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寝坊

 傾眠と覚醒の境界を、ゆるりとすり抜けた。この瞬間いつも、魂が失墜したような不安な気持ちに襲われる。
 ここはどこだろう。いまはいつだろう。
 自分は、誰だろう。
 急速に動的状態に移行した脳が、空気を貪るように活動を開始する。
 まず行う意識行動が、太陽の傾きの計測。習慣というよりも、もう少し本能的な欲求である。狂った体内時計を調整するためだ。睡眠によって一時的に失われた機能をこれで取り戻す。
 明るさ暗さ、光源の方向、可視光線の色など多角的に情報を得る。それはすなわち、いま置かれている状況に正しく対処するための基本である。いかに効率よく、正確に判断するか。その能力は長い経験で培ってきた。
 もっとも重要な項目に安堵すると、身体を動かす前にいくつかのチェックを試みる。
 身体に異常を発している部位はないか。痛むなどの、好ましくない感覚を抱いてはいないか。発熱はないか。次の行動に移っても安全か。
 いわばセルフアイデンティティ管理の手順だ。最終的な結論を導き出すための。
 そう、最終的な結論。
 自分は何者か。何をなすべきなのか。
 目覚めとは、すでに数えることも諦めてしまった『今日』をスタートさせるための儀式である。
 だからぞんざいに扱うわけにはいかない。今日自分はまた、生きのびなくてはいけないのだから。
 夜はまだ明け切っていないのだろう。窓越しにやってくる陽の光はかなり弱かったが、平和な一日のはじまりに歓喜したスズメたちがチュンチュンとかまびすしく鳴いていた。
 テッドはぶるっと身を震わせて掛け毛布を口元までずりあげた。手放しがたいぬくもりが心地よく身体を包む。
 冬の朝、ベッドを抜け出し、冷えきった室内の空気に身をさらけだすのはほんとうにつらい。じゅうぶんに満足するまであたたかい毛布のなかにいたいと思うのは、誰でも抱く欲望だ。
 今朝のテッドにはそれが許されていた。マクドール邸に与えられた一室はこのうえもなく安全な場所で、いますぐに彼を狙う者はいるはずもなかった。そして、目覚めるのも少しばかり早すぎた。この時間では早起きのグレミオですらまだ夢のなかにちがいない。
 約束された安全。自分のために用意されたベッド。ぬくもりに心地よくまどろみながら、今日一日の予定を思い描く楽しみ。
 近い未来に必ず失ってしまうものであっても、少なくともいまだけはテッドのものだ。
 テッドは寝返りをうって身体を丸めると、クスクス笑った。もっといいことを思い出したのだ。
 きのうマクドール邸では、グレミオの音頭で屋根裏部屋の大掃除が敢行された。当然のようにテッドも呼び出され、エプロンと軍手とバケツを押しつけられた。
 古い家具や釘で打ちつけられて中身の確認できない謎の木箱(お宝の匂いをテッドは感じとった)を動かし、綿埃や蜘蛛の巣を取り払い、またもとの位置に戻す作業はかなりの重労働で、すべてが終了したときはみなクタクタになっていた。
 順に風呂に叩きこまれ、ほかほかになって借りたパジャマに着替えると、家に帰るのも億劫になってきた。ルーファスは目を輝かせて自分の部屋で一緒に寝ようと提案したが、テッドはにべもなく断った。
「今日くらい手足伸ばして寝させてくれよ」
 そもそも身を寄せあって眠るという感情がテッドには希薄で、ルーファスがそうしたがっていることにだいぶ戸惑いがあった。それにどうしても悪い方向へ予感が突っ走ってしまう。
 一時の安寧を得るために、自制は重要だった。
 ルーファスもさすがにそれ以上は無理強いせず、「それもそうだね」と笑った。今夜はテッドが泊まってくれるだけで満足としよう。
「テッドくんのお部屋もちゃんとあるのですから、そろそろあっちを引き払うことも考えてみてはどうでしょう」
 グレミオの遠慮がちな提案にテッドは苦笑いをした。否定の意思表示であった。グレミオは軽くため息をついた。
 温厚な青年は、テッドが立場の違いにこだわって線引きをしているのだろうと考えた。かつての自分もそうであったから、痛いほど理解できるのだ。ましてやテッドはプライドが高く、賢い子どもである。度を過ぎた気遣いはかえって少年を傷つけることになる。
 マクドール邸に泊まるようになっただけでもかなりの進展だ。急激な変化は望むまいとグレミオは思った。
 もういちどふうと息を吐いて、にっこりと笑う。頬に生々しい十字型の傷があるが、ほほえみは泣きやまない幼子でさえ癒してしまうほどに、やさしい。
「坊ちゃんもテッドくんも、明日は大寝坊してもよろしいですよ。特別に許しましょう。起こしに行きませんから、ぐっすり眠ってくださいね」
「おーおー、お子様はうらやましいよな。おれは明日も定時に宮仕えだ」と、パーン。
「働き盛りはぐだぐだ言わない」
「つれねえなあ、クレオちゃん」
「……ちゃん?」
 じろりと睨まれて、亀のように首をすくめる。
 進展があったといえばこのふたりもだろう。仕事の要領はよいが恋愛に関する事柄だけ急に朴直になるパーンと、内面的な女性らしさをひけらかそうとしないクレオ。同志の域をけして外れることのなかったふたりに微妙な変化が訪れたのは、テッドがマクドールの家にやってきてからだった。
 屋敷のあるじ、テオ・マクドールの一人息子、ルーファスもそうだ。もっとも変わったのは彼かもしれない。
 テッドがマクドール邸の人々とのあいだに壁を築いて不可侵領域を確保したがるように、ルーファスは同じ年頃の子どもたちにずっとそうされ続けてきた。仲良くなりたいのに、いっしょに木登りや水遊びをしたいのに、大人に諭されたグレッグミンスターの子どもたちは、住む世界のちがう『将軍家の坊ちゃん』に関わってはくれなかった。
 自分はみなとはちがうのだと認識しはじめたころ、ルーファスは心の底から笑ったり甘えたりという年相応の行動を一切やめた。真面目で如才ない優等生。実際にルーファスは教師たちも舌を巻くほど頭が良く、ときとして議論で師を圧倒するほどであった。
 聡明で、非の打ち所がない。平素は無口かと思いきや社交術にも長けていて、貴族の内輪では評判の『マクドール家の御曹司』であったのだ。
 少年の笑みは優雅で、美しかった。
 子どもらしさの漂わない、完璧な笑み。
 そのことを危惧したのは彼の父親と、身内のような存在の人々だけだったのだろう。
 もっともかけ離れた存在ともいえる孤児のテッドを連れてきたテオの真意はグレミオですらも諮ることを躊躇した。息子のためとは、間違っても口にする人物ではない。仮にもし友人のいない息子を気の毒に思ってとった行動であったとしたら、それはテッドに対しても、ルーファスに対しても、ひどい侮蔑であるからだ。そうではないことを、グレミオは信じるしかなかった。
 身元の知れない浮浪児に援助したらしいという、悪意に満ちあふれた噂はもちろん流れた。それはルーファスにとってしばらくのあいだからかわれる種となった。テッドには気にする様子もなかったが、街の行く先々でこっちを見てひそひそと交わされる心ない皮肉はちゃんと聞こえていた。
 ルーファスが温室育ちの単なるお坊ちゃんであったなら、テッドの存在は疫病神以外のなにものでもなかったろう。身分を盾にして、言いなりにさせることもできたはずだ。
 だが蓋をあけてみれば、テッドがルーファスにもたらしたものは、少年が封印してきた極上の笑顔であった。
 はじめての友だち。
 いっしょに木登りや水遊びができる友だち。
 知らなかった世界のことをたくさん知っている友だち。
 これまで、足掻いても得ることのかなわなかった友情も、教師が教えてくれなかった無駄な知識も、テッドはあふれるように与えてくれた。ルーファスに、十代の少年らしいやんちゃな笑顔が戻った。
 ルーファスの変化は、マクドール家の人々も変化させた。そうして、テッド自身のことも。
 もちろん、境界をつくることは怠らない。それはテッドにとって義務であり、決意だからだ。
 ずっと居ることはできない。
 ルーファスと期限のない約束をすることはできない。
 出会った以上、必ず別れがある。テッドのそれは、人よりかなり短いサイクルを意味する。それでも出会いを歓び、楽しむ権利くらいは自分にもある。
 テッドはルーファスの幸福を願った。テオの、グレミオの、パーンの、クレオの幸福を願った。そして自分が幸福な思い出となることを願った。
 いったいどれだけの長い年月を経て、そう考えることができるようになったのだろう。
 テッドの発達課題は、時間の流れというものを持つふつうの人とくらべて至極のんびりである。
 悩み、苦しみ、立ち止まり、挫折して、這いあがり、長い旅路の果てにようやく手に入れた彼なりの生き方だ。
 それでもまだ、寝ぼけまなこの子どもと大差はない。
 いつかは覚醒し、思いきり呼吸するのかもしれない。そして、はっきりと自覚するのだろう。自分は何者か。何をなすべきなのか。
 寝返りをうった姿勢のまま、膝に額を押しつける。
 鼓動が奇妙に鬱陶しい。血液がざわざわとさざめく。
 どうしたのだろう。ぬくもりがどんどん遠ざかっていく。とても寒い。
 青ざめた唇をふるわせる。歯が小さくカチカチと鳴る。
 おかしいのだ。なぜ、夜が明けない。
 さっきまでたしかに存在したスズメの声も、幻のようにどこかへ失せてしまった。
 思う存分寝坊なさいな、とグレミオが言う。
 いや――――グレミオではない。あれは、誰の声だ。あれは。
 望むがままに、おやすみなさい。安息の門から、狂気のはざまへ墜ちなさい。
 意識を、どす黒い闇が穿ちはじめる。
 ここはどこだろう。いまはいつだろう。
 自分は――――誰だろう。


2006-01-11