚ろだった褐色の瞳には、決意に満ちた強い光が宿っていた。
 ああ、きみはもうだいじょうぶだね。ぼくがいなくなっても、きっと進んでいけるはず。
 きみ自身が気づいていないだけだ。きみは変わったよ、テッド。
 もっと、もっと強くなれ。そして、いつの日か気づいてくれればいい。
 きみはひとりじゃないということに。
「行こう、みんな」
 エルイール要塞へ。
 ぼくたちなら世界を動かせる。


2006-04-12