テッドの場合
我ながら大胆な決断をしたものである。
成り行き、成り行きと怨念のように繰り返す。自己暗示でもかけてみないことには、やっていられない。ただでさえ人の器が小さいのだから。
心は千々に乱れ、ちょっとしたはずみで分離してしまいそうだ。
不安定。危険な兆候。
ソウルイーターが暴走するには格好の条件が揃っていた。いっそ揃い踏みであった。
祖父からそれを継承した直後もこんな感じだった。
たのむからこれ以上、無責任なことを口走ってくれるなよな。そう己を叱咤するのさえも、滑稽に思える。
なにも知らなかった昔ならばともかく。
(いったいぜんたい、どうしちまったんだ?)
軍隊に力を貸す、すなわち、戦争に首をつっこむことをいとも簡単に了承してしまったのは自分だ。それは本来のテッドならばけしてあり得ぬ選択であった。
宣言した本人がいちばん戸惑っている。どうしようもない。何度でも言う――あり得ない。
自暴自棄。ひょっとしたらそういうことなのかもしれなかった。厭世家だったテッドはあまりにも多くの試練を与えられすぎて、おかしくなっちまったにちがいない。当のテッドすらも呆れるほどに。
なにはともあれ、覆水盆に返らず。四方が水平線では、離脱もかなわぬ。当面はいまある状況を受けいれる以外に手はなさそうだ。
この世界と距離をおいていた数年のうちに――年月はあくまでもこっちの世界の基準だが――平和そのものだった群島は激震していた。
隣接する国家とのあいだにわだかまっていた微妙な問題が、なにかのきっかけで一気に噴出してしまったらしい。
なによりテッドをふるえあがらせたのは、イルヤ島の惨状だった。テッドの記憶にあるイルヤは花の咲き乱れる、美しい島だったのだ。その面影が、跡形もなく消え失せていた。
現在のイルヤにあるのは思い出ではなく、人が遺した醜い争いの痕跡だ。
だれが手を下したとか、そういう問題ではない。テッドにわきおこったのは怒りではなく、もっと複雑な痛みであった。
動悸がして、息苦しくなった。降りしきる暗い雨のなか、テッドは右手をぎゅっとにぎりしめた。知らん顔をして眠ったふりをしているそれが、わけを知っているような気がした。
話を戻そう。なんにせよいまの群島諸国は、逃亡者たるテッドにとってあまり都合のよい場所ではなかった。とりもなおさず戦時下である。周辺諸国の目も向いていることだろう。目立つことは本意ではない。
話を聞くと、とある紋章の影がちらつく。罰の紋章という、この世に27ある真の紋章のひとつである。表沙汰にはされていないが、諍いの根源がそれであることにまちがいはない。
真の紋章は争いを招く。強大な力は権力と同等の価値があるのだ。27個のなかには国家によって厳重に管理されている紋章もあるが、多くは行方不明か、あるいは伝説でしか語られることがない。
真の紋章のあるところ、戦は起こる。善良な群島諸国も例に漏れず、紋章の悪巧みに巻きこまれてしまったのだ。
テッドが遭遇した船もやけに厳ついと思ったら軍船で、土手っ腹に不気味な形をした紋章砲の砲台がいくつもつきだしていた。オベル王の率いる旗艦という取ってつけたようなおまけまであった。
テッドは思案した。自分が残留することは火に油をそそぐようなものである。紋章戦争のただなかにもうひとつ災厄を持ちこむわけにはいくまい。
社交辞令で礼を述べたあと、適当な港で解放してもらうつもりだった。
だって、そうだろう。この人たちは現在進行形で戦争をしているのである。対するこちらは群島に縁もゆかりもない、ただの放浪者だ。
国家の個人的事情に興味などまったくない。無責任といわれればそれまでだが、厄介事に関わるのは御免こうむりたかった。
どんな場面でも個人の事情が優先されるべきだ。熱狂するのは勝手だが、望まぬ者にまで無理強いするのはどうかと思う。
旗艦のリーダーは開口一番、こう言ってのけた。
「ねえ、友だちになってくれない」
それが、常套手段か?
ひどい冗談だ。ふざけている。
スカウトするならもっとストレートに言ってくれたほうがありがたみがある。
にこにこと手を差し伸べる少年をテッドはにらみつけた。
十五、六にしか見えない。罰の紋章は別として、これといって特別なところのある少年ではない。
情報を鵜呑みにしてよいならば、彼が軍のリーダー、ノエルである。
オベルの王さまはさしずめお目付役というところだろう。瞳の色がノエルと同じだ。一瞬、実の親子かと思ったがどうもそのような雰囲気ではない。
王さまはがっしりと腕組みをして、こちらの様子をうかがっていた。こういうことはリーダーに一任しているのだろう。口出しをする素振りはない。
少年の決定権はおそらくは絶対なのだ。どんなにあり得ない話でも、少年がそうしたいと言い出したらほんとうになってしまうのだ。
テッドはぞくりとした。
異様である。ノエルが罰の紋章の継承者だからか。
「友だちになりたいんだ」
少年はまた繰り返した。海のように蒼い瞳にからめとられて、テッドは焦りを覚えた。
「……悪いけど、その気はない」
絞りだした声はしわがれていた。
手がスッとおろされる。
おそるおそる少年を見ると、その顔は怒ってはいなかった。むしろなにかを悟ったような安堵にも近い表情で、テッドをじっと見ていた。
居心地が悪かった。無意味に咳払いをしてしまう。
ノエルはおそらくテッドの正体に気づいている。王さまはともかくとして、真の紋章の所有者たる少年にはすべて理解できたはずだ。
友だちになりたいなどと言ったのも、おそらくはそのためだろう。
同じにおいを嗅ぎつけたのだ。
テッドは蒼い視線から守り隠すように、右手を上着のポケットにつっこんだ。革手袋に覆われているが、そこにも真の紋章がある。
再継承の場面を目撃されて、もはや否定はできない。
うつむき加減に、もごもごと口を動かす。
「おれはだれとも話をしたくない……けど、借りができた。それは、返してやっても、いい……」
とっさに口から出た建前に、自分で仰天した。
どうするつもりだ、テッド。
自問自答する。
もちろん借りをつくったつもりは毛頭ない。
霧の船を出たのはあくまでも自分の意志である。ノエル一行はきっかけにすぎない。
導者どのの奸計を未然に阻止し、罰の紋章の継承者ノエルを現実世界に引き戻してやったのはこちらだ。むしろ感謝してほしいくらいである。
義理人情という言葉にはあいにくながら縁遠い。そんなものは今回も、アリのハナクソほどもありはしなかった。損得勘定を最大限に考慮しても、テッドが船に残る理由はどこにもなかったのだ。
「よろしく、テッド!」
またもや握手を求められたが、それも無視して背中を向ける。
やっちまった、という思いが頭をぐるぐると駆けめぐった。
肩を大きな手でバスンと叩かれて、テッドは飛びあがった。
「あいつの決めたことだから、まっ、まちがいはねェだろ。うちはちぃとばっか忙しいかもしれねぇが、メシはうまい。しっかり頼むぜ、お仲間さんよ」
いまのいままで傍観していた王さまである。この人もどこかズレている。
仲間。仲間だって?
単に手を貸すと約束しただけだ。仲間になるなんて、言っていない。
ところがテッドの認識は甘かった。諸国連合軍旗艦、根性丸では仲間になることが乗組員の絶対唯一の条件だったのだ。これはあとで知った話である。
雇用契約というものはない。全員が、仲間として認められて船に乗る。
それがオベル王の信念であり、リーダーにも引き継がれているのだった。
うっかり交わしてしまった約束の重さに、テッドは目眩がした。
やはりあれこれ考えずすぐに離れるべきだった。
クールークからの国境越えがむずかしいのなら、ファレナやアーメス方面に待避する手段もあった。それを躊躇したのは群島諸国とファレナ女王国との国交が無いに等しかったからで、アーメス新王国との緊張関係も不安に拍車をかけていた。群島を脱出するのはどのみち難しそうに思えたのだ。
無一文で見知らぬ港に下ろされたらさすがの自分でも難儀をするだろう。ただでさえ人間社会と隔絶してきたのだからリハビリの期間も必要だ。体勢を立て直すまで居候させてもらってもバチは当たるまい。損得勘定があったとしたら、それに尽きた。
(戦争だぞ? 戦争)
これ以上、人の死に関与してどうする。
まったく、どこまで愚かなのか。
ソウルイーターに”もう逃げない”などと誓った矢先にこの体たらく。
それこそ相棒にゴマをすっているようなものではないか。
いちど厄介払いをしてしまった後ろめたさからか。相棒の持つ恐ろしい欲望に、ひどく敏感になっていた。
怖い。
ぶるっと身体をふるわせる。
血なまぐさい世の中が、怖い。東西南北、どちらを選んでも戦火にぶちあたるこの大地が怖い。
テッドはすでに後悔していた。
結果は考えたくなくとも読めてしまう。
つまり、王さまの軍隊は何も知らずに疫病神を擁護してしまったのだ。生き血を好む紋章はなにも罰の紋章だけではない。そんなものをふたつも背負いこんで、明るい未来など望むべくもない。
手を貸す、だって。
自嘲する。ほざけ、テッド。地獄を見せてやるのまちがいだろうが。
自分が人の眼にどのように映るか、心得ている。捨てられた小犬のような目つきをした、社会になじめない子ども。同情をひくにはじゅうぶんだ。実際のところ童顔も手伝ってか、みなころりとだまされる。
根性丸を手懐けるのだって簡単だった。ひとりの部屋が欲しいのだと訴えたら、すぐに用意してもらえた。案内とやらの申し出も素っ気なく断ってやったが、悪い顔はされなかった。大勢でとる食事がわずらわしく自室に引きこもっていたら、心配しただれかがわざわざお茶つきで運んでくれた。
なんてお人好しなのだろう。これが仲間と雇用の差なのだろうか。
薄気味悪いというイメージを持ってくれたほうが、こちらとしては気楽なのだが。
時折向けられるそのたぐいの視線は、霧の船で目撃したふたり――オベル王リノ・エン・クルデスと女海賊キカのものだ。
あきらかに疑っている。だが、完全否定ではない。
二名とて、こちらの正体を正しく把握したわけではなかろう。真相は人の手には余りすぎて、漠然としたものとしか映らないはずだ。
説明する気はさらさらない。わからないくらいがちょうどよい。
むしろ側近連中に、あのガキには気を許すなと吹聴して回ってはもらえないだろうか。
ノエルの判断にまかせるにも、程度というものがあると思う。リーダーがいいと言うのだからいいのだろうでは、あまりにも短絡的にすぎる。
根性丸は補給目的でたびたび寄港した。その都度、制限つきながら二日ほどの自由行動も認めてもらえた。
すなわち、こっそりと見限ることはいつでもできたのである。
だが、テッドはけっきょくそうしなかった。なぜだろう。船を離れてはいけないような気がしたのだ。
「くそっ」
無性に腹が立った。だれかに対してではない。煮え切らない自分にだ。
建前を論じるならそんなものは最初から無効だし、勘定も間違えていたのだから修正してかまわない。執着する必要はこれっぽっちもないのだ。
こうなってしまった原因がわからない。だからよけいにいらいらした。
その晩も根性丸は浅瀬にイカリを下ろし、波間にゆらゆらとただよっていた。
満月なので、空は明るい。三百六十度の水平線がよく見える。
星は月の光に遠慮しがちだが、目を細めるとたくさん瞬いているのがわかった。
「オベルの~、浜のー、フンフンフン、根性~ぅまーるーはー、フフフンフン」
調子っぱずれな歌声が遠慮なしにひびいた。月下の晩酌と洒落こんでいるのだろう。
一国の王が、甲板で。
断言しよう。王はどえらい音痴だ。なのに歌が三度のメシよりも好きで、風呂でも便所でもどこでも歌う。
歌詞はそのときどきによって違うから、即興なのだろう。
それにつけても、歌にまで登場する根性丸か。
そのネーミングはなんだ。命名者はだれだ。
港に立ち寄って、船の名前を告げるさいにいちいち気まずい思いをしなければならないではないか。
群島諸国では識別のために船体に名前をつけることが義務づけられ、なにをするにしても必ず船名を確認しあわなくてはいけないというところまでは承知したが、運用するとなるとこれもまた困惑するシステムである。仮にも連合軍の旗艦があやしげなマグロ漁船のような名前でいいのだろうか。
と、口に出しはしないまでも、テッドはひそかに憤っていた。そこに絶妙のタイミングでラクジーとかいうチビが大声で話しているのを聞いてしまったのだ。
「根性丸はぼくたちの誇りですよね! 名付け親のノエルさんも立派な方ですし」
犯人確認。リーダーであったか。
群島諸国は複数の暖流が交差するあたたかい海洋のどまんなかに位置するために気候温暖なのだが、地元民の脳味噌もかなり生暖かくできているらしい。なにか乗り越えがたい壁というか、とてつもない温度差をそこに感じる。
なにが、どうして、こうなった。
船底に打ちつける、ざっぱんざっぱんというリズムに歌詞をつけるとしたら、それがぴったりなんじゃないかとテッドはうつろに笑った。
そういえば、満月の晩にはカニが船縁をはいあがってくるという。だれが言ったのかさだかではないが、これほど海が凪いでいればさぞやたくさんのカニが―――。
テッドは手すりから身を乗り出して、水面をのぞきこんだ。
運の悪いことに、そこには(最悪の)目撃者がいた。
敵は血相を変えて駆け寄るやいなや、背後からものすごい力で腕をつかんだ。
「テッ、テッドくんどうしたの。だいじょうぶ? 船に酔った? あ、昼間いっぱい戦闘したから疲れたのかな、あは、は、は……」
おたおたおろおろ。
ある種の誤解が生じたことは火を見るよりも明らかである。
テッドは無視した。こちらは身投げをしようとしたわけではないし、敵の早とちりもいまにはじまったことではないから。
あのノッポは、素知らぬふりをしていつもこちらをちらちらと気にしている。迷惑であることはとうの昔に伝えたが、効果はなかった。それどころか、つきまといはますますエスカレートしていったのだ。
端正な顔に赤いペンキで書いてある。”ぼくはめげないよ、テッドくん”
よからぬ勘違いをしているにちがいない。老婆心ながら、理解力をもうすこし養ったほうがいいぞ、アルドくん。
これ以上関わりたがるようなら、いちど脅してやってもいいだろう。
テッドは青年と目もあわさずにすたすたと階段を下りた。カニの生態はもうどうでもよくなっていた。外の空気も思う存分楽しんだし、邪魔もはいったことである。下の層にある自室へ戻る頃あいであろう。
体力を消耗せずに一気に昇降できるえれべーたという装置があった。便利だとは思うが、それは使わない。ほんの十数秒のこととはいえ、密閉空間に閉じこめられるのはいい気分ではない。
いやなやつといっしょならばなおさらだ。
お節介な青年は距離をたもちながらあとを追いかけてきた。これも、いつもの行動である。
テッドが無事に戻るのを見届けて、そのあとも用もないのに廊下でうろうろしている。
これを、張り込みという。まったくご苦労なことだ。
自分のどこがそんなにおもしろいのだろう? ろくに口をきいたこともないし、笑いかけたことすらもない。すべての人間に対して平等に同じ態度を貫いてきた。陰口をたたくのならまだしも、面倒をみようとするなんてよっぽどの暇人か、もしくは変人だ。
踊り場でテッドはふと足を止めた。
ここの壁には鏡がある。乗組員の半数は女性だから、要望で取り付けたのだろう。全身をくまなく映すほどの大きな鏡だった。
月光に照らされてぼんやりと映る少年。それが自分であることに、テッドは強い違和感を覚えた。
見慣れぬ姿。知らない人間。おまえは、だれだ。
自分はこんな感じではなかった。いま着ている上着だって、袖から指先が見えないほどぶかぶかだった。いつの間に丁度良くなったのだろう。
成長したのか、と他人事のように思う。
成長。焦がれ求めたもの。つかのまの夢。
生涯ぬぐい去れぬ傷を代償にして。
ぐらりと目眩がした。胃がむかむかする。
鏡の端に、気配が映った。それがだれかはわかっていた。
「ついて来ンなよ」
とげとげしく、テッドは言った。
相手は慌てふためいた。
「ご、ごめん。でも、テッドくん調子よくなさそうだったから……心配で……」
「だいじょうぶだ」
言ってから、テッドはしまったと思った。無視を貫くのが正解だったのだ。
聞こえないように舌打ちをして、ふたたび階段に足をかけた。
「テッドくん」
あんのじょう呼び止められる。
遅まきながらも無視をした。
「テッドくん、つらかったら口にしていいんだよ。よけいなお世話だってきみはいうだろうね。でもぼくは、いつでも待ってるから。ひとりでかかえこまないで、ね」
聞こえないふりをして歩き出す。もちろんぜんぶ聞こえていた。
それを言ってアルドは気が済むだろう。少なくともだまって見ているよりは前進だ。伝えることができてよかったと満足するにちがいない。
悔しくて気が変になりそうだった。どうして自分だけ、このような愚かな仕打ちに歯を食いしばって耐えねばならぬのか。あまりにも理不尽だった。
いますぐUターンして、あの綺麗な顔をボコボコにできるなら、そうしてやりたい。
ぶん殴りでもしなければ、アルドはこの先もずっと気づかないだろう。
やさしさやいたわりが、どれほどむごい剣になり得るか。
いや、痛めつけるだけ無駄かもしれない。
彼はそんなことを知る必要などないのだから―――。
つらさを分かち合う。いいことばだ。人々が根性丸に夢を託せるのは、支えあう仲間がいるからなのだろう。
虐げられた人々や、思いを砕かれた人々がつらさを分かち合う。悲しみは半分になり、自由になった手で反旗をひるがえす。
根性丸の航海は、民を苦しめない平和な群島へと向かうのだ。
彼、アルドの願いはまちがってはいない。
過ちはひとつ。自分がここに居ることだ。
(おまえと話をするつもりはない)
もとが相容れないものが、まじわりあおうとすること自体むりなのである。軌道を修正したら、すぐにでも国境を越えるつもりだ。群島には二度と近寄らない。
とりあえず目的のようなものはあった。いい機会だからそれだけは見届けておきたい。
猶予期間中はせめて軍に災厄が降りかからないように、関わりを希薄にしていくしかない。
テッドは足早になった。一刻もはやく巣に逃げこみたかった。ベッドに倒れ伏したかった。
まったく、なんて広いのだろう。海にたやすく浮かぶくせに。
ようやく自室のある階層に到達した。
みんなもう寝てしまったか、さもなくば甲板やサロンで酒を酌み交わしているのだろう。廊下はしんと静まりかえっていた。
青年は執念深く追ってきた。しつこいのを通り越して、もはや気がふれている。すなおに弓仲間とつるんでこちらの悪口でも語りあっていればいいものを。
自室の扉に手をかけようとしたとたん、背後から抱きすくめられた。
思いつめたような顔がすぐ横にあった。
「テッドくん、話をきいて……」
テッドはかっとして、全身で振り払った。
「うるさい! ……死にたくなかったら、おれに近づくな!」
アルドの身体が硬直した。そのすきにテッドは部屋にすべりこんで、扉を乱暴に閉めた。
根性丸の船室にはカギがない。テッドは重い木のテーブルを内側から押しつけて、ついでにベッドも火事場の馬鹿力で積みあげた。ついには己の身体を重しにして、境界を完膚無きまでに閉ざしてしまった。
アルドの場合
「死にたくなかったら、おれに近づくな!」
アルドは振り払われた手をぼんやりと見つめた。
革手袋の留め具が柔らかい皮膚を引き裂いていた。血がポタポタと腕を伝って落ちた。
虫も殺さぬやさしい少年が、かいま見せた激情。全身全霊で拒絶したのだろう。傷つけたことも気づかぬくらいに。
「ごめん……テッドくん」
ずきずきと痛むのは、手の傷ばかりではなかった。
「あらあら……困ったわねえ、アルドちゃん」
ふいに声がした。背後からだった。
「デボラさん」
向かい合わせの部屋から品の良さそうな初老の女性が顔をのぞかせていた。
アルドは恐縮して、頭を下げた。
「夜分うるさくして、すみません」
「いいのよ。まだ休んでいなかったから。それよりアルドちゃん、お茶、つきあってくださらないかしら」
突拍子もない誘いにアルドは驚いて目をぱちくりさせた。
このデボラという女性、噂では根性丸の乗組員すべてに精通している情報魔だという。アルドの名前を知っていたのも偶然ではあるまい。
まさかいきなりお茶に招かれるとは思ってもみなかったが。
「でも、遅いですし、ご迷惑なんじゃ」
「まあまあ、若いのにお堅いのね。いつかアルドちゃんともお話がしてみたかったの。こちらこそご迷惑でなければ……いい?」
「あ、はあ……」
断る理由はなかった。それにデボラは、相談に乗ってくれそうな気がした。
招かれるままに部屋に足を踏み入れ、差しだされたイスに腰掛けた。内装はテッドの部屋と大きな違いはなく、テーブルもベッドも同じつくりであったが、女性の部屋らしく小綺麗な花が飾ってあった。
「レモンティ? それともミルクがいいかしら」
「あ、おまかせします。なんでもすきです」
「主張しないのねえ。じゃあ特別にチャイをいれてあげましょうね」
お茶をわかすくらいしかできそうにない小さなキッチンにデボラが立つと、小柄なわりに存在感があった。良家のご婦人という雰囲気を身にまとい、しぐさもいちいち上品だ。
この人も理由があってここにいるのだろうが、正直な話、そぐわない。とても不思議な感じがする。
それでなくとも根性丸には、血なまぐさい話に縁のなさそうな人々がたくさん乗船している。
みな、オベル王とノエルを慕って集ってきた。群島をクールーク皇国の属国にはすまいと、気持ちをひとつにしているのだ。
(テッドくんだって)
「テッドちゃんのことを考えているでしょう」
アルドはイスに座ったまま飛びあがった。
「びっくりしなくてもいいのよ。だっておかおにそう書いてあったんですもの」
「ええっ」
「アルドちゃんの気持ちは、みんな知ってるわよ。もちろんテッドちゃんだって」
デボラは洒落たティー・カップをアルドの前に置いた。ふわふわとただよう湯気のむこうに甘いミルクが魅力的に揺れている。
「でも、テッドくんは」
それだけを言ってアルドはつまった。テッドは、アルドの気持ちに応えてくれない。
ひたすらに無視をするか、にらみつけるだけ。
その眼にアルドは奇妙な既視感を覚えた。
森に棲息する野生動物。そう、ヒトに怯える彼らの、あの眼だ。
テッドは深く傷ついている。なのに助けを求めようとしない。少年の悲鳴はあまりにも小さくて、耳を澄まさなければきこえない。
だが、触れようとするとするりと逃げてしまう。
手の届かない距離まで逃げたらそこにしゃがみこむ。背中を丸め、外界をすべて拒絶して、己の世界にこもってふるえている。
アルドの声が届いているようには思えなかった。
”死にたくなかったら、おれに近づくな”
彼の内部には、守らなければならない大切な石ころがあるのだ。それを渡すまいとして、近づく者に見境なく牙を剥くのだろう。
死の制裁も厭わぬ、というわけか。
いったいなにが、テッドをそこまで追いつめたのだろうか。
カップの持ち手に触れたまま、アルドは視線をただよわせた。
「テッドちゃんは、テッドちゃんよ」
デボラは自分もチャイに口をつけながら、明るく言った。
「ねえ、アルドちゃん。わたしにはね、神さまからさずかったふしぎな力があるの。人の相のようなものを見る力よ」
きょとんとするアルドにほほえみを返す。
「相というのはね、ああ、どういうふうに説明したらわかりやすいかしら。ひとりひとりみんなちがうの。強い相もあれば、弱い相もある。輝いているものもあれば、いまにも消えそうなものもあるわ。大きなことを成し遂げようとしている人の相はね、とっても不思議。目を惹いて、離さないわ。たとえばノエルちゃんの相がそれね」
「ええ……ぼくもノエルさんには不思議なパワーのようなものを感じています」
「それが相を見る力よ、アルドちゃん。思ったとおり。あなたにも、あなたの力があるんだわ。だからあなたは、テッドちゃんに惹かれるのね」
「えっ?」
デボラはふと、悲しげな目をした。
「わたしにはテッドちゃんの相もかいま見えたの。あの子がここに来るすこし前かしら。それでも、わかったのよ。ああ、大きい星が近づいてくる。からだがふるえたわ。とっても禍々しくて、おそろしい星。けれど孤独で、寂しい星」
デボラはいったん呼吸をして、続けた。
「それは、いままで見たこともない相だったの。ノエルちゃんのと似ているような気もしたけれど、それはすぐに否定したわ。同じ相は、ふたつとないのだから」
「……」
「正直いってね、テッドちゃんを迎えいれるのは危険なように思えたのよ……あら、おあがりなさいな、どうぞさめないうちに」
アルドはこくんとお辞儀をしてカップに口をつけた。ほんのりと甘く、多種多様なスパイスの香りが舌と鼻を愉しませる。
「わたしの勘も、ときどき狂わされるわね。テッドちゃんの場合は、まさしくそうだったわ」
「テッドくんは……いい子です」
デボラは少女のようにくすくすと笑った。アルドはなんとなく恥ずかしくなり、頬を赤らめた。
なにを納得しているのやら、デボラは何度も何度もうなずいた。
「アルドちゃんの相も、とってもすてきね」
「え、ぼくですか」
「はっきりとした形ではないの。だからことばにするのはとってもむずかしいわ。でも、いまわかった。確信しちゃった。ねえ、アルドちゃん」
まっすぐに目を向けられて、アルドは背筋を伸ばした。
「はい」
「わたしには見えた。あなたはテッドちゃんを導く星よ」
かちんと、カップを置く音がした。
なぐさめだろうか。いや、そうであってもかまわない。相などというものは不確かで、目に見えない世界のたとえ話なのだ。
デボラのやさしさに、こみあげる気持ちをおさえきれなかった。
デボラはにこにこと笑っている。
アルドはきゅっと唇を結んで、もういちどだけお辞儀をした。それがせいいっぱいであった。
「アルドちゃんのチャイには、ちょっとしたおまじないがかけてあるの」
どこまで口達者なのだろう。小憎たらしいほどのタイミングでその気にさせる。ひょっとしたらデボラという女性、史上最大の詐欺師なのかもしれない。
「そろそろかしら。ひきとめてごめんなさいね。おやすみなさい、アルドちゃん」
熱に浮かれたようにぼんやりとして廊下に出た。目に飛びこんできたのは、閉ざされた部屋の扉だった。
足音をしのばせて近づいて、耳をおしあてた。
ことり、と音がした。
「テッドくん」
呼びかけてみた。返事はない。
「そのまま、聞いて」
扉にもたれていることはわかっている。カギのない船室ではそうするしかないのだ。
「ぼく、きみのことがだいすきだ」
アルドは迷わなかった。ほんとうの理由を、正直な気持ちを話しておきたかった。
「テッドくんのこと、ぼくはなにもしらない。だから、友だちになりたい。友だちになったら、話ができるじゃない。話もしないうちに、あきらめるのは、むりなんだ。ごめんね、テッドくん……ぼくは」
その先はふいに遮られた。
「おれは、おまえと話をするつもりはない」
すぐ隣で聞いているような近さだった。薄い板一枚をはさんで、テッドがいる。
アルドは息をのんだ。
「理由がいるというのなら、いちどだけ教えてやる。おれは紋章を持ってる。罰の紋章のようなもんだと思ってくれていい。その紋章は、呪われてる。まわりのヤツの魂を奪って成長する。だからおまえは、おれに近づかないほうがいい。わかったか」
なんとぶっきらぼうで、正直なのだろう。言葉の選びかたが、テッドらしい。
「それは、どこかに封印することはできないの」
「しない。おれが持っていくと、決めた。もういいだろ……失せろ」
沈黙がおとずれた。もうなにを訊ねても答えまい。
膝をかかえて座っている。小さな肩をふるわせて。見えはしなくとも、アルドにはわかった。
アルドの目からぽつりと涙が落ちた。
「……ありがとう、テッドくん」
返事はなかった。
「おやすみ。また、あしたね……」
アルドは立ちあがった。おやすみ。心を波立たせて、ごめん。
もうこの扉に手をかけたりしないから、安心して眠って。そのかわり、ぼくは今夜ずっとこの廊下で、きみの部屋を見守る。
ぼくは、性急だったね。傷つけて、ごめん。
心やさしい彼が悲しい選択をとりませんように。
もしもテッドが――そうなることは考えたくもないけれど――背負っているものに押し潰されそうになったときは、自分の命とひきかえにしても守ってみせる。
テッドの告白は、あまりにも言葉少なで要領を得なかった。おそらく真実は想像をはるかに超えて戦慄すべきもので、テッドはほんとうのことは言えなかったにちがいない。
あのデボラさえも恐怖したという、テッドが守ろうとしているもの。
”あなたはテッドちゃんを導く星よ”
アルドはごしごしと目をこすって、顔をあげた。
だいじょうぶ。これは、ひとつの通過地点なんだ。
ぼんやりとしていた霧がだんだんとひとつのかたちに結実していく。
命。ひょっとしたら、それを諦めなくてはいけなくなるかもしれない。
だがアルドには、恐怖はなかった。むしろそれこそが、ずっと探し求めてきたものの答えにも思えたのだった。
2006-06-21