時が経ちあとで気づいても、それを予感と呼ぶことは許されよう。旅立つ晩に見た息子の姿をテオは生涯忘れずに憶えていられる確信があった。幼くして母を失い、将軍家の子息ゆえ同世代から距離を置かれてもひねくれることなく素直に育ってくれたルーファス。
師匠であるカイの厳しい指導も見事に受け入れ、棍の扱いに関しては誰も太刀打ちできないほどに腕をあげた。唯一の心配事といえば善くも悪くも真面目すぎ、男の子らしく元気に悪さをすることがないという、ただそれだけであった。それもテッドが家に来てからはまったく逆の意味で心配の種となった。
テッドはマクドール家において雲の切れ間の青空のような存在だった。少年が笑うとみなが笑う。少年が息子とよからぬ企てをし、イタズラを働くとクレオが角を生やして怒る。パーンの拳骨が容赦なく飛ぶ。グレミオが困ったように頬笑みながらたしなめる。
得られそうで得られなかった家庭の愛情というものを取り戻した感覚にテオは目を細めながら、いまが息子の出発点だと感じた。帝国の次期将軍となるために歩き始めるときが来たのだ。彼が眠っているうちに出発しようと考えたのは、そんな息子の成長が嬉しかったからなのだ。
「心配されなくても坊ちゃんは大丈夫です。立派におなりです」
鞄を持ち上げてグレミオが言った。この青年にもテオは感謝している。なかなか家に居ることのできない自分のかわりに長いあいだ息子を見守ってくれた。
ある意味ではテオよりはるかに息子に近いところにいつもいてくれたのだ。
「ありがとう、グレミオ」
「いいえ」頬に残る大きな傷もひっくるめて、すべてを包容してしまう笑顔。テッドが青空なら、グレミオは太陽だ。陽のひかりを受けて空は深く青く輝く。そして大地には緑が芽吹く。
グレミオ、息子が挫けたときには愛を与えてくれ。クレオ、姉のように厳しく、姉のようにあたたかく息子に接してくれ。パーン、帝国への忠誠心を男として息子に伝えてくれ。そして、テッド、生涯息子のよき親友でいてくれ。
今宵こそ息子がわたしから旅立つときだ。
何故そう思ったのかわからない。予感とは、そういうものなのだ。
急の報を受け、テオが帝都グレッグミンスターに戻ったときには、家に愛すべき家族の姿はもうなかった。
「よくお戻りになられました、テオ・マクドール将軍」
謁見の間で皇帝バルバロッサ・ルーグナーの前に跪くと、隣に座した宮廷魔術師ウィンディが先を越してねぎらった。テオはまだ頭を上げない。
察したかのようにウィンディはやさしく戒める。「顔をあげてください、テオ殿」
テオは静かに姿勢をただした。その瞳に濃い疲労が見て取れる。
控えの間に待機している部下のアレンとグレンシールも落ち着かない面持ちで聞き耳を立てているはずだった。
帝国五将軍のひとり、テオの息子があろうことか帝国に反逆の狼煙をあげる一味の頭を受け継いだのだ。不祥事以外の何物でもない。将軍はよくて引責辞任、最悪ならば首を刎ねることも辞さないという状況に立たせられている。
馬鹿正直に出頭することもあるまいに、帝国に対するテオの忠誠は岩石よりも硬いらしかった。実直すぎる上官にアレンもグレンシールも心休まるヒマがない。
「テオ殿」ウィンディが言葉を続けた。バルバロッサは押し黙ったまま動かない。「事の次第は聞き及んでおられることと思います。あなたがこの件になにも関わっていないことも、わたくしたちは知っておりますよ」
「ですが」
「処分をと申されるのですか? それを言い渡すのはすべてが終わってからでも遅くはないでしょう。テオ将軍、皇帝はけして鬼ではありません。貴殿が名誉を回復する手段を与えてさしあげるおつもりです」
バルバロッサが無言でうなずいた。テオは目を伏せてそれに応える。
「将軍。反乱軍の討伐部隊として出兵なさい。我々が望むものは首謀者の首ではありません。慈悲をさしあげましょう。生かして帝都へ連れ帰り、その後は父子の話をされるとよろしい。赤月帝国の安泰のために、働いてくださいますね……?」
断れる立場にはなかった。最後にまたふかぶかと礼をすると、テオは踵を返した。
何か言いたげなアレンとグレンシールを無理矢理宿舎へ帰すと、テオも宮廷内に与えられた自室に向かった。誰も居ない屋敷に戻る気もせず、出兵まではこの狭い部屋で寝起きするつもりだった。
ドアを開けると、客人が彼の帰りを待っていた。
「……ソニア殿」
「失礼かとは存じましたが、待たせていただきました」
「いや……いい。どうぞ楽にしてください」
ソニア・シューレン。テオと共に継承戦争で活躍したキラウェア・シューレンの娘だ。現在は帝国水軍の頭領として水上砦シャサラザードの護りに赴いている。
ひとまわり以上も歳の離れたこの女性とテオは、単なる将軍同士という関係以上に深い仲であった。
ソニアは遠慮してテオの屋敷を訪れることはほとんどなかったが、いつか自分も加わるかもしれない家庭内の事情についてはよく知っていた。それゆえ、彼女もまた苦悩の色をその端正な顔ににじませていた。
「ご心労、お察しします」
「貴女が心痛めることはない。自分が父親として至らなかったのです」
ソニアは深く息をして頭を振った。「ルーファスは反乱軍にたぶらかされただけなんでしょう。理由もなく裏切るような子ではありませんもの。憎むべきはあの子ではなくて、そうさせたオデッサですわ」
「どのように言い訳しようと、心揺らいだ息子が愚かだったのです。気づくことのできなかったわたしにもやはり非はあります」
「あの子ね」ソニアは憎々しげに言った。「テッド」
テオはかすかに眉をひそめた。
「オデッサ・シルバーバーグの切り札だったそうじゃないですか。すべて白状しました。あの子が孤児を装って将軍家に潜り込んだこと。はじめからテオ殿のお命を狙って送り込まれたとのことです」
テオは返事をしなかった。その話は彼も聞かされていたが、どこか違和感をぬぐい去れなかったのだ。自分がテッドと出逢ったのはほんとうにささやかな偶然で、しかも家に連れてきたのはテオの意志だったからだ。
「子供ですから可哀想だとは思いますけど、自業自得ですね」
「自白させるために拷問したのか」
「ええ、クレイズ隊長が辺境に飛ばされたから助かったようなものです。あのままでは処刑の前に命がなかったかも知れません」
テオは絶句した。「処刑」
ソニアは哀しそうに目を伏せた。「仕方がないのです。彼もまたオデッサの犠牲者です。ですがたとえそうであろうと、いくら子供であろうとも、してしまったことの責任はとらなくてはならないでしょう。あの子は任意尋問で出頭させられたとき、兵を三名殺害して逃げたというじゃないですか」
テオはめまいがした。どこかで歯車が狂っているような気がした。この期に及んでまだテッドを反乱分子として冷静に事実のみを見ることのできない自分に苛立った。
テッドが自分の命を狙っていただと? あの青空のような子供を、拷問しただと? そのうえ処刑するだと?
テッドに自分は言った。いつまでも息子の親友でいてくれと。それは本心だった。
「心配しないでくださいよ! ルーファスがイヤだと言ってもおれがそうしますから」
あれが演技だったというのか。
「……テオ?」 ソニアが心配そうにのぞき込んだ。その手を固くつかみ、テオは喉の奥から苦しげに声をしぼりだした。
「テッドに会えないか」
ソニアの瞳が曇った。心中は察するが、会ったところで決定は覆せない。よいこととはとうてい思えなかった。だがソニアは将軍のひとりであるより先に、テオを想う女性であった。
「手は、打ってみます。あの子はソニエールではなくまだ城内の牢に捕らわれていますから、難しくはないと思います。ですが……」
ソニアは言葉を濁した。「情はテオ様のためになるとは思いません」
「わかっている、ソニア」
テオのそれは自分自身に言い聞かせる言葉でもあった。
グレッグミンスター城の監獄棟は暗く冷たい建物だった。罪人はほとんどソニエールに送られるか辺境で強制労働させられるかなので、牢はがら空きであった。
牢番は快くテオを通してくれたが、テッドとの面会を求めると急に渋い顔をした。どうやら彼だけは厳に特別扱いらしい。牢番すら寄せつけず、常に上級兵士が交代で見張りに付いているという。
「なにかしでかしたんですかね、あの子供。ときどきウィンディ様もおいでになりますし……」
牢番はそこまで呟いて急に落ち着きがなくなったようにあたりを見回した。
結局、吹き抜けになった見張り用の回廊から遠く様子をうかがうしかないとのことで、テオはできるだけ目立たないようにそこに出た。重々しい雰囲気の中、本当に異様な数の兵が見張りに立っていた。
「たかが子供ひとりに、妙ですね」
ソニアが小さく耳打ちする。テオの目は中央の牢を捉えていた。いた。
手足を鎖につながれ、ぼんやりと壁に背をもたれているテッド。
頬に青痣がある。殴られたのだろう。最後に一緒に食事をしたときと同じ青の衣服を身につけていたが、いまは黒っぽい染みでひどく汚れていた。血か。
あれほど聡明そうな子供だったのに、その面影はまったくなかった。少し、髪が伸びたか。瞳は焦点があっていない。テオのほうを見ているようでもあり、見ていないようでもあった。いや、たしかにテオに気づいている。だが。
(映していないのだ)
あの青空なら真っ先に叫ぶだろう。俺はなにもしていないよ! 助けてくれよテオ様!と。テオはそうしてほしかったのだ。兵たちも鬼ではあるまい。嵌められた少年と不幸な将軍の邂逅に心動かされる涙する者もいるだろう。それで少しは魂も救われる。
けれどテッドの瞳の青空は失われていた。長い時間が経ったような気がした。ときどきつながれた右手をぴくりと動かしたり、握るような仕草を見せたりするだけで、テッドは遂にひと言も発しなかった。
最後の希望が断たれたような気がした。
いいのか? テッド。
救われようともがく権利がお前にはある。本当にいいのか。
「もうそろそろよろしいのでは」
ソニアの促す声がお終いの合図だった。テオは最後にもういちどだけ、息子の親友の姿をその目に焼き付けた。
忠実なるグレミオの後を追って天に召される時をひたすらに待つ少年に、心で別れを告げる。
テッドよ。
わたしはお前が好きだった。いつまでもルーファスの親友でいてくれ。わたしがあの子をこの手にかけたなら、背を叩いて励ましてやってくれ。
「だいじょーぶだって! ルーファスにはおれがついてるんだぜ? なあ、ルーファス!」
「うん、テッドとは親友だもの! だから心配することなんてなにもないんだよ父さん!」
ソニアはかける言葉を失った。帝国の猛将と讃えられる男も父親に戻ればこんなにも脆く儚いのだ。我が子を討つという、過酷な運命を背負った男の背を、いまはただ見守ることしかできなかった。
うわー……。
お父さん。42歳に27歳は犯罪に片足つっこんでます。
2005-03-15