どす黒い雨雲が急速に天をおおっていく。
突風がざわざわと草木を揺らしはじめた。あたりは夜のように真っ暗になった。
激しい雷雨になるだろう。雨はともかく、雷は厄介である。このだだっ広い平原では身を隠す場所などもちろんあるはずもなく、保護範囲を確保してくれるような高い木も見あたらない。
地面に這いつくばって、嵐の通り過ぎるのをじっと待つ以外なさそうだ。
「まずいな」
おれは舌打ちをして、フードをかぶりなおした。いつも放置している首のベルトもすべて留める。
荷物が飛ばないように丈の高い草にくくりつけ、最後に自分も地面に伏せた。
行き倒れに見えなくもないみっともない格好だが、しかたがない。どうせこんな場所に人など来ない。
雷の音がだんだんと近づいてきた。雨粒はすぐに大きさを増してばたばたと身体を打った。
旅をしているからには雷雲と遭遇したときの対処法も心得てはいるけれど、これほどまでに運の悪いのは十年にいちどあるかないかだ。予測を誤った自分に非があるとはいえ、独りぼっちで黒こげは勘弁してほしい。
雨がフードを伝って流れこんでくる。冷たくて、痛い。
一応の防水を施しているとはいえ、荷物の袋も河原に浮かんでいるようなものだ。なけなしの着替えも食糧もおそらく全滅するにちがいない。
たとえばこれが通り雨ですぐにあがったとしても、じきに日が暮れる。平原は昼夜の温度差が激しく、日中は猛暑でも明け方は十度ちかくにまで下がる。乾くひまも与えられなかったずぶぬれの衣服は、体温を奪うだろう。
まさしく危機的状況である。
嵐の中心がついに真上に達したらしい。
眼を閉じていても、閃光が奔るのがはっきりとわかった。
閃光と轟音はほぼ同時にやってきた。タイムラグなどはない。間近に雷雲がある証拠だ。
どこか近くに落ちるたびに、身体が硬直した。
怖い。
雷の直撃をうけることも十分にありえる。火傷ですむならばよいが、直撃であればショック死はまぬがれないだろう。おれは一応、不老の呪いをかけられているけれど、あいにく不死ではない。
ただ運を天にまかせるしか。
十分。十五分。長い長い時間が腹立たしいほどゆっくりと過ぎる。
(だいじょうぶだ、だいじょうぶ)
轟音が耳をつんざく。
(こんなところでは死なない)
フードを握りしめた手ががたがたとふるえた。
極限の恐怖の中で、おれはなぜか昔を思い出していた。
どうしてこんな切羽詰まったときに、そんな記憶がよみがえったのかはわからない。
それに、あれは―――もう百年近くも前のことではなかったか。
彼を遠ざけようとしたのはけして相手の身を案じてのことではない。
成り行きとはいえいっときでもチームを組んだ者が、つまらない巻き添えで命を落とすなどという事態になったら寝覚めが悪いから、そうしただけだ。
だいたいにおいて、当時のおれに人を思いやるなどという余裕があったかどうかさえ、疑問はなはだしいのだ。いつでも自分優先でものごとを処理し、他者に関わらないように生きていた頃の話だから。
彼にももっと我が身を優先させてくれるようにと願いたかった。せっかく戦争を生き抜いたのだから、命はもっと大事にするべきなのだ。少なくとも、数ヶ月前に出会ったばかりの他人に軽々しく捧げていいものではない。
―――捧げられるほうの気持ちを、考えてみたことがあるのか?
怯えていた自分に手を差し伸べてくれたのは彼だけだった。いや、気づいてくれたのが彼だけだったと言ってもいい。彼はとても勘がよくて、さらには寂しい人を放っておけない性格だった。
言い直そう。彼のそれはなにも人に限ったことではない。たとえば森に棲む野生動物にも慈悲のまなざしを向けるようなやつだった。傷ついた動物は、けして殺さない。
話をきくところによると狩人の一族らしいが、集団を離れた理由もなんとなくわかるような気がする。弓矢は獲物の息の根を止めるためにあって、護身用ではない。仕事のできない人間は、たとえどんな職業においても敗者のレッテルを貼られるだけなのだ。
それに、やつのそれは愛情ではなくて憐憫だ。似ているが混同してはいけない。
孤独な魂をすべて救いたい、自分ならば救えると勘違いしている。きみの力になりたいなどと、涼しい顔をして言ってのけるのがその証拠。
これ以上の傲りがあるものか。
おれの胸の内は憤りと罪悪感でいっぱいで、ちょっとしたはずみですぐにほころびてしまいそうなほど、危うかった。
あたたかい言葉をかけられるたびに、恐怖で意識が飛びそうになる。
うっかり墜ちてしまわないように、右手を握りしめて必死に自制して。
彼のせいで、おれはへとへとに疲れていた。
渾身の忠告はいつでもさらりとかわされた。たっぷりと塗りこめた脅しも毒も、彼にはおもしろいほど効果がなかった。
いっしょにいた時間はどれだけのあいだだったのだろう。もはやそれすらもきちんと憶えていないが、そう長くはなかったようにも思う。終わりのほうでは二人旅という最悪の状況になっていたが、おれはもちろん心を開くつもりはなかったのだ。
相手は話のわからない子どもではない。我が身がさらされている危険を、きちんと認識しているはずだ。わかってやっているからこそ、よけいにたちが悪い。
焦りが頂点に達した日、おれは意を決してやつに言った。
ゆらめく焚き火をじっと見つめながら、最後通告を突きつけてやった。
夜が明けたら、おれは西に行く。
もう、いっしょの道は歩かない。ここで、別れてくれ。
やつの顔は見なかったけれど、それなりに濃いつきあいだ。どんな表情をしているのかくらい感覚でわかった。
無言の時間が少しだけあったけれど、返事もとうにわかりきっていた。
けれど、返されたそれは予想とまったく正反対だった。
「わかったよ、テッドくん。今夜が、最後だね」
おれはびっくりして、つい、振り向いてしまった。
こんな間近であいつの顔を直視したことがあっただろうか。
すらりと高い背。馬の尻尾のように束ねた後ろ髪。薄い唇。琥珀色の透きとおった瞳。
いつものおれならばきっと冷たく睨みつけている。そこにいるだけで憎しみの対象となっていた彼。
おれは防衛を怠り、あいつに見入った。
「……いいのか?」
「テッドくんが、そうしたいのなら」
おれの動揺がよっぽどおかしかったのか、アルドはくすりと笑った。
「やっぱり寂しいから取り消す、っていうんなら、いまのうちだけど?」
「ばっ、ばかいえ! 胡散臭すぎて、寒気がするんだよ! なんか裏があるんじゃねえのか」
裏などあるはずがない。おれ自身がいちばんそのことを知っていた。やつはウソをつかない。馬鹿がつくほど真面目な男なのだ。
アルドは意味深な表情をして、首をかしげた。すっと瞳が細まる。
おれはじっと見つめられて、なんだか居心地が悪くなった。
そして、またあの笑顔。
「道は分かたれても、どちらも行き止まりじゃないかぎり、どこかでまた出会うはずだよね」
「……え?」
「ぼくはね、きのう夢を見たんだ。ずっと、ずっと未来、テッドくんに会う夢」
「夢の話か。くだらない」
「聞いてよ」とアルドはほほえんだ。「夢だけど、すっごく不思議なんだ。夢じゃないってのが、ぼくにはわかった。だって、テッドくんは……すごくしあわせそうに笑っていたから」
おれは呆れたのか、つきあいきれないと横になったのか、その後のことはあまり憶えていない。眠ってしまったのかもしれない。
なにかがあったはずなのだけど、どうしても記憶が戻ってこないのだ。
たぶん、自分自身で封じてしまった。
あのときすでに死神の鎌はぴかぴかに研ぎすまされてやつの首元にあったのだと思う。
ごめん。ごめん、アルド。
意味こそ違えど、それはたしかに別れの夜だった。
おれは二度とあんな卑劣な罠は許さない。
そして罠に墜ちた自分をいまも許していない。
どんなに悔やんでも、呪っても。
ずっと未来、笑顔であいつに会うことなどもはやあり得ないのだ。
いや、そうじゃない。
ひとつだけ方法がある。
それが成功するかどうかはわからない。けれど試してみる価値はあるかもしれない。
「……ソウルイーター」
あいつのところに、おれをつれていってくれるか?
閃光と、轟音。
水の流れる音でおれは目を覚ました。
いつのまにかすぐ目前に小川ができていて、キラキラと光の粒を躍らせていた。
ひょっとしてあの世というやつだろうかと、おれは一瞬本気で思った。
さっきまで天井にあった積乱雲が地平線にどっしりと浮かんでいる。灰色がかった雨のカーテンを縁取って、オレンジ色の夕陽がまぶしく輝いていた。
壮絶な光景。
「きれいだ」
おれは口にだして言ってみた。
だれが聞いているわけでもないのだが。
恐る恐る、手足を動かしてみる。重いだけで怪我はしていない。そのかわり芯まで冷えきっている。明るいうちになんとかしないと、せっかく拾った命が次は凍死の危機にさらされる。
立ちあがって周囲を見回し、絶句した。
あたりの草がすべて同じ向きに倒されていた。落雷の衝撃をもろにうけたのだろう。
伏せていた地面のすぐそばにわずかな溝があり、雨は川となってそこを流れたらしい。
大地を伝った大容量の電流は、この川に阻まれて少しだけ方向を変えたにちがいない。
数メートルほど先に置いた荷物は見るも無惨に焼けこげていた。
背筋が凍った。
もしほんのわずか、位置を間違えていたら。
「は……ははは……」
奇蹟と呼ぶにはあまりにも空恐ろしすぎて、おれは虚ろに笑い続けるしかなかった。
畜生。
吐き出した恨み言はだれに向けたものだったのか。
生と死のはざまで、おれはなにを考えていたのだったか?
「……行かなきゃ」
荷物をすべて失っても、ここにじっとしているわけにはいかない。歩かなければ先に進めない。
また死に損なった。それはとてつもなく滑稽だけれど、要するに時期尚早だというわけだ。それにやっぱりおれは、ほっとした。
生きている。
そう。それが、すべてなんだ。
2006-08-23