Press "Enter" to skip to content

逃亡

 傷口を洗う清潔な水さえあればと、おかみさんがため息とともに吐き出した。
 医者がやられちまったからといって産婆が替わって怪我を診てくれていたが、せいぜい包帯を取り替えるくらいが関の山で、手荒い治療に顔をしかめていたテッドの耳許にも、その暗いつぶやきは届いた。もちろん水など望むべくもないことは、おかみさんもわかりきっているはずだ。
 水はない、薬もない。いわば諦めの愚痴である。
 たしかに傷口はジクジクと膿んで熱をもってきたが、いますぐこれで死ぬというわけではない。それに怪我をしたのは自分が矢を避け損ねたからである。敵前に突っ立ってぼんやりとしていたテッドが説教されるのならばともかく、おかみさんが我が身を責める必要などまったくありはしない。
「巻きこんでごめんなさい」
 その謝罪も何度目だろう。壊れた蓄音機のごとき同じセリフ。
 まだ年若いのに村で唯一の宿屋をひとりで切り盛りするおかみさんは、トレード・マークの元気印すらもすっかり萎んでしまっていた。心なしか、豊潤な胸以外の部位もちょっぴり痩せたようだ。
 テッドはだれにも気づかれないように舌打ちした。
 馬鹿を言え。巻きこんだのは血に飢えたソウルイーターだ。つまり、原因は自分にこそある。
 罪もない村にノコノコとあがりこんで、ささやかな平和をぶち壊しにしたのだ。
 右の上腕に受けた矢傷が包帯の圧迫に抗ってズキンズキンと脈打った。悲鳴をあげる血流はテッドのものなのか、はたまた相方の意志なのか、運命をともにしてはるかな時を経たいまとなっては判然としない。
 死神が鎌を振りあげてケラケラと笑うしぐさまで、己と重ねてしまう。
 いったいこの呪われた右手の、どこまでがテッドで、どこからがそうではないのか。
 傷を癒す手段なら、ある。だがその方法はおそらくは自我の崩壊と連動する。だから採りたくはない。
 少しくらい痛い目に遭ったほうが自らへの戒めになるのだ。だが肉体の痛みには耐えられても、心の痛みはそう簡単には処理できない。
 包帯を巻き終えるとテッドはもとのとおり横になって、目を閉じた。傍目にはぐったりしているように見えるだろう。これでまた大勢のお節介を心配させるだろうが、いまさら気を遣ってもどうしようもない。
 望まない会話を避けるには、狸寝入りが有効である。
 体力を温存して、なんとか打開策をさぐらなければならない。
 なんとかできるならばの話だが。

 一斉蜂起したサルース村は、卑怯な威しにはけしてひるまなかった。
 いったいサルース村のどこにそのような底力があったのかと驚くほど、侵略者に対してとった態度は毅然としていた。
 はじめは別段どうということのない普通の寒村に見えた。村を名乗るからにはそれなりに艱難もあったろうが、テッドは辺境の歴史などに興味はない。村人たちは戦火というものをまったく知らなそうな平和な顔をそろえて、のんびりと暮らしていた。
 天候不順で飢える年はあっても、人殺しの武器を手にとった経験はあるまい。村人は山羊を飼い、草を刈り、パンを焼く退屈な生活を途轍もなく長いあいだあたりまえのように繰り返してきたにちがいない。
 旅それ自体が目的ならば、滞在先の事情をあれこれと詮索することは有意義で楽しかろう。以前出会った旅人も明るい表情で、旅は人生、と豪語していた。彼にとって大陸に刻まれた道がすなわち自己の道なのであるから
 だがテッドは違っていた。人目につきにくいように居場所を転々とすることがテッドにとっての旅だった。それは同時に、自分という人間の記憶を他者に残さないための手段でもあった。
 人が人を簡単に忘れるための条件がひとつある。
 それは、互いの住む領域に深く立ち入らないこと。
 衣食住のうち、住はもっともその人となりを呈する。
 テッドはいつも辛辣に線引きをした。自分への愛情や同情といった危険なものを拒絶するかわりに、相手のことも理解しないよう務める。けして記憶にとどめない。
 あたたかい記憶や楽しかった思い出は、あとになるほど懐かしく、つらいものになることを、テッドはいやというほど知っていた。記憶を手枷足枷とせぬための哀しい防衛本能を身につけるまで、いったい幾つの眠れぬ夜を過ごしたことだろうか。
 やむを得ず人々が寄り添って暮らす場所に近づくときは、必要以上に関わらないよう気を張っていたつもりだった。
 だから谷筋の小部落サルースに足を運んだとき、故郷の村みたいだな、と感慨を深くしたテッドはすでに罠にかけられていたのである。
 追慕をごまかしきれるほど疲弊していたなら、過ちは犯さなかったかもしれないのに。
 右手の死神は眠っているふりをして、いつだってテッドを監視していた。
 どうした。だいぶ人恋しいという顔をしているじゃないか。
 あくびをしながら、格下の相方をからかうようにほくそ笑む。
 言いようのない不安に駆られてベッドから飛び起きたのと、表通りが騒がしくなったのがほぼ同時であった。血相を変えたおかみさんがバタバタと走ってきて、おもてに出るんじゃないよ、とヒステリックに叫んだ。
 森と渓谷に恵まれた美しい村サルース。服従を要求してきたのは、国王派の旗を掲げる陰険な武装集団だった。正規の軍隊かどうかははなはだ怪しい。
 突きつけられたものは無条件降伏以外のなにものでもなく、あまりの内容に村人たちは度肝を抜かれた。水資源の完全明け渡しと、土地所有権の放棄。それだけならまだしも、村人の身柄はひとり残さず労働階級として国に帰属させるという。語調はソフトだが、奴隷にするという意味である。
 そのような一方的な圧力を、村人たちが受諾するわけがない。
 はじめから力ずくで征圧するつもりだったのだろう。返答も待たずに最初の攻撃が開始された。
 数で優る弓矢兵と魔法師団に、小さな村は対抗するすべを持たないだろう。
 待っていてもおそらく、よい方へは向かわない。
 女子どもが集められた宿屋の地下室を、テッドはこっそり抜け出した。
 自分のせいだという後ろめたさがつきまとって離れなかった。騒ぎの起きる直前、ソウルイーターはたしかに反応していた。それで目が覚めたのだから、偶然ではない。
 疑いようなどない。自分が、招いたのである。
 階段を駆けあがって路地に身を隠したが、テッドはすぐに後悔した。もはや収拾がつけられるという段階でないことは、ひと目見てわかった。いたるところに倒れている民間人の男たちはすでに事切れていたし、通りを徘徊しているのは武装した兵士ばかりであった。
「生き残りがいるぞ」
 すぐ近くで声がして、テッドはぎょっとした。
 発見された。
 運の悪いことに、テッドがひそんでいた路地の屋内から出てきたのである。
 そこが人の集る酒場であることを、よそ者のテッドは知らなかった。
 逃げようと踵を返したが、すぐに挟み撃ちにされてしまった。
「子どもじゃないか。殺っちまえよ」
「まあ待て、まだ隠れているやつらがいるだろ。居場所聞き出せるんじゃねえの、そいつから」
 あっというまに羽交い締めにされて、抵抗を封じられた。もがいても力では到底勝ち目はなく、しまいには壁に頭を押しつけられて、額がすり切れるほど強く揺さぶられた。
 目の横に、なまあたたたかい血が伝う感触。
「ガキのくせに物騒なモンもってやがる」
 ベルトに固定していたナイフを取りあげて、首筋にぴたりとあてがった。
「喋ってもらおうじゃないの、ボク。村長さんはどこに隠れているのかなあ?」
 柔らかい皮膚に刃が食いこみ、ピリリとした痛みが奔った。
「知るか、そんなの」
 黙っていればよいものを、テッドは反感を隠そうともせずに言った。
「あンれ、まあ。かわいげのない」
「おい、やっぱりそんなのとっとと殺って、紋章さがしにいかねえと将軍にどやされっぞ」
 テッドの瞳にはじめて驚きの感情が浮かんだ。
「……紋章?」
「あれ。ボク、やっぱり知ってんだ」
 心臓がざわついた。これは単なる侵略ではないかもしれない。
「おたくらが村ぐるみで隠してるって情報をつかんだんでね。そういう物騒なモンを持たれると、国としても立つ瀬がないんだよねえ。”27の真の紋章”ってやつ」
 忌まわしい過去の記憶との奇妙な符合に、テッドは激しく動揺した。
 だがそのあとに続いた言葉に、テッドはこんどこそ悲鳴をあげるしかなかった。
「”ソウルイーター”って、いったっけ」
 引きつったような声を漏らし、ぐらりと膝を折ったテッドを男は乱暴に立たせた。どうやらわけを誤解したらしい。
「ビーンゴ、だね。道案内してもらおっか、ボク」
 テッドはがたがたとふるえて必死に首を振った。
「いや? じゃ、死にたい?」
「……がう……」
「死にたくないよねえ。いうことをきいたほうが、少しは長く生きられるかもよ」
「ちがう……そう、じゃない……」
「どっちだ、小僧」
 気の短そうな男が脇からしゃしゃり出て、胸ぐらをつかんだ。
 その瞬間、テッドの右手が痛みをともなって激しく疼いた。
「うあっ……」
 必死で制御しようと試みるが、間にあわない。
 歓喜した魂喰の紋章が、ついにその牙を剥いた。
 男は一瞬驚いたような目をテッドに向けたが、すぐに泡を吹いて昏倒した。
 支えを失ったテッドもはずみで地面に尻餅をついた。魂が流れこむのを拒絶しようと、右手を必死で身体の下に隠す。
 だが、無駄であった。
 テッドの命令などいっさい聞く耳持たず、ソウルイーターは男の魂をきれいさっぱり喰らってしまった。
 なにが起こったのかわからず呆然としていたのは、周囲の兵士たちである。
「そいつの、手だ! 手袋の下」
 だれかが叫んだ。
 ひっと恐怖の悲鳴があがり、数人が後ずさった。
「”ソウルイーター”かよ……」
 最初にテッドをからかった男がうつろにつぶやいた。歯がガチガチと鳴っている。どうやら腰が抜けているようだ。
 すぐ目の前で戦慄の発動を目撃してしまったのである。無理もない。
 テッドはよろめきながら立ちあがり、醒めた瞳で周囲をにらんで、言った。
「わかったか。わかったら、村から手を退け」
「そいつをつかまえろ!」と遠くで声があがったが、テッドが右手を少しあげるとざわめきは凍りついた。
「死にたくなかったら、いますぐ、出て行け。さもなくば……」とテッドは自分でも奇妙に思えるほど冷静に、脅迫の言葉をつむいだ。
「おまえたちも、”喰う”」
 集った兵士たちは数十人にふくらんでいたが、子どものなりをしたテッドを恐れぬ者はいまやひとりもいなかった。
「いったん退却だ。だが、これで済むと思うな」
 捨て台詞を残して兵士らをうながしたのは、高官らしきエンブレムを肩にざくざくとつけた男であった。
 犠牲になった男の遺体を担ぐように下級兵士に命じて、村のはずれのほうに歩いていく。
 残る兵士たちもわっとそれに続いた。
 その後ろ姿を見送っているうちに、テッドは急に息が苦しくなった。
 なぜだ?
 うわさは勝手に独り歩きする。真の紋章をめぐり、争いが起こることはめずらしくもなんともない。ガセネタだろうがなんだろうが、血は流される。それほど真の紋章は人々にとって脅威であるのだ。
 だから、人々にそれを忘れさせようとテッドは旅をしている。
 真の紋章など、この世には存在しない。すべてが創世のお伽噺なのだと。
 真実を知り、苦しむのは自分だけでじゅうぶんだ。
 それなのに、なぜ、こんなところで。
 こともあろうにどうして自分が、その争いに荷担してしまうのか。
 ぼんやりと地面に視線を落とす。
 一本の矢がひゅっと風を切ったのにも気づかなかった。
 わずかに身じろいだため、矢は心臓をそれて右腕に突き刺さった。
 放った敵はすでに暗がりのむこうに姿を消していた。
「化け物!」と言いはなった声が遠くに聞こえただけである。
 テッドはしゃがみこむようにゆっくりと膝をつき、前屈みに地面に伏せた。
 どうせならきちんと始末してくれりゃいいのに。そう思ったら悔しくて、落胆の笑みがこぼれた。

 狸寝入りのつもりが本格的に寝入ってしまったテッドに、ふわりとやさしいてのひらが触れた。
 テッドはびくっと身体をこわばらせて、目を開けた。
「あっ、起こしちゃった? ごめん」
 おかみさんである。
 地下室からだまって抜け出したことをおかみさんは咎めはしなかったが、そのかわりいっときもそばを離れようとしなくなった。もっとも監視の目を盗んだとしても、この狭くて村人だらけの宿屋を抜け出すには目立ちすぎて、脱走はまず不可能である。
 あれから三日たっていた。激怒した武装集団は策を変え、村を包囲して兵糧攻めにする作戦に出たらしい。
 民衆が飢餓に陥るさまを遠巻きに眺めて嘲笑い、降伏した者から順に虐殺するつもりなのだ。
 ソウルイーターを宿す少年も村人とともに潜伏している。手に入れるのは容易いことと踏んでいるのか。
 清冽な流れが村を潤していたサルース川は上流に大量の土のうが積まれ、ひと晩のうちに無惨にも堰きとめられた。残された水源は広場の井戸だけだが、これも毒を投げこまれてまったく使い物にならなくなっていた。
 貯蔵されていた飲料水をかき集めてみてもほんのわずかで、もはや一滴たりとも無駄にはできない。
 食糧とともにギリギリに切りつめても、もつのはせいぜい半月がいいところだろう。
 戦力となる男たちが最初の戦闘でほとんどが犠牲になり、村人たちのあいだには当然のごとく悲壮感がただよっていた。それなのに、だれひとりとして降伏を口にする者はない。
 どこか毅然とした態度にテッドは違和感をおぼえた。
 村でいちばんしっかりとしたつくりの建物である宿屋に、生き残った村人たちが全員集結し、対抗する準備をととのえだした。鋤も鍬も釣り竿でさえも、うまく使えば武器になるという気概を感じる。
 テッドの眼から見たら勝ち目のない戦いであったが、村人たちがあまりにも真剣なので傍観するしかなかった。
 敵の狙いがソウルイーターとわかった以上、テッドの存在自体が危険すぎた。
 すでに顔を見られている。
 真の紋章さえ奪ったら、小さな村ひとつ消してしまうのは赤子の手をひねるよりも簡単だ。
 仮にテッドだけが首尾よく脱出に成功したとしても、村は無事ではすまないだろう。
 ソウルイーターは、いちど目をつけた獲物はけして逃がしはしない。
 もう、取り返しはつかない。
 考えれば考えるほど、後悔ばかりがぐるぐると頭を駆けめぐった。
 どちらへ転んでもサルース村に未来がないのはあきらかだった。
 生きのびてここを出られたら、小さな村に世話になるのはもうやめよう。ほんの少しの情でも、自分にとっては破滅を意味する。
「ソウルイーターを渡せと、そう申しておるのじゃな」
 中央に円座になっている長老たちのなかでもとりわけみごとな白髭を生やした老人が、小さな目を瞬かせて訊いた。おそらくはこの人物こそが村長であろう。
 テッドは耳をそばだてた。
「業突張りの、愚か者どもが。神の力に目がくらみおったか……水の利権のほうがまだ現実味があるわ」
 なんの逡巡もなしにソウルイーターという単語が皆の口から発せられている。それこそがいちばんの疑問であった。
 テッドの故郷はソウルイーターを守護する村だった。この地からはひどく遠い。おそらくは互いの大陸の存在も知らぬほどに。
 百年ほど昔、故郷は焼かれてこの地上から消えた。その日からソウルイーターを守護する役目は、幼い村人だったテッドに移った。
 自分の知る限り、故郷とサルース村のあいだに縁はない。テッド自身もはじめて訪れた地である。たしかに懐かしさはおぼえたものの、それ以上のつながりがあるはずがない。
「”ソウルイーター”の恩は忘れたわけじゃねえぜ、村長」
 恰幅のよい大男が豪快に太鼓腹を叩いた。「サルースは”ソウルイーター”にたすけられた。たしかに百年だか二百年だか昔の話かもしんねえよ。けどだれひとり、あン時の恩を軽んじるヤツなんていやしねえ。へっ、だれが降参すっかよ。さいごまで戦おうぜ。サルースの魂をバカにすんなってんだ」
 テッドは我慢しきれなくなり、上体を少し起こした。おかみさんが気づき、傷に障らないように手をそえる。
「キミ、知ってる? ”ソウルイーター”って」
「え? い、いや……ううん」
 ぷっくりとした桃色の頬っぺたに懐の深い笑みをうかべて、おかみさんは言った。
「この世に27あるという真の紋章のひとつ。”生の紋章”よ」
「……えっ」
 ちがう。その名はほんとうは、生と死をつかさどる紋章のことを指す。宿主に不老の呪いを与え、もっとも近しい者の魂を強奪して力を増す。魂を喰らいたいがために戦いを招き寄せるという、強欲なる死の紋章。
 世界をも葬ることのできる死神の鎌は、薄汚れた革手袋で隠されてテッドの右手にあった。
 だれも気づいていない。
 ほんとうの死神はすぐ近くにいるのに。
 無駄だからやめろと止めることもなく、事の成り行きをただ黙って見ている。自分こそが、死神なのに。
「むかしむかし、サルースがまだ村の形をしていなかったとき、ソウルイーターを宿したご老人がこの地を訪れたの」
 テッドは息を呑んだ。
「サルース川はいまのように美しくはなくて、土地も痩せていたらしいわ。ここはね、さまざまな事情で国を追われた難民が寄り添っていた、キャンプだったのよ。だれもが心荒んでいたし、日々の暮らしさえもままならない状態だったんだって。
 ご老人はひどい怪我をおっていたのに、だれもたすけようとしなかった。他人をたすける余裕なんてなかったというほうが正しいかしら。わずかな荷物すらも巻きあげて、手当てもせずに渓谷に置き去りにしたの」
 テッドは完全に身を起こして、床に座った。
「ご老人のことなど、みんなすぐに忘れてしまったわ。何日かしたある日、国の大臣がサルースの難民を討伐にやってきたの。隣国に気取られたら困る汚点は内部で根絶やしにしようとしたのね。もちろんサルースも戦おうとしたけれど、もともとが統制のとれていないキャンプだったから……」
「うまくいかなかったんだ」
「そういうことね。もうダメだと覚悟を決めたとき、あのご老人があらわれたのよ」
 おかみさんは一呼吸して、続けた。
「にらみ合いをする両者のあいだに立って、ご老人は高く右手を挙げたわ。わたしは生と死の循環を見守る者。大地にしみこんだ血は、新たな命を育む糧となる。血は、次なる命のためにこそ流されるべきなのだ……そう言うとご老人は、まばゆい光につつまれた」
「ソウルイーター……の?」
「わからない。その光のなか、難民の子がひとり、おじいちゃん、と叫んで駆け寄っていったわ。やさしい男の子は、おかあさんの目を盗んで渓谷に粗末な食べものを届けていたの。サルースの人々にかわって、ごめんなさいを伝えるつもりだったのかもしれないわね。そして、血迷った大臣の軍隊は、男の子に向けて一斉に矢をひいてしまった」
「……」
「だれにも止められなかったの。おかあさんが絶叫しても、もう遅かった」
「死んじゃった……の?」
「ふふふ、そこからが、奇蹟のおはなしのはじまりよ。ご老人は光に包まれたまま男の子を抱き、静かにこう言ったの。ソウルイーター、汝、御心を示したまえ。ほんのひととき我より出で、この者にその大いなる力を与えたまえ」
 かつてテッドがそれを継承するときに、たしかに紡がれた祈りの言葉。
「奇蹟は男の子が命をとりとめただけではおわらなかったわ。戦意を喪失した大臣の軍はサルースに自治権を認めたし、二度と暴力をふるわなかった。それから、ご老人が伝えた循環農法をはじめてから土地はどんどん豊かになっていった。サルースはソウルイーターから二度目の命をもらったの。でも……」
 おかみさんは言葉を切った。
「でも?」
「ご老人はサルースの復興も見ずに旅立っていかれたわ。自分は逃亡者だから、ひとつところにはいられないのだとおっしゃって。それでもね、サルースの子孫はけしてあのときの恩を忘れない。その名前をけして忘れないわ。ご老人の、名前は……」
 その先は、涙でよく聞こえなかった。
 おじいちゃん。
(ソウルイーターは、死神なんかじゃない)
 少なくともこの地では”生の紋章”だ。
 時を経ても、みんながソウルイーターを慕い、語り伝えている。
 涙があとからあとからぽろぽろと流れ落ちた。
 おかみさんは「キミ、感激屋さんだったのね」とおかしそうに笑って、子猫にするように髪の毛をくしゃっと撫でた。
 自分は導かれたのかもしれない。ふたたび訪れたサルースの危機を救うために。
「ズルイよ、おじいちゃん」
 テッドは独り言のようにつぶやいて、鼻をすすった。
 そして顔をあげ、しっかりとおかみさんを見据えた。
 顔も覚えていない母親の面影がそこにあった。
「おれも戦う。いっしょに戦う。もう……逃げない」
 ほんとうに何十年ぶりかで、テッドは心から笑えたような気がした。


2006-05-23