咄嗟の判断というにはそれはあまりにもお粗末で、むしろ暴発に近かった。
ひどく短期間に二度も発動を許された呪われし紋章は、いまは右手の甲で憤慨しているようにも感じられた。
もっとたっぷりと喰わせろ!
「彼」が言葉を持たなくてよかった。ひどい暴言を聞かされるのだけは勘弁して欲しい。ズクンズクンと脈打つそれは、ただでさえかなり不快なのだから。
相方の暴力的な感触は忘れるくらい経験していなかったので、心優しき宿主はなおのこと胸を痛めていた。
近衛兵の数名は瞬時に命を吹き飛ばされたにちがいない。ただその場に居合わせたというだけで、彼らに非があろうはずもないのに。その中にはいつかルーファスのよき友となり得ただろう若き兵士もいたはずだ。
おれが殺した。
テッドはなおも疼く右手を黙らせるかのように力ずくで握りしめる。
風向きが変わるたびにザアッと雨が叩きつける。夕刻から降りはじめた雨は、じきに嵐になろうとしていた。こんな晩に出歩く者の姿もない。もっとも、人影を見かけてもテッドのほうから物陰に隠れた。走っているのか歩いているのか、何をしたいのかさえ、自分でもよくわかっていない。
テッドには、行くところはもうなかった。
ルーファスとともに過ごした、限られた時間ではあるけれどそれなりに楽しい日々のなかで、グレッグミンスターの街はテッドのお気に入りになっていた。
赤月帝国の帝都であるグレッグミンスターは市の中心に皇帝バルバロッサの居城を配し、市街は旧いが歴史ある街並みが美しく、文武両道の志を掲げた市政で東西に栄えていた。
大通りはとても広く、市民の憩いの場となっているバジルの広場は朝夕に市が建ち、買い物客や旅の者たちで溢れていた。そこから一歩裏通りに入ると城下町特有の路地が迷路のように入り組んでいて、石畳と白壁が完璧なまでの調和を見せてくれた。
いろいろな街を観てきたが、グレッグミンスターの美しさはそのなかでも群を抜いていた。テッドはすぐこの街が好きになった。
何百年かぶりに「鬼ごっこ」をしたのもこの路地だった。
はじめはルーファスのガキっぽさにやれやれと思いながらつきあったのだが、ルールを決めていくとこれが意外と侮れない真剣勝負であることがわかった。
鬼役のルーファスに見つからないように慣れ親しんだ路地を走り抜ける。すると、窓の上で洗濯物を干しているおばさんが「テッド!」と手を振ってくれる。そういう他愛もないうれしさをこのうえなく幸福に感じながら、ついへとへとになるまで遊んでしまうのだ。
無邪気な子供を演じていると言うのなら、そうなのかもしれない。だがテッドはほんとうの子供時代にそういった遊びをした経験がなかったから、不意に与えられた役目とはいえ心からそれを楽しんでいた。
どちらにせよこの街も長くは居られない。この街の誰かがテッドの異常に気づく前に、楽しい思い出だけをカバンに詰めてそっと出て行くつもりだった。
(そうだ。もうすぐ、出て行くはずだった)
何度もきっかけを手に入れながら、いつもなんとなく先延ばしにした、そのツケが回ってきたのかもしれない。
激しい雨を含んで衣服がずっしりと重かった。動きが鈍いのはそのせいだけではない。ソウルイーターが暴発したときに自分自身もかなり過酷にダメージを喰らい、帝国魔法師団の追っ手が放った攻撃もまともに受けてしまった。命がまだあるのが不思議だった。
「……っ」
断続的に襲ってくる激痛に耐えきれず、テッドはついに白壁に背をついて呻いた。足はこれ以上歩むことを拒否したかのように動きを止めた。そこがどのあたりの路地なのか、もはやテッドには記憶を手繰るすべはなかった。路地の奥は夜の闇に埋もれ、右も左もわからない。いままで満身創痍のその身体を動かしていたのは、逃げろという本能の声であったが、それすらも失われたかのようだった。
とりあえず城からは逃げ出したものの、もはやここまでという気がした。
テッドは荒く息をしながら、石畳の路地にへたりこんだ。
意識が朦朧とする。容赦なく身体を打つ雨が足元で真っ赤に染まった。ぼんやりと、死ぬのかな、と思った。
なんて迂闊だったのだろう。
皇帝バルバロッサの寵愛するという噂の宮廷魔術師が、よもやテッドが三百年間逃げ続けてきた宿敵その人だったとは。いや、ソウルイーターを狙う者は彼女だけではない。それなのに不審な呼び出しに何故ノコノコと応じたのか。
楽な日々を過ごしすぎて危機感が鈍っていたのだろうか。あの魔女はいったいいつから気づいていたのだろう。いつからテッドは見張られていたのだろう。
ぞくりと震えが奔った。
美しく平和な黄金の都が牙を剥く。いま帝都グレッグミンスターは鬼ごっこに興じる子供のテッドをあたたかく見守る街ではなかった。家々は門を閉ざし、石畳は冷たく突き放し、複雑な路地は彼を迷わせ、激しく雨の矢を放つ。
大通りを走り抜ける憲兵の足音が遠くに聞こえた。伝令はすでに城門や国境にまで回っていると考えるべきだろう。大怪我を負っている身体ひとつでは抜けられまい。かといって、このまま座り込んでいてもいずれは誰かに見つかる。宿主が生きていようがいるまいが、要はその右手の紋章さえ無事であればいいのだ。
「ちくしょっ」
テッドは低く唸って唇を痛いほど噛んだ。どんなに後悔しても、もう遅い。逃げ道は失ったも同然だった。大通りがますます騒がしくなっていく。
どれくらいうずくまっていたのだろう。テッドはふと顔をあげた。
虚ろで無表情な瞳が、灰色の空を映す。髪からぼたぼたと滴が伝って落ちた。
「たすけて」
小さな、ほんとうにかすかな声で呟くと、テッドはゆるりと立ち上がった。呼吸を整えながら、そっと一歩を踏み出す。また一歩。路地に血の痕跡を滲ませながら。右足、左足。
危険な大通りを避け、できるだけ細い裏路地を伝い歩く。猫の仔しか知り得ないような狭い道でもどこかで必ず本線と交わる。そうだ。これはルーファスと編み出した鬼ごっこだ。自分たちにしかわからない幾つものルールがあるのだ。
鬼を撒いてゴールにたどりつければ勝ち。
ルーファス。
ルーファス、ルーファス、ルーファス。テッドは心で友の名を呼びつづけた。
よろめき、幾度となく膝をつきながらも、前に進むことを諦めない。
(このまんま、死んじゃえばいいのに)
一歩ごとに醒めた自分との葛藤を繰り返す。倒れてしまいたい欲望との狭間で、テッドは必死に探していた。たどりつこうとしているその場所を。
嵐の夜に帰らないテッドを心配して、みんながきっと待っている。
料理のすごく上手な、男なのにルーファスのお母さんがわりのグレミオさん。こんなにずぶ濡れで帰ったらきっと怒られるだろう。テッドくん遅いですよ、夕飯が冷めてしまいましたよ。必ずそういう余計なひとことがあるくせに、じつはずっと火を絶やさずにあったかいシチューを用意してくれているんだ。
それから、男勝りで強いけどほんとうはやさしいクレオさん。子供扱いせずに対等に話してくれるところが好きだ。そしてあいつ、メシだけが生き甲斐の熱血漢、パーン。こないだルーファスとこっそり日記を盗み見たら、やっぱりメシのことしか書いていなかった。ガキってからかわれるとしゃくだけれど、裏表のない単純ないいヤツだ。
互いに縁もゆかりもない人たちがあつまって、テオ様とルーファスのお屋敷で家族同然に暮らしている、あの家。
おれを六人目の家族として迎え入れてくれた家。
ほんとうはすぐにでも離れなくてはいけなかった場所。
そこがゴールなんだ。テッドは薄く微笑んだ。
ほかにどこにも行き場はない。負けて魔女に紋章を奪われるか、それとも───選択はふたつにひとつ。
ルーファス。テッドは叫ぶ。そして歩み続ける。
ごめん、ルーファス。許してくれ。おれはおまえとみんなを不幸にする。それでも、一生のお願いだ。たすけてくれ。
悔し涙がひとつぶ雨に紛れたが、テッドの表情はやがて穏やかになっていった。知らない路地から遊び慣れた路地へ、遊び慣れた路地から、そして。
「お帰り」と迎えてくれる、あの家の灯りが、見えた。
お題「雨」を書いていたのに、できあがったのはなぜか「家」でした。リアル鬼ごっこ。あれえ? さあ、雨をどうする。同じネタでは書けまいぞ。ピーンチ。
どうでもいいがどうも私の書くテッドは自滅願望強いような気がする。
2005-03-02