いつもありがとうございます。
30000カウント達成記念にSSを書き下ろしました。
お気に召しましたら自由にお持ち帰りください(死にネタでよろしければ・汗)。
4主はノエル、坊ちゃんはルーファスです。
蒼い翼のアホウドリ
「アホウドリってさ、なんでアホウドリっていうんだろ」
ほら来た。そろそろ来る時合いだと思った。なんと期待を裏切らない男か。
自分の世界に没頭しはじめると、いまある現状も、過去の失態も未来の憂いもきれいさっぱり忘却するのだろう。
テッドは苦笑いがもれそうになるのを噛み殺した。
楽観主義の権化。それは時として、大きな強みにもなる。現実逃避にはちがいないけれど、ピリピリとした空気を和ませる、あるいは弛緩させるのに一役買うのである。呼吸する生き物にとっての、酸素のようなものだ。烏合の衆にありがちな悲観的思考を、あっというまにくつがえしてしまう。
それこそがノエルがノエルたる証。人々が少年を軍のリーダーとして認めた理由。
ふだんの彼は、けして多くを語らない。いっそ寡黙といってもよい。
傍目にはぼーっとしているようにも見える。だがそういうときに限って頭の中ではなにかが一生懸命に回転しているのだ。だれかが話しかけても上の空ということだってよくある。
そのつかみどころのない態度とほどよく洗練された見かけから、軍内部では勝手に理想化されあがめ奉られ、複数の親衛隊がしのぎを削っているらしい。『神秘的な蒼い瞳のリーダー』は裏を返せば、ただ単にマイペースな思考回路を手放さないだけの話なのだが。
「まんじゅうにはぜったいにイーストじゃなくて天然酵母。ね、テッドもそう思うだろ。この味のちがいがさあ、ケヴィンの店とよそとの差なんだよね。で、さ、ぼく思ったんだけど、マオさんととナオさんならもっとすごいのを培養させるんじゃないかなあ」
「さっき巨大ガニの甲羅を甲板で干してたんだ。なんに使うんだろ。ってゆーか、あれにお湯を張ったら露天風呂って感じするよね、ね? やってみたくない、テッド」
「のろい人形ってさあ、みんなまめに拾ってくるけど、ジッサイ不吉だよな。あれってやっぱ船内持ち込み禁止にするべき? ナボコフさんも底値で買い取って、こっそり海に捨ててくれればいいのにね。軍の予算から補填するの、セツさん了承すると思う?」
「またたきの手鏡で帰ってきたときいきなり通路ってのはちょっとそっけなくない? あれでけっこうがっかりするんだ。ビッキーがお迎え係してくれてるけど、マンネリって気もするし……そう思うの、ぼくだけかなあ」
おまえだけだ。振られるたびにテッドは内心でつっこむ。
なぜならばそれらの提案は、危険な任務に赴く緊張した雰囲気のなかとか、殺人エイのまき散らした粘性の高い血液をやけくそでぞうきんがけしているときとか、いままさに敵艦隊がまっすぐこちらに向かっているときとか、そういう非常識な時間帯に至極のんびりと投げかけられたからだ。
ノエルの空想癖が一筋縄ではいかないのは、時と場所をまったく選ばないことである。
こんなことがあった。ナ・ナル島で身柄拘束されて牢屋にぶちこまれたときである。神妙なようすで黙りこくっていたノエルがおもむろに顔をあげ、これ以上ないほどまじめくさった顔でテッドに訊いた。
「ねえ、テッドはどのアンがすき」
「……へ? な、なに」
「まんじゅうだよ。まんじゅうの、餡」
事態を収束に向ける算段を熟考しているかと思いきや。
じつは脳内まんじゅう一色。
いまが非常事態との認識もまんじゅうの皮に包まれて蒸されたのではなかろうか。
あのときはさすがのテッドも頭を掻きむしった。
そんなこんなで常人とはいろいろとズレているノエルだが、そこが彼らしいといえばそれまでで、リーダーとしての資質に問題があるわけではない。むしろできすぎの優等生よりは好ましい感じがするのだから不思議なものだ。
「アホウドリに失礼だよなあ」
テッドが即答しないので、ひとりで考えることに決めたようである。
ノエルはじめじめとした壁に背をついて体育座りをし、顎を両手で支えていた。膝小僧が健康的でうらやましい。服の上からではわかりにくいが、あんがい筋肉質だ。
壁といってもここは地下坑道なので、土や岩が剥きだしである。もちろん陽の差しこむ明かり取りもなく、分岐ごとに配置された照明も心許ないかぎりで、ほとんど役にはたたなかった。
湿った苔の匂いと不気味な静寂と、ぽたりぽたりと垂れる水音が不安をいっそう増大させる。坑道は複雑怪奇に分岐しており、しかも危険な魔物の巣窟だった。ミドルポートの住人の忠告は大げさではなかったのである。
途中までは確実にいっしょだったシグルドとハーヴェイも、気づいたときにはすでに視界にはいなかった。どこかの分岐ではぐれたにちがいない。大声で名を呼んでみたが、わんわんと反響するだけで応答はない。
途方に暮れるしかなかった。右も左もすでにわかっていない。戦闘を繰り返すうちに来た方角すらもさだかでなくなった。
有り体に申しあげて、迷子。
片方は実質年齢が子どもではないから、微妙に語弊はあるが。
それにしてもこれほど奥が深いとわかっていたら、もう少し慎重に進んだものを。
もうすでにかなりの戦闘をこなしている。疲労もさることながら、ノエルの双剣もテッドの弓矢も刃先が鈍くなってきた。紋章魔法はここいちばんのために温存しておきたい。
だがこれしきのことは苦難とも思わぬ両者であった。
焦りはよけいに体力を消耗する。
幸い、灯りの周囲は魔物も厭うのか、遠巻きに囲むだけで襲ってはこないようだった。狭いながらもありがたき安全地帯である。
ふたりはめいめいに座りこんで、手足をのばした。
それからしばらくして前触れもなく発せられたノエルのつぶやきが、すなわち冒頭のセリフである。
正直なところ、もっとほかに優先すべきことがあるとテッドも思う。
海も望めぬこの状況でなぜいきなりアホウドリ。
脈絡がない。いや、なさすぎ。
ノエルのパートナーはきちんとその性格を把握していないとやっていけない。
最悪の場合、「アホウドリはおまえだ」と血管キレるはめになる。
だがテッドの血管は一般人とくらべて図太かったし、こういう突拍子もない問いかけも日常茶飯事で慣れていた。すなわち、パートナーとしては適任だったのだ。
いつもであれば完全無視をしてもどうということはない。ノエルもそれで気を悪くはしない。会話のスタイルに似せた、独り言のようなものだからだ。
しかし、本日のテッドは多少気まぐれであった。
第三者不在という状況も、そうさせた要因かもしれない。
たっぷり一分は経ってから、テッドはだるそうに口をひらいた。
「ほんとうにアホウだからだよ」
「へえ?」
思いがけない相手の反応にノエルは背を壁から離して、身を乗り出してきた。
好奇心たっぷりですというわかりやすい顔をしている。
テッドはなんとなく吹きだしそうになったが、平常心を装った。解説は、あくまでもクールに。
「アホウドリは、ほかの鳥たちがうっかり落っことした魚を捕って食べてたんだ。あいつら、魚は天から降ってくるものと勝手に思いこんでいた。だからいつも空に向けて口開けて、アホウのようにエサの落ちてくるのを待ってたのさ。それで、アホウドリ」
ノエルは感心して手を叩いた。
「すごいや、テッド、博識」
「……ってのはあくまでも言い伝えで」
博識なのは年の功。照れ隠しも兼ねて、ぷいっとそっぽを向く。
目はあわせないけれど、いちおうつけ加えてみる。
「当のアホウドリにしてみれば失礼極まりないネーミングにはちがいない」
ノエルはケラケラと笑った。テッドの解答に満足したようだ。
へえ、とテッドは思った。
こいつ、そういう一面もちゃんと持っているんだ。
ノエルは人前では滅多に声をあげて笑わない。どちらかというと、他人の笑う顔をしあわせそうに眺めているタイプなのだ。理由はわからないが、抑圧されてきたこれまでの人生の名残りもあるのだろう。
ノエルは不幸な生い立ちをけして感じさせない。いつも人より一歩退いてはいるが、ひねくれていない真っ直ぐな性格は誰からも愛される。暴言を叩きつけて去っていった、かつては主従関係にあったらしいスノウ・フィンガーフートもそうだった。
領主の息子と小間使いの関係であったにしろ、幼いころからいつもいっしょだったふたり。ノエルをほんとうに好きだったからこそ、憎しみは修復できないところまで膨らんでしまったのだ。
負の連鎖は、いつの世でも虚しい。
両者の訣別を無表情で傍観しながら、テッドはそっと己が右手を握りしめた。
真の紋章を継承したことで、歯を食いしばって痛みに耐え。
どんなに傷つこうと、それでも前に進むことをやめない。
愚か、哀れ、滑稽。なにをそんなに必死で守ろうとする。
進んだからといって救われるわけでもあるまいに。
百五十年もそうしてきた自分でさえも迷うのだ。
なのに昨日今日それを宿したばかりのノエルは、迷走していない。きちんと進むべき道が見えている。地にしっかりと足をつけ、闇に向かい次の一歩を踏み出す。
なんと潔く、勇気のある少年だろう。
罰の紋章という、特異な性質を持つ悪魔に魅入られたゆえの諦めだろうか。
生と死を司る紋章の宿主たるテッドには、とうてい理解できる心境ではない。
もしこれが逆の立場だとしたら、自分はおそらく正気ではいられまい。
どうしてそれほどまでに屈託なく、笑える?
ひとつしかない己が命を、贄として運命に差しだせる?
あした塵と化すかもしれない。愛する者に、呪いを継承してしまうかもしれない。
そんな葛藤はみじんも見せずに、ノエルは。
「でもさ、アホウドリはさ、しあわせなんだよね」
テッドの胸がはねあがった。
「えっ」
「だっておいしいものが天から降ってくるんだもの。わくわくして、愉しみに空を見あげてるにちがいないよ。アホウって後ろ指さすほうが、まちがってる。そういう人間たちも神様からどんだけアホウ呼ばわりされてるかわかんないのにさあ。
あ、ひょっとして、ニンゲンって名前が、アホウの代名詞だったりして。ぷっ」
テッドはぽかんとして、ノエルをまじまじと見つめた。
「あーあ、ぼくんとこにもまんじゅうが際限なく降ってこないかなあ!」
見えないまんじゅうに向かって、あーんをする。
みごとなまでのアホヅラだった。
これだ。
自分とノエルが、決定的にちがうところ。
生きているのが愉しいか、愉しくないか。
いま笑えるか、
笑えないか。
しあわせな阿呆か――そうでない屍か。
急に合点がいったと思ったら、肩の力がスッと抜けた。
「くっ……っは、はっ、はっはははは!」
声をあげて爆笑するなんて何年ぶりだろう。
照れくささなどみごとに吹き飛んでいた。
ああ、なんと痛快なのか。
こんな心地よいことをすっかり忘れていたなんて。
テッドは地面を手のひらで叩いて笑いころげた。
こんどはノエルが呆気にとられる番で、「テッドって、そういう人だったんだ」と嬉しそうにつぶやいた。
ノエルの短い人生の終わり。
その一部始終を、テッドは褐色の瞳に焼きつけた。
崩壊するエルイール要塞から放たれた破壊の閃光を、罰の紋章が押し戻す。
ふたつの禍々しい力は激しくせめぎあい、すべてを圧倒し、喰らいつくすかのように膨らんでいった。
悲鳴と怒号。救いを求める声、声、声。腰を抜かして甲板に伏せる人々。
だがテッドの瞳はノエルから一瞬たりとも離れなかった。
まばたきすらも忘れたかのように。
目を反らすな。しっかり見るんだ。
これが真の紋章を宿す者の末路だ。よく憶えておけ。けして忘れるな。
右手のソウルイーターがチリチリと焦げつくのがわかった。
気づいたか。そう、ここには何百という魂が用意されている。要塞の人間も含めたらその数倍は確保できるだろう。けどな、そいつをひとつたりとも喰らってみろ。
二度とおまえを守ってやらないからな。
牽制のつもりでかたく握りしめる。
手のひらがじっとりといやな汗で湿っていくのがわかった。
光はノエルを中心に据えて極限まで膨張し、裂けるかと思った瞬間、急激に形を失って霧散した。
まるで水を張った巨大な風船がはじけたかのようだった。
触発されたソウルイーターが暴走を開始するわずかに前のことだった。
残光が網膜でチカチカし、足元がふらつく。
ノエルの身体がぐらりと傾ぎ、嘘のようにゆっくりと倒れていった。
蒼い瞳はすでに閉じられていた。
仲間を守ろうとして、すべての力を解放してしまったのだろう。
なんのためらいもなく。
こんどこそ死をもって贖わなくてはならないことは、わかっていたはずだ。
死にたくないとあがいても、許されただろうに。
なのに。
ノエルは静かに横たわった。
安堵して眠っているようにも見えた。
罰の紋章は、人から人に寄生するときに元の宿主の身体を塵にしてしまうという。
しかしノエルは、いつまで待っても、ノエルのままだった。
テッドはその理由を瞬時に理解した。
罰の紋章は、次なる継承者を求めていない。
そしてテッドの右手の紋章も鎮まり、瞑目していた。
ソウルイーターは、ノエルの魂を求めていない。
真の紋章は時として、自分自身を封印することもあるという。ほんとうかどうかはテッドにはわからない。しかし、ノエルが最期にそれを望み、罰の紋章が受けいれたことは確信できるような気がした。
静寂ののち。
リノ・エン・クルデスが絶叫した。
耳を塞ぎたくなるような、悲痛な叫びであった。
それをきっかけにして、哀しみのタガがつぎつぎとはずれていった。
宿星たちがまたたきはじめる。無数の流れ星は墜ちた天魁星を送る涙。やがて、号泣が全天を埋め尽くす。
葬送の波は重なり、相乗し、うねり、灰色の海を揺らした。
「ノエル」
テッドの、その名を呼ぶ声は、波にあっけなくかき消された。
ノエルはまんじゅうの夢でも見ているのか、しあわせそうに、ほほえんでいるようだった。
そして、二度と目をあけることはなかった。
「ちわーっス! ルーファス、みやげ買ってきたぞ、みやげ」
ほかほかと湯気のたつ紙袋をかかえて、テッドは二階の窓に手を振った。
瀟洒な窓からぴょこんと顔を出し、「いまいく!」と叫んだのはこの豪邸の坊ちゃん、ルーファス・マクドールである。
ちょうどお茶の支度をしていた下男のグレミオは大喜びで、蒸かしたてのまんじゅうを受け取った。
「やっぱ、まんじゅうはあつあつのうちがサイコーだよな!」
この家で主人の次に偉い坊ちゃんがまだ階段を駆け下りている最中なのに、居候はとっくのとうに待ちきれずむぐむぐと頬張っている。
「こらっ、お行儀の悪い。いただきますがきこえませんでしたよ。それに手は洗ったんですか。あああもう、いつもいってるでしょうに。手袋ははずしなさいってば。よく噛みなさい。ひとくち三十回」
果てしなきグレミオの小言は当然のように馬耳東風。ひとたび開始された咀嚼は急にはとまれない。しかもいちいち回数をかぞえながらとは正気の沙汰ではない。
「テッドって、おいしいもの食べてるときはほんとうにしあわせそうなんだから」
テーブルにつきながら、ルーファスは苦笑した。
食べることで苦労をした経験があるテッドを、ルーファスはきちんと理解している。
からかうのは、相手を信頼しているからだ。
それにつけても、テッドの食べっぷりは周囲の人間までほがらかな気分にさせる。それほど豪快だった。華奢な体格に似あわない大食らい。
ペカーッと後光が差してるんじゃないかと見紛うほどの笑顔。
テッドはマクドール邸にやってきた太陽そのものだった。
「ンー、だって、うまいモンは、うまい!」
あの船のまんじゅう屋にははるか遠く及ばないにしても。
ふっとよぎった昔の記憶が、脈絡のない質問を唇に乗せていた。
「なあ、ルー。アホウドリって、なんでアホウドリっていうか知ってるか」
ルーファスは漆黒の目をぱちくりさせて、不思議そうに訊ねた。
「アホウドリって……鳥?」
「え?」
ああ、そうか。
海から遠く離れたグレッグミンスターの人々は、海鳥であるアホウドリを知らないのだ。
「海の鳥だよ」
「へえ。どんな」
「そうだな……ミズナギドリっていう鳥の仲間で、けっこうでかい。こんくらい」
半分ほど欠けたまんじゅうを手に、身振り手振りをまじえて解説を試みる。
「不器用だから羽ばたくのが苦手で、自分で飛ぶのはヘタクソだけど、海を渡る風の力で、こういうふうにスーッとゆっくり滑空するんだ。羽の色は白、で……」
テッドはふと、言葉を句切った。
ルーファスの心をも幸せにしてしまいそうな、やさしい笑みをうかべる。
海から来て、海に還った少年が、生前そうしていたように。
「海の色を映して、蒼く輝くんだぜ」
テッドは少し誇らしげに、言った。
2006-07-23