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弓矢

 国境の町には必ずといっていいほど悪党どもが張っている。とりわけこの国のように治安が隅々まで行き届いていないようなところは。難民化した弱者が吹きだまっている町は、人身取引の恰好の猟場なのだ。
 高い塀のむこうは大国、赤月。
 ”黄金の皇帝”が統べるという、富める者の国。
 だれもがその恩恵にあやかりたいと願う。
 人並みの生活を願う心につけこんだトラフィッキングは卑劣な犯罪である。悪党どもは甘い言葉で巧みに誘い、つかの間の夢を見させる。国境を越えさせ、なおかつ仕事を与えてやろうと。
 だが実際に待っているのは強制労働や身売りに明け暮れる悲惨な生涯でしかない。かけらほどの夢も根こそぎ奪い去ってしまうのだ。
 黒いものを腹のなかに隠しもっている人間の顔など一瞥しただけでわかる。なのに騙されたふりをしてわざと捕まったのは、単にそれが国境越えの手段のひとつだったからだ。
 選択肢として評価した場合、それはもっとも手軽で、成功率も高かった。テッドは己の外見がその手の需要からすればかなり引く手あまたなレベルにあることを知っていた。
 戦災孤児のフリをして路地をさまよってみせれば必ずターゲットが近づいてくる。もちろん、むこうはこちらがターゲットだと信じて疑わない。誰がどう見ても、テッドは身寄りのない薄汚れた十五、六の少年の姿であったから。
 危険であることは百も承知である。無謀と罵られても反論できない。たかが国境のゲートをくぐるだけのためにそれほどのリスクを負うべきものなのだろうか。
 もっと利口な選択肢は、もちろんある。それは国境を行き来できる真っ当な大人と懇ろになることだ。
 だがテッドは否定する。
 利用するなら善良な人々より悪党どものほうがまだましだ。
 テッドは必要以上に他者と関わることを好まない。
 人々の記憶に自分をとどめないこと。それはこれまでの旅路で得た教訓であり、後悔を繰り返してきた自らへの戒めであった。
 そもそも国境を越えたい理由からして、この国の人々に長く関わりすぎたため、というものであったのだ。逃げ去るときにまで誰かの心をかき乱したくはなかった。
 悪党にならつくり笑顔も向けずにすむだろう。それだけでもじゅうぶんな見返りに思えた。
 牛馬のように扱ってもよいから国を抜けさせてくれよ。
 少年の暗い本心を見抜くこともせずに男は下卑た嗤いをうかべ、縄で縛りあげた。
 すえた匂いのする幌馬車に荷物同然に押し込められて、テッドは薄くほほえんでいた。
 まわりには黙りこくる数人の女子どもがいた。暗闇のせいで表情はうかがい知れないが、絶望をうかべているのだろう。同情はしないでもないが、助けてやる手だてもない。なるべく意識を向けないようにするくらいが関の山。
 春の嵐がときおり、幌を引きちぎらんとばかりに暴れながら通り過ぎる。そのたびに馬が怯えて足を止めるのか、車輪が不安な音をたてて大きく軋んだ。
 これだけ大規模のキャラバンがよもや違法な密輸行為に関わっているとは、国境警備兵も思わなかったにちがいない。検問での審査は簡易方式をとり、先頭の荷馬車だけで済ませたはずだ。あとは無条件通行。
 いつの時代だったか、群島諸国周辺で暗躍していた死の商人もその手を使っていたのだろうな、とテッドはふと合点した。
 時代が変わっても悪党は根絶しない。よくない連中もある意味、この世を支えるひとつの構成員である。
 世の中が善良な人間だけになったら、もっと根元的な欲望のために救われない戦争がはじまるような気がする。創世の物語に描かれる戦いの再現だ。
 幾度も読み返した『創世の物語』を反芻してみる。
 『やみ』が孤独に耐えかねて落とした『なみだ』から生まれたふたりの兄弟が、七日七晩争った。
 それはけして互いを憎んだからではない。それぞれ己が正しいと思ったからこそ起こってしまった悲しき戦争だった。
 圧倒的な自己の肯定。すなわち他者が存在することの否定。これこそが破壊の根源であったのだ。
 だが破壊は『世界』を生みだした。
 戦いの落とし子である27の真の紋章が統べる世界を。
 この世界は諸悪や悲しみ憎しみに満ちた混沌である。だが奇妙なことにバランスは保たれているのだ。
 その証拠に、この世界はまだ色彩を失ってはいない。
 テッドは後ろ手に縛られた右手を軽く握ってみた。
 そこに大事に持っているものは、27の真の紋章のひとつだ。
 守らねばならぬ理由を見失ったときもたしかにあった。とりわけ、この紋章――ソウルイーターは強欲で、宿す相方に恐ろしいまでの犠牲を強いる。そんな思いまでして守りつづける義務がはたして自分にあるのか、悩みに悩み抜いた挙げ句、結局いまもまだこの右手に握ったままなのである。
 確信があるわけでもないが、自分の選択はおそらく間違ってはいない。
 これを手放すなら然るべきところで、という気持ちは、ある。
 押しつけられた運命をただ否定していただけの幼い自分はもういない。
 先が見えないのは相変わらずだが、以前は考えもしなかった目的のようなものをぼんやりとではあるがつかみはじめてもいる。具体的なことはなにひとつわからないにしても、『その時』のために這いつくばってでも生きようと決めたことは、大きな変化であった。
 幌馬車に積まれた哀れな人々のなかで、おそらくはテッドがもっとも生に関して貪欲であった。
「あんた」
 暗がりで女性の声がした。それが自分に向けられたものだと察してテッドは緊張した。
「逃げる気があるのなら、いまのうちだと思うね」
 闇に慣れた眼で声の主を識別しようと試みる。真意がわからないうちは、返事は保留である。唇は真一文字。
 女性はお構いなしに続けた。
「バザールで嵐をやりすごさないのは、後ろめたい荷物をさっさと商談先に押しつけたいからってとこさね。脅すわけじゃないけど、あいつら反抗しそうな獲物は容赦なく手足をへし折ったり、眼を潰したりするよ。そんな事態に追いこまれたらあんたの負けだよ」
「シッ」
 テッドは鋭く牽制した。ほかの人間が怯えて騒ぎはじめたらまずい。
 声を限界まで抑えて、低く問う。
「もしかして、あんたも……か」
 女性はフッと笑って「ご想像にまかせるけど」と言った。
 さすがに容姿まではわからないが、女性の身体は戦士の気を発していた。声の感じから想像するに、成人はしているだろう。敵意は向けてこない。
 信じがたいことではあるが、言葉を交わすことなくテッドの逃亡意欲を見抜いている。かなりのやり手にちがいない。
 テッドはふと首をめぐらせた。持っていた荷物はひとまとめにして隅に重ねてあるはずだ。鞄はたいしたものがはいっているわけではないから見限っても構わないが、鉄の弓だけは奪い返して脱出するつもりだった。
 ご丁寧に同じ馬車に積んでくれるとは、ほんとうにありがたい。いかに獲物が警戒されていないかが知れるというものだ。
 人を見かけで判断するから、こうなる。
 その理屈からいうと、女性の姿が見えないことはある意味よいことなのかもしれない。
 行動を起こす潮時か、と思った次の瞬間、テッドはぎょっとした。
 女性が闇を割ってするりと立ったのである。縄がぱらりと落ちる音がした。
「いつの間に」
「縄抜けもまともにできないで、どうやって逃げ出す気だったんだい、少年」
 テッドは返答に窮した。たしかに。適当なところに売りとばされてからでも逃げるチャンスはあると高をくくっていた。
「甘チャンだね。逃がしてやるのはいいけど、そのあとちゃんと生きていけるんだろうね?」
 背中に縄をほどく感触が伝わる。この暗がりで手元も見えないだろうに、妙に手際がよい。
 きつい束縛がするりと解けた。
 ほかの人間がざわめきだすと思いきや、じっと息を殺してふたりをうかがっている。
 テッドはまたもや気がついてしまった。この人たちにとって、黙って売られることもまた生きる道なのだ。同意の上ということもじゅうぶんあり得た。
 人の尊厳よりも惨めな生を選ぶのか。
 胸がつまる。だが非難できる立場ではない。
「生きていくさ」
 テッドは手さぐりで鉄の弓を探しあてると、背負って前のベルトを留めた。
「やっぱりね。そいつはあんたのかい」
 女性が感心したように言った。
「……え?」
「並大抵の使い込みようじゃないって、ほめてんだよ。あれに気づかなきゃ、あんたに声をかけたりなんかしない。お飾りの武器を持っている男は多いけどね、ほんとうに自分の身を守れるやつなんかそうそういやしない。生死に関わってきた武器というのはね、ひとめ見たらわかるんだ」
 テッドは驚いた。明かりに乏しいこんな暗がりで、人の持ち物をそこまで判別する女性の観察眼に、だ。
「あんた、いったい」
「ただの鍛冶屋だよ。赤月で仕事をさがそうかと思ってね。夜行動物の眼をたまたま天から授かったおかげでね、いろいろと便利なの」
「夜行動物の……眼」
「あんた運がいいよ少年。その面構えも気にいった。ここはひとつ、逃げ切るまで相棒と呼ばせてもらいたいところなんだけど、どうかなあ? あたしは武器を打つのは得意だけど扱うほうはできれば人まかせにしたい性分でね。あんたがその弓を放ってくれんなら、あたしが道を案内してあげる。どう、いい契約だと思わない」
 テッドはごくりと唾を呑みこみ、次いでにやりと笑った。
「上等」
「よし、きまり。おっと、相棒なら自己紹介がいるね。なんて呼んだらいい」
「テッド」
「へえ。うちの弟の名前といっしょだ。覚えやすくていいや、アハハ。あたしの名前はアルド」
 ドキリとした。
「あ、男みたいな名前だって思ったでしょいま。そういう顔してた。いいんだいいんだ慣れてるから」
 そういう顔、というのはどういう顔なのだろう。自分はいまどういう顔を他人にさらしたのだろう。
 背中に鉄の弓の重みを感じる。
 これは形見だ。長い歩みをともに旅してきたたいせつな相方。
「じゃあ行くよ。外は嵐だ。覚悟はいいね、テッド」
 アルドは幌をそっと捲った。灯火のあかりに、弓の持ち主を思わせるすらりとした長身があざやかに浮かびあがった。


弓と弓矢を混同しているだろうというツッコミはナシ。

2006-03-17