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お買い物

「ありがとう! ぼうや、またご贔屓に」
 ドアに吊りさげられたベルが放牧牛のようなけたたましい音をたてるのと同時に、店主がカウンターの奥で手を振った。
 むこうに悪気はないのだけれど、子ども扱いされるのはきらいなので、にこりともせずに会釈だけ返す。むやみやたらと好印象をばらまくのは得策ではない。相手がどんなに人のいいおじさんでも、心を許すのは禁物である。
 接点はこの一度きり。馴染みの顔は少ないに越したことはない。だから一度利用した店にはできるだけ足を運ばないことにしている。
 どうせこの町にもひと月やそこらしか滞在しないのだから。
 テッドは少し高揚した気分で足を速めた。腕にはさっきの衣料品店で購入した大きな紙袋をかかえている。
 中身は新品の上着である。ちょっと贅沢かなとも思ったけれど、寒くなるこれからは必需品だと自分に言い聞かせた。懐に余裕があるときくらいちゃんとしたものを買っても損にはなるまい。
 いつもは衣類に金をかけることなど滅多にない。頭を使えば着るものくらい多方面から手に入る。そのかわり使用済みなのはあたりまえで、たまにひどいほころびもあったりする。
 実用に耐えさえすれば見た目に問題のあるなしはほとんど無頓着。要は体温が保持できればよいのだから、大人物でもよっぽどとんちんかんな服でなければかまわずに頂戴してきた。ほころびの修繕だってお手の物だ。
 新品を買ってみようだなんて、どういった風の吹き回しだろう。テッドは自分の行動がおかしくてくすっと笑った。
 きちんと働いてこつこつとためた金が、そこそこたまってはいた。後ろめたいところのまったくない、きれいな金である。自画自賛するわけではないが、こんななりだから、仕事をみつけるまではほんとうに苦労したのだ。
 努力をしたからこそのご褒美。テッドはうなずいて、そう考えることに決めた。
 貧乏旅行者相手に商売をしている木賃宿は治安のよくない一角にあって、路地を曲がるとテッドは紙袋をしっかりと抱きしめた。こんな、いかにも『買いました』というような荷物は集中的に狙われる。気をつけないとそこらじゅうにたむろしている窃盗団グループに取り囲まれて、金ごと巻きあげられてしまう。
 途中で紙袋から出して身につけておいたほうが安全だったかもしれない。にわかに後悔したが、足早に通りすぎるうちはなにごともなく、五分後には自室でほっと胸をなでおろすことができた。
 なにしろ、食べもの以外の買い物なんて記憶を手繰れないほど久しぶりのことである。しかも買ったものが服! テッドにとって、これぞ気恥ずかしさ最大レベルのお買い物なのであった。
 何日も前から頭の中でさんざんシミュレーションを繰り返し、鼻息も荒く出陣したはよいが店のドアを目前に敗退すること二回。巡回する憲兵が不審な目でこちらを見ているような気になり、悪いことをしていないのに心臓がばくばくと跳ねあがった。
 このたびめでたく、三度目の正直でようやく殴りこみに成功したというわけだ。
 応対してくれた店主とどういうやりとりをしたのかなんて、のぼせあがっていたためにみじんも憶えていない。ぬかりなく準備していったつもりのセリフもことごとく忘却して、逃げたいと焦ったのはたしかだけど、店のオヤジはそこを上手にフォローしてくれた。
 こういうのが流行ってるとかあっちのが暖かいとか、親身になってアドバイスしてくれる。店頭にあるだけでおしまいかと思ったら地下の倉庫にまだたんまりと在庫があって、いいというのにそっちまですべて引っぱりだしてくれる熱のいれよう。
 さすがプロ。完敗であった。
 いつのまにかテッドのほうが乗せられて、すすめられるがままにあれこれ袖を通してみる始末。
 しかし貧乏人としてまっ先に気になるのは値札。こういう状況は慣れていないから、やはりどれもこれもバカ高く感じてしまう。この一着を我慢したら腹いっぱいの飯が半月は食えると、天秤ばかりがぐらぐらと左右に傾いた。
 しかし、すでに買いませんと断れる雰囲気ではなかった。テッドは腹をくくって、財布の残高を頭から追い払った。
 上着一枚選ぶのに、いったいどれだけ試着しまくったのであろうか。店主はすっかりよろこんでしまって(ひまだったのだろう)、お茶はいれてくれるわウンチクは語りだすわ、どんどんヒートアップして、しまいには手がつけられないほどであった。
 市販の服もいいけれど大人になったら仕立屋とねんごろになりなさいと三度念を押されたあと、テッドはようやく解放してもらえた。
 目立たないように朝一番で行ったのにすでに昼を回っていた。
 千ポッチ札が一枚、二枚、三枚。
 羽が生えて飛んでいく。あばよ、おれの金。
 店主は代金がなけなしの生活費から捻出されているという切ない事実を知らない。
 兎にも角にも有意義で濃密なひとときではあった。紅潮しっぱなしの頬を冷やすために共同洗面所でざぶざぶと顔を洗ってから、ベッドに腰掛けた。
 いよいよご対面である。
 袋の口をばりばりとあける。
 真新しい匂いがした。
 手にとってひろげてみる。
 ぎくりとした。店で見たのと印象がぜんぜんちがう。
 あのときはのぼせあがっていたからわからなかったのだろうが、冷静に見ると、色があざやかすぎる。
 町の子はこういうのを好んで着ているけれど、身を隠すとなるとどうなのだろう。テッドは急に不安になってきた。選ぶのに夢中で、自分の立場を忘れていたような気がしたのだ。
 初夏の陽光に輝く湖の色。
 青くて、少しだけ緑が映えて、明るい。テッドの好きな色だ。
 ひまわりの黄色とか、夕焼けのオレンジ色とか、あざやかな色が昔から好きだった。
 なのに好きな色はみんな、自分には似合わない。
 どうして似合うだなんて思ってしまったのだろう。
 うきうきとしていた心がしゅんと萎んだ。テッドは上着をベッドに放り投げて、壁に背を預けた。
 なにを勘違いしていたのだろう。ひとりで盛りあがっていい気になって。
 ドブネズミならばそれらしく、身分相応にくすんだ色の古着で満足していればよいものを。
 結果として、必要のない荷物をひとつ増やしてしまっただけ。
 暗澹たる気持ちになった。どうしよう。あれだけ手を煩わせたのに、すぐに返品するのもしのびない。
 軽率だった。すべて自分の責任だ。さて、どう落とし前をつけるか。
 しばし悶々としたあとテッドは、彼にしては精いっぱい前向きな決断をした。
 問題なのは色だけである。もとの色がわからなくなるくらい汚しつくしたら、仕立て自体はしっかりしているので役にたつかもしれない、と。
 そうと決まったら。
 テッドははじかれたように立ちあがり、新しい上着に袖をとおした。作業着がわりにどんどん着てしまうが勝ち。最初のうちの違和感には目をつぶり、どんなに汚れても洗濯はしない。馴染むまでの辛抱である。
 今日は仕事も休みだし、気晴らしに散歩に出ることにする。パンと牛乳を買いに行くついでである。帰りがけに浮浪者のたまり場になっているあの公園にでも寄って、錆びついた滑り台で十回ほどすべってみるか。
 ひとりで部屋にこもっているとろくな考えを育まない。外に出てもべつにだれと話をするわけでもないけれど、深呼吸するだけでもらくになれる。
 汚水の臭いがたちこめる路地を小走りで駆けた。好奇の視線がこちらに向けられているような気がして、やっぱり居心地がよくない。
 その一角からできるだけ離れるために、行ったことのない隣町に足を向けた。ダウンタウンに接するだけあって低所得の市民が住む町だが、パン屋の一軒くらいはあるだろう。
 今日はきちんとした格好をしているので、怪しまれることもあるまい。
 はて、と首をひねった。なにを矛盾したことを言ってるんだ、おれは。
 怪しまれない格好、ねえ。
 木を隠すならば森の中。色を隠すならば豪華絢爛とした色彩の中に。
 世界は色彩に満ちている。自然の色すらも刻々と移りかわり、完全に同じ色は二度と見られない。
 空の碧、咲き乱れる花々の黄、燃えあがる夕陽のオレンジ。終わりの見えない旅のなかで、その色彩はどれほどテッドを慰めてきたことか。
 ”ぼうやの好きな色はなんだい?”
 ”青……かな”
 店主との会話がとつぜん脳裏にひるがえった。
 テッドははっとして足を完全にとめた。
 そうだった。いま後悔しながら渋々身につけているこの色。
 何百と選択肢のあるなかで、この色がいちばん好きだったから、決めたのだ。その色彩こそ、これからも未来永劫続く旅の友にふさわしいと思ったのだ。
 似合う似合わないは、しょせん他人から見た評価にすぎない。
 人の目を気にしすぎていたのは自分のほうだったのかもしれない。
「まっ、これもいっか」
 せっかく大枚をはたいて手に入れた相棒だしな。
 軽いし、発汗性もすぐれているし、保温も申し分ない。我ながらよい選択だった――ということにしておこう。
 人だって同じ。運命の出会いなどそうそうころがっているはずもなく、紆余曲折を経てようやくわかりあえるのだ。絆とは、本来そういうものだ。
 目的変更。
 テッドの足がまた歩みを開始した。
 今日は隣町に美味いパンを売る店を開拓しに行く。そしてあしたからは行動範囲をもうすこしひろげてみよう。
 買い物も、あんがい楽しいじゃないか。たまにはいいものだとテッドは今度こそ心から笑った。


2007-02-11