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キズ

作者注:この話はお題「大切」から続いています。

 市街を堅牢な壁によって固められた城塞都市グレッグミンスター。軍事的、政治的に圧倒的な影響力を誇る赤月帝国の首都である。
 国家の覇権は時の皇帝にあり、その居城は帝都の中心部におかれた。
 広大なトラン地方の領土を長き年月にわたり掌握できたのは、絶大なカリスマを持つと評された歴代皇帝のゆるぎない権威と、それを支える強固な政権体勢のおかげであった。
 だが栄華をきわめた赤月帝国にも、斜陽の刻はおとずれようとしていた。最初の諍いは官僚の些末な癒着事件に端を発したが、国家内部にわき起こった憤懣は折り重なって大きなうねりとなり、ついには反政府勢力を誕生させるに到った。地方を統括する軍政官の政治腐敗が進むにつれ、大人も子供もみな国家を信頼しなくなった。支配体制は思いもかけず足元から崩されていったのである。
 それでも荘厳さを失わないグレッグミンスター城は、皇帝を支持する猛将たちを次々と各拠点に送りだしていった。この国は反乱分子を鎮圧する自信に満ちあふれていた。正義は必ず勝利する。帝国兵はみな、皇帝の正義を信じて疑わなかった。
 軍事的集団に育った反政府勢力と机上の対話をするつもりは、帝国にはなかった。その機会ははなから存在する余地がなかったと言ってもよい。双方ともに譲歩する意志は皆無であった。
 周辺諸国も息をひそめて、赤月帝国の情勢を傍観していた。歴史に名を刻む名君、黄金の皇帝バルバロッサ・ルーグナーが民の裏切りに揺らいでいる。とくに赤月と確執のあった北のジョウストン都市同盟にとってはつけいる千載一遇のチャンスだったのだが、トランに蠢いた巨像は手に余るほど大きかった。
 戦渦は赤月帝国の全土に拡大していた。
 解放運動を率いた女性オデッサ・シルバーバーグ亡き後、その遺志を継ぎ一軍を結成した人物がルーファス・マクドールである。まだ十代半ばの少年だった。少年はグレッグミンスターの目と鼻の先、トラン湖に浮かぶ湖城を本拠地と定め、帝国に敢然と戦いを挑んできた。
 解放軍はけして民間の素人集団ではない。帝国に疑念を抱く将校クラスの逸材を着実に味方につけ、強大な軍事力に対し軽快な戦略性で拮抗させていった。とりわけ帝国五将軍に名を連ねる『鉄壁のクワンダ・ロスマン』と『花将軍ミルイヒ・オッペンハイマー』のふたりが解放軍に投降したことは、さすがの帝国をも動揺させた。
 年若いルーファス・マクドールに黄金の皇帝を上回るカリスマ性があるというのか。いったいぜんたい、ルーファス・マクドールとは何者なのか。
 占領地化された帝国領土に住まう領民たちは、まだ見ぬ英雄の噂に花を咲かせた。支配者に服従しながら、内心刃を向けていた領民が大勢いたのである。
 その回答は戦慄するべきかたちで示された。無敗の誉れ高かった『百戦百勝のテオ・マクドール』が討伐の頭として少年に挑み、非業の死を遂げたのである。
 テオの心臓を己の棒術で射止めたルーファスは、彼の実の息子であった。

 右手にあるはずのない痛みにも似た疼きを感じて、テッドは目を覚ました。
 ひやりとしたベッドの上だった。周りはすべて半透明の天幕で覆われている。見飽きてしまったいつもの光景だ。
 月明かりが天幕をとおしてぼんやりと見える。手の届かない高い窓から、月は天空にあるときだけおぼろな照明をくれる。
 動かすことのかなわない身体は、異質な気配を敏感に察知した。右手が反応したように思えたのは夢だったのかもしれない。なぜならばかつてテッドの右手に巣くっていた、人の死をことのほか悦ぶかの呪われた紋章は、いまはまったく別のものに置き換わっているからだ。
 さっきの疼きは、忌まわしくも懐かしい過去の紋章の放つ感触だった。だからこそ、あり得るはずもない。錯覚なのだ。あまりにも悪い夢を見続けたせいで。
 テッドは天幕の外に不自由な眼を向けた。
 誰だ。
 気配はごまかせない。魔女の力によって外界との接触を完全に断たれたこの空間においてはなおさらだ。
 首筋がチリチリと灼ける。いまのテッドには対抗するすべは皆無。侵入者の目的如何によっては愉快ではない事態が展開することになる。
 クソッ!
 様子を窺うような敵の素振りにテッドは心のなかで舌打ちした。その瞬間。
 ギクリとした。
 激しい違和感を感じたのである。
 テッドは喘ぐように息をした。鼓動が早くなる。何が起こった?
 見えぬ鎖でがんじがらめにされていた身体の自由が、ほんの一部だけではあるが、スルリとほどけたのだ。飛び起きることすらかなわないが、それで十分だった。
「……誰だ?」
 ひどくかすれた声が出た。自らの意志で発声するのは、ひさしぶりだったから。
 気配の主はその問いには答えず、天幕を静かに押しのけた。淡い闇に浮かびあがった人影は背が高く、がっしりとした体格をしていた。よそ者の侵入を頑なに拒む空間に、ひとりやってくるとは普通の人間ではあるまい。あるいはウィンディの仲間か。
 テッドは無意識に身を守ろうと試みた。だが身体はぴくりと強張っただけで、動かすことはかなわなかった。かわりに影を睨みつけ、低い声をふりしぼる。
「おまえは、誰だ」
 繰り返される問いも相手は無視をした。じっとテッドを見下ろしている。相貌はうかがえないが、放たれる威圧感は男のものであった。
 テッドはごくりと唾を呑んだ。月の光を反射させた腰の剣は、貴族の飾りとはあきらかに異なった鋭い色を宿していた。幾多の血を吸った剣の輝きだ。
 殺される、と思った。
 脈の増加とともに、今度はテッドの左手が自由になった。ふいに千切れた鎖を不思議に思う暇すらなく、テッドはそれで顔を覆った。
 その時、男がはじめて言葉を発した。
「そう怯えずとも、よい」
 はっきりとよく通る、だがやさしい声だった。テッドにその声は聞き覚えがなかったが、どういうわけかふとひとつの確信に至った。皇帝バルバロッサ。
 天幕を透かして漏れる月光に浮かびあがったテッドの白い右手を、男は凝視していた。そこに無惨に焼きついている形は、この者のすべてが魔女ウィンディの支配下にあるという証の印だった。
 男はゆっくりと言った。
「覇王の紋章が解き放つ力を与えたのか。おまえこそ何者なのだ、少年」
 覇王の紋章、という聞き慣れぬことばにテッドは眉をひそめた。
「この剣は強情者でな、持ち主にしかその力を貸与せぬ。別の者に興味を示すなどおそらくはなかったことだ。これが心を騒がすもので来てみれば、見知らぬ少年が眠っておる。さて、どういうことであるかな」
 男はテッドの力ない右手をとって、観察するように腰を屈めた。ごつごつとしたあたたかい手であった。
「また、あれの戯れ言か?」
 あれ、というのはウィンディのことだろう。皇帝の寵愛する宮廷魔術師だ。もっともその戦慄すべき正体を知る国民はいるはずもない。皇帝とて然り。
 テッドは言いかけて口を噤んだ。この男は知るべきではないことを知っていそうな気がした。多くの猛将を惹きつけてやまない黄金の皇帝である。あのテオ・マクドールでさえ心酔していたのだから。
「……バルバロッサ・ルーグナー」
 テッドは冷ややかにその名を呼んだ。
「ほう。わたしを知っているか、少年」
 知っているのはその名と経歴だけであった。ルーファスやテオにつき添って城はたびたびおとずれていたが、身分というものが無きに等しいテッドは最高権力者に謁見する機会などあるはずもなかった。友人のルーファスから、彼の顔かたちや人となりを面白おかしく聞いただけだ。
 だから本人であるという確証はなにもなかった。だが、隔てていてもにじみ出す覇者の威厳は隠しようもない。それはこの人物の持って生まれた才であろう。
「いかにも、わたしはバルバロッサ。この国の上に立つ皇帝だ。さて、次はおまえが答える番だ。おまえはなにゆえウィンディの許におる? しかもこのような愚の寵愛に縛められて」
 テッドは自嘲するように笑った。「さあね。知りたかったら自分の口からあの女に訊けばいいんじゃないの」
「あれは狡賢い女でな。わたしのことも駒のひとつとしか思っておるまい。そればかりか、誰ひとりとして心を許そうとはせん。哀しい女だ。戯れで少年を飼い慣らすとは、解せぬことよ」
 洞察力もなかなかだ。テッドはちらりと天幕の外を気にした。術の一部が破られたことはウィンディが肌身離さず胸元に抱いているいまいましい水晶の球が教えているはずだった。異常を察知して様子を見にくるのではないか。
 バルバロッサはテッドの不安を察したか、先まわりして制した。
「案ずるでない。あれは少々遠出をしておる。それにこの程度の結界破りなら気づかれはすまい。覇王の紋章がおまえのもとにわたしを導いたわけを訊かなくてはいけないからな」
 テッドは語気を強めた。「さっきからなんだよ、覇王の紋章って」
 バルバロッサは腰の剣を抜き、月光にかざした。埋めこまれた宝石は深紅であった。豪華な剣であるが、さきほどテッドが感じたままの、ある種の禍々しさを強く宿していた。
 禍々しさ。たとえて言うなら、ソウルイーターの持つ気高い悪意のような。
「これは、覇王の紋章を宿すわが剣、『竜王剣』だ」
「紋章を宿す……剣?」
「いかにも。27の真の紋章のひとつ、覇王の紋章の化身だ」
 あまりの衝撃にテッドは絶句した。真の紋章。そのひとつが、目の前にあるのか。
 自由な左手が口を塞ぎ、こぼれようとする悲鳴を必死で押しとどめた。目を見開き、剣を凝視する。真の紋章が人ではなく剣を宿主に選ぶなどとは聞いたことがない。いや、その剣を所持する者こそがまことの宿主なのか。
 震えを隠しきれない声でテッドは訊いた。
「あんた”も”、真の紋章を持つ者なのか……?」
 バルバロッサは投げられた問いの深い意味に気づいて合点し、剣を下げてテッドを見た。
「やはりな。そうではないかと思ったが……少年。おまえも、真の紋章の所有者だな」
 テッドは口腔がからからに乾くのを覚えて、軽く咽せこんだ。
「いまは……ちがう……」
 否定と肯定、双方の意味。バルバロッサにとってはそれで十分だった。
「テオの息子が持っているという、あの紋章だな。ウィンディが、ソウルイーターとか呼んでいた」
 テッドはぴくりと反応して、苦しげに訊いた。「おまえも欲しいのか、ソウルイーターが」
 ウィンディが血眼で入手しようと躍起になっている紋章。過去の栄光にすがる皇帝がそれを利用して覇権を取り戻そうとしてもおかしくはない。
 だがバルバロッサは、きっぱりと否定した。
「紋章になどは、興味はない。どのみちわたしにはなんの力も及ばさぬ。恐るるに足らぬ紋章だ。だがソウルイーターが、これ以上ウィンディや赤月の民を惑わすのであれば、わたしはそれを打ち壊す」
「……ルーファスを殺すってのかよ!」
 テッドは叫んだ。そうだ。いま皇帝はルーファスの敵なのだ。
 バルバロッサは少しのあいだ沈黙し、静かに口を開いた。
「ルーファス。テオの息子、ルーファス・マクドールだね。あれがはじめて謁見に参ったときは父親の影に隠れてオドオドしている子供であった。強くなったと、聞いている」
「ルーファスはなにも悪くないんだ。ウィンディのせいで……ちがう、おれだ。おれが勝手にあいつを巻きこんだから、あんなことになった。責められるなら、おれのほうだ」
 言いながら、悔し涙がこぼれた。ただただ後悔しかない毎日だった。自由にならぬ身体を呪いながら、地獄を見ながら生かされてきた。
 もうこんな拷問はたくさんだ。
 もはやプライドもかなぐり捨てていい。テッドは懇願した。
「たのむから、あいつをそっとしておいてくれ……ウィンディの手の届かないところに逃がしてやってくれ。それくらいなら、あんたにもできるだろう。もしソウルイーターがウィンディの手に落ちたら、犠牲は赤月だけじゃ済まされないと思う。だから、あんたのその力で守ってくれ」
 テッドは手の甲であふれる涙をぬぐうと、追いつめられた瞳をバルバロッサに向けた。
「……たすけて、くれよ」
 バルバロッサは静かにかぶりを振った。
 テッドに絶望の表情が宿った。小さく嗚咽して、ふたたび目許を手で覆う。
「少年」とバルバロッサは言った。「おまえの傷が、どれほどに深く残酷なものかわたしは知らない。だが、このわたし自身も、そしておまえの忌み嫌うウィンディでさえも、他人にはわからぬ傷を負っておるのだ。おまえもひとたび紋章を持つ者であったのならわかるだろう。運命は変えられぬ。だが変えられぬのであれば力強く歩んだ者が勝ちだ。わたしは過ちを犯したが、それを最初で最後としよう。もはや迷うことはあるまい」
 バルバロッサは迷いを断ち切るように踵を返した。天幕に手を掛けると、最後に一度だけ振りかえった。
「少年。おまえに会えたことをわたしは幸運に思う」
 やがて薄い膜はなにごともなかったかのように揺らぎを止めた。
 テッドの眼は去ってもなおバルバロッサを追っていたが、やがてその肢体にはもとのように鎖がやんわりと絡みつき、意志の疎通を停止させていった。眠りに落ちる間際、ふたたび右手がかすかに疼いた。
 今度は誰の魂を喰らったのだろう、とテッドは思った。

青空支配の紋章大切キズ一生のお願い【完】


2005-12-01