4テッド愛☆祭さん【後夜祭】へ投稿した作品「承け継がれるもの」(原文のまま)です。
4主の名前はラズロです。
身を隠し、そっと生きていたかった。環境が激変した直後なればなおさらに。
なのに雑音は幾重にもかさなりあってじょじょにボリュームを増し、守られるべき不可侵領域まで土足で侵入してくるのだった。昼も夜もおかまいなしに、それはただでさえ傷みやすいテッドの心情を千々にかき乱した。
耳をふさいでも、目をしっかりと瞑っても、皮膚でぜんぶ感じてしまう。
好奇心、嫌悪、同情、憐憫、嘲笑、懸念、不快感。
ざわざわざわ。
うるさい。うるさい。うるさい。
悪循環はひとたび勢いづくと、堰きとめることが困難になる。マイナス感情の増幅装置となっているのが受容体である自分自身であることを自覚して、テッドは暗澹とした。
どこかで踏ん張らないとこのままではいつか自滅する。
冷静を強いてはみるのだが、ほんのちょっとしたことがとてつもなく気に障ってしかたがない。はたして以前からこんなに神経質だっただろうか。それとも挫折を経たせいで、内面が変わってしまったのか。
集団生活が性にあわないことなどはじめから承知の上だから、たぶん自分はもう少し器用にコントロールできるつもりでいたのだろう。自信過剰とまではいかないにせよ、烏合の衆にすぎない軍隊をなめてかかったと非難されても言い返せない。あんのじょう蓋を開ければこちらの一方的敗北。利口な策が聞いて呆れる。
なにも特別難しい試練ではなかったはずだ。それを証拠に、はじめのころはただ無視をしているだけで万事うまくいった。ふつうの神経の持ち主ならば、迷惑顔に徹してみせればたいがい退いていくのだから。こいつはこういう奴なんだと印象づけるだけでじゅうぶんだった。だれだって不快な思いをしてまで他人と関わりたくなどない。
しかし、漫然と過ごしているうちに風向きはだんだんとおかしくなってきて。
そこだけ切り離されたように凪いでいた周囲にぱしゃぱしゃと白波がたつようになって。
南海の低気圧のように気まぐれで、複雑怪奇な空気の流れ。それがテッドにとってはいわゆる、『誤算』であった。
慣れた観天望気が海の上でも通用すると思いこんだのが浅はかというもの。だれの責任でもない。読みまちがえた自分が未熟なのだ。
いま思うと片手の指では足りないほどの落とし穴が口をあけて待つかたわらで、なにを暢気にぬるま湯にひたっていたのだろう。
仲間内に約一名、頭のおかしなやつがいた。それは誤算。
チームに属することの意味を深く考慮せずに承認した。安易な契約。
軍隊なのだから連携協力は半ば強制であるという現実があった。これもまた、少し考えれば気づくこと。
戦争という非常時に同じ釜の飯を食う。一蓮托生という、至極ありがた迷惑な思想。そんなものは誤算でもなんでもない。思い至らなかった自分が馬鹿なだけ。
あげていったらきりがない。
単なる失敗であればとりあえず反省ですますことができる。しかしきわめて閉口したのがかの青年の存在であった。
弓使いアルド。
こればかりは誤算も誤算、大誤算というやつである。
真っ向から拒絶してもつきまとうことをやめない。いくら鈍感な人間でもそこまであからさまに煙たがられたらさすがにわかるだろうに、どんなにひどい態度をとってやっても、めげる素振りはまったくなし。それどころか干渉はエスカレートする一方で、最近では船底にあるテッドの自室まで常時見張られている始末だった。
不自然な関係は周囲の好奇心を煽ってしまう。ただでさえ船は閉鎖空間。暇を持て余している者も多い。噂などあっというまに尾びれつきで広まる。できるだけ印象を残さないようにひかえめにふるまっていたのに、彼との一件で不本意にもテッドは問題行動を起こす要注意人物としてマークされ、非難の標的となってしまった。
笑顔のさわやかな好青年と、なにを考えているのかもわからない薄気味悪いひきこもりのガキ。観客がどちらの味方につくかは火を見るよりも明らかである。
険悪に拍車をかけているのはアルドのほうだ。それなのにこちらが一方的に悪者にされる。さすがにこれはおもしろくない。
予想どおり、事情もろくに知らないお節介どもがこぞって忠告をしにやってきた。親切心からと念を押されても、感謝する気もおこらない。いい加減にしてくれと叫びたいのをじっと我慢する。
そんなことがつもりつもって苛だちの原因となっていたのだ。
うるさい。うるさい。おれに構うな。
いつか自滅、というレベルはとうに過ぎている。いままさに発狂寸前という危機感がわんわんと鼓膜を鳴らす。
このごろは他人と顔をあわせるのも面倒だった。食堂に足を運ぶことすら極力減らし、命令がないかぎり自室から一歩も外に出ないようにした。なので食事もどんどんいいかげんになっていった。
不老といえども生きているのだからしっかり腹は減る。けれどもたくさんのテーブルが並んだ場所に出向き、飛び交う談笑を間近にしただけで精神がやめてくれと懇願するのだ。
周囲がみな自分の陰口をたたいているのではないかという妄想が正常な呼吸をかき乱す。息苦しさ、めまい、嘔吐感。船だから足元が揺れているのか、それとも自分の足が支えきれていないのか、そんなこともわからない。
自室で食べられるものをと饅頭などを手早く買いもとめ、あとは逃げるようにして階段をころがり下りた。部屋にとびこんでも動悸や手のふるえがおさまらない。胃がむかむかして、せっかくのあたたかい饅頭もすっかり冷めてしまうまで口をつけることができなかった。
やばい。いよいよ病気だろうか。
あまりの痴態に嘲いがこみあげる。永年つきあった我が身をも見放したいとはまさにこのこと。
機能一辺倒のベッドと没個性なテーブルがひとつづつあるだけの部屋。窓もない狭い空間だが、ようやく確保した巣だ。群島諸国、いや、オベル国王に荷担するからには、なんとしてでも死守したい。よっぽどのことがないかぎり他人はこの中にまではいってこられない。物理的距離が気休めでも、最悪の結果を遅らせるためにはこうするよりほかないのだ。
テッドはふと可笑しくなり、顔をゆがめた。
自分の行為はとんでもなく矛盾している。
群島諸国統一に賛同して協力したいのか。
それとも破滅させたいのか。
あるいは、戦乱などたまたまあるべき場所に付随していただけか。
固いベッドに腰掛け、背中を丸めて膝をかかえこむ。
身にしみついた貧相な癖のようなもの。たまに猫背を指摘されてからかわれるのもそのせいだ。暗い路地裏ではいつもこうして手足を縮めていた。
そうすることで他者に気づかれずにすむし、雨雪も避けられるからだ。長い夜はそうやってひたすら耐えた。咎められぬことを祈りながら気配を殺し、始終びくびくして野良犬のように耳をそばだてた。ぐっすり眠った夜など、おそらくは一度もない。
そう、まさに野良犬。傷つけられることを恐れるあまり極度の人間不信になった、臆病な犬ころ。いや、ほんものの犬のほうがまだ何倍か崇高のような気がする。
アルドの執着も、ほんとうはわからなくもないのだ。だれだってこんな情けない人間をまのあたりにしたら、自分がなんとかしてやらねばと思うだろう。
いくら態度で拒絶しても結局は糠に釘。本来ならば自分から立ち去るべき場面のはずである。それができぬのならばせめて、本意でなくとも青年の握手を受け、表向きだけでも収めるのが筋ではなかろうか。
なのに未だどっちつかず。きっぱりと決断できない自分が腹立たしくてしかたがない。
軍主に手紙で抗議したことにしても、結局はただの愚痴に終始している。多忙な軍主に都合のよい采配を期待するなんて、お門違いもはなはだしい。軍主も二人の軋轢には傍観姿勢を貫く気のようだから、この件で自ら動くようなことはよもやないだろう。そもそも何を考えて抗議などと利にならない真似をしたのであろうか。以前の自分だったら、まずあり得なかった愚行だ。
子どもじみた被害者意識がぬぐえない。なぜこれほどまでにいらいらするのだろう。自分で逃げ道を断っておきながら、溺れた責任をどこかになすりつけようと必死になる。自業自得を認めたがらない。
こんな最低の人間に落ちぶれた、その失態のはじまりはどこだ。
前回の選択肢ではすでに失敗していた。
手を貸す気はないとひとこと告げ、船を下りていれば少なくともこんな展開にはならなかった。
なにに絆(ほだ)された?
どうして血迷った?
自問自答しても明瞭なこたえは得られない。それを認めることを、ほかならぬ自分の心が拒絶する。
クズめ。
もはや自嘲するしか、憤りの向けどころがなかった。
なんのために人より多くの時間を生かされてきたのか。いままでの経験はいったいなんだったのか。
たった一度の裏切りでふりだしに戻ったとは思わないけれど、学習してきた多くのことが失われ、なおかつペナルティが科されてしまったことをテッドはぼんやりと認識した。
ここに来て、大浴場にあった姿見に自分を映したときの戦慄。
あまりの恐怖に、しばらくのあいだ身動きすらかなわなかった。
鏡に映ったのはかりそめの時にゆがめられた醜悪な躰。そこにいたのは見慣れたいつものテッドではなかったのだ。
サイズがあわなかったはずのぶかぶかの上着は妙になじんで、長すぎるとまくりあげていた袖口から素肌がのぞいて見えた。驚きに見開いた眼は馴染みの色だったけれど、それを乗せた顔は記憶にある自分よりも中途半端に大人びていた。たぶん背丈も、こんなに高くはなかったと思う。
無意識にもれだしたうめき声が、絶望を決定的にさせた。それは本来そうであるべき音階よりもずっと低くて、まるで他人が発したようだった。
白日の下にさらされた自分は、なにもかもが以前とは異なっていた。ほんの数瞬、まどろみにひたっていただけなのに。
衝撃を受けとめきれず、ぐらりと膝が崩れた。
力なく床にへたりこむ。
なんだ、これは。
ナンダコレハ。
その背後に『彼』がひっそりと立った。
これは、罰という名の紋章です。彼は左手をなぜか愛おしげに包みこみながら静かにささやいた。
償いと許しをつかさどるものだそうです。罪を償い、許しを得るために与えられるものが、罰です。罰は残酷ですが、罪深い人間のために、けしてこの世界から失われてはならないものです。
きみのその紋章も、人にとっては残酷なのかもしれません。けれど、ぼくのこれと同じです。けして失われてはならない。あの女性(ひと)が、そう言っていました。
罰。成程ね。
つまりおまえがおれをここに導いたというわけだ。贖いきれぬ罪を這いつくばってでも償わせようってな。そう言いかけて、テッドはやめた。自分を見る彼の目が、ひどくつらそうだったからだ。
逃れることなど簡単だよ。もういちど裏切ればいい。何度でも裏切ればいい。そのかわり許しの刻は永遠に、きみのもとへはおとずれないだろうけど。
蒼い瞳の少年はそう言いたげに、寂しく笑った。
自ら望んでもっとも重い罰を受けいれた少年。
許しの代償が死であることを悟りながら、両手をひろげてそれを受けいれた少年。
少年の名はラズロ。
海で拾われ、港町ラズリルで育てられた孤児だから、そう名づけられたのだという。
はたして彼が斯様なまでに重い罪を犯したのかは、テッドの知るところではない。
だが彼の強さのその理由を暴き、そして行く末を見届けたいと強く思った。
あのときたしかに、そう思ったのだ。
それがなんたる有様。ただ傍観していただけのくせに、当事者よりも先にリタイア予備軍か。誤算が生じたから、シッポを巻いて逃げたいだって。ろくでもない醜態。笑わせる。
それが『人より多くの時間を生かされてきた』いい大人のすることか。
あいつ。アルドのことが足枷となりはじめてから、歯車が狂いだした。
たかが純朴なだけの青年ひとりに、なにを翻弄されているのだろう。大局的視野に立てばそんなことは気に病むまでもない些末な日常なのに。
理想と現実が疲弊した精神をめぐって激しい奪いあいをはじめる。
ぎしぎしと軋み、不協和音を発し、安定をかき乱す。
ざわざわざわ。
足元が波に揺らぐ。
重力の方向がさだまらない。刻一刻と忙しなく変化する。
陸で生まれ育った者にとって、海というのは、なんと落ち着きのない場所なのだろう。
その日、チームは平常時の哨戒任務にあたることになっていた。テッドはいつものように独断で隊列を離れ、きわめて初歩的なミスを犯してしまった。
からっぽの胃を刺激するなんともいえないにおいが鼻腔をくすぐって、テッドは薄目をあけた。
高いところに折り重なる葉と、ストンと抜ける青空が見えた。鳥のさえずりが聞こえる。
はて、ひょっとしたらひょっとすると、天国だろうか。
こわばった上半身を起こしてみる。ふいに鋭い痛みが上腕に奔った。
「イタっ……!」
驚いて手をあてる。革手袋をとおして、グルグル巻きにされた包帯が触れた。
チェッ。まだ死んでねえ。
ゆっくりと記憶が戻ってくる。気晴らしも兼ねて歩き回るうちにうっかりモンスターの巣に近づき、威嚇された。単独行動の場合、それ以上刺激しないようすみやかに後退するのがセオリーだが、あいにくこちらも虫の居所が悪かった。
己を過信して猛攻を仕掛け、猛毒を含んだ触手で派手にはじき飛ばされたところまでは思いだせる。どうやらその先は気を失ってしまったらしい。喰われなくてよかった。
……マズそうに見えたのかな。
さて。となると、応急処置はだれがしてくれたことやら。
「まだ横になってていいよ、テッドくん」
いちばん聞きたくない声が視界の外から飛んできた。かの青年は携帯用の小鍋で調理をしている真っ最中だった。
あらためて見回すとそこは海を眼下に望む高台。はるか下方で暢気なかもめが旋回している。
ほかの人物のいる気配はなかった。チームのみんなはどうしたのだろうか。
さては、あきれて先に帰艦したとか。まあそのあたりが妥当な線だろう。
アルドは少し咎めるような声で言った。
「ちゃんとごはん食べていないんでしょう。顔におなかへったよーって書いてるもん」
「……ほかのやつらは」
「先に帰ってもらったよ。ぼくはテッドくんに食事をさせてから戻るっていっといた」
「なんでそんな余計なこと」 テッドは言って、顔をしかめた。
チームに迷惑をかけたことは事実だが、ならばこんなところで青空ランチを食わせようとせずに引きずって帰って、医務室に放り投げてくれればいいのに。それとも、連携を乱してばかりいるガキはそれすらしてやる価値もないとでも。
アルドはボコボコにひん曲がったスプーンで鍋をかき回しながら、クスッと笑った。
なに? その意味深な笑い。
「いつもいつも、いっぱい人のいるところばっかじゃ疲れるよね。じつはぼくもね、そうなんだ。たまには息抜きも必要なんじゃないかなって思って」
アチチと言いつつ小指を突っこみ、ぺろりと舐めって味をたしかめる。料理人としてはいささか野性的なようである。
「うん、上出来。うちの料理長さんにはぜんぜんかなわないけど」
小鍋の中身は野菜やら肉やらをほとんど水を用いずに煮こんだスープのようだった。見るからに滋養に満ちあふれている。アルドは荷袋から皿をとりだして、小鍋からきっちりと二分した。
目の前に差しだされた湯気をあげる一品を、テッドは毒を見るような目つきで凝視した。
唾がこみあげてくる。
「どうぞ」
「……食欲、ないから」
「こんなとこで意地はったって、あんまり意味ないと思うよ」
カチンときて、テッドはそっぽを向いた。もちろん猛烈に腹が減っている。朝食も、その前も抜いたのだ。短気なのもおそらくは慢性的な摂食不良のせいだ。
「テッドくん」 アルドは語気を少しだけ強めた。「ぼくがつくったものなんて口にあわないのはわかるけど、食べなくちゃだめだよ。食べるものを食べてから。まずは、そこからなんじゃないの」
保護者のような口ぶりが癪に障り、テッドはアルドを睨みつけた。
このまま突っ張っていても埒があかない。いらないと断りつづけても押し問答になるのは目に見えている。完全に冷めたスープを口に流しこむまで青年は説得をやめないだろう。
憤懣やるかたないといった顔で、テッドは皿をとった。
スプーンをわしづかみにし、乱暴にすくいあげる。
その手首をつかまれた。
「だめ。テッドくん、あいさつは」
「……は?」
「いただきます、をまだ言ってない」
テッドは面食らった。払いのけることすら、スポンと忘却してしまった。唐突すぎる展開にどう反応していいものやら。
だがアルドは意外にも真剣そのものだった。
「いただきます、は? テッドくん」
「なにそれ。まるっきり人をお子さま扱い……?」
アルドはふうとため息をついて手を離した。
スプーンをつかんだまま、テッドは皿を地面に置いた。口をつける気などとうに失せていた。
ちりちりと焦げつくような無言の時間が流れる。やがてアルドは根負けしたように口をひらいた。
「いただきますのほんとうの言いかたを知ってる、テッドくん」
「………」
「あれはね、長いから、略してさいごの部分だけを強調してるんだ。ほんとうはね、”あなたの命をわたしの命にさせていただきます”っていうんだよ」
テッドは眉をひそめた。何をか言わんや、だ。
こちらの気も知らずアルドはつづけた。
「狩人の子どもたちだってみんな知ってる。食べ物は命だってことをね。野菜だって、肉だって、魚だって、みんなもとは生きてた。そうでしょ。他人の命を食べて、自分が生きながらえることが、食事でしょ。だから」
「……さい」
「ちゃんと聞いて、テッドくん」
「うるさい、黙れ」
それ以上のお為ごかしはたくさんだ。食を軽んじる子どもに持論を押しつけて、さぞやいい気分だろうが。
諭す相手が間違っている。
他人の命を食べて、自分が生きながらえるだって? ああ、たしかに。
そこまで真実を言い当てながら、なぜヒトが食物連鎖の頂点に立っているという傲慢が生んだ誤った思想を、後生大事に守っているのだろう。
そうだ。
ひょっとしたらこれは、よい機会かもしれない。
テッドは挑発することに決めた。
「アンタさ、いただきますって言って感謝すればそれですむと思ってるわけ」
「えっ?」
「それってさ、悪気がなければ人を殺しても罪に問われないっていうのとおなじ理屈だよな」
こちらの誘導にのって、アルドは動揺をあらわにした。
「それとこれとは別でしょう! 人を殺していいわけがない」
「フン。じゃあ訊くけど。魚ならいいのか。動物ならいいのか。どっかの国では羊ならよくて豚はだめ。別の国じゃ、ニワトリはいいけどダチョウはダメってのもあったっけな。サルは食うけどヒトはダメってのも似たようなもんだ。食えるモンなら罪じゃなくなるってか。アンタの理屈ならつまり、そういうことになるんじゃねえの」
吐きだしているうちに少しエキサイトしたかもしれない。鬱屈した感情が抑えきれずに、有毒ガスを放つ汚泥のようにあふれてくる。
テッドはスプーンまで投げ捨て、四六時中はめっぱなしの革手袋をスルリとはずした。
アルドが息を呑むのがわかった。
「アンタがさかんと気にしていた、これ」 テッドは青年によく見えるようにその鼻っ面に右手を突きつけた。「食物連鎖でいうならば唯一、人間の上にいるやつ。見たかったんだろ? 見せてやるよ。目ン玉おっぴろげて、よっく見ろよ」
アルドは真剣な目で、死神の鎌を凝視した。
「こいつはな、マジで人をとって喰いやがんだ。ダメっていっても、聞きゃあしない。そして、勝手におれの命にかえる。おかげで、ばかみたいに生かしてもらった。魚だのウサギだのじゃないんだぜ。人だ。いまだって、アンタを喰いたくてうずうずしてる」
「テッドくん……」
「おっと、脅しじゃないぜ。アンタからかってもなんの得にもなんないし」
青年が軽く睫毛を伏せるのを確認して、テッドは手を引っこめた。もうこれくらいでじゅうぶんだろう。ほんとうに喰ってしまったら寝覚めが悪い。
革手袋はそのままポケットにつっこみ、ぷいと顔をそむける。
「言いたいことは、そんだけだ……わかるよな。どうするのが賢いのか。よっぽど脳タリンじゃなけりゃ、よ」
言っちまった。テッドは腹の中で苦笑いした。しょうがない。もののはずみというやつだ。
選択する権利はきちんと残しておいてやった。さんざん構ってくれた礼に、この場で息の根を止めるのだけは勘弁しておいてやろう。これを機に反感に転じてくれたら御の字で、そこから先は狂人扱いするなりよからぬ噂を流すなり好きにしてくれればいい。つきまといをやめてくれたらそれで結構。
しかしアルドはテッドの想像以上にタフな青年だった。
ターコイスの鉱石を散りばめた腕がスッとのびて、テッドの右手に触れてきた。
剥きだしになった死神をまったく恐れることもなく。
「それで、わかった」
テッドは信じられぬという顔で硬直した。アルドは未知の紋章を厭うばかりか、ひとつ納得したかのように静かに微笑った。
「すべてじゃないけど……きみのことがまた少しだけ、わかった。ありがとう」
なんてこった。
この青年は、正真正銘の大馬鹿だ。
呪われた紋章ごと、右手が包みこまれた。
つづいて肩が。背中が。
拒絶できなかった。
驚愕と、圧倒的な無力感。
はねのけられなかったのだ。
なんでだ。くそったれ!
「きみは、悪くない」
耳許にそのささやきを聞いたとたん、テッドの中でなにかがはじけた。
いびつな形状で凝固したまま、融解を忘れた心。それが前段階もなくいきなり解放されてしまったのだ。自由運動に慣れていない心は激しく戸惑い、無秩序に振動した。
誘爆するかのごとく一挙に増幅する罪悪感と焦燥。
はずみで、偽りの仮面がついに剥がれおちた。
テッドはがたがたとふるえた。気取られまいとしても、歯の根があわない。ついにその手はしっかりとアルドにしがみついた。
もっとも間近に感じるアルドの力強い鼓動に新たなる恐怖をおぼえながらも、そこに依存することしか彼にはできなかった。
償いと許しを司る大いなる意志が招いた。
肝に銘ずるがいい。宿悪はやがて裁かれる。いまさら都合のよくないものを抜根しても時すでに遅い。
「言うな……おれ、は、人殺し、だぜ?」
「ちがうよ。テッドくんは人殺しなんかじゃない」
アルドは否定する。
なんと心やさしく、なんと残酷なのだろう。最後の最後で、青年はありのままの自分を認めてくれない。
これは罰だ。これこそが、罰だ。またしてもテッドはそれを確信した。
罪を背負った躰だからこそ、罰の紋章によってここに導かれたのだ。
いやならもういちど裏切ればいいのだが。何度でも裏切ればいいのだが。
その足で船を離れ、群島を離れ、人から離れ、うつろな魂を彷徨わせて永久の闇を歩きつづければ。
できない。
誓ったからだ。”もう二度と逃げない”。そうソウルイーターに宣言したのだから。
それを反故にした瞬間、自分の生きている価値は今度こそ塵芥と化す。
ソウルイーターを欺くことはできない。なぜならばそれは、すでに自分の一部だからである。
自分で自分は、誤魔化せない。
―――せっかく逃れたのに、どうして戻ろうなどと思ったのだろう。
霧に包まれていたころの自分は、不確かな存在でいられた。哀しみも、憎しみもなかった。
許しの刻を望まぬ心は、仮死の眠りにうつろっていた。
その安定を毛嫌いしたのは、ほかのだれでもない。この自分。
「ぼくはテッドくんに出逢えてよかった」
その後もアルドは臆面もなくそんなことを繰り返し、なにごともなかったかのようにつきまとった。
人間とはどこまで分をわきまえぬ生き物なのか。
神がこの愚行を知ったらさぞ呆れるであろうに。
ただの人間ごときにやすやすと殻を割られ、守秘すべきものをさらけだすようなテッドにも、真の紋章を有する資格などあろうはずがない。
それとも、現実はすべて許容されうる範囲内ということだろうか。
この世界をかたちづくる大いなる意志が、下々の星にどの程度まで干渉できるのかはテッドとて知り得ない。だからこそ星々は、そしてテッドはけして得られぬものを求めてさまよい歩く。
破滅もまた、世界にとっては単なる一過程なのかもしれない。
テッドはそっと右手を握って、またひらいた。
己とは別個の、それでいて同一の、息づくものがそこには在った。
いまたしかなものはこれだけだ。
だが、それはなにも語らない。冷ややかな目で、下賤な宿主を見定めようとしている。
まどろみの刻はとうに終えた。ここから先、猶予は無きにひとしい。
これからはすべて自分が選ばねばならぬのだ。たとえそのどれもが地獄へ通じていようとも。
一度目の継承が運命なら、二度目のそれは最初の決断だったと思う。
流されて生きてきた。百五十年。だがいつまでも逃げつづけるだけの幼子ではいられない。
いつか心やさしきこの青年や、すれちがう幾多の魂を捕食することになっても、自分はしっかり立っていなければならない。
それを糧にして、己が命にかえて、歩いていくのだ。
ソウルイーター。
しっかりと刻みつける。いまやそれが自分の、まぎれもないもうひとつの名であると。
4テッド愛☆祭に集ったすべての星々にこの一編を捧げます。
2006-11-11