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ありがとう

 西に高くそびえたつ山脈が空っ風を絶えず吹き下ろすのだろう。大気は冷たく乾燥していて、肌をぴりぴりと刺激する。ここで生きていく者たちは大自然にさほど恩恵をもたらされていないにちがいない。
 荒涼とした寂しい眺めがどこまでもつづく。鬱屈した空と大地の色にだんだんと気が滅入ってくる。
 前の町で手にいれた地図によると、このあたりに小さな都市がひとつあるはず。ひと月も着の身着のままで歩きどおしだったものだから、汗と埃にまみれてさすがに見栄えがよくない。もともと無頓着なたちだが、汚いにも程度というものがある。  到着したらなにはともあれ速攻で風呂だ。宿で怪しまれなければの話だが。
 砂塵よけのフードは内部まですっかりざらざらで、お役御免一歩手前の状態。弓も細かい砂を噛んで張りを失っている。旅をつづけるためには本格的なメンテナンスが必要だ。
 重く垂れこめた曇天に引きずられるように、テッドの心も晴れなかった。新しい町を目前にすると、いつもこうやって軽い鬱に陥る。
 人との対話が苦手なのと、無垢な子どもを演じることへの後ろめたさと。
 うまいやり方は身につけているといっても、やはりため息がもれる。
 それに比べたら、一枚の布で暖をとりながらすごす孤独な夜のどんなに心安らぐことか。
 要するに。
「めんどくせぇなぁ」
 つまりはそういうこと。地図に記されたちょうどその位置にぼんやりと煙る街並みを視認して、テッドはくさったようにつぶやいた。
「一生風呂にはいんなくても、ばっちくならねー紋章って売ってねえのかな」
 アホな独りごとにつきあうカラスもいやしない。
 なにはともあれ、あとは街道に出て一直線だ。迷うことはなにもない。長居をしなければよいだけの話。はなから居心地など期待してはいない。
 どうやらメインルートはその一本のみらしく、街道には哨戒の兵士がまばらに立っていた。それほど大きくもない都市に見えるが、祭かなにかあるのだろう。荷馬車を止めて検問しているようだ。
 面倒な手続きは回避するが最良の手。裏道をこっそり回ることにして、テッドは障害物のかげに身を隠そうとした。だが一瞬遅く、立派な剣を腰に下げた兵士がひとり駆け寄ってくるのが見えた。
 ちっと舌打ちをし、居直る。へたに逃走をはかってよけいに事がこじれたらたまったものではない。こっちはなにも怪しい者ではないのだから、堂々としていればよい。
「旅の方ですか」
 若い兵士に威圧感はなく、むしろ友好的な声色だった。テッドはほっとして、うなずいた。
「子ども……? ひとりで、旅をしているの」
「ええ、まあ」
「こんな辺境に、よく来たね。ああ、すみませんが、そのフードをとっていただけますか」
 目深にかぶっている砂塵よけのフードのせいで顔が見えないのだろう。今日から世話になる予定の町に礼を失してはいけない。
 顎のところで留めているベルトをはずし、するりとぬいだ。
 にこにこと柔和にほほえんでいた兵士の顔が、みるみる蒼白になった。
「……っ!」
「え?」
「テッ、テッド、さま!」
 酸欠で溺れかけた魚よろしく、ぱくぱくと口を開けたり閉じたり。
 事態がのみこめず、テッドもぽかんとするしかなかった。
 この土地に来たのははじめてで、もちろん知りあいなどいようはずがない。しかも目の前で仰天しているこの男はまぎれもなく初対面のはず。
 しかし次の瞬間、テッドの思考は暴力的に断ち切られた。
「……お覚悟!」
 目にもとまらぬ速さで抜かれた長剣が頭上から振り下ろされるのを、テッドは髪の毛ひとすじの差でかわした。
「……っにすんだ、あぶねーっ!」
 バランスを失って草むらにころがりながら、叫ぶ。いまのは本気で危なかった。あと少し遅かったら、間違いなく左腕が虚空に飛んでいた。
 悪態をつかなければ気が済まない。罵倒しようとして顔をあげ、ぎょっとした。
「いたぞ! こっちにいたぞ!」
「げっ……仲間を呼ぶなって!」
 兵士の軍団が土埃をあげながらこっちへ向かってくる。なかには足の速そうな騎馬兵もまざっている。
 なにかとんでもない誤解が生じているにちがいない。逃げるが勝ちとはまさにこういうことか。
 だが。
「もう逃げられませんよ、テッドさま。貴方はもうどこへも逃れられません」
 じりっ、じりっと間を詰めてくる兵士は、あきらかに自分を知っている。なぜだ。
(あの魔女の手先か?)
 それにしてはどことなく違和感が。
 いや、だからいまはそれどころではない。さっきの柔和な顔の兵士はすでに殺意まんまんのようすだ。
 テッドの狼狽をよそに、兵士は悲壮な声で語りはじめた。
「お父上もお母上もすでにあの世でお待ちです。民のため、どうか……貴殿のお命、お捧げください!。てぃやぁ!」
「うわーっ!」
 てぃやぁ、じゃないだろう。
 ほんの三分だけ胸に手をあてて冷静になれ。そして頼むからこっちの話も聞け。
 そう絶叫したかったが、ぶんぶんと襲ってくる長剣から逃れるのに必死で声すらもでない。
「あいかわらずサルみたいにすばしっこいお方だ!」
「だれがサルだって、こンの!」
 いい加減こっちも腹がたってきた。話のつじつまがあわないということは、百発百中人違いなのだ。命を奪われたあとでまちがえましたごめんなさいといわれても。
 五十人は下らないであろう兵士たちもすぐそこまで迫っている。
 絶体絶命。さあどうする。
 そのときだった。
「上です、上!」
 いつのまにか、大木の根元に追い詰められていたのだ。声はその真上から降ってきた。
 チャンスはそこにあった。
 先端が輪になったロープを投げられる。考える間もなく、テッドは無我夢中でそれにつかまった。
 火事場の馬鹿力で引きあげられる。
「逃げたぞ、木の上だ。手引きをした者がいる」
「アーヴィング卿の手先がまだ残っていたか。追え、追うんだ!」
 はるか下のほうに渦巻く怒号。
 まだ胸がどきどきする。とりあえず一刀両断されるのは免れたようだが。
「あぶないところでした。ケガはありませんか」
「あ、ありがとうございます」
 大汗を流しながらテッドを吊しあげてくれたのは、眼鏡をかけた髪の長い男だった。人を見かけで判断してはいけないが、知的な顔つきをしている。歳は三十前後といったところか。
 深く繁った木の葉がざわりと揺れた。そこにもうひとつの巨大な影があることを、テッドは瞬時に見抜いていた。
「鳥……?」
 そうつぶやいたあと、テッドは声を失った。鳥に見えたそれは、たしかに鷲によく似た相貌をしていた。だがその躯はあきらかに異形のものであった。
「わたしの相棒です。グリフォンを見るのははじめてですか」
「グリフォン?」
 その固有名詞は聞いたことがある。だがそれは伝説上の生物ではなかったか。鷲の躯とライオンの脚をもつという。
「ジークムント! 安全な場所までこの子を乗せてあげてください」
 ジークムントと呼ばれたグリフォンは人の言葉がわかるのか、高らかに啼いた。
 テッドはうながされ、巨大鳥の背中に怖々とよじのぼった。
「振り落とされないようにしっかりとつかまっていてください」
「は、はい……すみません」
「あやまる必要などないのですよ。テッド・アーヴィングくん」
 一難去ってまた一難。身の潔白を明かしたくてうずうずしたが、いまは一刻もはやくこの場から離れるのが先だ。誤解をとくのはそのあとでも遅くはない。
「飛びます。いいですね、怖かったら下を見ないように」
 テッドはぎゅっと目を瞑ってふわふわの羽毛にしがみついた。

「おかえり、フーゴ。で、こっちのお客さんはどこのだれかなあ」
 大空をひとっ飛びして着いた先は西の山脈にあるごつごつの岩棚。自然に掘られたとおぼしき洞窟から小鍋を手に出てきたのは、野暮ったいスカートを履いた小太りの女の子だった。
 煤けた色の、量だけは無駄に多いざんばらの髪をむりやり三つ編みにしている。鼻のあたまには無数のソバカス。くりっとした鳶色の瞳。
 百歩譲っても美人には属さないが、不思議な印象を人に与える。
 なによりもあたたかな感じがした。それだけで好意を抱くにはじゅうぶんすぎるほどだ。
 グリフォンのジークムントは二人を下ろすと、勝手にどこかへ飛んでいってしまった。
 ふらふらする足を地面におろし、テッドは大きく息を吐いた。重力異常で胃袋がでんぐり返りそうだ。まだ地面が揺れている気がする。
「なにいってんの、エミ」
 眼鏡男は狼狽したようだった。
「ふーん。まあ、むりもないか。あたしでさえもびっくりした……」
 エミと呼ばれた女の子はテッドをじろじろと見た。その視線にはまったく遠慮というものがない。
「世の中に、こんな瓜二つの人がいるのね。っていうか、ほとんど双子……ううん、それよりもっと近いみたい。奇蹟ってこういうことをいうのかしら」
「エミ?」
「フーゴ、ざんねんでした。はっずれー」
 エミはぷっと頬をふくらませ、少し悲しそうな顔で笑った。
「テッド、どこいっちゃったのかな……」
 フーゴはエミとテッドを交互に見、「なんてことだ、別人か」と呆けたように言った。
 弁解する手間が省けてこれ幸いにしても、どうも経緯が気になる。自分に瓜二つというそのテッドなる少年は、なぜ命を狙われているのだろうか。
「しかし、どこからどう見てもわたしにはテッドくんにしか見えないが」
「ちがうわ」とエミは言った。「たしかにそっくり。いつも近くにいなかったらきっとわからないと思う。でもひとつだけ決定的にちがうの」
 エミはまっすぐにテッドを見た。
「眼の色。テッドの眼は、海の色をしているのよ」
 フーゴは「あっ」と小さく言った。
 テッドはひとつ咳払いをして、わざとらしく苦笑いをしてみせた。人違いとはいえ、命の恩人に当たり散らすのはどうかと思うので。
「じゃあ、きみはいったい」
「ただの旅の者です」
「アーヴィング家の血筋というわけでは」
「ないです」
「しかし、兵に……」
「だから人違いですって」
 哀れなフーゴは深い深いため息をついた。
 お疲れさまと言いたいところだが、早とちりするほうが悪い。
「これもなにかの縁よ、フーゴ。気を落とさないで、テッドをさがしましょうよ」
 ずっと年下の少女のほうが言動は冷静だ。だが、いつまでも小鍋をしっかりと握っている。動揺をそうやって抑えているのだろう。
 自分にそっくりだという、名前も同じ少年にテッドは興味がわいた。できることなら、逢ってみたい。厄介事に関わるリスクに、好奇心が勝った。
「きみは、ここから離れたほうがいいですね。危険だから。しかし、いったいどうすればいい……ポロック卿の眼を欺いて脱出するのは、無謀にすぎる」
 思案するフーゴを、テッドはさえぎった。
「いきさつを訊かせてください。協力できるかもしれません」
「だが、関係のないきみを巻きこむわけには」
「あら、だったらフーゴ先生だってもともとは関係ない人だわ」とエミ。「フーゴは、流浪の学者さんでしょう? テッドの持っている、アレをさがしにきたんだったわよね。アレをもういちど封印するっていってたでしょう」
「エミ、わたしは」
「わかってる。フーゴはアレがほしいだけなんだって。あるべきところに帰すんだったわよね? あたしも、賛成よ。テッドがふさぎこむようになっちゃったのも、アレのせいだもの。あんな力、なくったってテッドはなんだってやれるわ。りっぱな領主さまになるわ。でも……でも」
「テッドが追われているのは、アレのせいじゃないよ、エミ」
 フーゴはなだめるように言った。
「アレの存在は、だれも知らない。今回のことは、もっと低俗な権力争いだ。テッドは、だれにもアレのことを話さなかった。守ろうとしたんだよね。あの力を悪用されないように。あの子は、強い子だから」
 エミの大きな瞳からぽろぽろと涙が滴った。こくりとうなずいて、顔をあげる。鳶色がきらきらと輝いた。
「そうよ。テッドは成金バカでサイテーのヘタレでサルだけど、ほんとはすごくやさしいの。すごく強いの。あたし、信じてるもん。テッドは負けたりしないわ。ぜったいに」
 だまって聞いていたテッド(成金バカに非ず)が遠慮がちに口をはさんだ。
「そもそも、”アレ”ってなによ」
 四つの眼がいっせいにこちらを向き、テッドは微妙にたじろいだ。
「ごめんね、きみには関係のないこと……」
「いいわ。フーゴ、この子にお話ししましょ」
「しかし」
「よく似ているからって理由だけで危ないめにあったんだもの。いまさら関係ないっていったって、はいそうですかって納得できるはずないじゃない。ねえあなた、そうでしょ」
「あ、うん」
 テッドはどぎまぎして生返事をかえした。意志のとても強そうな、光を宿したエミの瞳がまぶしく感じられて面食らったのだ。
「こんなことに巻きこんでごめんなさい。あなた、お名前は」
「ええと、その……なんていったらいいか……おれも、テッド、だったりして」
「えっ」
 エミは驚いて口もとを手でおおった。
「テッド。偶然だけど」
「そうか」とフーゴが言った。「縁、か。まさしくそのとおりだ。きみは信頼するに値するかもしれない。旅をしているといっていましたね、テッドくん」
「はい」
「わたしも長く旅をしています。とある紋章をさがしだし、封じるためです。エミ、あれを持ってくるよ」
 フーゴは背を向けて洞窟の奥に消えていった。
「フーゴは図書館を管理している司書さんなんだって。どこか遠い国の人よ」
 すぐになにかを手に戻ってきた。テッドの前にそれを差しだす。
 古めかしい本であった。
「これは、断罪の書です」
「だんざいの、しょ?」
「呪いの本といわれております。悪しき者の手によって封印が解かれ、我が国から持ち出されてしまいました。責任は管理を怠ったわたしにあります。なんとしてでも、取り戻さねばならぬのです」
 それを手にしながら、妙なことを言うものだ。
「ここにあるのは紋章を封じるための容れ物にすぎません」
 テッドの疑惑に答えるように、フーゴは補足した。
「断罪の紋章は恐るべき力をもっています。悪用されてはとんでもないことになる。テッドに紋章がわたった経緯はわかりませんが、彼はその正体を知って、自分が宿すことで隠そうとしたのでしょう。勇気ある子です」
 テッドは訊いた。
「それはもしかして、真の紋章」
 フーゴの眉がぴくりと動いた。
 鎌を掛けてみたのだ。お伽噺と笑い飛ばすか、それとも真実を語るかで、この男に対する評価はずいぶんちがってくる。こちらとて無条件で信用するわけにはいかない。
「真の紋章……ではありません。しかし」
 フーゴは手の中の本をじっと見つめ、そっとその留め金に触れた。
「断罪の紋章は、真の紋章の眷属です。親には及ばずとも、それに準じる力を秘めています。あの紋章の恐ろしさは、他者に与える影響はもちろんですが、それを行使する宿主の命を削るところにあります」
「……罰の紋章」
 重く発せられたテッドのつぶやきに、フーゴは驚愕して目を見開いた。
「きみは、いったい」
「旅をしてれば、なんだってきこえてくるさ」
 さては大当たりだな。納得しながらテッドは言った。
 真の紋章の一の眷属なら、恐れられても不思議ではない。ましてや親は例の『人から人へ寄生して渡り歩く呪われた紋章』だ。どんなにクセのある奴か、容易に推測できる。
「紋章学でも習っていたのですか」
「自慢じゃないけど、勉学にいそしめるような身分じゃないんでね。知識じゃなくて体験ってやつかな」
「テッドくん、すごい」
 エミが尊敬のまなざしを向ける。しかしすぐに顔がくもった。
「テッドが持っているのは、呪われた紋章なの。もし、もしアレを使ったら、テッド、死んじゃうかもしれない。いまだって、ひとりで必死に逃げてるのよ。はやく見つけなきゃ、手遅れになっちゃう……」
 またぽろぽろと涙が落ちる。人の視線もはばからず泣くことのできる少女が、テッドには不思議でしかたがなかった。
 誰かを愛するというのは、こういうことか。
 これこそ知識ではなく体験の感情なのだ。自分などには知る余地すらもない。
 うらやましい、と少しだけ思った。
「おれも手伝います」
 急ぐ旅路ではない。テッドは彼にしてはめずらしくほほえみをうかべて、エミの肩をぽんとたたいた。

 フーゴの話を要約すると、こういうことになる。
 このサマリンド地方は、長きにわたってアーヴィング家とポロック家というふたつの領主が相互統治してきた。魔法をなりわいとするアーヴィング家と、武道に精通するポロック家は歴史上では幾度か対立もしたが、結びつきはそれ以上に強固なもので、大きな争いに至ることもなく今日までやってきたらしい。
 均衡が崩れるきっかけとなったのは、ポロック家当主の急逝であった。
 当主にはふたりの息子がおり、どちらが家を継ぐかで揉めに揉めた。
 順当な継承権をもつ長男は穏和な性格だが、民を率いるには実力のともなわない人物だった。兄にかわり当主の座を狙う次男は、いわば暴君。己の意のままにならないことはすべて力でねじ伏せる男であった。
 長男が毒殺されたのはそれからほどなくのことである。犯人がだれかということも民はすべて気づいていた。だが、逆らえる者はいなかった。
 次男が領主になると同時に、アーヴィング家の排除が開始された。
 強大な武力で民を脅し、アーヴィング家を信奉する者をつぎつぎに捕らえては見せしめに処刑した。孤立したアーヴィング家はそれでも頑なに穏健策を守ってきたが、苛立ったポロック卿はついに革命と称して、相手領地をすべて暴力で征圧してしまったのである。
 辛くも逃げのびたテッド・アーヴィングの行方はいまだ知れず。
「テッドのおとうさんとおかあさんは、公開処刑されてしまったの」
 怒りにふるえながらエミは言った。
 民の忠誠はいまもアーヴィング家にある。だが報復を恐れて、だれもポロック卿に異を唱えることができないのだ。
「ふん、話は簡単じゃないか。アーヴィング卿が処刑されちまったいま、次の領主は息子ってわけだろう。要するに、領主が叛旗をかかげて暴君を糾弾すりゃいいってこった」
 グリフォンのジークムントは騎乗者が三名に増えても文句ひとつ言わず、悠々と大空を駆けた。向かうはサマリンドの町である。
「やはり囮は危険です。戻って策を練り直しましょう」
「そんな悠長なこといってる場合じゃないんだろ。だいじょうぶ。おれ、いざとなったらちゃんと切り札もってっから」
 エミがテッドの背中にぎゅっとしがみついてきた。あたたかい体温を感じる。
「バレちゃったら、あなたも殺されちゃう」
「バレやしないさ」とテッドは明るく言った。「眼の色に気づくヤツなんて、そうそういやしねえって。ま、ぐぐっと近づいて熱烈なキスでもすんならべつだけど」
「ばか」
 エミは真っ赤になって、テッドの耳をひっぱった。
「いてて」
「テッドなんて名前のつく人はみんな、ばかよ。ばかの代名詞だわ」
 眼下に町が迫ってくる。ジークムントは高度を下げて、ひときわ高い建物の屋上に降りたった。
 目の前には広場があり、たくさんの民衆があつまっていた。
「ここは元老院の庁舎です。テラスで演説をしている男が、グレン・ポロックです」
「よっしゃ。悪党をケチョンケチョンにこらしめてやっぜ、見てな」
 テッドはするりとジークムントから滑り降りると、躊躇することなくすたすたと手すりに近づいた。
「テッドくん、弓に気をつけて!」
 テッドは革手袋に包まれた右手をひらひらさせてそれに応えた。
 ごほんと咳払いをひとつ。そして飛行中に脳内で書いたシナリオを朗々と読みあげる。
「レディース・アンド・ジェントルマン!」
 背後で「……アホ……」というエミの呻きが聞こえたが気にしない。
 広場に怒号とどよめきが満ちた。
「テッドさま!」
「あらまー、みなさん深刻な顔でおそろいで。あれえ、どったの? オレまだ生きてるけど、なんのご相談?」
「オレじゃなくってぼくよ、ボク!」とエミ。
「オンボロックのオニイチャン、きいてる? よくも卑怯なマネをしてくれちゃって。オレ……ごほん、ボクさ、怒ってんだよ? テメェみてえなクサレコンコンチキが、天下をとろうったってムリムリ。もういっぺんテメェの腐れたツラを鏡でよーく拝んでよ、出直してきなハゲ」
「……ポロック家が毛の薄い家系だってことテッドにしゃべったの、フーゴ」
「いや、単なるハッタリだと思いますが……まずいところに触れてしまいましたね」
 下からひときわ神経質な怒鳴り声がした。グレン・ポロックだ。
「捕らえてぶっ殺せ!」
 ひゅんと矢の雨が飛んでくる。
「おっと」
 如何せん距離があって、避けるのも難しくはない。テッドはひょいひょいと屋上を走り回りながら、群衆に向かってにこやかに手を振った。
「テッドさまが生きてらした!」
「見ろ、笑っておられるぞ!」
「おおお、わたしたちはなんということを!」
 テッドはにたりとほくそ笑んで、角に張り出した屋根飾りの上に立った。
「狙え!」
 矢がいっせいに向く。
 テッドは凛と叫んだ。
「見ろ!」
 左手を高く掲げながら。
 ただし、念をこめたのは右手のほうだ。
 赤黒い邪悪の渦がテッドを中心に巻いていく。
「命が惜しかったら、武器を下げな」
 兵士たちはそのただならぬ気配に一瞬ひるんだ。
 断罪の紋章はその存在を知る者はまだいないはずとエミは言っていたが、テッド・アーヴィングが並はずれた魔力の持ち主であることは町のだれもが周知の事実である。ならばこういう脅しはかなり有効だろうとテッドは踏んだのだ。
 武力に対するは魔法と相場が決まっている。
 もちろん本気で発動させるわけではない。
「なにをぼーっとしている! 射れ、射れ!」
 ヒステリックな領主の声にびっくりした一本の矢が、ひゅんと空を切った。
「……あっ」
 矢はテッドの左腕をわずかにかすめた。
「テッド!」
「テッドくんっ!」
 ソウルイーターの制御に集中していたせいで、避けきれなかった。バランスを崩し、テッドはゆっくりとそこから落ちた。
 しまった。
 叩きつけられる。
 反射的に目を閉じた。
 次の瞬間、ふわりと重力が変化した。
 ぼすん、と音がした。なにかあたたかいものに受けとめられたのだった。
 羽毛の感触が鼻をくすぐった。
「ふ、ふえっ、ふぇっくしょん!」
「クシャミしてる場合か、ったくもう!」
 聞き慣れたような声が耳許で怒鳴った。
 わけがわからず、ただ、助かったかも、とだけ思った。静かに目をあけてみる。
「……ジークムント?」
 それと。
 自分がいた。
「だれだ、おまえ」
 蒼い眼のテッドは興味津々の表情でじろじろとこっちを見た。
「よっ、本物」
 テッドはにかっと笑って挨拶をした。
 いつの間にか、大歓声があたりを包んでいた。すさまじいまでのアーヴィング・コールに時折、少女の声がまじる。
「テッドー!」
「待ってたんだぜ、彼女。行ってやれば」
「どこのだれだか知んねーけど……サンキュ」
 テッド・アーヴィングは握手を求めて左手を差しだした。
 そこに大事そうに巻かれている包帯に目を細め、テッドは革手袋をスルリとはずした。
 左手で握りかえす。上からそっと包帯に巻かれた右手をそえて。
「……こんなところまで似ている」
「ホントだな」
「さっきの、あれが……そうなのか」
「まあな」とテッドはぶっきらぼうに言った。「見てたんなら隠す必要もない。ま、”似たようなモン”さ」
 蒼い瞳のテッドは力強くうなずき、次に群衆を見据えた。
「民にまぎれてずっと見ていたんだ。きみのおかげでやっと決意することができた。ぼくはもう逃げない」
「よくわかんねーけど、そっか。よかったな」
「ありがとう」
「……へっ」
 テッドは恥らんで、ごしごしと鼻をこすった。
「ありがとうなら、彼女にいえよ」
 指さした先に、ふたりのテッドを迎えるために両手を振るエミの姿があった。重く垂れこめた雲が割れ、陽光のふりそそぐ下で。
 きらきらとした笑みは、天に祝福されているように見えた。


これにて「テッド・30のお題!」テキスト挑戦編コンプリートです。ありがとうございました(それがホントのオチです)。

2006-09-07