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ごめんなさい

「テッドくん」
 何度も呼んだ。返事はなく、声はむなしく路地にはねかえるばかり。
 いまにも崩れそうな左右の家はもう長いあいだ空き家になっていて、人は住んでいないという。ひそんでいるとすれば余所から流れてきたごろつきか、それに準じるろくでもない連中というところだろう。
 残飯など積みあがるはずもない路地に、食べ残しのすえた臭いがただよう。人の生活が営まれている証拠だ。留守か、それとも気配を殺しているのか。
「テッドくん、いたら返事をしてください」
 だんだん気が焦ってきて、グレミオは腰にぶらさげた武器を手でたしかめた。人に斧を向けたくなどはないが、いざとなったら闘う覚悟はできている。
 酒場で小耳に挟んだうわさ話がほんとうなら、そんなやばい誘いにテッドが迂闊に近づかねばよいがと心配していた。まさかそれがほんとうになるとは。
 躊躇していないでなぜもっと早く、忠告しておかなかったのか。グレミオは後悔で唇を噛んだ。
 テッドにもプライドというものがある。だからあえてこちらからつらい過去には触れまいと、知らぬふりをして接してきた。それが裏目に出た。
 あるじのテオとはじめて出会ったとき、テッドがどのようなひどい場所にいたのか。それをテオから聞かされたグレミオの胸は張り裂けんばかりに痛み、無情の世を呪った。もう二度と、こんな年端もいかぬ子どもに後ろめたい思いはさせたくないと、親の代わりにはなれなくともせめてもの愛情をそそごうと、心に誓ったのだ。
 だが、テッドは賢い子どもだ。グレミオがテッドの過去を憐れんでいることを敏感に察したのであろう。愛情をただ押しつけるやり方に嫌気がさしたのかもしれない。
 彼の本来いるべきところは絨毯の敷かれた将軍家ではなく、汚水とカビの臭いのする最下層の吹きだまりなのだ。だからそこへ戻っていったのだ。おそらくは。
 グレミオは強く首を振って、否定した。
 そうじゃない。
 書き置きの一枚も残されてはいなかった。少ない荷物は家にきちんとそろえてあった。
 大切にしているらしい鉄の弓も、持っていかなかった。
 テッドが帰ってこないのは、自分の意志ではない。帰りたくても、帰れないのだ。
 仕事を探している人間、とりわけ親のない子どもたちに甘い声をかけて引きずりこみ、奴隷よろしく売買いする組織がグレッグミンスターに暗躍しているという。まさかと思ったが、現実に存在しうるかも知れない。いまの黄金都市には、それを取り締まる人材も能力もないからだ。
 しばらく姿を見せないテッドを心配してあちらこちらを訊ね歩き、組織のアジトという情報をようやくつかむことができた。危険ではあったが、テッドの命には替えられない。
 坊ちゃんに話す勇気はなかった。パーンとクレオになら、と思ったが、少し考えて、単身潜入することを決意した。浅はかだと笑われてもいい。それでもグレミオはテッドのプライドを優先させたかったのだ。
 荒事には自信がある。全員倒さなくてもよい。救出あるのみ。
 ごくりと唾を呑み、右の家に目星をつける。
 気配よりさらにかすかな『気』であったが、そこにいると確信した。直感というものかもしれない。
 傾きかけたドアにそっと手を伸ばす。内部から釘を打ちつけられているかと思ったが、ドアノブは簡単に回ってあっけなく開いた。ぎいと大きな音がする。
 中は薄暗かったが、あかりが灯っていた。やはり、ここか。
 あかりがゆらりとゆらめき、グレミオはぎくりとした。光源はロウソクかなにかなのだろう。奥にいた人物が動き、炎を揺らしたのだ。
「こんばんは、ちょっとおじゃましますよ」
 グレミオはドクンドクンと打つ心臓をなだめすかして、挨拶をした。下卑た嗤いがそれを迎えた。
「おにいさん、ボクちゃんのお迎え? 夜分ごくろうさま」
 複数の気配がある。あかりが乏しくてよくわからない。
「わたしの……弟が、こちらにいるかと思いまして」
 冷静を装い、鋭く言葉を投げる。手は斧の柄をしっかりとつかみ。
 別の男が分け入った。
「あんた、知ってるぜ。テオ将軍とこの下働き。へえ、このちび、将軍さんとこの……それにしちゃ、へっ、へへへ」
「なにがおかしいんですか」
 やはりテッドはここにいる。グレミオは闇の奥に目をこらした。
 体格のよい、用心棒らしき大男がふたり壁際に立っている。ほかに四人――いや、五、六人いるか。話をしたふたりも含めて、みな床に座っているのがわかる。
 視界が白っぽくモヤっているのは紙巻きタバコの煙のせいだ。
 鼻をつくアルコールの匂い。からの酒瓶が何本もころがって行く手を塞いでいた。
「おい、ちび。まだ起きてるか」
 どすんと、なにかを蹴る音がした。次に続いたのはまぎれもなく、テッドのくぐもったうめき声だった。
「テッドくん!」
「おおっと、待ちな、にいちゃん」
 グレミオは横から用心棒たちに腕をとられ、動きを封じられた。
「わたしに触らないでください。テッドくん、テッドくん! 帰りますよ、テッ……」
 部屋に踏みこんだため、そこの様子がようやくわかった。あまりの恐怖にグレミオは悲鳴をあげそうになった。
 テッドは全裸にされて、手も足も鎖で柱に縛られていた。口には猿ぐつわを噛ませられている。鼻血だろうか、それとも歯が折れたのだろうか。布は血で真っ赤だ。
 身体のあちこちにも火傷らしきものや切り傷があり、無抵抗のうちに暴行されたのだということがわかる。
「なんて……なんてことをするんですか、すぐに放し……」
 言いかけたとき、テッドの眼がグレミオをちらりと見て、背けられた。
 息を呑んだ。
「アンタに会いたくねえってよ、ちびは」
 いかにも悪そうな面構えの、三十代とおぼしきヤクザ男が面白そうに嗤った。
「テッドくん、家に、帰りましょう」
「あのなあ」と呆れたように男は言った。「ちびはな、おうちに帰りたくねぇってよ。気づけよ、アニキも。かわいい弟が裏でなにやってんのか、知ろうともしねえでよ。ま、もっとも知ったら卒倒するだろうけどな、げへへへ」
 男はテッドの顎をとって無理矢理上向かせた。
「こいつぁ、いい男娼になる。高く売れるのをおめおめ、お返しなどできるかってんでぃ」
 グレミオの頭にかっと血がのぼった。
 煮えたぎるような激しい怒り。
 彼の主人がまだ幼いころ、大人の争いに巻き込まれて誘拐されたときに感じた、あの怒りと同じものであった。
「あなたたち……許しません」
 用心棒のひとりが、毛むくじゃらの腕から血をほとばしらせて情けない悲鳴をあげた。
「だいじょうぶ、腕は落ちていませんから。もとに戻るまでお時間はかかるでしょうけれど」
 もうひとりもすぐに役立たずになった。わずか斧の二振りで、もっとも危険な二名を床に寝そべらす。グレミオを単なる下男と勘違いした連中が悪いのだ。
「おりゃぁぁああっ!」
 残りの男たちはもはやグレミオの敵ではなかった。全員を壁に叩きつけて失神させると、グレミオは急いでテッドのところに走り寄った。
 鎖の端を斧で叩き斬る。口を覆っていた布をはずすと、テッドは呼吸をむさぼりながら苦しげに言った。
「……ら、いで……」
 わずかなあいだに痩せた躯を抱えあげる。なにかはわからないが、ふわりと甘い薬の臭いがした。
「よく我慢しましたね。もうだいじょうぶですから」
「さわら、ないで」
 テッドは逃れようと身をよじったが、グレミオは渾身の力でそれを封じた。
「やめ、ろ……おねがい、だから」
「ダメです」とグレミオは立ちあがった。「おうちに帰るまでは放しません。怪我をしているのですからあばれないでじっとしていてください。できればおんぶされてくださるとたすかるのですが」
 テッドは身を縮めて、ふるえるように首を振った。
「しょうがないですね。では、おちつくまでこうしていましょう」
 グレミオは己のマントですっぽりとテッドを包みこむと、抱っこをしてアジトを出た。
 初冬の夜気がひやりと肌を刺す。
「寒くありませんか。ああ、ほら。きれいな、まん丸い月です、テッドくん」
 返事がなくとも、グレミオは静かに話し続けた。
「テッドくん、わたしは、けして見ないふりをするのがやさしさだとは思っていません。いけないことをいけないと頭ごなしに否定するのではなく、それを選ばざるをえなかったあなたのことが知りたいのです。家族になるというのは、そういうことですから」
 さすがにいつまでも腕に抱えたまま歩き続けることはできない。テッドに抵抗する様子がないことを確かめて、グレミオはレンガの生垣に腰をおろした。
 テッドが寒くならないように、マントと体温で包みこむ。
「今夜は、お屋敷ではなく、テッドくんのおうちに帰りましょうか。わたしもひと晩泊めてくださいましね」
 テッドの肩がぴくっと動いた。それからふるえて、首を振った。
「だいじょうぶです。坊ちゃんたちにはなにもお話ししていません。今日きいたことはすべて、テッドくんとグレミオのひみつです」
「……いや……イヤだ、こないで」
 薬で多少、思考が錯乱しているのかもしれない。案じながらもグレミオは話をやめなかった。
 幼い坊ちゃんが広場の噴水で金魚を口にいれたこと、マクドール家に起こった珍騒動のこと、パーンが日記帳をつけるようになった面白可笑しい理由、息子には厳しいテオ将軍がじつは大がつくほどの親ばかであること、テオ将軍と歳の離れた恋人はじつは坊ちゃんの初恋の人であること。
「金魚の話はひみつですよ。坊ちゃん、だれからきいたんだーって激怒しちゃいますからね」
「グレミオさん」
 テッドが口をひらいた。弱々しく、かすかな声だった。
「はい、なんでしょう」
「おれ、もう、テオ様のところにいられません」
「……どうして、ですか?」
 やさしく訊ねる。背中をそっと手のひらで撫でながら。
「おれ……汚い、から」
「だから、マクドールの家には相応しくないと?」
 グレミオはにっこりと笑って「ばかですねえ」と言った。「テッドくんは、汚くなんてありません。今回のだって、あまり迷惑をかけまいと、自分でお金を稼ごうとしたんでしょう。りっぱです」
「そうじゃない、おれ、ああするしか、もう……」
「いまいわなくてもだいじょうぶ」
 グレミオは腕に力をこめた。
「言って傷つくより、泣いて泣きはらしてみんな流しちゃいなさい。わたしもむかし、そうしなさいとテオ様に教えられました。焦らなくても、傷つかずに話せる日がきっときます。だいじょうぶ、だいじょうぶですから。グレミオはテッドくんのことがだいすきですから」
 あまり長くおしゃべりしているとほんとうに風邪をひかせてしまう。怪我の程度も心配だし、医者はともかくとしてもゆっくりとベッドに寝かせなくては。
「テッドくん、こんどはおんぶ、いいですね」
 包帯を巻いた小さな手がためらいがちに首に巻きついてきた。
「ああ、そうするとマフラーみたいであたたかいです。眠ってしまってもかまいませんよ。グレミオは力持ちですから、心配しないでくださいね」
 満月が煌々と石畳を照らし、街灯が離れていてもまったく危険を感じない。すがすがしい夜の散歩に思えた。
 グレミオにとっては、懐かしい風景であった。
 坊ちゃんが幼いころ、寝入りばなにぐずるときはこうやって背中におぶって、外をぶらぶらしたものだ。
「あれ、雨ですかね」
 そんなわけはない。グレミオは月に語りかけるように言った。
「あたたかい雨です。すぐに止むでしょう」
「………」
 耳許で、テッドが小さくつぶやいた。
「……はい、いいんですよ。ありがとう、テッドくん」
 そのときのグレミオのほほえみは、月の光よりもさらにやさしかった。






2006-09-21