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トライアングル

 エルイール要塞が陥落ししたのは、断崖が濃霧にけむる仄暗い日でした。
 最上階にあたる総司令部をめざした本隊はかろうじて脱出を果たしましたが、軍師エレノアだけが戻りませんでした。要塞の崩壊に巻きこまれてしまったのでしょう。慎重な彼女がなぜ突拍子もなく単独行動をとったのか、その理由はわかりません。
 それは崩壊というよりも、消滅に近い感触でした。目もくらむような閃光に我々の船団もなすすべなく呑みこまれようとしました。わたしははっきりと、次の瞬間の死を予感しました。
 きつく閉じた瞼の裏側に、なにか別の色の光が躍りました。
 ふたつの異質な光が互いを押し戻そうとしているかのようでした。海を越えてこちらへ向かってくる光はすべてを跡形もなく破壊し尽くす光。船から発せられた光は、それよりはるかに邪悪な彩りを帯びた光でした。信じがたいことにその邪悪なる光は、たしかに我々を守ろうとしました。あれほど忌み嫌われた『罰』の咆哮は、生を分け与える大いなる許しの声でありました。
 けして用いてはならぬと封印された真の紋章が発動したのです。
 27の真の紋章の巨大な力と、人がそれを持つことのおそろしさを、わたしはそれまで正しくは理解していなかったのだと思い知りました。と同時に、罰の紋章を宿した少年が皆を守るために自らの命を紋章に捧げる姿を、せめてもの償いにしっかりと目に焼きつけておかなければならない、そう思いました。
 わたしはがたがたと震えながら目を見開きました。
 いちだんと強く輝いたあと、光が急速に収縮しました。ふたつの力が相殺しあったようでした。少年の身体は支えを失ってぐらりと傾ぐところでした。
 ああ、神よ。
 やはりあなたは生贄をお望みなのですか。
 強欲なる創世の神よ!
 王がよろめきながら倒れた少年のもとへ駆け寄りました。実の父子のように目をかけておられたのですから、その後悔は如何ばかりだったでしょう。紋章を使わせまいとした己が、真っ先に紋章に助けを乞うたのです。あまりにも哀しすぎる代償を知りながら、民の命を救おうとなさったのです。
 悲痛な叫びでした。王は少年の名を絶叫しました。
 ノエル、ノエル、ノエル!
 なんて事だ……おれは………
 まるで眠っているかのように安らかな表情の少年は二度と目をあけることはありませんでした。
 しんと静まりかえる甲板上でわたしもしばらく凍ったように立ち尽くしていました。エルイール要塞の崩壊する音も耳には届きませんでした。
 轟音はひそやかに。大気の震えは深閑として。
 船底に打ちつける波のリズムだけが葬送の音楽のようでした。
 ひとつの終焉を迎えたオベル船に、やがてすすり泣きの声が満ちました。束縛から逃れたように甲板にもたれたわたしの前を、あの男の子がスルリと歩いていきました。
 彼もまた前線要員として本隊に迎えられ、ノエルとともに要塞を脱出してきたのでした。くすんだ緑に近い青のコートは石壁の瓦解屑で白く汚れていました。彼は人々の輪から少し離れたところで足をとめました。
 彼とわたしは同じ弓部隊としてチームを組んでいましたから、その内向的な性格もとらえどころのなさも、あるていど把握していました。頑ななまでに胸の内を晒すことをしない子でした。ひとりが好きなのかとはじめは思いましたが、そうではない、彼は人に怯えているのだとやがてわたしは気づくことになりました。
 弓部隊は彼のほかに、オベルの王女フレア、背のすらりと高い温和な青年アルド、山賊兄弟の末弟ロウハクがチームでした。いっそ愉快なくらいに縁もゆかりもバランスもない面々でしたが、弓の腕はみな確かでした。圧倒的なスピードを誇るロウハクがまず射るとそれに皆が続きました。幾度も実戦を繰り返すうちに呼吸もぴったり合うようになり、オベル王を唸らせました。
 しかし戦場で最高のチームワークを誇る弓部隊は、ひとたびそこを離れると人間関係は最悪のひとことでした。その元凶となっていたのが彼、テッドでした。
 チームの中でいちばんの戦力であることは誰もが否定しません。その証拠に高度な技を要する協力攻撃はテッドの参戦を前提としなければ成り立ちませんでした。それを彼自身に認めさせるために訓練官のラインホルトがどれだけ苦労したことか。
 究極の自分本位。けして他人を見下しているわけではないのですが、不快感や嫌悪を人に与えるにはじゅうぶんでした。当然のように人は彼から離れていきましたし、彼もまたそれを望みました。わたしはチームを組むことでテッドの隠された裏側もほんの少しのぞくことができましたが、それがなければおそらくはもっとも印象の薄い乗組員だったろう彼に目をとめることはけしてなかったでしょう。
 放心状態のわたしの目はテッドに向けられていました。なぜなのかはわたし自身わかりません。わたしには嘆く人々の輪に加わる意志はありませんでしたし、かといってこの場をいますぐ離れることも躊躇われました。テッドも同じ心境だったのかもしれません。
 無口でぶっきらぼう、どこか疲れような表情をつねに浮かべていたテッドが感情を爆発しかけるところを、わたしは何度か見たことがありました。人より行動をともにする機会が多かったせいもあるでしょう。わたしもまた無意識に、テッドをわけもなく気になる存在として追っていたのかもしれません。
 日常ではアカギがことある事にテッドと悶着を起こしていました。とはいっても仕掛けるのは必ずアカギのほうで、テッドは一方的にからまれるだけでした。何を言われても無視を続けるテッドにアカギはよけい苛立ちをつのらせました。それを傍観しながら内心アカギに賛同する船の仲間もけっこういたように思います。
 アカギは吐き捨てるようにテッドに言いました。
 人の心もわからないくせに、自分が絶対だと思うなよ!
 テッドは背中で罵倒を受けとめて、ほんのかすかに表情を緩めました。それに気づいたのはおそらくわたしと、少しの方々だけでしょう。
 わたしには彼が寂しげにほほえんだように思えました。
 人の心を誰よりも敏感に感じとってしまうからこそ、まったく筋違いな揶揄を否定できなかったのでしょう。
 人には口や態度で示す以外にもできることがあります。
 ただそれをするのは、すごく難しいこと。誰だって自分をよく見せようという心理は捨てきれないはずです。他人のためにじっと耐えること、一歩後ろへ退くことは歳を重ねた大人でもなかなかできるものではありません。誤解されることもあるでしょう。そう、アカギのように目に見える形で自己を表現する者にはとくに。
 アカギはその比類のない正直さゆえに、テッドを憎んでしまったのです。
 責めるまい、と思いました。
 人々の輪の中心ちかくにアカギの姿が見えました。彼もまた大きな喪失感に震え、唇をきつく噛みしめていました。
 号泣がうねりとなって船を包みはじめました。
 ひとつの戦いは終わり、我々はこの先に導かれようとしています。クールーク皇国との関係がどのように進展するのか、あるいは後退するのか、それすらも先の見えぬこれからのことです。
 わたしの旅もまだ終わりません。グレアム・クレイが悪魔に魂を売ってまで手にいれようとしたものもエルイール要塞とともに失われてしまいました。わたしは未だ真実にたどりつけずにいます。
 すべての終わりはすべての始まりであると言った者は誰だったでしょうか。
 遠い昔に読んだ本の一節かもしれません。
 じっと身じろぎもせずに前を向いていたテッドがゆるりと揺らぎました。
 右手をそっと持ちあげ、革手袋に包まれた掌で心臓を覆いました。それははるか遠い地で遊牧民族の行う祈りのしぐさに似ていました。唇が小さく動きました。なにか短い言葉をつぶやいたようでした。
 そして、静かに閉じられた瞳に。
 わたしは、この世でもっともつらい涙を見ました。
 胸が詰まりました。知っていたのです。ノエルがこの船でただひとり、テッドのことをほんとうに理解していたことを。
 テッドは唯一の友を喪ったのでした。
 いえ、友というのは正確ではないかもしれません。ふたりがどのような間柄だったのか、それはわたしにはわかりません。ただ話に聞き知っていたのは、テッドを船に乗せたのはノエルだったということ。オベル王の危惧を振り切り、仲間に引きいれたということ。
 星を見極めるのはオレじゃねえ。あいつが信頼すると言うんだ。まかせるさ。
 オベル王は豪語しましたが、不安はあったのだと思います。テッドがふつうの少年ではないことは王でなくともわかります。なによりもあけすけに使うあの右手の紋章。
 背筋が凍るような邪気は罰の紋章を凌駕するほどでした。敵の生命力を吸収し自分のものとするのです。テッドはそれを使うことになんの躊躇もしませんでした。敵がモンスターであろうとクールークの人間であろうと、冷酷に発動を許しました。
 まるでそれを見せつけることで他人を遠ざけようとしているかのようでした。思惑どおり、よからぬ噂がひろまるのはあっという間でした。あれもまた呪われた紋章なのではないかと疑う者もおりましたが、そんなはずはないと否定する者がほとんどでした。
 伝説の紋章がひとつところにふたつ存在するのは奇蹟にも近いのです。
 いえ、ひとつの紋章にしてもその存在自体が皆にとっては奇蹟のようなものでした。
 すなわちオベル船に27の真の紋章のうちふたつが揃うことは、ありえない。
 ありえないのですから、ノエルは仲間たちにとって光であり、テッドは影であったのです。まばゆい光と、闇にも似た影と、集められた星々。それは大海原に祝福された深蒼の大三角形でした。
 テッドの涙が頬を伝わってこぼれ落ちました。ほんのひと筋。声をあげることもなく、肩を震わすこともせず、誰にも知られることのない暗闇の中で彼は泣きました。
 それから長い長い時間がすぎたような気がしました。
 南進政策が頓挫し、クールーク皇国と群島諸国は実質的な停戦状態となりました。群島は英雄を失いましたが、クールーク皇国も群島を植民地とすることにさほど熱心ではありませんでした。南進政策そのものがエルイール要塞の一存で進められたものであったらしいのです。皇国では内部抗争の動きがあり、国境紛争よりもむしろそちらの方が心配の種になったようでした。
 二日後にオベル王が群島諸国に向けて歴史的演説をするというので、わたしはそれまでオベルにとどまり旅の支度をととのえることにしました。フレア王女の心遣いで王宮に寝室をお借りしました。
 フレア王女は王族らしくない気さくな方で、わたしが敬語を使うのを嫌いました。弓部隊の女性同士、会話をしているうちにすっかり意気投合し、わたしたちは友人になりました。旅を続けるわたしにとっては村を出てからはじめてできた女友達でした。
 フレデリカさんは旅をつづけるのね?
 ああ、そうだ。
 フレア王女の目が心配そうに潤み、わたしにまっすぐ向けられました。
 訊いていいかしら。それは、村を焼かれた復讐のため?
 わたしは戸惑いながら王女を見ました。真剣で、そして悲しげでした。
 憎しみはまたいつか戦いを招くわ。わたしはこの地上に争いや悲しみのない、そんな国をつくりたいの。
 わたしは笑顔を彼女にお返ししました。もちろん嘘のない、本心からでした。
 わたしはただ真実を知りたいだけだ。弱き者が強者の横暴により殺されていくことの二度とないように、わたしは真実を探す。それが、わたしなりの弔いのやりかただしね。
 王女はうなずいて、安心したようにニッコリと笑いました。
 また、王宮に遊びに来てくださる?
 ああ、必ず来るよ。この国は美しい。海と太陽の恵みをうけた群島はほんとうにきれいなところだ。わたしはこの国が大好きだよ。
 フレア王女と同じことを、いつかテッドも口にしていました。あれは戦いが一時的に沈静化した、静かな夜のことでした。わたしはいつものように船の図書室で本に没頭していました。
 図書室を日常的に利用する者はほんとうに少なく、テッドはそのひとりでした。いったいこの少年の頭のなかにはどれだけの知識が詰まっているのかとのぞいてみたくなるほど、テッドの集中力はすさまじいものでした。それは本が好きであるというレベルを軽く越えていました。
 わたしはいつしか興味を抱きました。必要以上の会話はいちどもしたことがありませんでしたが、その日に限って話しかけてみる気になりました。
 本が、好きなんだな。
 テッドは手にしたページから頭をあげました。ほかのメンバーよりは見知った仲です。彼は別段無視をすることもなく、軽く返しました。
 べつに好きってわけじゃない。
 そこですべての会話が終わってしまうほど、完結された答えでした。
 そのまままた本に目を落としましたが、意外にも言葉を引き継いだのはテッドでした。
 フレデリカさん、人間狩り事件のことを調べてるんだって?
 視線はあわせようとしませんでしたが、彼の声はあきらかに関心があることを告げていました。
 ああ、そうだが。おまえはなにか知っているのか。
 そういう、わけじゃない。ただ……
 ただ、なに?
 テッドはひと呼吸考えて、ゆっくりと続けました。
 ただな、あんたがそこまで事件を追っているのは、復讐のためかなと思っただけだ。
 わたしは沈黙してしまいました。そのときのわたしには、自分の目的が少しわからなくなっていましたから。テッドに指摘され、迷いがこみあげてきました。
 さあ。どうなんだろうな。
 テッドの目がふたたびわたしを見ました。幼さを残した大地の色の瞳でした。
 わたしには、わたしがわからないんだ。
 無意識にそう呟いたわたしに、テッドはこう言いました。
 自分がわかるやつなんて、いるのかよ。
 ……え?
 なにもかもわかっていたら、ここにいる意味なんてないじゃねーか。
 ぱたり、と音をたてて本が閉じられました。手にした本の表紙には古代文字をいたずらに組み合わせたような挿絵があり、金で題名が箔押しされていました。
 ”創世のものがたり”
 図書館司書のターニャが持ちこんだ本の山では珍しい、子ども向けの童話でした。
 わたしはテッドの言葉に驚いて、まじまじと彼を見ました。年齢がひとまわり近く離れているとはいえ、ふだんは奇妙なほど大人びた彼です。その表情が突然、年相応に引きつりました。
 な、なんだよ?
 どぎまぎするテッドを見たのははじめてでした。図書室にふたりきりということを急激に意識したのでしょう。そのようなことで動揺する子だとはほんとうに意外で、わたしはなんだかおかしくなりました。
 くすくす笑いをこらえきれずにいると、追い詰められた子猫のようにテッドは髪の毛を逆立てました。
 かっ、構、おれに構っ……
 両の頬が羞恥でみるみる真っ赤になりました。失敗した、と顔に書いてあるようでした。
 おかしいを通り越してだんだん哀れになってきたので、わたしはからかいたい気持ちをぐっと我慢しました。こんなことでチームを抜けられてはたまったものではありません。
 ああ、笑ってすまなかった。信じてくれ。おまえの言ったことをばかにしたわけではない。ただね、ふと、うれしかったんだよ。
 うれしい?
 そうだ。人はみな迷子なのだな、と思ったらね。わたしも、おまえも。
 わたしは道を信じられなくなることで自分をきらいになりかけていたのです。迷いは恥ずかしいことであると思っていました。それをテッドは否定し、人は誰しも迷うことがあたりまえなのだとわたしに言うのです。
 嬉しかったのです。旅の目的が正しいか正しくないか、それは旅をするうちに見極めればよいのだと言ってもらったことが。ずっと抱いていた心のもやが消えていくような気がしました。
 わたしがここにいる意味。それは、真実を知るためです。
 わたしは感謝の気持ちをこめてテッドに言いました。
 ありがとう。わたしはまだ歩いていけそうだよ。
 テッドははにかんだように首を縮めました。
 探し物がみつかるように、祈ってるぜ。
 テッドらしくない台詞でしたが、精一杯口にしたのでしょう。そうして彼は、聞こえないほど小さな声で驚くべき事実をわたしに告げました。
 おれもむかし、村を焼かれて、失ったんだ、みんな。
 ほとんど独り言でしたが、それはわたしを驚愕させるにじゅうぶんでした。
 胸のなかに熱いものがこみあげてきました。
 テッドをどうしても放っておけなかったのは、この子がわたしと似た過去を背負っていたからだったのです。選んだ生き方は違えど、わたしたちには理解しあえる絆があったのです。
 みんなには、言うなよ。
 テッドは感情を殺してぶっきらぼうに言いました。彼が望むのですから、他言するつもりはありません。
 たったいちどだけの約束は、おそらく永遠に守られるでしょう。テッドはオベルを旅立つとき、わたしと目があいぺこりと頭を下げました。旅の荷物と弓矢を背負った背中はとても小さく、彼がこれから遭うであろう幾多の困難を想像させました。
 達者でな。
 わたしの声は彼に届いたでしょうか。
 やがてわたしは彼を追うひとりの青年に気がつき、ほほえみました。
 アルド。ああ、そうか。テッドについていくと決めたんだね。
 彼を、よろしく。
 あの寂しげな迷い子が、ほんとうの暗闇で道を違えぬように。
 わたしの後ろで、ロウハクの軽快な声がしました。
 けっこう、いい奴らだったよな。もう会うことはないかもしれねえけどな。
 わたしは、ひさしぶりにすがすがしく笑いました。
 愉しかったな、ロウハク。
 ああ、愉しかった。
 ここはまだ旅の途中。わたしには消し去ることのできない過去も目を反らすことのできない未来もあるけれど、いまこの瞬間をとても大切に感じています。
 いつか美しき海の都オベルを懐かしむこともあるでしょう。時間を共有したわたしたちはいつでも想い出のなかで出会うことができるはずです。
 星たちよ、その日までさようなら。未来永劫、涙とほほえみと真実で煌めいてください。いつか天に召されるまで深蒼の大三角形をその輝きで飾ってください。

群島諸国統一元年 フレデリカ 記す






2005-11-20