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 相手の視線は、そう、いつだって上から見おろす感じ。身体的な上下関係が無言のうちに両者の位置づけをほのめかす。至極当然のことながら、あっちが上で、おれが下。
 好きなように思ってくれて構わない。腹もたちやしない。哀れむなり蔑むなりご勝手に。妄想の邪魔はしないから、煩わしい手順は抜きにして、さっさと用件を終わらせよう。こっちはべつに対等な会話など望んじゃいないしさ。
 寝る場所と食いモンわけてくれ。単にそれだけ。
 なのに人間というやつは意外と面倒なところがある。人に施しをしてやるにはいくらかの理由がいるらしい。そのための確認作業はある程度妥協してうけたまわっておかないと、かえって怪しまれる。
 ─────きみ、いくつ? どこから来たの
 そうだな、たとえばその判を押したような台詞。大概の人間ならまずそこを衝いてくるだろう。人を判断する材料なんてそう多いはずはないんだ。歳。生業。金の有る無し。ついでに、アタマがまともかいかれてるか。交渉のスタートに歳からさぐっていくやり方は誰でもふつうに考えつく。ましてや相手が子供なら。
 宿をとるにしても、食事を得るにしても、必ず立ちはだかる第一の関門。煩わしさをとおりこしてすでに諦めの境地に至っているおれに、善良な好奇の眼は遠慮なしにふりそそぐ。
 答えはあらかじめ用意してある。棒読み上等。
 ─────歳は、わからない。どこにいたのかも憶えていない。生まれたときのことを知っている人は、もう誰もこの世にいないから
 この段階で大いなる勘違いをして、涙ぐんでくれるお人好しもいる。関わりあいになるのを嫌ってそそくさと逃げだす賢い御仁もいる。どちらにしても所詮は他人ごと。聖人も賢人も要するに自己満足さえすればいいだけだから。
 うまく距離をおいて構ってもらうためには、駆け引きも必要なのだ。相手の自己満足を適度にコントロールする技は、ひととおり習得済みだ。
 見かけ年齢にもっとも相応しい、保護を求める子供の声色は避ける。あくまでも、醒めてヒネくれたガキ風をよそおうのが正解だ。誰それかまわず下手に好印象を与えてみろ、どうぞお好きにしてくださいとカミングアウトしているようなものだ。いい顔をして近づいてくるなかにはならず者もいる。
 ほどよく荒んだ世の中では、利用価値のまったくなさそうな浮浪児もりっぱな狩りの対象である。先制して自己防衛しておけば、無用のトラブルはあるていど回避できる。ヤバいやつらもいちおうはプロだから、落としづらいガキは狙わない。
 駆け引きのさなか、ふっと心が揺れる。おれはなにもかも平気で演技ができるほど、器用ではないから。情けないけれど、もう少し上手に感情の始末ができる人間だったらどんなによかったかと思う。嘘だってもっと雄弁に語ることができたのに。
 ぼくは、十五です。戦災孤児です。這いつくばってなんとか生きてきました。たくさん酷いめに遭いました。身元を引き受けてくれるところをさがしています。
 同情と庇護欲を煽る程度には条件もそろっているし、怯えた小犬のような眼をちょっと向けて軽くふるえてみせれば、平和ボケしたやつらを陥落させるのは造作もないだろう。柔らかい赤茶の髪の毛もやんちゃに見えるらしい瞳もじゅうぶん武器になる。
 そんな容易い嘘すらつく勇気がないなんて、ほんとうにどうかしてる。
 正確な歳がすぐに思いだせないというのはほんとう。いつの日からか数えることもやめてしまった。故郷の村が大陸のどのあたりにあったかということも、記憶の奥底に封印した。おれの出生を知る者をひとり残らず、相棒は貪欲に喰らいつくし、勝手に宿主の糧にしやがった。
 ほらな、嘘などひとつも言っていない。
 言えない。
 嘘は、気楽だ。嘘をつくのに慣れてしまうと、むしろほんとうのことが嘘に思えてくる。たったひとつのほんとうを隠すためについたたくさんの嘘が、いつのまにか居場所を奪って逆転する。たくさんのほんとうが覆ったひとつの嘘に。
 そういうのをなんて言うかおれは知ってる。欺瞞。
 自分で自分をごまかす嘘。
 いずれ傷つくのはほかの誰でもない、自分自身。
 いろいろなことを諦め、棄てさってきたつもりなのに、この期に及んで傷つくことをまだ恐れているなんて。いちばん手に負えないのはほかの誰でもない、おれじゃないか。
 ぎりぎりの境界で嘘を踏みとどまっている。過去に幾度も崖っぷちをさまよって次の一歩を躊躇ったように。
 これが最後の防衛線。だがいつか必ず潰されるだろう。こんな状態のまま戻る道も往く先も見えないなんて、耐えつづけられるわけがない。それでも。
 それでも嘘に埋もれるよりは、と。
 どうにかしてるよなあ。
 痛まないわけがない。悲しくないわけがない。せめてあとすこし笑えたなら。相棒が看過できる程度に、誰かと関われたら。上手に生きられたら。器用に飄々とわたり歩くことができたなら。
 なあ、テッド。おまえの人生、もうちょっとマシだったんじゃないのか?
 言ってもはじまらない。
 死ぬつもりがないだけでも、よしとしよう。
 だからその日もおれはとりわけ、なんの感情も抱くことなく、あの人と会ったんだ。
 あの人はもちろんおれを知るはずもなかったけれど、おれはあちらさんをよく知っていた。いや、赤月に暮らすなら誰でもその名を聞いたことがあるはず。
 正直なところ、おれはかなり警戒した。目立つ人間とはむやみに関わらないほうがいい。最下層の貧困地帯をうろついている薄汚いガキに、将軍としてたまたま目をつけただけのこと。捕まったらぜったいにややこしいことになる。いまのうちに逃げろ。本能が冷静に囁く。
 あの人はだが、ほかの誰とも違っていた。
 おれは少しばかりいろいろなことがありすぎて、いつもよりよけいに救いのない顔をしていたんだろう。
 名前も、歳も、素性も、なにもかも徹底的に脇へおしのけて、いきなりこう言ったんだ。
 ─────今夜、我が家でいっしょに食事をしないか
 怪しむとか、まず立場を明確にするとか、そういう手続きを一切経ず。
 あっけにとられたのはおれのほうで、思わず訊き返してしまった。
 ─────なんで
 あの人は少し羞じらんだように、
 ─────息子の、誕生日でな
 と、笑った。
 あとから知ったことだけれど、それは嘘ではなく、ほんとうにその日はあの人の一人息子の誕生日だったのだ。数ヶ月ぶりに任地から一時帰宅した父が誕生日の祝いに友だちを拾ってきたと息子にはさんざん言われた(父上、友だちはモノではないのです、とかなんとか)らしいが、おれは悪い気はしなかった。むしろ、思いもよらぬ展開に心が躍ったくらいだ。
 浮浪児が一転、将軍家の被扶養者である。愉快痛快きわまりない。
 まさか名のある将軍に妙な裏心があるとも考えにくく、おれは降ってわいた幸運をありがたく受けいれることにきめた。
 ほんの少しのあいだだけでも、駆け引きとは無縁の生活ができるのだ。
 おまけに友だちをつくる気分まで味わえるとは。大物ぶりと比例した変わり者の将軍には感謝してもし足りない。
 もちろん、忘れちゃいない。楽しむぶんだけのちの喪失感も大きいことを。失うことが前提のしあわせってやつだ。それでもかまわない。戯れだろうが、気休めだろうが。
 ─────よろしくね、テッド!
 あいつも父親とそっくりで、さぐるよりまず右手で握手を求めてきた。おれは他人に右手をさしだすなんて一度もしたことがなかったから、無視したんだけれど。
 だけど、すごく嬉しかったんだぜ、ルーファス。


2005-12-13