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 今回は、引き際を完全に見誤った。本能の発する警告を無視しつづけてきたつけが回ってきたのだ。次はもう、ない。
 己のふがいなさに唇を噛む。平凡な時が長かったとはいえ、なんとかなるという怠惰な思考がどのような恐ろしい意味を持つのかを忘れていたわけではない。離れるタイミングを図っていた。いや、言い訳なら子供にでもできる。
 自分の招いてしまったのはこれ以上ないほどに最悪の結末だった。
 いったいなぜ、あの日、あの時、あの時点で、ルーファスの元を去らなかったのだろう? チャンスは幾度もあった。
 それ以上干渉してはいけない。深入りしてはいけない。わかっていたのに、どうして足が動かなかったのだろう。
 未練か。いまさら。
 親友と呼ばれ、自分もまた少年を親友と呼び、信頼しあい、ともに笑いあいながら暮らした。ほんの短いあいだだったけれど、飢えることも虐待されることも、好奇の視線で見られることもない、自分にとっては幸運なひとときだった。期間限定のしあわせ。いや、しあわせの真似事。それで満足だった。
 かりそめのしあわせを捨てるのも自分から。そんなことは覚悟以前の問題だ。生きるためには当然の責務だった。歩みを止めたら、ほんとうの不幸がやってくる。だからそうなる前に、思い出だけを荷物にして旅立つ。それがテッドにとってあたりまえで、これまでもずっと採ってきた方法だった。
 昔、それで失敗して、やさしかった魂をテッドは不本意に奪った。あのときの激痛をふたたび味わうくらいなら、身を退くことなど苦とも思わない。寂しさはもちろんあるが、感傷などはあとからどうにでもなる。
 右手の死神をうまく制御し、器用に飄々とやってきたつもりでいた。
 だから、どうしていまになって。
 血管が脈打つたびに全身を覆う傷が悲鳴をあげる。グレミオの応急手当もあまり功を奏してはおらず、身体は不平を漏らして発熱していた。魔女ウィンディから逃れるために、とっさに発動できる最大限の力を叩き込んでしまったのだ。自分自身を庇うことなど考えもしなかった。
 ルーファスたちはうまく裏手から脱出できただろうか。よしんばルーファスが思い直して戻ろうとしても、グレミオやクレオがきっと止めてくれるだろう。あのふたりも信頼に足る。どうかルーファスを守ってくれ、とテッドは願った。
 身勝手な願いだとわかっていても、請わずにはいられなかった。
 重苦しい音がして、武器が一斉にこちらを向いた。
「観念するんだな。妙なマネはしないほうがいい」
 威圧的に言いはなったのは近衛兵隊長のクレイズだ。台詞とは裏腹に、腰がおかしいくらいに退けている。いざとなったら手近な兵士を盾にするつもりなのだろう。謁見の間をメチャメチャに破壊した危険人物とは、できれば関わりたくない。が、手柄は欲しい。じつにわかりやすい低級思想だ。
 テッドは口をつぐんで、じろりとクレイズを睨んだ。そのふてぶてしい態度が相手の癇に障ったらしい。
「な、なんだその反抗的な眼は。いい気になって、あとで吠え面かくなよ。おい、こいつを縛りあげろ!」
「お待ちください、隊長!」
 兵の列を割って出てきた人物がいた。テッドは軽く眉を寄せて、男の姿を認めた。パーン。
「彼は重傷です。さっきは意識がなかったくらいだ。縛るなんて手荒な真似をしなくても、抵抗できるわけがないではありませんか」
「ふむ、パーン。貴様はこのわたしに逆らうとでもいうのかね」
「しかし……相手はまだ、子供ですし」
「その子供がわたしの兵たちを惨殺したのを忘れたのかね? 容赦するなと、ウィンディ様も仰せられている。皇帝もお怒りだそうだが」
「で、でも」
 パーンはうろたえて、ちらりとテッドを見た。精悍な顔に浮かんだのは、この男にはあまり似あわない、後悔とも憐憫ともつかぬ苦しげな表情。
 テッドは無言で、軽く目配せをした。引き下がっておけよ、と。
 クレイズはにたりと笑い、パーンに命令した。
「よし、貴様。職務怠慢で格を下げられたくなかったら、貴様の手でそいつを縛り、城まで引きずっていくんだな」
「えっ」
「よもや、したくないとでも? 貴様はその反逆者に、いらぬ情があるようだからな。やさしいわたしが引導を渡すチャンスをくれてやろうというのだ。帝国への忠誠を示すよい機会ではないのかね、パーンくん」
 声色がさらに下卑たものに変わる。
「貴様も、マクドールの坊ちゃんまで反逆者にしたくはなかろう」
 パーンはぎくりとした。たしかにそのとおりだ。坊ちゃんが帝国に追われる筋合いはどこにもない。
 せっかくつかみかけた帝国将軍への道をこのようなことで閉ざすわけにはいかない。自分は生涯、マクドールの家に仕え、やがてルーファス将軍の片腕となることを願いながら修業をつづけてきたのではなかったか。
「どうした。それともつぎは貴様が反逆者に落ちぶれるか」
「……わかり、ました」
 パーンは静かに目を閉じ、息を吐いた。おそらく内側では腸が煮えくりかえっているにちがいない。胸が痛むのは、テッドもまた同じだった。致命的な怪我すら負っていなければ、パーンを一発殴って覚悟を決めさせ、あとはふたりでひと暴れして派手に逃亡するのも魅力的な方法だったかもしれない。
 縄が、きつく食いこむ。痛みにテッドは小さく呻いた。ルーファスを遠くへ逃がす時間を稼ぐためだからしかたがないが、情けなくて、もう、笑うしかない。
「なにがそんなにおかしい」
 クレイズは苛々と吐きだした。
「……あんたには、わかんねーよ」
 低くつぶやいたそれが、よっぽど気にいらなかったのだろう。靴の踵が、テッドの横顎にめりこんだ。
 鋭い蹴りが、柔らかい皮膚を裂く。
「……ぅあっ…」
 抵抗できない身体をさらに踏みつけられた。遠巻きに傍観していた兵士らもさすがにやりすぎだと思ったのか、クレイズをなだめにかかった。
「隊長、ほどほどになさらないと死んでしまいます」
「ええい、やかましい。死んだら死んだで、かまうものか」
 クレイズは本気だった。馬鹿にする者は、誰であろうと許さない。小僧の眼はあきらかに自分を見下していた。いまいましい鳶色の眼。薄汚い虫けらの分際で。
 すでに座っていることすらできずフロアに這いつくばっているというのに、上体を無理に起こさせ、容赦なく腹を蹴りあげる。呻く口元は平手で撲たれた。完全に頭に血がのぼっている。
「……やめろ!」
 ついに我慢の限界をこえたパーンが、兵を押しのけ、クレイズとテッドの間に割って入った。炸裂する蹴りを、鍛えられたその肉体で受け止める。
 クレイズはぶるぶるとふるえて、頓狂な声をはりあげた。
「邪魔をするか、貴様っ! ええい、どかんか! 貴様も仲よく牢屋にはいるか、ええ?」
 パーンは上司の陳腐な脅しなどにはもはや屈せず、巨体でテッドを守るようにぎゅうと抱きしめた。こんな、拷問じみた一方的な虐待を見て見ぬふりはできない。
 仮にもしテッドが帝国に刃を向ける者だったとしても、然るべき手順で裁きを受ける権利はあるはずだ。クレイズごときが私怨を交えて、処分を決めてよいはずがない。そう、これは同情などではなく、帝国市民としての正義だ。
 腕のなかの少年が小さくうごめき、くぐもった言葉を洩らした。
「おれに構うなよ」
 そんな台詞は予想していた。自分はテッドのことを帝国に密告したのだ。恨まれて当然。いまさら弁解する気もおこらない。庇うこととそれは、別問題だ。
「いいから、おとなしくしてろ。それ以上、鯰野郎を挑発するな」
 テッドは呆れたように息を吐いた。
「苦労人……だよな、パーンさん……ホントに」
 背中の怒号を無視して、パーンはテッドの顔をのぞきこんだ。
 怒っているふうではない。少しばかり顔色が青いが、いつものテッドだ。それがかえって、パーンの胸を締めつけた。
「テッド……おれ、は……」
「ストップ」 テッドはかすかに冗談めかして、さえぎった。
「おれのことは、どうでも……いいから、パーンさん、ルーファスを」
 その名を口にするとき、小さな身体が少しだけ強張るのがわかった。
「ルーファスを、信じてやってくれ。頼むから」
 パーンははっとして、そこにいない彼の主人を思い出した。テッドとクレイズが問答しているすきに台所からでも逃げたのであろう。
 坊ちゃんに後ろ暗いところがないことは、傍にいたパーンがいちばんよく知っている。堂々と出頭し、テッドの弁護をするのが筋だろうに。
 逃げては、反逆者の一味であることを自ら認めることになる。
「おまえが、逃げろと言ったのか」
「そうだ」
「なぜ、そんなことを……おまえ個人の問題だろうが」
 冷たい言いかただな、と自分でも思う。だが、事実だ。テッドにも理由はあろうが、ルーファスまで反逆者の烙印を押されることはない。
 テッドは少し押し黙り、かすかに「……そうだな」と言った。
 クレイズはなんとか側近になだめられたのであろう。荒い鼻息は聞こえるが、それ以上の暴力をふるってはこなかった。パーンはゆっくりと頭をあげた。
「テッド」 低い声をなんとか絞り出す。「おれが坊ちゃんを信じるのは、あたりまえのことだ。おまえに言われるまでもない」
 腕をほどく。テッドを床に座らせ、立ちあがる。
「……けどな、おまえには、訊かなきゃならない。どうして、どうして坊ちゃんを巻きこんだ」
 非難するように、眼を向ける。テッドはそれをまっすぐに受けとめ、答えた。
「言えない」
 パーンは目を伏せた。
「わかった。ならば、おれもおまえを信じない」
 テッドは表情も変えず、背を向けるパーンを見ていた。マクドール邸の屋根の下で、同じ鍋のシチューを平らげた仲。情け深く、実直で融通のきかない男。テオ将軍とその息子に対する忠誠は誰よりも篤い。身元の不確かなテッドに対しても、テオの信頼があったからこそ兄のように寛大に接してくれた。
 ルーファスによくない遊びを教えたといっては激怒し、門限を破ったら拳骨を食らわし、ふざけて似顔絵を描いてやったらまたも拳骨、クレオのことでからかったら耳たぶまで真っ赤になって拳骨。だが、部屋にはあの似顔絵をこっそり飾ってある。ツノの生えた、笑顔のパーン。
 パーンらしい拒絶のしかただとテッドは思った。
 彼の行動は、正しい。道を間違ったのはテッドなのだから。始末は自分ひとりでつけなくてはならない。パーンに理解を強要しようとも思わない。
 この先、彼に真実を語ることは、ないだろう。
 思考をさえぎるようにクレイズのヒステリックな声が響いた。
「パーン、貴様の処分は城に帰ってからじっくりと検討させてもらう。首を洗って待っているんだな。おい、誰かその男が妙な気を起こさないように見張っていろ。逃亡の手助けでもされてはかなわん」
 それから後ろ手に縛られているテッドを一瞥した。
「小僧を馬にでもくくりつけろ。おあつらえ向きに、雨も止まぬことだしな。晒し者にしてやれ。解放運動だかなんだか知らないが、愚かなブタどもに、見せつけてやるのだ。抗ったやつの末路というやつをな。はっはっは」
 ブタはおまえだ、とテッドは嘲笑した。とりあえずは心の中で。
 パーンは兵に急かされ、テッドの腕をつかんで立たせた。二人とも言葉は交わさず、目もあわせなかった。テッドの身体の傷も深かったが、パーンの心の傷はそれ以上に血をたくさん流しているのだろう。押し黙り、歯を食いしばり、それでも帝国と皇帝陛下を信じてパーンは前を向く。
 マクドール邸を出ると、雲のどんよりとたれこめた黒い空から冷たい雨が降っていた。
 いまこの同じ刻に、ルーファスの身体を無情に打っている雨。
 一瞬で歯の根があわなくなる。なんて、冷たい。どうしようもなく、寒い。絶望と死に魅入られた氷の雨。
 あたたかい陽の光は二度と求めるなと、責めさいなむ。 


2006-01-04