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作者注:この話はお題「支配の紋章」から続いています。

 女魔術師の居室はグレッグミンスター城内にありながら、異質の力で外界と隔てられていた。
 その魔女がヒトのなかに身を置くこと自体、きわめて稀なことであった。彼女はヒトというヒトを蔑み、夢や希望や栄華というものをことごとく嫌っていたから。
 『黄金の皇帝』バルバロッサに近づいたのも単なる気まぐれにすぎない。過去にハルモニア神聖国の支配から免れた赤月帝国を玩具にすることで、乾いた欲望を僅かでも満たすつもりなのかもしれない。
 ウィンディのハルモニアに対する底知れぬ憎しみは、そのままどこか自分の感情に通じていた。ウィンディもそのことを熟知していて、招待したのだ。
 ユーバーはあるじに招き入れられるままに、ひやりと冷たい石造りの空間に足音を響かせた。香の甘ったるい匂いと囚われた時間から染みだす黴臭い匂いとが入り混ざり、どよんと澱んだ空気に漂っていた。
 薄闇の中にひとりの少年が、客人を迎えるべく虚ろに立ち上がった。
 赭色の髪。同じ色彩の瞳。
 子供の面影を残した成長途上の肢体。
 濃い灰青色を基調にしたトラン湖地方の伝統衣服を身に纏い。
 少年はユーバーと目を合わせても、表情ひとつ変えなかった。
「相変わらず、悪趣味なことだ」
 思わず本音が漏れる。
「ふふふ、懐かしいでしょう?」
「ふん」
 ウィンディはゆるりと笑みを浮かべ、少年を軽く手で制した。無表情のまま壁際に下がる。薄膜が張ったようなトロンとした目をわずかに床へ向けて、動かなくなった。
 少年がユーバーの知る、とある『禍々しいもの』を未だ持っているならまだしも、それを手放した彼はほかの人間どもと同様、単なる虫けらにすぎない存在であった。もっとも、そうでなかったら邂逅したその瞬間にデスクリムゾンで八つ裂きにしているだろうが。
 もはやユーバーには少年に抱く殺意の欠片もありはしなかった。
 だがウィンディは良くも悪くも女である。永年恋い焦がれてきたものへの執着は相当なはず。たとえそのものの価値が地に墜ちようと、けして見逃しはすまい。満たされぬ強欲は復讐や加虐の心を燃えあがらせていく。檻に捕らえ弄ぶ。そうして狂気の如くじんわりとひねり潰すのであろう。
 酔狂なことよ。
 人形ごっこがしたかったら、妨げはせぬ。
 ユーバーは革張りのソファに腰を落とした。
 闇い色彩のステンドグラスが僅かな外の光を拾ってテーブルに揺らめいた。
 どこからかが現実のものではない。だがその境界はあるじである女魔術師にしかわからない。
 ユーバーは気の向くままに幾人かと行動を共にしてきたが、仲間意識や主従関係が存在するわけではなかった。ウィンディとて同様である。もうずいぶん長いこと友の如く接してはいるが、目的を違えた場合は容赦なく切り裂かれ呪い殺される関係だ。
 このような生臭い女の血でも、吹き飛べば少しは興奮できるであろう。
 それから、そこにある人形。
 その手に巣くう紋章に見せつけるように残酷に切り刻んで征服欲を味わってみたかった。
 もはやそれも叶わない。
「……つまらんな」
 ボソリと呟くユーバーにウィンディは嗤った。
「あら、らしくないわね。ハルモニアでおもしろそうな動きがあるんでしょう。こんなところでのんびりしていてよろしいのかしら」
「貴女こそ」ユーバーにしてみれば今宵は饒舌に過ぎた。「デュナン地方が欲しいなら、紋章のひとつくらい労せずして手に入れることですな。そんな人形と遊んでいる時間はないでしょう」
「あら、意地悪ね」
 ウィンディはローブの胸元から青白く光る何かを取りだして指で弄びはじめた。それは小さな鎖のついた水晶球で、中で蠢いているものは色みのない炎であった。
「お人形かどうか、見せてあげましょうか」
 口の中でなにごとか呟くと、炎が身をよじったように揺らめいた。
 その途端。
 それまで呼吸の気配すらも感じさせなかった人形が、苦悶の叫びをあげた。
 空気を貪るような激しい息づかいのあと、背中を壁に打ちつける音が響いた。
「……っ、はっ、はっ、ぁ……」
 その瞳に浮かんだのは人としての意志と絶望的な恐怖。
 足が言うことをきかないのだろう。上半身を哀れに震わせたまま、泣きそうな顔でユーバーを凝視している。
 恐怖を顕せないのはさぞや辛いでしょうね。可哀想だから、ちょっとだけ赦してあげることもあるわ。
 この子の苦しむ顔はとても可愛いの。だからこうして、ときどき視せてもらうことにしているのよ。
 ただの言いなりのお人形さんなんて、おもしろくないですものね。
 心底愉しそうに魔女は唱った。
 舌なめずりしながら優雅な物腰で贄に近づき、カチカチと鳴る顎を手に取り、薄白い指をその唇に這わす。
「少し、お話ししてみる……?」
 見えない鎖で壁に縫い止められたような格好で、少年はユーバーを見、またウィンディを見た。だがその瞳には恐怖の色とともに、激しい高ぶりが現れはじめていた。
「どうしたの。お口は自由なはずよ。せっかく何百年ぶりにまた遭えたんですもの、ご挨拶なさったらどうかしら」
 少年の唇が痙攣するように小さく動いた。長く使われることのなかった声帯が、途切れ途切れの言葉を発する。
「ふざ……ける、な……」
「ほんとうに、しつけのなっていない子供だこと」
 ウィンディは演技じみた仕草で少年の顔に手を這わせ、次の瞬間、力任せにその頬を打った。
 鋭い衝撃にも少年の意志は怯まなかった。支配されて動けないはずの右手を固く握りしめ、苦しげに睨みつける。
「抗う気力がまだ残っているのね。さっさとその薄汚いプライドを棄てちまったほうが、どんなにか楽だろうにねえ。ほんとにおまえは、可愛いね。縊り殺してあげたくなるくらい」
「殺せば……いい、じゃないか」
「フン」ウィンディは神経質に顔を歪めた。「わたしはおまえが狂っていくさまが見たいのさ。おまえも分っているでしょう? 無駄に永らえてきたおまえにはね。分っているはずだよ。わたしがおまえに望んでいることをね」
「させる……ものか……」
「そう。そうやって抗えばいいわ。そのほうがおまえは苦しむことになる。どうぞもがいて、暴れれて頂戴。どうせおまえは二度と檻から出られやしないんだから。ふふふ、迂闊だったわね。自分を呪うがいいのよ。何の目的で赤月に現れたのか知らないけれど、おまえは目立ちすぎたの。あんな坊やのために、なにを血迷ったのかしらね? 可笑しいわ。可笑しすぎて、意地でもあの子からソウルイーターを奪いたくなるじゃない」
 ソウルイーター、という単語に反応して少年が硬直した。うっすらと血の滲んだ唇を噛む。
「坊やが逃げおおせると思ったのでしょう」
 ウィンディは意地悪く嗤った。
「お生憎だったわね。解放軍ですって。まさかそこまではさすがのおまえにも予測できなかったみたいだね。でもわたしは愉しくなってきたわ。ステキなドラマが観られるかと思うと、赤月なんかどうでもよくなるくらい、愉しいわ」
「俺は……させない、ぞ」
 少年は必死に声を絞り出した。「おい、そこの」
 退屈そうにソファに沈んでいたユーバーは、少年の向ける気配に顔をあげた。
「そこの、おまえ……だ」
 ユーバーは目深に被った帽子の奥で邪眼をくゆらせた。苛立ちの色が蠢く。
「虫けらの分際で、我を求めるか……?」
「ああ、虫けらのように……俺の村の……みんなを、殺したろ。あれは、おまえ……だよな」
「くだらん。あまりにもくだらん質問だ」
 少年は煽ることをやめなかった。怯むことなく、黒き者に問いかける。
「殺しそびれた虫けらが、一匹いるぞ。いいのか……? 放っておくと、俺は何をするか……わからないぞ」
 黒いマントの下で、血を求める刃が閃いた。
「構うでない、ユーバー」
 ウィンディの制止は意味を持たなかった。デスクリムゾンの切っ先が少年のこめかみをかすり、毛髪のひと束を分断して背後の壁に突き刺さった。
 赤い筋が頬を伝って顎に流れたが、少年はさらに悪魔を睨みつけた。
「ふん、そんなにコロされたいか?」
「死にたくなんて、ない。ただ、言いなりになりたく、ない、だけだ」
 これが先ほどまでひどく哀れっぽく震えていた少年なのだろうか。それは潔いほど明快な意志表示であった。
 ウィンディは眉をひそめた。「かわいげのない……」
 ユーバーはデスクリムゾンをわずかだけ倒した。鋭利な刃がわずか触れただけで皮膚が裂け、また赤い血が滲みだした。それでも命乞いをしない少年の首筋まで刃を傾けると、ユーバーは蔑むように言い放った。
「ならば簡単なことだ。少しだけ身体を捩ればよい。わたしが手を下すまでもない。言いなりになりたくないなら、それくらいのことはできよう」
「勝手な真似をされちゃ困るね、ユーバー」とウィンディ。
 少年は渾身の力を込めて目に見えぬ鎖を引きちぎろうとした。わずかに右手が動いたが、それで限界だった。自由にならない身体が悔しくて、少年はくぐもった恨み言を呟いた。
「どうした。できぬか」
「ブラックルーンを甘く見られるのは心外だわね」
「貴女こそ、このガキをあまり甘やかさない方がよろしい」
「?」
 聞き捨てならないと言いたげにウィンディの顔が歪んだ。完全な籠の鳥になにができると申すのか。支配しているのはこのわたしだ。わたしのものなのだ。
「お遊びが過ぎたかしらね……テッド」
 少年から嗚咽が微かにこぼれた。それを合図にするかのように、苦悶の表情が霧にとけるように失われた。ウィンディは炎の揺れる水晶球をふたたびローブの胸元にすべりこませた。
 死出の刃を喉元すれすれに挿頭したまま、少年はまた物言わぬ人形へと戻った。
 不機嫌にローブのすそを翻しながら、ウィンディは苛々と言った。「そうして減らず口の叩けるうちに、坊やを追いつめてあげるから見てらっしゃいな。どうせおまえは、なにもできやしないのだから。おまえの手を坊やの血で染めてあげましょうか。わたしのことは振り向きもしなかったくせに、あんな坊やを信頼したおまえが悪いのよ。だから後悔させてあげる。死んだ方がマシだって、喉が潰れるまで叫び続ければいいんだわ。おまえの心なんて、ズタズタに引きちぎれてしまえばいい」
「このガキは貴女の言いなりにはなるまい」
「忠告のつもり?」
「もとより我には関係ない。戯れ言ですよ」
 沈黙の訪れるなか、ウィンディは大切な宝物を愛でるかのように少年を胸に抱いた。

青空支配の紋章大切キズ一生のお願い【完】


旧・裏サイドに一時置いていた未完のお話からきわどい部分をばさばさとはずしました。あー、リサイクルっていう地球にやさしい行い(笑)?

2005-11-08