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兎の眠り

 汗びっしょりで、何度めになるかわからない寝返りをうつ。
 背中がひやりとつめたい。もがいたせいで毛布を蹴っ飛ばしたのだろう。腰のあたりにわずかからまっているだけで、ほとんどがベッド下にずりおちている。
 へそを出して豪快に眠ってよい季節はまだだいぶ先。汗をかいたのは暑いからではなく、悪い夢を見たからだ。少し熱もあるのかもしれない。
 寝間着兼用の服はじっとりと湿っているのに、唇は乾ききっている。乾燥した空気のせいでのどがいがいがと痛む。寝苦しい理由のひとつはたぶん、低すぎるこの湿度だ。寝る前に水をガブ飲みすれば過剰に発汗するのもあたりまえである。
 人は睡眠時に深い眠りと浅い眠りを交互に繰り返すというけれど、テッドの場合はだいぶ一方に偏っていた。夜を通してぐっすり眠るということは、ほぼあり得ない。半覚醒の状態がだらだらと継続し、悪夢や外部刺激で頻繁に目が覚める。
 つねにつきまとって離れない恐怖が、無意識に休息を拒否するのだと思う。いまにはじまったことではないので、生活に支障はない。体内リズムのほうが習慣にあわせて働いてくれる。
 窓の外は明るい。太陽の傾きかたから見るに、夕方と呼ぶにはまだ少し早い時間だろう。食事は後回しでもいいから、もう少し眠っておきたいところだ。
 動き回るのは日没後だけという暗黙のルール。日中はできるだけ人目につかないところで身をひそめていなくてはならない。若年就労禁止を公約に掲げている市長のメンツのためだそうだ。フタさえしっかりとしていれば中身がどれだけ腐乱しようが大目に見てやるという内々のお触れである。
 働かなくては食ってはいけない。人の世話になるという選択肢はその次だ。金を稼げるのならそれに越したことはないし、切れるときの後腐れも少なくてすむ。
 なにしろテッドは外見がどう見積もっても十そこそこ。これのせいでなにかと苦労することが多いのだ。とうの昔に成人していると主張しても鼻先で笑い飛ばされるだけである。
 子どもでも働き手として認められる発展途上の国ならばまだよい。しかしいまいるこの地方はそうではない。暮らしが豊かで、子どもが働く必要などどこにもないのだ。年齢を基準に据えるのは見当違いだとテッドは思うが、すべての子どもに『働かなくても食っていける』と保証できるのであればそれもありかもしれない。
 この街では働き口のない子どもが飢えて、毎日のようにどこかでのたれ死んでいる。もちろん悲惨な実態は隠蔽されて、対外的にはいっさい報告されない。
 行き場を失った子どもを不法に就労させる闇組織は、市の福祉課よりもある意味、確実に庶民を救っていた。なにしろ体裁にこだわる必要がない。市長もそれを認めているからこそ、闇と光はいい具合にこの街に共存する。
 他人に無関心というのもテッドは気にいった。ここなら多少長めに居着こうが問題はないだろう。タダ同然で部屋を貸してくれるじいさんは明日お迎えが来てもおかしくないような老いぼれだし、お節介な住人にも会ったためしがない。どうせみなよからぬ傷を持つ者ばかりだ。階段ですれ違っても互いに顔を伏せて挨拶も交わさない。
 仕事はジョンという仲介屋に与えてもらう。内容はそのときどきで、一週間ほど続くときもあるし、日雇いのこともある。後ろめたい仕事はいつでもころがっている。いざとなれば選り好みもできるが、よっぽどのことがないかぎりテッドは断らない。だからジョンもテッドを信頼している。
 金はジョンが一括管理していて、テッドは週にいちど、定額の給料を受け取るだけだ。激務に就いた週でも、額は同じ。それでも文句をいう筋あいではない。ジョンの仲介がなければ、働くことすらも不可能だからである。
 後ろめたい仕事といっても法に抵触するというだけで、テッド自身を傷つけたり、非人道的な扱いをされるようなものではない。そういう仲介屋もなかにはいるけれど、ジョンは一線を引いているようだ。闇の世界にも良識というものがあるらしい。
 ジョンは最小限のことばを用いて簡潔に仕事を置いていくだけで、無駄口をいっさい叩かない。テッドの生活態度に干渉もしてこない。いっそ淡泊すぎるほどだ。もともと無口な男なのかもしれないが、仕事を探してないかと最初に声をかけてきたのはジョンのほうだ。
 今日も日暮れ時に立ち寄るはずである。気分がすぐれないので、できればらくな仕事を持ってきてくれるとありがたいのだが。客引きあたりだとひと晩じゅう寒空の下に立たなくてはいけないので、かなりきつい。もしそうだったらジョンがいつも着ている分厚い上着を拝借しよう。
 テッドはぶるっとふるえて毛布を頭からかぶった。おかしい、ぞくぞくと寒気がする。本格的に風邪をひいてしまったかもしれない。
 そういえば身体もいつになく気怠いし、身体のふるえとはうらはらに頭がだけがかっと熱い。
 舌打ちをする。紋章を持っているおかげで老いないのは結構だが、だったらもう一歩踏みこんで病気知らずの身体にしてほしかった。なのに人並みに熱はでるわ、腹はこわすわ、流行病をうつされるわ。
 ただでさえ体力に乏しい身体年齢なのだから、それなりの恩恵がないと割に合わないではないか。
 免疫がついたら少しは病気をしなくなるだろうか。いつになるかはさておき。
 シーツに頬を押しつけて背中を丸めたら、そのうちにまたうとうとしたらしい。
 冷たいがさがさとした手を額にあてられて、テッドははっと目を覚ました。
 まっ先に飛びこんできたのは、風采のあがらないひげ面。肉づきのよくない貧相な体躯は、まさしくジョンの特徴と一致した。酒も煙草もクスリもやらないくせに不健康な色をした、年齢不詳の推定四十路男。
 ジョンはここに来ると、必ずドアを叩いて確認する。意外と律儀で、返事があるまではけして中に入ってこない。
 合図に気づかないばかりか、侵入する気配すら見逃したとは。
 命取りになりかねない失態である。
 相手がジョンならばまだよい。これが悪意のある者だったら。
 テッドはぞくりとして、無意識に身体をこわばらせた。
 テッドが目を覚ましたのを確認すると、ジョンは屈めていた上半身を起こした。
「帰る」
 簡単にそれだけを告げて、ドアのほうを向いてしまった。
「仕事、きょうの」とテッドはあわてて呼び止めた。
「あした、またくる」
 大丈夫と主張する間も与えてくれない。ジョンはそのまま振り返りもせず部屋を出て行ってしまった。
 階段を下りる靴音が遠ざかる。
 テッドの胸がちくりと痛んだ。
 見捨てられたような気がした。
 ジョンはビジネスをしているのだから、使い物にならない駒は簡単に切りすてて当然。高熱を出している子どもを派遣してもしヘマでもしでかしたら、ジョンの威信にも関わるのだろう。
 けれども、あまりにもぶっきらぼうすぎた。予想外の展開に、テッドのほうがうろたえてしまったのだ。
 知らぬ仲ではないのだから、看病までは期待しないが、案ずることばのひとつくらい置いていってくれると思ったのに。
 わかっている。同情とビジネスは別物。ジョンはその原則を崩さないだけなのだと。
 唇を噛んだらほのかに塩辛い味がした。乾燥しすぎてひび割れ、血がにじんでいるのだ。
 水が飲みたいと強く思った。
 水差しは食事用の小机の上にある。なのに身体が動かない。
「みず……」
 絞りだした声はかれて、のどにひりついた。
 水が飲みたい。
 だれか。おねがい、だれか。ジョン。
 いない。
 だれも、いない。
 目尻からぽろりと涙がこぼれた。
 そういうことなのだ。テッドが去っても、この街はなにも変わらない。もしもこのまま看取られることもなく、ベッドで冷たくなったとしても。
 明日以降、縁起が悪いと眉をひそめる者はいても、悲しむ者などひとりもいるはずがない。唯一かかわりを持ったジョンですらも、例外ではなく。
 発熱のせいで張りつめていたものが揺らいだのだろう。慣れているはずの孤独感が急に耐え難くなって、テッドは幼い子どものように泣いた。
 押し潰されそうだ。
 同情してくれなくともかまわない。
 浅い眠りにおちるまでのほんの少しの時間でいいから、そばにいて。
「水、ジョン……みず、ほしい」
 いないとわかっているのに、テッドはその幻にすがりつづけた。


2007-02-07