作者注:この話はお題「キズ」から続いています。
屋根裏部屋から頼りない梯子をつたって、小さな天窓をくぐった。冷たい外気が肌の熱を急速に奪う。ルーファスはにかっと笑うと、梯子の下から仏頂面を向けているグレミオに「大丈夫だから」と合図した。テッドも下に手をのばして、毛布とマフラーを受け取った。
「ほんとにあなたたちときたら……こんなはしたないところをご近所の方に見られでもしたらテオ様に申し訳が……いえそれより、風邪だけはひかないでくださましね。またこのあいだみたいに二人揃って寝こまれたりしたらわたしはもう」
「グレミオさんってトコトン心配性だなあ。鼻水でないうちに戻るって言ってるだろ」
「あああ、落っこちないでくださいね。骨の一本や二本じゃすみませんよ。裏にある小鳥の巣はいたずらしないようにしてくださいね。端っこの屋根瓦は先日の嵐で痛んでいますから近づかないように。ええとそれから……」
「ほっとこうルーファス、グレミオさん、きりがないぜ」
テッドは苦笑してパタンと天窓を閉めた。遮断されてもまだぶつぶつという声が聞こえてくる。二人は顔を見あわせてぷっと吹きだすと、天窓を覆う丸いひさしにぴったりならんで座った。マフラーを巻きつけてその上から毛布をかぶる。
天空は思ったとおり、降るような星空だった。
「気持ち悪いくらい見えるね」
「冬は空気が澄んでいるからな」
二人の吐く息が白く凍ってからまった。ルーファスはふるっと身震いすると、毛布の下からテッドにしがみついた。
「マジで風邪ひいちまう前にさっさと終わらしちゃおうぜ」とテッド。
そもそも屋根にのぼった目的は、ルーファスが天文学の課題を仕上げる過程で星に詳しいテッドに協力を仰ぐためであった。テッドはいつどこで学習したことやら、大人も舌を巻くほどの知識を豊富にもっていた。
「ああ、あれ? あんなの口実に決まってるじゃん」
ルーファスはあっけらかんと言った。ぺろんと舌をだす。
「グレミオをウンと言わすには勉強がらみの嘘がいちばん効くんだよね」
まじめな将軍家の坊ちゃんの、はてしなく上品な笑みがおかしくてテッドはゲラゲラ笑った。しかたない、共犯者になってやるか、と。
街路は人通りもなく、静かなものだったが、家々のあかりはあたたかく灯されていた。時折どこからか楽しそうな笑い声がきこえる。街の中心にひときわ大きくそびえるグレッグミンスター城はひかえめにライトアップされて、その秀麗な姿を星空に美しく調和させていた。
「ルーファスはさ、ここで生まれ育ったんだよな」
「うん、そうだよ」
「いいとこだな、ここは」
ルーファスももちろんそう思っていたから、テッドのことばが嬉しかった。つらい旅をしてきたきみも、ここをふるさとにすればいいんだよ、と心の中で語りかけた。
ルーファスにとってグレッグミンスターは楽しいことばかりではない。大将軍のひとり息子として生を受け、確約された一本道を育てられた。同世代の子供たちよりはるかに厳しい教育と鍛錬に耐えてきたにもかかわらず、周囲からは苦労知らずのお坊ちゃんと称され、敵ではありませんよというわりにはひどくよそよそしい人間関係にずっとさらされつづけてきた。友だちと呼べる子もいなかった。
偉大な父を妬む輩の標的にされたことも何度かあったし、進路の決定はいつも政治的事情に振り回された。ルーファスは大人の思惑どおりに生かされてきた子供だった。
美しいグレッグミンスターに隠された素顔。しかし上流階級のそんなつまらない裏事情は、なんのしがらみもない奔放なテッドは知らなくてもいいことだった。それにルーファスは、テッドというかけがえのない友を得たから。
テッド。きみがいてくれるだけで、ぼくが映す世界がどんどん変わっていくよ。
頬をくっつくくらいに寄せて、ルーファスは友のぬくもりに身をゆだねた。星が祝福している。ぼくたちの未来。
「あっ、流れた!」
テッドが無邪気に叫んだ。尾をひきながら夜空を横断するひとつの星。
「流れ星って、消える前に三回おねがいごとを唱えると、願いが叶うって知ってた? 次に流れたらやってみようよ」
ルーファスの提案を、テッドは呆れながら「無理だ」と一蹴した。
「三回なんて、繰り返しているヒマがあるもんか。よっぽど簡潔に言わないと。金!、金!、金ーッ!とか」
「だからさ、難しいから成功したときおねがいごとが叶うんじゃない」
「ふーん。ま、おれには関係ないし」
ルーファスはきょとんとした。「テッドって、おねがいごとしたこと、ないの?」
テッドはマフラーに顎を埋めると、ぶっきらぼうに言ってのけた。
「だっておれ、神サマ信じないから」
ルーファスはクスクス笑って、テッドの矛盾点を衝いてきた。「じゃあぼくにしょっちゅうおねがいごとをするのは、信頼できない神様のかわりなんだ」
「へっ?」
テッドははじめその意味がのみこめなかったが、しばらくしてかっと頬をそめた。慌てて弁解を試みる。
「あ、あれはただの口癖ってやつだろっ!」
「そうだね。ぼくなら三回言わなくても構わないもんね」
「この野郎、くすぐるぞ!」
「きゃはははは、ちょ、ちょっと待ってテッド……落ちるっ!」
ぐらりと傾いた身体をがっしりとつかんだテッドは、小さな痛みにも似た切なさをのみこみながら、いまがいちばんしあわせなんだ、と目を閉じた。
ルーファスはテッドにしがみつきながら小さく、「ねえ、もしお星さまに祈るとしたら、テッドのおねがいごとはなあに」と訊いた。
おれの願いごと。
願いごと。それは。
言えるはずが、なかった。
出立を告げられたのは払暁の時刻であった。人や小鳥より先に活動をはじめたカラスの啼き声だけが重く垂れこめた灰色の空に寒々とひびいていた。
外の空気にふれたのは何ヶ月ぶりだろう。監禁されていた北の塔の屋上からは、暗くよどんだグレッグミンスターの市街が見渡せた。この街ははたしてこんなに寂しい風景だったろうか。テッドはあまり感情をこめずにそう思った。
ルーファスの家の屋根が見える。何度かあそこにのぼった。グレミオは体裁が悪いとあまりいい顔をしなかったが、屋根はテッドとルーファスのお気に入りの場所だった。視界を遮るものもなく、二人の尽きぬおしゃべりを邪魔する者もいない。毛布にくるまりながら、未来の夢を語った。笑った。友情を確かめあった。
あれは遠い昔のことではないのに、どうしてとてつもなく遠く感じるのだろう。
二人を乗せた屋根はいまでも手の届きそうなところにあるのに、そこにはもう行くことはできない。
ルーファスはトランの古城で戦っているのに、自分はこんなところでなにをぐずぐずしているのだろうか。
吹きつける風に、テッドはぶるっと身をふるわせた。この程度の不随意の反応ならばいまのテッドにも許される。だが、自由などというものは所詮それだけだ。鎖すら切ることのできぬ自分に、テッドは絶望するしかなかった。
自分の存在がルーファスの足枷になることだけは耐え難かった。だが、二人の距離は残酷な悪意によって縮められようとしている。
できることならルーファスと再会することなく、終えてしまいたかった。出会ってしまえばルーファスは、友を傷つけることを頑なに拒むだろう。そのすきに自分は、おそらくは躊躇いもなくルーファスに刃を向けるであろう。そしてテッドの掌はルーファスの鮮血で染まる。
父親をその手で殺めたことの哀しみと苦痛を、ルーファスは歯を食いしばってこらえたにちがいない。なんのために。信じるもののために決まっている。ルーファスは、テッドを信じつづけた。テッドが継承した真の紋章を、彼のまわりにつどった運命の星たちを、美しいトランの未来をただひたすらに信じつづけたのだ。
ルーファス!
お願いだ。
一生の、お願いだ。いまのおれから眼をそむけないでくれ、ルーファス。
テッドは無表情の仮面の下で、狂おしいまでに願った。彼がテッドの豹変に気づき、その理由を冷静に理解し、私情を交えぬただひとつの選択肢を往くことを。
皇帝バルバロッサは言った。運命は変えられぬ。だが変えられぬのであれば力強く歩んだ者が勝ちだ、と。
あの日からずっと考えてきた。運命などという使い古された言葉はきらいだけれど、残酷な結末しか残されていないというのならせめて力強く、そして誰からも指図されず、自らの意志で終わらせてみせる。
ルーファス。おまえならわかるよな。
迷う必要などはない。親友を取り戻せぬと気づいたら即座に、過去は断ち切れ。
おまえは強いから、それができる。おれもおまえを信じているから。
ほんとうの親友ならば、できるはず。
テッドは支配者の意のままに首長竜にまたがった。グレッグミンスターが遠ざかる。二度とここに帰ることはないだろう。
背後からテッドを抱きかかえるように手綱を握っているウィンディが、耳許でうっとりとささやいた。
「なにを……考えているのかしら。それとももう、諦めて手放してしまった? フフフ、わたしにはどちらでもよいのだけれどね」
意識を手放してすべて支配の手にゆだねるのは容易だった。そうしてしまえば、テッドはもう少しらくでいられただろう。その誘惑に何度も負けそうになった。
だが、バルバロッサと会話して気が変わった。いままでウィンディは圧倒的に強い敵わぬ相手だと思っていたけれど、それが揺らぐことでテッドの内部に希望が芽生えた。
可能性を諦めてはだめだ。
すでに正気の限界を越えている心が深い闇に沈んでいかないように、テッドは必死に耐えてこの時を待った。最後の希望は、もっとも恐れる結末の寸前にある。おれは絶対にそれをつかんでみせる。
ウィンディ。おまえなどには屈しない。おれも、そしてルーファスもだ。
もっとも大切なことから眼をそむけ、醜悪で歪んでしまったその瞳に焼きつけるがいい。おまえがこの先もけしてソウルイーターに手が届かぬであろうそのわけを。
やがて、はるか彼方から蒼白くその存在を語りかける未知なる谷が近づいてきた。
そこは、テッドの物語が終焉を迎える地。
”ねえ、もしお星さまに祈るとしたら、テッドのおねがいごとはなあに”
おれの願いごと。一生を賭けた願いごと。それは。
この世でただひとりルーファスだけに、この命を捧げる─────
2005-12-04