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孤独

 兄貴分ツラしてさも面倒を見てやっているように背を押しながら、自分はあの子のなにを知っていたというのだろう。
 それは、フリックのまったく知らないルーファスだった。
 彼は泣き叫ぶこともせず、力を失って崩れる親友をしっかりとその両腕で支えた。

 ルーファスが、フリックは苦手だった。
 理解しようとする努力さえ面倒で、つかず離れずはなかなかよい方法に思えた。
 だがこっそりと嫌悪するだけならまだしも、フリックは未熟な妬みそねみをその上に重ねていった。見下すことにやがて快感すらおぼえるようになり、意地の悪い嫌がらせに及んだこともある。
 子供じみた理由なき否定に支配され、それはやがて憎しみに変わっていった。表面上はいちおうリーダーと呼んではみるものの、あとで必ず些細なことをあげつらってののしり蔑む自分がいた。
 有事あるごとに、リーダーがそんなことでいいのかときついことばをぶつけたりもした。傍には愛の鞭に見えるように。本質は低俗な八つ当たりにすぎなかったが。
 不幸な出会いがもたらした、ルーファス・マクドールへの複雑な感情。それを短期間で払拭できるほどフリックは完成された大人ではない。
 ルーファスが解放軍を継ぎ、大勢の仲間が集りだしてからも後ろ向きの思いは消えなかった。
 赤月帝国が揺らいでいるいま、帝国五将軍のひとりテオ・マクドールの息子という肩書きは通用しない。それでも歴史をひっくり返せるつもりなら、やってみるがいい。
 オデッサ・シルバーバーグが、解放運動を興した仲間たちが、どれほど悲壮な覚悟で巨大な帝国に戦いを挑んでいたか。なんの苦労も与えられずぬるま湯につかりながら育ってきたお坊ちゃんに理解できるはずがあるまい。
 生まれたときから将来を約束され、ちやほやされることには慣らされているのだろう。その証拠にビクトールのような唯我独尊の男や、気むずかしいマッシュ軍師に対しても臆することなく、対等に渡りあっている。
 賢くて社交術に長けているのは、英才教育を受けてきた身分であれば当然のこと。
 されど所詮は子どもである。いずれ必ずボロをだす。
 幼稚な失態のひとつも露呈しようものなら、解放軍リーダーの名はすぐにでも無期限お預けにしてやろうとフリックは狙っていた。
 マッシュの力添えももちろん大きかったろうが、ルーファスは的確な指揮と惜しみなく発揮されるカリスマ性で解放戦争をここまで率いてきた。その事実は賞賛に値する。
 自分も敬意をはらう意志はある。だがそれは信頼とはまた次元のちがう話だ。
 オデッサが今際のきわ、ルーファスに託した遺志は尊重せねばなるまい。死の恐怖と絶望的な痛みにさらされても、彼女は高潔でありつづけた。
 感情よりも解放運動を優先させようとしたオデッサと、自分は幾度となく衝突した。
 オデッサはいつも頑として、理想を貫いた。
 あまりにも哀しい過去を背負っているにもかかわらずそれを人にはけして見せず、みなが寝静まったあとで独り声を殺して泣くのだ。そういう女性だった。
 虚勢を張った、はかなげな身体を壊れるほど抱きしめたかった。
 切ないほど愛しかった。
 だがオデッサは、解放軍のリーダーのまま、逝った。
 最後の最期まで解放運動の未来を信じ、彼女はかつての恋人アキレスのもとへ旅立った。
 自分はオデッサのためになにができたのだろう。震える肩に触れることすらかなわず、ただ背後から見ていただけではないか。
 オデッサは次のリーダーに親愛なるフリックではなく、一少年にすぎないルーファス・マクドールを選んだ。
 自分が軍を率いる器でないことは、じゅうぶん承知している。だからといって、年齢も経歴もはるかに見劣りのするルーファスを認めるのは率直にいって悔しすぎた。
 やりきれない思い。行き場のない焦燥。
 苛だった気分のまま床につくと、オデッサが夢枕に立ち、困ったようにほほえみつぶやく。
 ほんとうに成長しないのね、フリック。
 怒った声ではない。だがそれは、恋人に向けるいたわりでもなかった。
 去かないでくれ。独りにしないでくれ。そう叫びたくても声がでない。
 ひとつところで足踏みしている自分と、戦いを経て大きく成長していくルーファス。その隔たりは日に日に決定的なものとなっていく。
 認めてなどやってたまるか。
 この戦いに勝利したら、ルーファスはまた安定した地位を取り戻すのだろう。うまくいけば、英雄という称号もついてくるかもしれない。すべて思いどおりではないか。
 坊ちゃんと呼び慕う人々はみな心優しかろう。何不自由ない暮らしはきみを笑顔にさせるだろう。
 多くの血を犠牲にして、偽りの平和をトランの大地と英雄ルーファス・マクドールに。
 愚痴のようにそう吐きだしたあの夜は、少しばかり酒がはいっていた。吸血鬼ネクロードの城を陥とす景気づけという名目だったが、単なる晩酌の延長でもあった。
 腐れ縁のビクトールはいつにないまじめくさった顔をして、そいつはすこし違うなフリック、と言った。
「どこがどうちがうってんだ」
 くだを巻くほどに酔ってはいないつもりだったが、グラスを置く手が少しぶれて中身をテーブルにぶちまけてしまった。気の利くマリーが手早く始末し、咎めもせずにおかわりをついでくれる。
「あたしも、この熊さんに賛成。あの子はああ見えても、独りぼっちで我慢してるのよ」
 意味深なことばを残し、豊満な巨体をゆっさゆっさと揺らしながらマリーはカウンターに戻っていった。
「我慢? へん、最高待遇のくせに我慢してやってますってか」
 さすがにその発言は大人げなかったかもしれない。ビクトールは「おいおい」と呆れたように笑った。
 フリックは顔を赤らめて口をとんがらせた。
「ちっ、みんな子どもには甘甘なんだから。そりゃ親父さんや付き人があんなことになって気の毒だとは思うぜ。けどよ、いやならいつ辞めたってかまわないんじゃないのか? だれも怒りゃしないのに。そういう意地の張りかたが、どーも鼻につくんだよな」
「ああ、おれだってあいつの事情をちゃんと知る前はそう思ってたぜ」
 フリックの眉がぴくりと怪訝そうに動いた。
「ああ? なんだおまえ、クロン寺にこもって悩み相談でもしたってか」
「相談、か。まあ、寺経由で悟ったっちゅーことになるのかね……」
 ビクトールはカナカン製のボトルから琥珀色の液体を手酌でなみなみとついだ。明日は宿敵を倒しに赴くというのに、すでに深酒気味である。
「なんかおかしいぞ、おまえ」
 ビクトールは応えず、無言でグラスを傾けた。熊らしくない意味深な沈黙に耐えきれず、フリックは二度ほど咳払いをして先をうながした。
「あいつ……ルーファスにもな」
 ようやく口をひらく。歯切れはひどく悪く、ことばを慎重に選んでいるといった感じだった。
「あいつだけで抱えこんでる、戦う理由ってのがあるンだよ。そいつはなぁ、ちいとばかり難しくて、だれもたすけてやることはできねえ。あいつが自分でやらなきゃいけねえんだ。だからあいつはたった独りで、歯を食いしばってやがんのさ。じゃなけりゃ、グレミオが喰われちまったり、親父さんを手にかけた時点で、とっくにこっちのほうがイッちまってるぜ……」
 ビクトールはこめかみをトンと人差し指で突いた。
 フリックはなぜかいらついた。もっとわかりやすく説明してほしい。ビクトールも女将も、自分の知らないなにかを知っていて、なおかつ口を閉ざしている。
 それをルーファスが自分自身で告白しようと決心するまでは、黙っていなくてはいけないとでもいうのだろうか。
 いつもフリックを苛んできた疎外感が、またも濃い霧のように襲ってきた。
 みなから愛され慕われているルーファス・マクドールも孤独という霧の闇にいる。
 いい気味だ、と嘲笑った自分をフリックは軽蔑したくなった。
 その夜の酒はひどくまずく、あおってもあおっても心地よい酔いは回らなかった。
 その後ネクロード討伐と悪酔い克服にに成功したビクトールは、故郷の村に報告に帰ると言い残し戦列を離れていった。ルーファスの秘めごとがビクトールの口から語られることはついになく、フリックは心の準備もととのわないままに、ふいにその真実に遭遇してしまったのだ。
 ルーファスが戦うほんとうの理由。
 それは壮絶といってあまりあった。

 処刑台でオデッサとアキレスが永久の誓いを交わした日のように。
 死が分かったルーファスとテッドを蒼い月の光が祝福していた。
 己の腕のなかで息を引き取った親友を、ルーファスはほんの短いあいだ抱きしめて、静かに大地に横たえた。
 連れ帰りたいのひとこともなく、涙のひと粒もこちらには見せなかった。彼は黙って、ただ右手をそっと胸にあてただけだった。
 ソウルイーターという絆の残酷さ。
 喪われた少年こそが、ルーファスの戦う真の理由だったことに、フリックは気づいた。
 圧倒的な孤独に耐え、ルーファス・マクドールが歩んできた修羅の道。
 それは親友の死にも途絶えることはなく、はるか先へと続いているかに見えた。
 仲間に向けるあどけない笑顔も、労せず手にした幾つかの肩書きも、すぐに目につくわかりやすいものはすべてつらい心を隠す覆いだったのだ。
 オデッサは、とうに気づいていたのかもしれない。
 逝ってしまった恋人と、解放軍リーダーの少年はよく似ていた。
 ルーファスとオデッサがひとつにかさなっていく。
 己の手を血で汚すことによってこの世からすべての悲しみを消し去ろうとしたふたつの修羅。
 人とともにあり、星とともにあり、光とともにある。
 けれど孤独な魂。
 ふたりの嗚咽を聞いているのは、空の彼方にいるアキレスと、テッドだけなのだ。
 ――せめてあの子の往くところに救いがあるように。
 フリックはそのときはじめて、ルーファスのために祈りを捧げた。


2006-04-27