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小連鎖-<奈落>

 横倒しにされたまま、刻むことのない永久凍土のような時を生きた砂時計。
 薄氷を思わせるそのガラスは意地の悪い風にころころところがされて、大陸のあちこちを旅した。表面にこまかい無数の傷がついても、なぜか変質もせず。
 過去と未来を隔てるちいさな孔は、もうかなり永いあいだ、ひと粒の砂も行き来した気配はない。過去の砂は過去に揺られ、未来の砂は未来をたゆたうばかり。
 当て処のない放浪の末に、砂時計は海を、見た。
 海面までの距離はまだ、とても遠かった。だがそこに到達するには、あとわずかに一歩を踏みだせばよいようだった。自由落下にまかせればほんの一瞬。
 命の拍動にも似た波音に耳をすましながら、砂時計は思案した。
 無数の亀裂がはしるガラスはきわめて脆くなっている。この崖から墜としてやれば、波濤うずまくあの岩に激突して労もせず砕け散るだろう。
 然為れば囚われの砂はすべて解放される。過去と未来はいりまじって深海にさらさらと沈み、許多(あまた)の砂粒にやさしく迎えられるにちがいない。
 もういちど風が陸から海に向かって吹けば、それは叶う。
 奈落から突きあげる風にほんのすこし競り勝つだけでいい。
 なのに砂時計のちいさな願いは瀬戸際でもてあそばれ、どこにもたどり着きはしなかった。

小連鎖-<奈落>

 熱を持たない松明のあかりに両手をかざして、少年は唇の端を卑屈にゆがめた。
 することもない日々のなかで、見飽きたその手を観察することは日課になっていた。この船に姿見などという気の利いたものはない。首から下はひとときも違えずローブでつつんでいるので、素肌を確かめられるのは手の部分だけなのだ。
 また変化しているような気がする。きのうときょうのちがいを幾分こじつけ気味にあら探しして、少年は疲労の色を濃くうかべたため息をついた。
 成長を阻んでいた要因を遠ざけたのだから当然といえば当然なのだが、どうにもしっくりこない。日に日に躯が塩気でさびついてぎくしゃくしてくるような感じだ。理由のわからぬ不安に襲われたりするのは、老いへの恐怖なのだろうか。自らそれを望んだはずなのに。
 時は彼に与えられた本来の取り分を堅実に消費しているようだった。人と同じスピードなのかどうかは、比較対象がいないからわからない。だが少年の身長は来たときよりも確実に伸び、知らぬ間に声も野太く変わっていた。
 もとの世界に帰すわけにはいかぬが、そのかわり大概のことは意のままにしてやろうとあるじは言った。永遠の命を望むならそうしてやってもいい。百万世界を渉るこの船に時は無用なのだからと。
「よけいなことはしないでください」
 少年はきっぱりと断った。その潔さがむしろ功を奏したか、あるじの機嫌を損ねることもなく彼は老いる権利を許された。
 有限の命。日々老いてひずんでいく体細胞。ああ、躯がリズムを奏でるとはこういう感覚なのだ。心臓の拍動も、血液の循環も、もはや無意味な旋律ではない。
 循環し、再生し、やがて疲弊し、朽ちていく。なんて懐かしいのだろう。成長から老いへ至る清冽な心地よさ。あまりにも疎遠になりすぎてすっかり忘れていた。
 自分は、変化している。変化して、いずれ朽ちる。あとにはなにも遺らない。骨も、名も、記憶すらも遺らない。
 ―――そんな、馬鹿な。
 甘美な夢に血迷いやがって。
 そう、こんな実体のない多幸感がほんもののはずはない。
 少年は知っている。はじめから、気づいている。
 まやかしだ。
 覚えているだろう。あるじが仕向けた感情制御を、故意に従う形で了承したのはおまえだ。
 忌むべき異形のあるじとともに居ることに深く安堵したではないか。
 本来ならば存在し得ぬ感情を植えつけられても、都合よく手懐けさせられても。
 とりつくろっても詮無いこと。すべては少年の抱いた逃避願望である。
 現実を認めることは少年にとって最たる艱苦であり、いまの彼にそれを求めるのは酷というものであった。
 少年は、卑劣な手段だと非難する自我を必死で抑えこみ、あるじによって巧妙に支度された妄想に従順した。
 経験でつちかってきた防衛本能はじゃまだったので、それも封じこめた。正常な思考など麻痺してしまえばいいと少年は思った。
 そうでもしないことには、少年はすぐにでも崩壊してしまいそうだったのだ。
 あるじは化け物のような姿形をしている。なのに麻痺した心は恐怖をおぼえることもない。むしろ己を保護してくれる唯一にして絶対無二の存在として、身をゆだねるのが正しいことのように感じられてくる。それでいい。
 そう、それでいい。疑念は棄ててしまえ。なにも考えるな。抗うな。
 それが死を引きよせられなかった自らへの戒めであればこそ。
 ひとたび呪いに魅せられた身は、そこから逃れようとゆめゆめ願ってはならない。全知の神は真実をけして歪めない。
 いつか嘘は暴きだされ、少年は裁かれるだろう。覚悟はできている。
 どうせならばできるだけ辛辣に、罰が下されることを乞う。
 わかっている。いくら都合のいいように思いこもうとしても、現実から顔をそむけても、だめなのだ。真の紋章に選ばれたからといって特別のものであるはずもなく、少年もまたどこにでもある一塊の肉片。奢る心はたやすく見抜かれる。
 いまの安らぎは、偽物である。愚か者だけが溺れる、嘘と背中あわせのほころびかけた快楽にすぎない。
   冷静になれば痴れたること。これは裏切りにほかならない。自覚しているからこそ少年は目を瞑り、耳をふさぐ。
 身も凍るような罰とは、どんなものだろうか。死よりもつらく、犯した罪よりも過酷なはずだ。考えをめぐらすだけで気が狂いそうになる。
 いっそのことなにもわからなくなるくらい、狂ってしまいたい。思考する力も、生へのよろこびも、持てる感情のすべてを放棄してもかまわない。呼吸さえ怠らなければ、いつか必ず終わりがくる。血ごと肉体ごと消滅すればもう非難されなくていい。その身に背負った罪もろとも、少年は無に帰す。
 とことん自分本位で、悠長な計画だ。
 しかも構想段階から破綻している。
 少年は背中を少し丸めて、くすくすと笑った。いつも彼のかたわらにしもべのようにあつまっているアンデッドの霊魂どもが、驚いてカチカチとせわしない音をたてた。
 その影なる存在は少年を要人と認めているのかとても従順で、危害を加えてくることはなかった。ただしどこへ行くにもつきまとってくる。少年が眠るときは寝床をぐるりと取り囲み、吐息ひとつにもいちいち大袈裟に反応する。
 見張り役として、あるじに命令されているのかもしれなかった。いま彼がしのび笑ったことについても、不可解な行動として即座に報告されているのだろう。
 仮面のようだった少年の貌に苦悶のゆがみがかいま見えた。
 笑うしかない。いったいぜんたい、いままでなにをそんなに後生大事に守ってきたのだ。
 ほんとうの気持ちをどうして認めまいと躍起になったのか。自分はこれほどまでに切実に、他者に支配されることを望んでいたというのに。
 宿敵の魔女から逃れさまよいながら、その魔女に囚われることに強くあこがれたではないか。故郷の村を毒牙にかけた魔女なら、こんなに不確かな存在である自分を破滅させることもできるだろうと。救済はひょっとしたら、そこにこそあり得たのではないか。
 恐怖と願望はおなじ形をしていた。魔女の腕に抱かれる、血まみれの自分。魔女の爪がはらわたを、眼球を、心臓をえぐりだす。とうに死んでいてもおかしくはないその状況で、夢のなかの少年は信じられぬほど安らかな表情でほほえんでいる。
 どんなに否定しても、虚勢を張っても、それがほんとうの望みなのだ。真実は曲げられない。
「くっ……は、ははは」
 魔女がこのことを知ったら、さぞや愉快であろう。神経質な笑いが喉からとめどもなくこぼれおちた。受けとめる者のないその渇いた想いを、命を持たぬ魂だけが身を寄せて聴いていた。
「死ねばよかったんだ。バーカ」
 少年はいたたまれなくなったのか、自嘲を口にした。独り言の頻度も、日を追って増えているような気がした。
 本当に、あの土壇場でよくもまあ、生きのびることを考えたものだ。せっかく寸前までうまいこといっていたのに、かんたんに中断するとは、自己を軽んじるにもほどがある。
 なぜ自分はその一歩をためらったのだろう。そこに運命を確実に断つすべがあったのに。
 霧が、惑わしたのだ。
 色彩のない霧だった。人の噂に空よりもさらに深く蒼いと聞いていた海も、いちめん灰色に塗りかえてしまうほど、濃くねっとりとした霧だった。
 霧は少年にまとわりつき、その耳許でささやいた。
 ―――テッド
 足が凍りついた。
 それは少年の名前だった。この世のだれもが忘却したはずの、もはや意味を成さなくなった音階であった。
 その名を呼ぶ者がまだいる。完全に喪われたと思っていた関係の糸が、こんな時にこんな場所で、からみついてくるなんて。
「だれ……?」
 少年は怯えて、そう訊きかえした。困惑に揺らいだ瞳がスッと眼下に向けられる。そこにひとつの染みのように、黒い影が浮かんでいた。船だった。
 それこそが、霧の海をただよう幽霊船。
 少年はひとり、生きたままそこに招かれた。船の内部はあかりのない暗闇で、ひんやりと乾燥していた。
 乗組員はこの世に想いを遺して死した者たちの浮かばれぬ魂と、それを統べるあるじ。
 地獄よりもひどい場所だ。少年は嘲った。だがその無機質な暗闇は、恐怖さえ首尾よくぬぐい去ればけして居心地の悪いものではなかった。
 あるじは狡猾であった。少年の名をどこで手にいれたのかは知らない。だがそれを廃棄することなく有効利用し、もっとも重要な交渉の舞台に晒してきた。化け物の分際で、人の心理をよく読んでいる。
 名だたる赤月帝国のシルバーバーグ家ほど知謀自在でないにせよ、効果を想定して罠を仕掛ける手腕は良きに評価して余りある。
 人外の存在であるその者にとって、心を病んだ少年ひとり、陥落させるのはわけもないことだったのだろう。
 人は無力だ。大きな力の前にすぐ屈する。そして少年もまた、人の子だったのだ。

 とろとろとした無益な眠りを強引に妨げられて、テッドは心底迷惑げに腫れぼったい瞼をもちあげた。邪魔者の正体はだいたい見当がつく。この船で干渉してくる暇人など、船長をのぞけばあいつしか考えられない。
 頬をつねったあげくの果てに、発酵したパン生地を千切るがごとく真横にひっぱった冷たい手は、ぎろりとテッドがにらみつけると隠れん坊よろしくしゅんと姿をくらましたが、すぐにまたひとところに固まってゆらゆらと黒い影を揺らしはじめた。目をこらすと人の形に見えなくもない。影はこちらの機嫌をうかがうように上体を傾けたかと思うと、寝具のまわりをうろうろと回りはじめた。
「また、アレかよ。ちぇっ、いいかげんにしやがれ。ったく……せっかく気持ちよく寝てたのにさ」
 気持ちよくというのには多少の語弊がある。実際には、充足感をともなわない形だけの眠りだ。時間を早送りする手段として、仕方なしに遂行しているだけのこと。そもそも睡眠自体が、テッドが願わなければ、この船ではあえて必要としない行為なのである。
 船長の語っていた、大概のことなら融通が利くというのはこのことだ。睡眠も食事も排泄すらも、とくに望まぬ限りことごとく省略できる。
 霧の船は存在そのものがこの世界の法則に背いている。だからそこに棲まう者たちも、常識に則る義務などないのだ。
 だがテッドは、それまでの習慣をとくに変える意志はなかった。生活空間と寝具、質素な食事を要求し、船長を苦笑させた。
「なあ、おまえ、なんでこん中にはいってこられるんだ?」
 テッドはがりがりと頭を掻きむしりながら、落ち着きなく動く影に向かって訊いた。もちろん答えられるわけなどない。『それ』はもう人の言葉などとうに喪ってしまったろうし、そもそも元が人であるかどうかですら怪しいからだ。
 生前の姿はおろか、性別や年齢もまったくわからない。いたずら好きな子どものような気もするが、あくまでもそのしぐさから導きだした想像である。
 この世によっぽどの未練を遺して死んだ者でないと、魂はそういつまでも現世にはとどまらない。恨みを訴えたいのか、満たされぬ想いを遂げたいのか。やんちゃなその悪霊はテッドという居住者に目をつけたあげく、アンデッドたちが畏れて近づかない居室にまで何食わぬ顔で侵入してきた。
 『それ』がテッドにとある奉仕をおねだりしていることは、かなり経ってから気づいた。道理で左手にだけやたら執拗にまとわりつくと思ったのだ。『それ』はテッドの左手にある水の紋章がことのほかお気に入りらしく、発動させてくれとせがむのである。
「ヘンなやつ」
 傷ついた人間に対して効果的なものが、アンデッドには逆にダメージとなる。水属性の魔法などはその典型だ。
 おそらくは死の間際、じゅうぶんな治療を受けられなかったことを恨んで絶命したのにちがいない。その想いだけが霊魂となったあとも遺って、楽にしてくれとテッドに求めるのであろう。
 まさか本当に術を施すわけにもいかず、真似事でなだめたのが失敗だった。一度きりで満足すると思いきや敵もかなりの欲深で、それからは三日と明けずテッドの睡眠を邪魔しにやってくるのだった。
 こんな小手先のなぐさめで成仏するなら、とっくにしている。『それ』の欲望は満たされるところを知らない。求めても求めても、魂は救われるわけがない。
 まるで自分のようではないか。テッドは寂しくほほえんで、左手を闇にかざした。
 清冽な水の気がテッドを中心に渦をまく。パフォーマンスだけでじゅうぶん。こんな紋章は持っていてもどうせなんの役にもたちはしない。せいぜいさまよう魂をほんの一時、鎮めるくらいが関の山だから。
 『それ』は派手な演技に高揚したのかくるくると躍り、アンコールも告げずに煙のようにかき消えた。どうせ数日もしたらまたせがみに戻ってくるのだろう。テッドがそこにいるかぎり、このくだらない日課は無限につづく。
 往くところを見失った魂の末路は、終わりなき悔恨の循環しかない。
 屍は救えぬ。
 なのにテッドはその徒為を繰り返す。
「またな」
 静かになった空間を寂しそうに見あげて、テッドは利にもならないいたわりを投げかけた。
 鬱陶しいやつだが、唯一の話し相手である。壁に向かって話をするよりはましだ。船長に会うと別の意味で気が滅入るし、ほかに鬱屈を発散する方法も思いつかない。
 この取引ははじめから公正さを著しく欠いていた。あるじは人間を虫けらほどにも見ていないのに、テッドにはわざとらしく媚びへつらってくる。同情などではないことを自ら告白しているようなものである。一方的に利用するつもりなら、ストレートにそう言えばよいのだ。
 恍惚と共同宣言なんぞを振りかざして、保護者面をするあるじが滑稽で、テッドはもう何度腹の奥で嘲笑ったことか。
 『船長』とテッドがあるじを呼ぶのも、ほぼまちがいなく皮肉をこめてのことである。獲物を幽閉するためにつくりだしたこの空間はなにも船の姿を模す必要はない。人間社会を嘲りながら、人間の生みだした船というものに擬態するとは、なかなか痛烈な冗談ではないか。
 都合のよい謳い文句ばかりならべたてる異形の導者に、テッドは心酔してなどいない。高らかに奏でれば奏でるほど、美麗な殻が剥がれおち、醜い本音が露呈していくというのに、船長はそれに気づかない。
 現世への復讐心を煽りたてることでテッドという紋章の器を手元に拘束し、都合よく飼い殺しにしたいのだ。単純すぎるが故に、その企ては結果としては成功している。
 船長の正体はひどく曖昧で判然としなかったが、人外のものであることに疑いの余地はなかった。こことはまったく別の世界に属する生命体であろうとテッドは推測した。黄泉のしもべを従え、常識では存在し得ぬ空間を魔法によって安定維持するその力。目に見える姿はおそらくかりそめのものだろうが、それでも美意識に反して余りあった。
 船を模した檻。きわめて利己的な復讐に眩んだ愚かな支配者。そして人の世に疲れ果てた囚人。退廃的で、これこそが末期と呼ぶべきものだ。
 気まぐれには気まぐれで応えてやるのが礼儀というものだろう。船長のいいつけに倣い、テッドは白夜の闇と煉獄の焔で紡がれたローブを羽織り、その上から鎖で縛めた。それらにはなんらかの魔法がかけられている気配があった。だがテッドはためらうこともなく、自らの意志で貸与された拘束衣をまとった。
 ローブと鎖。宗教の思想では禁欲を意味するものらしい。すなわち支配の象徴。人は神に支配され、しもべとして生きるのが正しい。悪魔もまた神のようなものである。そもそも神と悪魔は、本来は同一なのだ。
 ソウルイーターも神と崇められ、悪魔と恐れられている。
 支配される。その欲望には抗えきれなかった。あらゆる関係性から突き放されて生きてきた少年は、己をその懐におさめる支配者を渇望していた。負の関係であるなら殊更、少年はその身に背負わされた重責から逃れることができる。
 その躯と密接する熱に。
 その心を平坦にする圧力に。
 報われぬ幼き自我を匿い、征圧する支配者に。
(囚われたい)
 テッドの願いは、飢餓のようなものだ。満たされなければ、死を待つほかない。
 そんな彼に船長が与えた贈り物は、心神をさぐる魔法であった。テッドの心にもぐりこみ、それを具象化し、手枷足枷に姿を変えてまとわりつく。躯を被い、首元にからみついたのもそれだ。
 深層心理の鎖。
 それはどんな緊縛よりも確実に、彼をその泡沫の闇につなぎとめるはずだった。
 逃避、背徳、紋章への裏切り。帰る場所をみずから放棄することになっても、テッドはいまのあるがままの姿をだれかに愛してほしかったのだ。
 悪魔でもかまわない。
 この世界のものでなくとも。
 孤独にふるえる己の手が、関わる人々をつぎつぎと地獄に突き落とす、その罪の重さに耐えきれず。
 テッドはその身に承けた紋章ごと、己を世界から隔絶することを決意したのだった。
「くそ、目がさめちまった」
 覚醒したとたんさすがに退屈になって、テッドは久しぶりに部屋を抜けてみることにした。なにごとかちいさくつぶやくと、右手に火をともした松明があらわれた。その焔は手のひらをかざしても、まったく熱を感じない。これもあるじが魔法でつくりだした幻である。テッドはそれをいつでも自在に使えるよう、船長から貸与されていた。
 テッドの居室は、人間世界のそれとはかなり趣が異なる。部屋というよりはむしろ、少年のサイズにあわせた閉鎖空間と称したほうが正確かもしれない。
 なにせ実体のあるものは、寝具のみだ。そこだけはテッドの熱でじんわりと温もっている。人が暮らすにはかなり肌寒い船のなかで、テッドがこの部屋を離れないのはそういう理由だ。
 眠るためだけの牢屋といっても過言ではあるまい。出入り口はべつに鍵で閉ざされているわけではない。だが外には延々とつづく長い通路があるだけで、無為に歩きまわってもどこにもたどり着けない。この船が巨大なひとつの牢なのである。
 向かうところといえば、船長の居室くらいなものだ。用事などもちろん百歩譲っても見いだせはしないが、水の紋章にご執心の魂もしばらくは構ってくれそうにないし、たまには会話でもしないことには自分の声も忘れてしまいそうになる。
「船長」
 抑揚のない声でそう呼びかけると、あるじはすぐに応えてくれた。
 見あげるほどに大きい、禍々しい容姿を誇る異世界の導者は、複数ある魔物の口を耳障りに共鳴させながらヒトの言葉を巧みにあやつった。
「どうした、テッド。おまえからここへくるとはめずらしいではないか。望みのものがあるなら言うがいい」
「そんなんじゃないよ……」
 接触を図るのは請願のためだけとはかぎらないのに。単純回路のあるじを腹の底でせせら笑いながらも、テッドにはその存在がまっ先に必要だった。
 自分を名前で呼ぶのはいまやこの世でただひとり。テッドというその名前、自分という個を、少なくとも認識だけはしてくれる。
「ただ、きてみたかっただけだから」
 嘘である。欲しいものならひとつある。
 船長がそれを与えてくれることはけしてない。
 願ってもどだい、無理な話だ。
 船長は悪魔である。だから愛情など、かけらも持っていない。
 パフォーマンスという芸当すらも、思い至ることはあるまい。
 平行世界からやってきたと本人はいう。この世界に復讐したいのだと。いったいこの世にどんな恨みがあるのか、どうせくだらない逆恨みだろうが、そんなことはテッドにはなんの関係もない。恨めしいだろう、復讐したいだろうと煽られても困惑するだけ。
 そんなことより、欲しいものがある。
 想いが、かみあわない。
 船長は目的達成のために真の紋章を利用したい。紋章に翻弄される少年を哀れに思い、同情して仲間に招いたわけではけしてない。真の紋章を集める過程で、その保管庫となるいれものを廃棄するわけにいかないから仕方なしに飼っている。
 テッドは真の紋章を差しだすかわりに、願いをひとつ叶えたい。至極単純で、かんたんな願いである。だがけして満たされることのない願い。
 叶わぬことなど、わかっていた。この賭けは、危険すぎた。
 けれどもそこしか頼る場所はなかった。テッドにはほかに行くところが、もうどこにもなかったのだ。
 死か、地獄か。断崖でテッドが突きつけられたのはまさにその二択であったのだから。
「テッド、なにを考えているのだ」
 考えたりなんかしていない。思考することはもう疲れた。おれはただ、あんたにその名を呼んでほしいだけだ。
 もっともっと、名前を呼んで。
 テッドだ。
 おれの名前は、テッド。
 どうせ壊れかけた人形だ。哀れに思うならばその名前で適当に繕ってほしい。そして二度と崩壊しないよう、永久に凍りつかせて。
「笑っているのか。フン。人間というものは、まったく理解ができぬ。妙な気を起こさぬならば、まあ、よい。わかっておろうな。おまえを救うことができるのは、我だけだ」
「……わかってます」
 絹のようにしなやかなローブが、独占欲を剥きだしにして肌にからみついた。その感触は装着者を煉獄の虜にする。意志をもった布地は囚人を護り、同時に監視する。焔の呪による二重の封印など蛇足のようなものである。無駄な保険を掛けなくとも、ローブはせっかくの獲物を手放しはしない。
 ああそうだ。素直に飼い犬になっていればよい。すべての苦しみから解放されることを望むなら、そうすることがただひとつの方法なのだから。
 わかるな、テッド。いい子だ。
 名前を呼ばれるたび深い虚無感と安堵につつまれる。壊れた心から血が流れ、いつしか血液は失われ、緩慢に死んでいく。苦痛も悲しみも感じない。
 その死は眠りにも似ている。二度と目覚めることのない永遠の眠り。
 やがて心が、そして躯が冷たい屍となる。
 名前はどこをさまようのだろう。地獄だろうか。それとも、さらに過酷な流罪の地か。
「テッド、来るがよい」
 吸い寄せられるように、脚が動いた。ごつごつとした手のようなものが少年を招き、首の鎖に触れてきた。
 シャラン、とそれは重い音をたてた。
 テッドはピクンと硬直した。
 スッと心が沈澱するのがわかった。首のぐるりを縛めた鎖は感情を封じこめるとともに、迷いや怯えも吸収するらしい。だから長く装けていればいるほど、依存せずにいられなくなる。それを失ったときの反動を考えると、物理的な重さなどさほど苦にもならない。
 自縄自縛に勝る檻はない。あるじはそれを巧みに利用する。
 駆け引きを諦めたらあっというまにこちらの負けだ。
 ぼんやりと痺れた巡らない頭で、テッドはひたすらに笑った。人間を陳腐だ愚鈍だと蔑むわりには、人間によく似た姑息な手を使うじゃないか。自分の思想がよっぽど秀でていると勘違いしているのだろう。自画自賛も大概にしやがれ。
 薄ら暗い恨みごと大いに結構。じつに人間的で、低俗である。身勝手にも人を策謀の駒にしようと企んでいるらしいが、その手は喰うものか。復讐ならば勝手にやってくれ。おれは降りる。
 しかし困った。いまさら反抗でもしようものなら、せっかく懇ろになったのに一気に心証を悪くして、穴のあいた鍋を捨てるように処分されるにちがいない。あのかぎ爪のついた手のようなものでコツンと小突かれただけでも、即死は免れまい。
 交渉の切り札となるはずだったソウルイーターは、乗船の対価としてはやばやと預けてしまった。思えばそれも性急に過ぎた。差し迫った事態ということもあってなんの迷いもなく応じてしまったわけだが、浅はかだったとしか言いようがない。
 ズキンとこめかみが痛んだ。
 笑いが途切れる。
 精神がきりきりといやな音をたててひずんでいく。
 ほんとうはどっちなのだ?
 流れにまかせて沈んでしまいたいのか、それともぎりぎりまで足掻きたいのか。
 ローブがしなやかにまとわりつく。鎖が子守歌のようにささやく。
 考えるのをおやめ。おまえはいままでよく耐えた。もう眠ってもいい頃だよ。
 お眠りよテッド。諦めておやすみ。眠りは死にも増して甘やかだよ。
「やめ……やめ、て」
 闇にひきずりこもうとする悪意と、どうしてだか捨てきれない感情がせめぎあって、まばゆい閃光を発する。軋轢は轟音となり、重力となり、中心にいる少年を激しく蹂躙した。
「たすけて」
 テッドはその衝撃に耐えきれず、船長の足元で昏倒した。

 気がついたら自分の部屋に寝かされていた。
 だれが運んでくれたのだろう。船長だとしたらぞっとしない。借りは最小限で踏みとどまっておきたいのに。
 テッドはぶんと首を振って、眉を寄せた。頭がクラクラする。少し微熱もあるのだろうか。
 体調を崩しても水の紋章があればなんとかなるだろうが、船長にはあまり醜態をさらしたくない。
 船長が武器や水の紋章を没収しなかったのは、そんなちゃちな手段では太刀打ちできまいと踏んだにちがいないからだ。魔力、体力、知力すべてにおいてたしかに導者は人より勝っている。だが頭ごなしに能無し呼ばわりされて、気分のいいわけがない。
 舐めンな、アホ。
 口にはけして出さないけれどそれがテッドの本音である。人の世界のことは人がいちばんよく理解している。寒くて歯の根があわないから暖まる毛布を貸してくれと請われて、不可解な顔をする化け物になにがわかる。
 そこそこ老獪である齢百五十の人間をも、まるで赤子同然の扱い。それが自明の理でも、どことなく腹がたつではないか。
 手中にはまったのは、フリである。いかに巧妙な心理作戦を仕掛けられても、かわす術くらいは会得している。テッドは意図的に、導者の誘いに乗じたのだ。
 罠だろうが低俗な冗談だろうが、享受する価値はあったからだ。
 彼の心はそのときすでに、救いどころのないほどに病んでいたのである。欺きたかったのは導者その人ではなく、病んで病み疲れたテッド、自分自身だった。
 異世界の船はきっかけにすぎない。
 溺れる者は藁をもつかむとはまさにこのこと。藁も藁、あの化け物はぐずぐずに腐れきった藁クズだ。目的のためなら手段を選ばない、かの魔女と同類。他者の持つ紋章をねたみ、我がものにしたがる輩に、まともなやつのいるわけがない。
 それでも紋章を預ける瞬間、テッドはほっと安堵した。気の遠くなるほどのあいだ、自分を苦しめ続けてきた紋章と、これでようやく離れられると。
 紋章自体に物理的な重みなどないはずなのに、ふと右手が軽くなったような気がした。
 それは虚ろというものにも似ていた。
 ごめん。
 そう語りかけてみたものの、離れてしまった紋章の声はもう聞こえなかった。いつもかたわらに寄り添っていた『意志』はもう、いない。
 安堵の裏にあわてて隠したのは、寂寥感。
 契約を違えた者を、真の紋章は許してはくれぬだろう。もっとも身近にいた友が、なによりも彼方に去(い)ってしまった。
 これでもう、生も死も、裏切った。
 人としての死も、再生も、めぐりめぐる新たな生も、テッドには二度と訪れまいけれど。
 ―――これでよかったんだ
 覚えのある気配が顔のまわりをふわりと撫でて通りすぎていった。
「いたのか」
 テッドは寝具にくるまったまま、顔だけを上に向けた。
「悪いけど、いまちょっと紋章つかってやる気分じゃない。あとで、またな」
 身体の芯が熱い。本格的に発熱してきたらしい。でたらめの紋章ごっこではなく、ちゃんとした効果を自分に与えるべきだろうか。
 いいや。面倒くさい。
 『それ』はうろうろと空間をただよっていたが、だんだんと距離を縮めてきて、いつになく積極的に接触をはかってきた。
「勘弁してくれってばよ」 テッドは言いかけて、ふとまばたきをした。「なに。ひょととしておれのこと、心配してくれてんの」
 言葉が通じるはずもないのに、『それ』はまるで返事をするかのように人の形に凝縮した。上半身が前後に揺れている。
 奇妙な既視感を覚えた。目の奥がチクリと痛んだ。
「おまえ、まさか」
 そんなことがあるはずないと思いながら、テッドはいましがた描いた仮定を口にした。
「おれのこと、はじめから知っていたんじゃないのか」
 影はせわしなく収縮を繰り返し、部屋中をくるりくるりと浮き沈みした。
「どこのだれだ、って訊いても、答えられるわけ、ねっか」
 過去に縁のあった者と、この船でばったり再会しても、おかしくはない。往き場のない魂はこの幽霊船にひきよせられて、永遠に囚われる。魂は救済されることなく、果てのない航海に旅立つのだ。
 少なくとも、ソウルイーターに魂を喰われた者はここにくることはできない。ならば、紋章の犠牲にならなかっただれかか。だから『それ』はテッドに恨みなどはなく、ただ懐かしいから寄ってきたのだろうか。
「ごめんな。おまえのこと、思いだせなくて」
 テッドはそっと語りかけて、ちいさく「ありがとな」とつぶやいた。
 自分よりももっと救われない魂になぐさめられるなんて、どうかしてる。
 船のなかをさまようアンデッドたちは、生と死の循環から除外されたことを、その輪にはもう戻れぬことを知っている。けれど生前の恨み苦しみがあまりにも強すぎて、悔いる余裕などありはしないのだ。
 ましてや乗りあわせた赤の他人を案ずるなど、そんなことは。
 それがほんとうなら、彼の魂こそ救われるべきだ。
 自分など後回しでいい。あまりにも心やさしく、あまりにも哀れなその魂をいますぐ救ってくれ。
 テッドの頬をひやりとした障気が何度も撫でた。泣かないで、とささやいているみたいだった。
 もし『それ』に実体があったなら。両の腕で抱きしめることができたなら。
 人を愛することも叶わなかったのに、こんなところで人の情に触れるなんて。
 運命とはどこまで意地が悪いのか。
 どこまで人を試せば気が済むのか。
 望んで墜ちた奈落は無なんかじゃなかった。過去を突きつけ、永遠に責めさいなむ、そこは地獄だ。
 テッドは血の気が失せるほどかたく握った右手を一瞬だけひらいてみた。どんなに悔やんでも、ともに在ったはずの紋章は、もうない。
 魔女に渡さないという祖父との約束を破ったわけではない。しかし、結果としては同じことだ。祖父は命を賭して紋章を守ったのに、次に託された自分は己の命とそれを天秤にかけた。
 祖父にあわせる顔などあるはずもない。
 きれい事や信念だけで、紋章を守るのは自分にはどだい無理だった。
 意地を張ったあげく大切な紋章を道連れに自滅するより、よっぽど賢い方法と言えなくはないだろうか。それすらも弁解に過ぎぬけれど、自分にはこれが精いっぱい。
 亡き祖父がどんな思いで己が身にそれを封印し、どれほど悲壮な覚悟で孫に継承したのか。そんなことは痛いほどわかっている。そしてソウルイーターに取りこまれた祖父が、いまどれほど落胆しているのかも。
 じいちゃん、ごめん。ソウルイーターは重すぎた。残酷すぎたんだ。
 一個人などにはとうてい背負いきれるものでない。だからこそ祖父も村をひとつまるごと人柱にし、村人たちを犠牲にすることで、外部の干渉から隔絶することを試みたにちがいない。
 しかし祖父の宿志はことごとく破られた。ソウルイーターの呪われし力を己が復讐のために悪用しようと狙う魔女が、結界を見切ったのだ。
 阿鼻叫喚。目の前で斃れ、息絶えた人々。家々に放たれた火、炎上する村。魔女の高笑い。そして最後通告。
 世紀をひとまわり半してもまだ、それを思いだすときテッドは病的に震えあがる。忌まわしき記憶は心的外傷となっていつまでもついて回るだろう。
 ひとつだけ、どうしても不明瞭な記憶があるのだ。
 ”逃げるんだ、テッド”
 ちっちゃかった自分の手を握って、村を見下ろす丘の上までひっぱっていっただれかの手。
 あれは、だれだったのか。
 大きくてあたたかい、とても安心できる手。
 ”おにいちゃん”
 そう呼びかけた気も、する。
 あの人。いや、そうではない。あの人たち?
 ”生きるんだ”
 ”強くなりなさい”
 ”けして負けないこと”
 ”テッドくん”
 ”テッド”
 ―――テッド
 最後の声だけは明確だ。あれはおにいちゃんの声だ。おれの名を絶叫する声だ。
 約束を、破った。ことごとく。
 強くなれなかった。紋章の重みに、負けた。生きることも諦めたのに、いま惨めに生かしてもらっている。
 だから自分の居場所はここで正解なのだ。腐乱し、朽ち果て、さまよって。このままもうだれにも再会わずに、薄汚い幽霊は、船長の―――そう、船長の懐で冷たく燃えつづける焔となって。
 いつかほかのだれかを船長がこの船に導いたら、その足元を照らす松明の火となってやってもいい。熱のない、実体のない、心のない煉獄の劫火に。
 人は悪意のないうちならどこまでも残酷になれる。
 祖父を心配させまいと、受け継いだばかりの紋章を無邪気にかざしてみせたテッド。身を切るような思いで最後の希望を託した祖父は、どんなにかつらかったろう。孫の笑みは、死の恐怖をもはるかに上回る壮絶な苦しみを彼に与えたにちがいない。
 孫の後ろ姿に幾度も謝り、遺恨で身を灼いて逝ったであろう『おじいちゃん』。
 紋章の存在意義を正しく理解していなかったテッドに非はない。けれど正当防衛はどんな罪にも増して重い。
 ソウルイーターとともに生き、それを理解してはじめて、テッドは己の重罪に気がついたのだ。
 だからテッドは、意志を持たぬ焔になりたい。
 残酷な運命にあえぐ者が暗闇でつまづかぬよう、その足元を仄かに照らしたい。
 罪がけして贖えぬのなら、テッドは人であることをやめてもかまわない。
 生と死を司る紋章はどこへ往くのだろう。
 テッドがいなくなったあとも人の魂を喰らい、戦乱を招き寄せ、大陸と大海原に深紅の線を引きながら渉っていくのか。
 それとも―――

 少年は逃げてきた。紋章をつけ狙う魔女から、そして少年に関わろうとする人々すべてから逃げてきた。木でできた弓がひとつ、紋章が両の手にひとつずつ、それが少年の荷物のすべてだった。
 世界を歩いて、歩き疲れて、傷ついた脚をひきずりながらもはやこれまでと途方に暮れたとき、少年の眼下に海がひろがった。
 そこは断崖絶壁だった。墜ちたらおそらくひとたまりもあるまい。少年は吸い寄せられるように崖際に近づいた。
 海は濃密な灰色の霧に包まれていた。それは少年が生まれてはじめて見る海だった。
 少年の脳裏をふとだれかの言葉がよぎった。
 ”人は海から生を受ける。死ぬと人はみな海に還る”
 遙かなる大地を旅してきた少年はどうしても海を故郷とは思えなかった。だが帰るふるさとをすでに喪った自分に、まだ還れるところがあるというのは天啓であった。
 その一歩を踏み出すことは、苦しみから永遠に解放されること。
 その一歩はまた、過去を否定し完膚無きまでに裏切ること。
 少年の歩みは止まらなかった。
 とめる者すらもそこにはいなかった。
 一歩ずつ確実に地を踏み、そして、生と死の境界を越えようとした。
 からからと小石が音をたてて奈落へところがりおちていく。
 だが少年の脚は、寸前で動くのをやめた。
 眼下の霧に、黒い影が浮かんでいる。
 船、か。
 そう思ったとき、声がひびいてきた。
 聴覚を経ず、頭の中に直接送りこまれるような感じのその声。
 ―――我と、来い
 それまでずっと無表情だった少年が、うっすらと笑った。
 ―――なんの冗談だ?
 そうして少年は、霧の船の囚人となった。
 少年は感謝などしない。切羽詰まるのを愉しんでいた船長を恨みこそすれ。
 窮地で思いとどまらせてくれてありがとう。そんなことを口にしたら可愛げがないと縊り殺されるだろう。悪い意味で人間くさいお為ごかしが得意なくせに、こちらの皮肉はすぐに斬って棄てようとする。要は口答えを許さぬというわけだ。
 海賊の親玉じゃあるまいし。
 ただし、船長はひとつ妙案をもたらした。
 ―――我とともに復讐しようではないか
 その低俗な思想に、少年がほんの少し興味をもったのは疑いようがない。
 虐げられたから仕返ししようなど、子どもでも嘲笑うだろうこと。自己を神と同化し悦に入る船長を軽蔑し、少年はこの幼稚なたくらみに便乗することに決めた。
 復讐。なるほどね。その手もあった。
 愚か者には思いしらせてやればいいのだ。だれに。自分に。
 少年は同意し、命ぜられるがままに、手持ちの札をすべて手放した。
 ソウルイーター。それを船長は寄越せと言ったから。
 還る海とも訣別した。
 もはや戻ることはできない。過ちだとわかっていても、いちど決めたからには覆せない。
 ”テッド”がおかしな気をおこさないように、封じこめられるものはすべて封じこめてしまった。
「船長」
「どうした、テッドよ」
「……ありがとうございます」
 船長が神経質に嗤うのを、少年は他人事のように聞いていた。
 そうだ、そうして何度でも、心にもないことをいけしゃあしゃあと口にすればよい。そんな情けない己に傷つき、とっとと自我を崩壊させて、死に損ないの魂よろしく悪霊になっちまえ。
 役にたたない弓矢、意味を成さない水の紋章、理路整然とした思考のできないくたびれた魂。許されたカードは伏兵にはほど遠い半端なものだらけ。
 万能なジョーカーを引く奇蹟など、望んだってもう起こるものか。
「そのうち話し相手を、招んでやろう」
 船長の言葉など、少年はもう聞いてもいなかった。鳶色の瞳は焦点を結ばずにぼんやりと泳ぎ、やがてローブの足元に融けた。少年は鎖をひきずりながら、挨拶もせず行ってしまった。
 船長は異形の貌でほくそ笑みながら、後ろ姿を見送っているのだろう。
 だが、いまのうちだけだ。
 従順な飼い犬に気をよくして、せいぜい夢を見るといい。
 あんたは捨て駒など、愛しはしない。
 侮辱する人の子など、愛しはしない。
 だが、少年がどれほど愛されることに飢え、それを願っているか。つかの間の夢を見たら、ふたたびの裏切りの間際にそれを思い知るがいい。
 愛されなかった少年の誓った復讐。それはひどく陰湿で、けして報われるものでも、赦される所業でもなかった。
 いまやほんとうの悪魔は、少年であった。
 断崖の先にあった暗黒。
 じつはそこと平行して、もうひとつの奈落が口をあけていた。
 少年はもっとも深いほうへころげ墜ちたのだ。

 砂時計はあいかわらず横倒しのまま、浅い呼吸をむさぼりつづけた。
 傷だらけのガラス。決定的な自損をいまだにまぬがれているのが不思議なくらいである。
 過去と未来を隔てるちいさな孔には、黒ずんだ砂粒が詰まっていた。幾粒かがそこを通り抜けようと試みたのだろう。
 当て処のない放浪の末に、砂時計は闇を、見た。
 命の拍動にも似た船の軋みは、他人のつくったまやかしだ。だがそれはわずかな時を刻みはじめた砂時計には必要不可欠なリズムであった。
 砕け散るのが先か、粒を数えおわるのが先か。
 然為れば砂はすべて闇にまじる。過去も未来も闇は等しく抱擁する。
 抱擁し、支配し、深く愛す。
 砂時計のちいさな願いは、地獄のその先でこそ叶えられる。
 愛シテ
 砂時計はガラスをかすかにふるわせて、吐息と紛うばかりにつぶやいた。


2006-11-23