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支配の紋章

作者注:この話はお題「青空」から続いています。

 兵たちの動きがにわかに慌ただしくなった。はるか遠くで鉄扉を開閉する軋み音がする。
 見張りの新人兵が一斉に背筋を緊張させた。巡回する上級兵たちの靴音もいっそう高らかに鳴り、この時のために訓練に訓練を重ねた一連の動作で面会者を迎える。準備が瞬時に整えられていった。
 辺りの気配が変わってもテッドは身じろぎひとつしなかった。
 背をひび割れた灰色の壁に預け、顔をほんのわずかだけ鉄格子の外へ向けたそのままの姿勢でもうどれくらいの時を過ごしたのか。長い投獄生活のあいだにいつしか感情すらも封じ込め、生きる意志を自らに禁じたかのようでもあった。
 新人兵のひとりがちらりと遠慮がちに目をやった。故郷に残してきた彼の幼き弟とさほど歳の違わないその少年を、今まさに第一級戦犯として死刑台に送られようとしている囚人としてどうしても見ることができないでいたのだ。これまでも隊長は幾度も諭したのだが、哀しいかな彼は心優しすぎるがゆえに今日まで胸を痛めてきた。冷徹になりきれない自分はおそらく帝国兵として未熟なのだろう。
 だが、と彼は思う。武装をすべて解かれ身体の自由も未来も奪われた子供にこれ以上いったい何ができるというのか。隊長も皆も何をそれほどまでに恐れているのか。あきらかに異様な見張りの数と少年の待遇を訝しむには充分すぎるほどに。
 可哀想に。
 同僚の兵に小突かれて彼の思考はそこで中断した。近衛兵隊長に脇を護られた宮廷魔術師がホールに足を踏み入れるのと同時であった。
「敬礼!」
 ザッ、と一斉に踵が鳴る。
 皇帝とともに帝国を実質的に司っている宮廷魔術師に逆らう者は城内にはいない。崩御した皇后の次の妃として後宮に入ったが、戦の劫火が国土を覆うに連れて政治への介入が顕著になってきた。いまや彼女の統治権は皇帝と肩を並べるほどになっていた。
 前の妻とよく似ているという顔は美しかったが、慈悲深さとは少し違っていた。側近には畏怖の念を抱く者も多かった。
 宮廷魔術師ウィンディに隊長は低く囁いた。
「先刻、上の回廊にテオ・マクドール将軍及びソニア・シューレン将軍が参られましたが」
「そう」ウィンディは冷ややかに微笑んだ。「それで、何か変わったことはあったの」
「いえ、視察のみでお戻りになられたご様子です」
「なら、よろしいわ」
 笑みを崩さないウィンディに隊長は一礼してわずかに退いた。兵たちのつくる道をウィンディはテッドのほうへと歩み寄った。
 テッドの瞳はそれでも焦点を合わせようとしない。
 二人のあいだの障壁は鉄格子のみとなった。兵の誰かが息を呑む音が妙に高く響く。
 ウィンディはうっすらと笑って静かに囚人に語りかけた。
「ご機嫌はいかが」
 予想されたことだが、反応のあるはずもない。落胆もせずウィンディは続けた。
「お迎えにあがりましたよ。覚悟はできてらっしゃるのでしょう?」
 無言。
 わざとらしく哀れむような仕草をして、ウィンディは近衛兵隊長に命令した。「北の塔へ連行なさい。ここの兵たちの任は解いてもよろしい。ご苦労でした」
 錠が開けられ、兵がテッドの手足を拘束していた鎖を外した。長いことそのままの状態だったので、手首は赤く擦れて血が袖までこびりついていた。手当など無用と捨てぜりふを残して去っていった元隊長クレイズの命令を忠実に守り、誰もテッドの傷をいたわろうとする者はいなかった。
「油断するのではありませんよ。その子は本当に何をするかわからないから」いつもの忠告をウィンディは軽く付け足す。もっとも隙など存在する余地もない。たったひとつの出口は兵たちで固められ、一瞬のあいだだけ自由になった腕はすぐまた後ろ手に縛られた。
 強引に立たせると、わずかだけテッドの瞳が揺れた。急な目眩で膝を崩しそうになったのだ。歩き方を忘れているうえにひどい貧血でもあった。
 ひとりが舌打ちをすると「おい、しっかり立て」と膝を蹴り飛ばし、倒れそうになった身体に荒々しく鎖を填めた。そのままテッドは引きずられるように牢の外へ出された。
 周りを取り囲まれ、北の塔へ向かうあいだにも兵の心ない暴行は続いたが、テッドからうめき声が漏れることは遂になかった。
 北の塔は現在は使われることもなく荒れているが、中世には咎人を幽閉し処刑する建物であった。高さにして十階ほどもあるその石造りの塔は中が筒状にがらんどうで、内部は壁づたいに螺旋状の階段があるのみだった。岩棚のように中空に床が幾つも張り出し、古び錆びついた鉄格子がそれをがっしりと吊っていた。
 数ヶ月ぶりの陽光の下をわずかだけ通り抜けたあと、テッドが押し込められたのはまたもや薄暗い場所だった。門で兵の大部分を帰すと、ウィンディは残った三人の従者に命じて壁から生々しく突き出た鉄輪にテッドの手足を固定させた。
「もうよろしいわ。あなたたちも下がって頂戴」
 従者たちは驚いて言った。「ですがウィンディ様おひとりでは……」
「よいのですよ。わたくしはこの子とちょっとだけ最期のお話があるの。それにあなたたちも見たくはないのでしょう……?」
 従者たちはうろたえたように顔を見合わせたが、ウィンディが再度うながすと腰をかがめて言葉に従った。たしかに子供の処刑される場面になど居合わせたくはない。
 ウィンディは偉大なる皇帝が惚れ込むほどの上級魔術師である。罪人といっても相手はまだ年端もいかぬ少年、苦しませずに葬送しようと言うのだろう。
 三つの足音が去っていくのを確かめて、ウィンディは吐き捨てるように言い放った。
「なにも知らぬというのは愚かで罪なことよ。そうは思わぬか? テッド」
 ニヤリと笑う。
「時の流れに支配される輩の醜悪さをお前も見たであろう。そして今のお前もそのくだらない者どものひとりよ」
 ウィンディはテッドの顎を取り、その唇に自らを重ねた。テッドの背がピクンと硬直した。
 虚ろだった眼が次第に焦点を結ぶ。声にならない悲鳴を喉の奥からひねり出し、テッドは必死に顔を背けてウィンディを振り払った。
「どうだったい、わたくしの調合した薬の味は。いい夢を見られたろう……?」
 テッドは長い悪夢から目覚めたあとのように荒く呼吸を繰り返して、落ち着きなく瞬きをした。手を繋いでいる鎖がガシャガシャと音を立てる。
「どんな夢だったい?」ウィンディは楽しそうに訊いた。「思い出させてあげましょうか? あなたのお友達が大切な者を失っていく夢」
「……言うな!」
 テッドは厳しく遮った。
「やっぱりね。思ったとおり。さすが何百年も共に生きてきただけのことはあるわ。お前とソウルイーターのつながりはまだ断ち切れていないのね」
「……?」テッドは眉をひそめた。汗がひと筋額を伝う。
「もうすぐ、また夢を見られるでしょうよ。ソウルイーターの次の獲物は、あの子の父親みたい」
 ウィンディはゆっくりと言い聞かせるようにその者の名を口にした。「テオ・マクドール」
「させないぞ!」
 拳を強く握りしめてテッドは叫んだ。「させるもんか! あいつからテオ様まで……そんなこと絶対にさせない!」
 ウィンディはからからと笑った。「傑作だわ! お前がそうさせたくせに。何も知らずに幸せに生きているあの子に、呪いを押しつけたのが自分だということを忘れたのね?」
 ウィンディの表情がスッと冷たくなった。鋭い音を立てて、その手がテッドの頬をはじく。
「可愛いテッド。お前はなにも変わっていないね。愛しさも愚かさも。お前の祖父から受け継いだその憎い眼もすべてね。愚かで、お馬鹿さんだわ。それほどまでにソウルイーターが大事かい? これだけ多くの者を不幸に陥れても、それでもまだソウルイーターを護ろうとするのかい!」
「うるさい、黙れ!」
 怒りで身体が震えていた。言われなくとも悔しさと哀しさで気が遠くなりそうなのに。親友ルーファスに呪いの紋章を継承したこと。すべてを承知させた上でなく、押しつける形で「お願い」したこと。ルーファスはいまもおそらくはソウルイーターの真の恐ろしさを知らぬままそれを持ち続けてるであろうこと。
 なにもかも自分の都合で進めたことだった。後悔していないわけがなかった。
 ルーファスがソウルイーターを持ってどこか遠くへ逃げてくれることを願った。だが兵士たちがテッドに教えたのは絶望的なことばかりだった。親友は反乱軍のリーダーとして立ち、諍いは遂に戦争へと発展したと。
 あの雨の晩、自分が囮になるからとルーファスと紋章を逃がしたあのときに、テッドは小さな嘘をついた。自分は大丈夫だから、きっと生きてまた会えるからと。それが最後の別れになることは火を見るより明らかだったというのに。ルーファスもうなずいて、必ず助けに来るからと叫んだ。
(けど、ルーファスは嘘をついていなかったんだ)
 テッドとの約束を果たすために、トランの古城でルーファスは戦っている。こんなに目と鼻の先で、ルーファスは。
「ちくしょう!」
 紋章を失った右手が力無く垂れ下がる。その哀しみは乾いた石壁に虚しくこだました。遣りどころがなくなって、テッドはウィンディに向かって罵倒を開始した。
「なんでさっさと殺さないんだよ! ソウルイーターを持っていないおれなんか生かしておいてもしょうがないだろ?! 殺せよ! じいちゃんにそうしたみたいにさ!」
「死にたいのかい? そりゃ、そうだろうねえ」
 ウィンディは目を細めてテッドを睨みつけた。「けれどお生憎だね。お前にはそんなに簡単に楽にさせてやりはしない。300年このわたくしから逃げまわった報いは受けてもらわなくちゃおもしろくないからね」
 ウィンディは手のロッドを床に弾いた。そこを中心として円形の光が奔り、テッドは異様な圧力を感じて目を伏せた。空気が一瞬のあいだに異質なものへと変わったような気がした。
「結界をはらせてもらいましたよ」
 ウィンディが言った。「ここはお前とわたくしだけのお部屋。何者も中に入ることはできず、お前もわたくしの意志なしではここから出ることはできない。お前はいまグレッグミンスターで死んだのよ。感謝なさいな」
「……どういう、意味」
「こういうこと」
 ウィンディは懐から光る小さな球を取りだして掌にころがしてみせた。普通のものよりいくぶん小さい気もするが、封印球によく似ている。中では仄暗い火がちろちろと燃えていた。テッドの脳に危険信号が点った。
「お利口さんなら、わかるわよねえ……?」
 ウィンディは球をテッドの目の前に差し出してよく見えるようにした。目を反らそうとしたがテッドは何故かその行為をひどく難しく感じた。
「これはね、門の紋章を護る一族に昔から伝わってきたちょっとした魔法なの。あの将軍どもに分け与えた欠片などとは純度が違うわ。並みの人間なら耐えられないでしょうけれど、ソウルイーターを手放したお前にはこれくらいがちょうどいいわ」
 テッドは息を呑んだ。抗おうにも意識はその仄暗い火に引き寄せられていく。駄目だ。それを見ては駄目だ。
 ウィンディの誘うような声がテッドを包み込む。
「これの名前は、ブラックルーン。この炎はね、宿した者の自由を焼き尽くすのよ。そして」炎がひときわ目映く煌めき、まるで意志を持った生き物のようにテッドの右手を包んで踊った。「支配するの」
 薄闇が戻ってきた。ウィンディはからになった紋章の容れ物を足で踏みつぶすと、ガラスの割れるような音とともにそれは軽やかにはじけた。
 どこかに飛んでしまったように動かないテッドの手足を拘束していた鎖を丁寧に外すと、ウィンディはその耳元に口を寄せた。
「聞こえているかしら? そう、お前の意識は失われない。でももう自分の意志ではこの身体は動かせないのよ。これからお前にはあの子からソウルイーターを取り返すお手伝いをしていただくわ。あの子が苦しみ、命を落とすさまをその目で見て貰うの。どこまで正気でいられるかしらね。ふふふ」
 テッドの髪をウィンディはやさしく撫でた。その眼に残酷な色が映る。やがてウィンディはいたわるような口調で囁いた。
「可愛いテッド。地獄に堕ちなさい」

青空支配の紋章大切キズ一生のお願い【完】


テッドかわいそすぎ。初稿はもっと虐めていますがさすがにこれ人様の面前にはちょっと。テッドへの愛を疑われては困るので地獄へ持って行きます(笑)。なにげに「沈澱」(お題外)に続いていたり。もとい続けてみたり。幾分こじつけ。

2005-03-16