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イワシの憂鬱 マグロの躁狂

海の荒れた日

 嵐をやりすごすために島影へと移動の途で、ふいの横波を舷側に受けて船体が大きく傾いた。
 群島でも有数の巨大船である。操舵技術も確かなはずで、通常は揺れが乗組員に恐怖を与えることは滅多にない。多少の高波であれば、船に危険が及ばない波の乗り方を船乗りたちはみな熟知している。だからこの程度の嵐で被害をこうむったとするなら、それはあきらかに人的なミスである。
 しかし人のやることに失敗はつきもの。この一回に限って言えば、たいした問題ではない。
 だがオベル王国の難民船は、訓練された船乗りより一般市民のほうが圧倒的に数が多かった。
 船内のあちこちで悲鳴があがり、荷の崩れる音や何かの壊れる音が大合奏した。
 図書室では棚を壁に固定していた鎖が加重で切れ、何万冊もの本が雪崩れた。現場から救出されたトレジャーハンター・ルネ(14)はのちにその恐怖を語った。「わたし、いつも一生懸命地面を掘っていますけれど、まさか自分が掘りおこされることになるとは夢にも思いませんでした」
 施設街では鍋釜が中身を満々とたたえたまま宙を飛び、昼食用に用意された熱々のトマトスープは右舷側を直撃した。さらにはそこに、対岸から不良在庫ののろい人形が大量に降りつもった。トマト汁にまみれたのろい人形は見る者を恐怖のどん底へ陥れたという。
 幸か不幸か道具屋も福引き屋も不在だったため人的被害は免れたものの、小さな店舗は惨憺たる有様だった。医務室から転げるように戻ってきた福引き屋のバンは、ネコアレルギーの薬をぽとりと落としたことにも気づかず、くしゃみをこらえたような表情を張りつけたまま地蔵と化した。
 怒号と悲鳴の飛び交う中、音量最大にして遠慮のない艦内放送が割ってはいる。
『あー、えー、こちらはブリッジ。おい、これちゃんと通じてるんだろうな? えー本日は晴天なり、総員ご機嫌麗しゅう!』
 ガンガンガン。マイクを叩いてみたのだろう。キーン。凄まじいハウリングに誰もが思わず耳を塞いだ。しかし操船主任のジャンゴ齢四十六歳、粗野な大声は耳栓をも無情に突き抜ける。
『ゴホン。えーそのー、有り体に言うとちいとばかりミスっちまった。諸君はなにかと言いたいこともあるだろうがまあそういうことだから勘弁してくれ。あー以上』
 ブツ。
 誰かが乗せたネコがシッポをブンブンに膨らませてスピーカーを威嚇している。
「自分のせいでごはんが全滅だって知ったら、あの人、どうするのかなあ……」
 若き厨房主任フンギのボソリとつぶやいた至極真っ当なセリフを合図に、施設街がお通夜に突入したかのごとく静まりかえった。

 管理職を含む乗組員総出の後始末にめどがついたのは、陽も傾きかけた午後五時。非常食のパンだけではみな腹ぺこだろうと、手の空いている女性はこの日ばかりは炊き出しを申し出て、いつもの晩より少しばかり豪勢なメニューがテーブルに並べられていた。
「うわぁ、すごいなあ」
 様子を見に来たリーダー、ノエルの声も明るい。外は大雨だが、風裏に避難したおかげで平穏なものだった。いっぱい食べて、たっぷり眠った頃には嵐も去り、爽やかな青空がひろがる。
 海上騎士団にいたころには何事につけ常に一歩退いていたノエルだったが、クールーク皇国に対抗する勢力の実質的な本拠地となった船の上では、少し様子が違っていた。同期のケネスに言わせると、明るくなった。背負うものは以前よりはるかに過酷で重いはずなのに、ノエルは自ら民を率いることで目的ができ、精神的に強くなったのであろう。
 ケネスはふっとほほえんだ。ほんとうにいい顔で笑うようになった、と。
 願わくばその左手の呪いが彼を責め苛むことなかれ。
 激しく轟く雷も船内の喧噪に屈して、熱気と笑いの渦にとけていく。
 ひとりの青年が血相を変えて飛び込んでくるまでは、陽気で楽しい海上の夜であった。
「テッ、テッドくんが、どこにも、いなくて」
 走り回ったのであろう。息を乱しながら、喘ぎあえぎ伝える。一同がシーンとして青年アルドを凝視するなか、ノエルが訊いた。
「いつから」
「午前中にはたしかにい、いたんだよ」
「心当たりは捜してみたの」
「ぜんぶ捜した。でも、でも、いなかった」
 年長のコンラッドが落ち着かせるように諭した。「今日はいちども港に停泊していない。彼のことだ、昼間の騒ぎを避けてどこかで昼寝をしていたり、本に没頭したりしているんじゃないのかね」
「タンスの中から風呂の底までぜんぶ、さ、捜したんだよ!」
「落ち着けアルド」とフレデリカ。肩に手を置き、イスに座らせる。アルドはこぶしを膝の上でぎゅっと握った。細い指が白くなるくらい、力を込めて。
「僕、こうしちゃいられない。テッドくんになにかあったんだ。もっと気をつけていればよかったんだ。僕、気がつかなくて……もし」
 数瞬の沈黙。
「……もし、昼間のあのとき、テッドくんが……」
「ああ。そういやあいつ、しょっちゅう甲板で海見ながらボーッとしてたっけな」
 アカギが含みと嫌悪を込めた口調で言う。「落ちたんじゃねーの?」
「アカギさん!」
「それに」制止も聞かず、フンと鼻で笑う。「いつも飛び込みたそうなツラしてたしな」
「その冗談、笑えないよ!」
 さすがにカチンときたらしいジュエルが言い終えるより先に、アルドがイスを蹴ってアカギに掴みかかった。
 凄まじい力で胸ぐらを引き寄せる。温厚なアルドがはじめて見せた激情であった。だが拳は振り下ろされはしなかった。
「殴らねェのかよ」
「こんなことしている場合じゃないんだ」
 アルドはくぐもった声でつぶやいてから、アカギを解放した。
 アカギもそれ以上はなにも語らず、鼻を鳴らして去っていった。
 アカギがアルドに対するテッドの態度に腹を立てていたことは皆承知している。アカギも根っからのお節介故に、我慢ならないこともあったのだ。
 アルドはぞっとした。
 怖ろしい予感はあった。自分も、アカギと同じ事を恐れていたのだから。
 テッドは一日のほとんどを自室で過ごし、たまに図書室に出入りする程度で目立った行動はなかったが、甲板は別だった。彼のいつもの場所は右舷側の死角。頻繁に接岸する左舷側を嫌いそこに自分の居場所を求めたことは彼らしかったが、離れたところからそっと様子を窺っていたアルドには、いつもどこか心にひっかかる思いがあった。
 テッドは身じろぎもせず、暗い海を見つめていた。
 表情のない目。
 餌を求めて寄ってくるカモメにすら興味を示さない。
 ただひたすらに、その茶色の瞳に映すもの。それは底知れぬ黒色の波間であった。
 いつかそのままふらりと手すりを乗り越え、まるで決められた行動のように飛び込むのではないかとアルドは危惧した。
 何度も話しかけようと思って躊躇した。できなかったのだ。
 わけを訊こうと思えば、いつでも訊ける。だがこの場所ではけして問うまい。そのかわり、彼が身を乗り出したら自分はいつでもその身体を掴んでみせる。暗い世界になど、絶対に渡さない。
 船は大波を受けて右舷側に傾いた。
 もしあの時も、テッドがあの場所で荒れる海を見ていたら────いや、きっと見ていたのだ────投げ出された運命に抗うことをしなかったら。
「アルド!」
 ノエルの力強い声で現実に引き戻され、アルドは手で口元をおさえた。それとともに、ガタガタと震えはじめた。
「どうしよう」
「だいじょうぶだよ、アルド、大丈夫」
 ノエルはスッと立ち上がり、アルドを勇気づけるためにわざと翳りのない声で、皆に指示を与えた。
「みんなおなかが減っているところ悪いんだけど、もうひとがんばりしてくれないかな。とくに彼の行きそうにないところを徹底的に捜してみて。手分けして捜したらきっとすぐにみつかるよ」
 それからアルドに向かって。
「海の捜索をリーリンに頼みにいこう。外はもう暗いけど、人魚の彼女たちは夜目が利くって聞いたし」
 声を落とす。その口調はいたわりとやさしさに満ちている。
「それに、テッドならたぶん、バカなマネはしないと思う。信じようよ。信じて、もう少し捜してみようよ。諦めちゃうのはきみらしくないよ」
 ぱたぱたと涙が落ちた。切ないほどテッドを想い、テッドの抱える寂しさに誰よりも敏感に気づいているアルド。純粋でただただ美しいその涙に驚愕しながら、ノエルはふと、未だ和解していないかつての友を想った。そうだ、諦めちゃいけない。諦めるのはまだ早い。


イワシの憂鬱

 衝撃を感じて反射的に足を踏ん張ったが、もともと肉のついていない身体は簡単に飛ばされた。目の前で積んであった木樽が床を滑っていった。
 ドン。
 壁を破りこそしなかったが、そこにあったドアを機能不全にしたのは間違いない。
 危ないところだった。もし反対側にいたら、壁と木樽のあいだで煎餅になっていた。
 何が起ったのだろう。敵襲ではあるまい。座礁も考えにくい。高波を受けたか、ブリッジがふざけたかのどちらかであろう。
 その答えは耳をつんざく艦内放送の轟音で得ることができた。
「勘弁して欲しいのはこっちだよ」
 テッドは木樽に両手をかけて、力任せに押してみた。思った通りだ。重すぎてビクともしやがらねえ。
 中身は飲料用の真水だ。それが天井スレスレまで三段に積んである。封印は厳重で、自分ひとりの力でどうこうできるしろものではなかった。
 破壊しようにも、武器は自室に置いてきている。工具を探してみたが、それすらも見あたらない。
 たったひとつの出入り口は幾重にもかさなった木樽に塞がれてしまっている。
 さあ、どうする。
 最下層の第五甲板にたくさんある倉庫のひとつである。声を張りあげれば誰かに必ず聞こえる。無駄な抵抗はせずに、おとなしく助けを呼んだ方が賢い。
 外の通路を走る複数の足音が聞こえた。気づいてもらおうと声をあげかけ、テッドは止めた。
 救助を求める行為が何故か、自分に似つかわしくないような気がした。
 ふとそう感じたら、いきなり面倒になった。
 慌てて人の中に戻ることはない。
 誰かが勝手に気づくまで、ここで気を失ったふりでもしていようか。
(たすけてー、か。ハッ)
 テッドはふう、と息を吐いて、視線を虚ろに漂わせた。
 ……いやなことを思い出した。
 『霧の船』。
 ノエルはテッドを救う目的で来たわけではなかろう。むしろ逆。あいつは自分が救われる道を望んでいた。
 テッドはその迷いにつけ込み、『あちらの世界』にノエルを誘った。
 どうして、そんなことを。
 命令されたから。抗うすべは自分にはなかったから。いや、それは誤りではないが正確でもない。
 ひとりで煉獄に堕ちるのがいやだったんだろう、テッド。
 自嘲する。
 結果として、ノエルは霧の船からテッドを連れだした。
 確かに、鎖を切り、束縛するものを脱ぎ去り、這いあがったのはテッド自身の意志だ。
 だがノエルがいなかったら、いまもまだ自分は、濃い霧の中に幽閉されていただろう。
 きっかけは、あまりにも単純で不確か。いい機会とか、成り行きとか言うたぐいの馬鹿げたものだ。要するにきっかけなどはすべて後付けの理屈にすぎないのだ。
 ノエルだ。
 深い蒼青色の瞳を持つ少年。
 償いと許しを司るという左手。
 真闇の道を二度と戻れない場所へノエルを導きながら、いま自分はけして許されないことをしようとしているのだ、とテッドは思った。心がざわざわと騒いだ。ただひと言、ノエルがそのひと言を発してくれたらテッドはまだ霧の海に沈澱したままでいられたのに。
 「たすけてくれ」という言葉。
 ノエルは遂にそれを口にすることはなかった。
 現実の世界にやり残したことがある、とノエルの瞳は語っていた。
 迷いはあったのだと言う。ただ、テッドと短い会話を交わすことでその迷いは断ち切られたような気がするよ、とノエルはだいぶ後になってぽそりと言った。
 宿主たちは救われる道を渇望しながら、それを振り切って戻ってきたのだ。
 なにか大いなる意志が、そちらの道ではない、と宿主たちを引き戻したのかもしれない。
 現実へ戻ればノエルもテッドも、簡単に人の波に紛れることのできる少年である。当然のようにそこには悲しみも苦しみも用意されている。
 もとはといえばその悲しみや苦しみに耐えかね、救いを求めた先がいわゆる黄泉の導者だったわけで。生者としては存在できぬ、死者としては存在できぬ、永遠という虚ろな存在がどれほど苦痛か哀れにもテッドは知らされもせず、ただ利用され。
 結果として犯してしまった生と死への完全なる裏切り。
 報いを、テッドはいま受けている。人の中に存在するための孤独。差し伸べられた手を拒絶する孤独。無関心を懇願する孤独。やさしい言葉やいたわりの心に恐怖し絶望し身を震わせて、それでも必死に生きなくてはいけない。終わりは見えない。大いなる意志が、終わらせてもいいとテッドを許すまで。
 もうそこから逃げないと決めた。
 決めたのだ。救いは二度と求めるまい。
 おれは百万世界の生と死を司る者の宿主。
 だからみな、自分のことなど忘れてしまえ。一刻も早く、嫌悪してしまえ。禁忌を畏れおれを恐れろ。おれの魂に近寄るな。
 空も大地も大海原も人も、誰もおれを祝福するな。
 テッドは木樽に背を預けてクスクス笑った。案じずともどうせ誰も来やしない。それどころか、居ないことを心配するヤツが何人ぐらいいるか、そっちが見ものだ。
 どうせならこのまま誰も気づかなければいい。
 約一名、お節介が吼えるかもしれないけれど、どうせ誰も本気で相手にするもんか。
 自分が居なくても勝手に舞台は進んでいく。
 勝手にクールークと戦い、勝手に歴史を変えればいい。
 海戦で土手っ腹に穴を開けられたら、この倉庫など真っ先にお終いだろう。そうなったらそうなったでこっちは都合がいい。
 テッドは笑いを徐々に薄めていくと、焦点の合っていない瞳を天井に向けた。電球はあるがひどく薄暗い。闇に負けて感情が麻痺していく。
 霧が、晴れないじゃないか。
 疲れていた。
 仲間とか、チームとかいうものがこれほど煩わしいとは想像しなかった。避けていれさえすればよいという当初の思惑は見事に外れ、テッドは自らが災いにならぬためにギリギリのところまで神経をすり減らしていた。
 戦争になど、手を貸さなければよかった。
 契約を反故にすることは簡単にできた。寄港した地で、二度と船に戻らなければよい。幾度となくそうしようと思ったのだが、足はふたたび甲板を踏むのだった。するとこれもいつものことで、幼いラクジーがこんな自分にもにっこり笑って言うのだ。「お帰りなさい、テッドさん!」と。
 帰るつもりなんてなかったのに。
 嫌気が差し、苦しくなると暗い海に目を奪われた。気づいていたのだ。もっと簡単な方法がそこにある。そしてそうすることは、ほんとうにいつでもできた。
 いつでもできるからこそ、テッドはその方法を選ばなかった。憧れて、傍に置いておくだけ。
 もしも他人の考えていることが覗ける者がいたとしたら、ぼーっと海を見るテッドの思考に戦慄しただろう。
 テッドは願っていた。
 ノエルの死に様を見ることを。
 そこに自分を重ね合わせる為。
 ちっぽけな人間が、真の紋章という人知の及ばない呪いに貪られ、苦しみぬいて死す様を。
 死は安住の地なのだろうか?
 どうせなら死してなお、呪いにがんじがらめにされその苦しみが続けばいい。
 獲物にされてしまったのが自分だけではないという目の前の証が、自分に唯一許された魂の安らぎのような気がした。
 ここにあと少し居たら、見られるのだ。
 ノエルの呪いは、飽きっぽい。次の獲物に寄生したら、さっさと元の宿主を用済みにする。奪えるものはすべて奪い、宿主を渡り歩いていく。
 ノエルの最期を見てしまったら、どうするのだろう。
 どうもしない。いままでの旅となにも変わりはしない。人の波に紛れながら、この世界か自分の命、どちらかが果てるまでソウルイーターとともに逃げて逃げて、逃げ続けるだけだ。
「あはははは。イワシみてー」
 馬鹿げた独り言。
 あの数だけは腐るほど多い、個々の存在感のないイワシ。
 天敵から逃げて逃げまくって、同じ姿、同じ寿命を持つ仲間が星の数ほどいるけれど、おそらくその一匹一匹はみな孤独に違いないんだ。
 何億匹の中に、悪魔に魅入られたイワシがひとつふたつ混ざっていても誰も関心を持ちやしない。
 なあ、ノエル。
 お前はなんで足掻いたりしないんだよ。
 はやばやと諦めちまったのか? なんでそう物わかりが良すぎるんだか。
 テッドはそこにいないリーダーに問いかけた。罰の紋章という呪いに寄生されながら、彼には仲間がいて、友がいて、信頼を一身に受け、希望に肯く。神様というのはとてつもなく不公平だ。おれとおまえ、同じく真の紋章の宿主にしてその違いはあまりにも決定的すぎる。
 テッドの抱く残虐な思い。受けとめる者のいないそれは跳ね返って自分自身を蹂躙した。
 何度悲鳴をあげてベッドを飛び起き、そして何度、寝汗に濡れた右手のそれを確かめたことか。
 『死ねばいい』と夢の中で叫ぶ。
 ノエルが赤い線を引きながらゆっくりと倒れていく。
 その左手が邪悪な色に輝いている。
 血の赤と呪われし紋章の赤。
 死ねばいい。
 死ね。
 死ね!
 だが目が覚めると、明け切らぬ暗闇。
 すでに五万回は数えたであろう独りきりの夜。
 こみ上げる吐き気をこらえると、目尻に涙が浮かぶ。
 馬鹿だな。自分こそ、死ねばいいのに。
 ソウルイーターは、ノエルには牙を剥かなかった。

「このへんの潮、あんまりうごかない。ながれるむきもずっとかわらない。だからおちたらかならず、島のすなはまにつく。テッドさん、海にはいなかった。すなはまもみたけれど、いなかった」
「ありがとうリーリン。夜が明けたら念のためまた回ってくれるかな」
「……うん! おねえちゃんたちにもつたえておく。みんな、もいちどがんばる。アルドさんも、あきらめない。ね?」
 リーリンは役に立てて嬉しいというふうににっこり笑い、おやすみを言って自室のある第五甲板へ去っていった。冷めきったコーヒーに憔悴した目を釘付けているアルドに、ノエルは言った。
「ほらね。悪い方に考えすぎるとよくないってこと。とりあえずごはんを食べて、元気を出そうよ」
 手つかずの皿をフンギに返して温かいものを盛りなおしてやる。湯気に包まれてアルドはポツリとつぶやいた。
「僕が、いけなかったのかな」
「……え?」
「僕のせいかもしれないな。僕が自分勝手だったから……テッドくんを追い詰めちゃったのかな……」
「アルドはなにも自分勝手なことはしてないだろ」
「けど、テッドくんは迷惑だって、言ってたのに」
「やさしいんだよ」ノエルは自分も肉の塊をもぐもぐごくんと飲み干すと、そっと言った。「アルドは」
 捜索隊の一時解散をした施設街は人もまばらであった。真上にあるサロンから酒の入った海賊たちの賑やかな笑い声が聞こえる。
 それすらもいまのアルドにとっては心に痛かった。仲間がひとり行方不明のままでも、またあしたで済ませられることが信じられなかった。また、皆にそういう負の感情を植えつけたのがテッド本人であることも、アルドを苦しめた。
 出逢ったその日から。
 アルドには、テッドが寂しさに凍えながら身をすくめているように見えてしかたがなかった。
 彼は怯えた獣の目を持っている。
 空や大地や、獣たちをひたすらに見つめ続けてきたアルドには、テッドを無視することなんて最初からできなかったのだ。
 怖がらなくていいよ、と抱きしめてやりたいと思った。
 寒いのなら、あたためてやりたいと思った。
 空回りしてしまうアルドの想い。性急すぎたのだ。アルドが思っている以上にテッドはずっと傷ついていたのに。
「僕は、やさしくなんてないです」
「自分を責めないで」
「やさしいなんて、言わないで……」
「アルドはテッドの話し相手になりたいって、いつもがんばってたじゃないか」
「それは!」アルドはテーブルを叩いた。「それは、テッドくんの笑ってる顔がただ見たかったからだよ。だから、僕が勝手にそう願ったから、僕がテッドくんに無理をさせたから、テッドくん、いなくなっちゃったのかもしれない」
 ノエルは深い蒼青色の瞳をアルドに向けて、静かに言った。
「……そうだね。やさしさは、剣になることもある」
 なおも絞りだそうとしたアルドの言葉が詰まる。その表情がくしゃくしゃに歪み、くぐもった嗚咽が漏れた。
「……テッドくん……テッドくん、ごめ………」
 無関心を装いながらふたりの会話に耳をそばだてていたラズリル海上騎士団の友人たちも、みな胸を締めつけられる思いだった。感受性の強いジュエルは額を掻くふりをしてこぼれた涙をこっそり拭くと、青年に温かいコーヒーをいれるために立ち上がった。


マグロの躁狂

 どれくらいの時間をそうしていたのだろう。子供のように膝を抱えたまま、テッドはふと顔を上げた。薄闇に目が慣れてくると、木樽の動いた奥にあった棚のようなものが気になった。
 この倉庫は訓練所に出入りしているときに目をつけていたのだが、静かに読書をするにはうってつけだった。何度か利用させて貰ったが、置いているのは緊急用の飲料水のみとあってふだんはまったく人の出入りはなく、テッドにとっては快適この上ない場所だった。光量は足りないが電球もあるし、木樽は心地よいイスにもなる。
 滅多に場所を変えないはずの木樽の陰にまるで隠すように棚があり、そこに瓶やらフラスコやら本やらが雑然と詰め込まれている。衝撃でかなり割れているが、棚自体はしっかりと固定されていたため被害が最小限で済んだのだろう。
「……?」
 興味をそそられてテッドは歩み寄った。そこにあるものをじっと見つめて、訝しむ。
(魔法薬の調合の道具?……頻繁に使われてる……?)
 しかも背後の壁を向いて備え付けられている。
 何かを感じ、奥の壁を手で押してみた。思った通り、ゴン、という音をたてて壁は扉のように開いた。
「あ?」
 隠し部屋なのか、それとも単純に隣と二間続きなのか、設計者に訊ねてみないことには何とも判断のしようがないがトリッキーな造りであることには異論はない。
 テッドはしまったという顔をした。
 扉の向こうは、あきらかに個人の居室であった。
 しかも住人は在室中で、こっちを見ていた。
 相手を認めると、テッドは慌てて非礼を詫びた。
「す、すみません! つながってるって知らなかったから……お邪魔しました! あ、テッ!」
 あんまり急いだので棚の外枠でおでこを打ち、頭を抱えたまま悶絶した。
「本棚から現れたと思えば、こりゃまた騒々しい客よのう」
 漆黒のガウンをまとった老人は神経質そうに小さい目を瞬かせた。
「あー、痛……」
 飛び散った星を頭を振って追い払うと、ハッとして顔を押さえた。
「鼻血が出ている。入って来なさい」
「でも」
「いつ気づくかとしばらく待っておったのだ。どうせそちらからは出られまい。来なさい」
 テッドは舌打ちして、言うとおりにした。
 相手が大魔法使いウォーロックでは、分が悪い。その老人もまたテッドの認識では要注意人物である。魔法や紋章の知識に長けている者は自分にとって危険だと考えていい。同じ船にいてもほかの人より意識して避けていたのに、よりによってこんな事態を迎えるとは。
 テーブルの上に置かれたグラスを見てテッドは顔をしかめた。
「知ってたな」
「隣であれだけ派手に音がしたら、誰だって気づく」
「気づいていて来ねえってのが、悪趣味なんだよ」
「来てほしかったのかね?」
「……クッ」
 見透かされた気がして、テッドの頬が羞恥に染まった。あらかじめふたつ用意してあったグラスに琥珀色の液体を注ぐと、ウォーロックはいま思い出したかのように顎をしゃくった。
「そのへんにタオルが何枚でもある。まあ血を拭いて、座れ」
「ガキに酒すすめる気かよ」
「子供ではあるまいに」
 何気なく返されたそのひと言に、テッドの表情が凍りついた。メガネの奥から自分をじっと観察する眼に射すくめられたように、動けなかった。
「しらばっくれるなら、まあよいわ」
 深いシワの刻まれた手がスッとグラスを押した。テッドは押し黙っていたが、やがて顔を上げて荒々しくイスに座り、液体をひと口流し込んだ。それが完敗の合図だった。
 ウォーロックはなおも無遠慮にテッドを上から下まで眺めると、自分もグラスに口をつけた。耐え難い沈黙が訪れる。あまりにも、気まずい。
「不思議なものよの……」ウォーロックが先に沈黙を破った。愉しげな口調であった。「長く生きていれば、こういう出逢いもある」
「何が言いたい、あんた」
 跳ね上がる心臓を悟られないように低く訊ねてみる。ウォーロックの返答はまるで駆け引きであった。
「珍しいものを見て、これは冥土の土産話になるかと思ったが……こっちのほうが、おもしろい」
「あんたが何を言いたいのか、わからない」
 ウォーロックはクックッと不快に笑った。テッドは首筋に冷たい汗が伝うのを感じた。
 この老人は、テッドの正体を知っている。そう直感した。いや、知らないまでも、多少なりとも紋章に詳しければ何らかの疑念を抱いて正解だ。実戦においてもテッドは禍々しき力の片鱗を解放してしまっている。
 ピリピリとした空気が肌を刺した。やはり軍に荷担したのは失敗だったか。
「なにを怯えておるのだね」
 孫に話しかけるような声色で、ウォーロックは言った。テッドの身体がビクッと跳ねた。
「え?」
「心にやましいことがなければ、堂々としておれ」
「……は?」
「まったく、これでは儂のほうが悪者ではないか」
 テッドは自分が不法侵入者であることを思い出し、ふたたび機械的に頭を下げた。長居する理由もない。自室へ帰ると付け加え、立ちあがる。
「まあそう急くこともない。誰もこの部屋には来やせぬ。あるはずのない部屋だ」
 テッドの動きがまた止まった。どういうことだろう。
『あるはずのない部屋』というキーワードはテッドも知っている。本船の七不思議のひとつらしい。設計者のトーブが自らそう漏らしたのだから、怪しさのお膳立ては完璧だ。ただ理論ではそういうことはあり得ない。
「理論ではないということだな。儂は都合がよいから利用しているだけだ」
 そういえばもと居た船も魔法がつくりだした幻想であった、とテッドは思った。
 煩わしい船内と隔絶されていると言うのなら、それは信じよう。もう少し老人と関わってみようか。乗りかかった船、という諺もある。
「一対一だな」
「はじめからそのつもりだ。おぬし、名前は」
「テッド」
 ウォーロックは目を細めた。「どこかで聞いたかの……」
 またずれかけたメガネを直すと、「まあよいわ」と言った。口癖なのだろう。
「ウォーロックさんは紋章砲に詳しいって聞いたけど」
 テッドは先手を打った。自分から話題を逸らすためでもある。
「関係ないとほざきつつ、見ているところは見ているのだな」
「そんなの勝手だろ」
「いかにも儂は、紋章砲をこの世に招いた愚かな老人よ」
「ふーん。愚かだと思ってるのか。それって、あれか? 紋章砲が大量破壊兵器として使われるようになったから」
 言いながらテッドはイルヤ島の悲劇を思い出して顔をしかめた。砲撃手は傷ひとつ負うことがなく、あるいはワイングラスを傾けながら、遠く離れた島を壊滅させることができる。それも一瞬のうちにだ。
 紋章砲でも船舶搭載型の小さいものは海賊や地方自治軍の小競り合いに使用され、大きいものは大国が抱え持つ。群島諸国、北のクールーク皇国、さらにはその先の赤月帝国に国境紛争が絶えないのは、互いが紋章砲を保有して威嚇をしあっている緊張状態にあるからだ。
 弓部隊の一員であるフレデリカはかつて、クールークと赤月の国境にあった村が忌まわしき力によって消されたという、テッドにとっては他人事とは思えない話を語ってくれたことがある。そこにも紋章砲を巡る対立が見え隠れしていた。
「あんたは紋章砲の原理を考え出した人なのか」
「それは……少し違うな。儂は創造主ではない。ただ、あれを招いたことは後悔しておるよ」
「あれを? 招いた?」
「紋章砲の弾を製造する『樹』だよ」ウォーロックは酒で唇を濡らしたあと、こう続けた。「あれを儂が異界から召還したのだ」
「……ええっ?」
「合点がゆかぬという顔をしておるな」
 テッドは五行魔法の適応能力を高く買われ海戦では紋章砲手の任務を与えられてはいるが、紋章砲は魔法学と機械工学が生み出した知恵の産物だと思っていた。
 蒼き門という魔獣召還魔法の存在も知っている。だがそれは一時的に異界の力を味方につける攻撃魔法のひとつだ。召還したままこの世界に縛り付け、利用するなんて聞いたことがない。
「すぐ理解しろと言うほうが、無理があると思わない?」
「おぬしほどの力を持つものでも、信じられぬか」
「買いかぶりだよ。それに、そうだったとしてもとくに興味はないね」
「ふむ」
 ウォーロックは何事か考えはじめた。テッドはグラスに口をつけてそれが空であることに気づいた。お構いなしに手酌で注ぎ足す。
 ウォーロックはややあってようやく口をひらいた。
「やはり、あれは破壊するべきだな」
「樹というやつをかい」
「そうだ。おぬしのような者があれを求めることがいちばん怖い。あれは、人がけして手を触れてはいけないものであったのだ。儂はあれを召還してはいけなかった」
「訊いていい?」
 テッドの目がスッと細められた。「おれのような者って、どういう意味」
 ウォーロックの返答は明快だった。
「人なぬ力を神から承った者だ」
「……ふうん」
 そうではないかと思ったが───やはりウォーロックはテッドの持つ真の紋章について正しく理解している。その上で、真の紋章の継承者が紋章砲を独占することを危惧しているのだ。何故ならば、それも『人ならぬ』異界の力だから。
 気持ちはわからなくもない。自分の招いた厄災だからこそ自分で始末をつけたいのだろう。微かに、テッドは老人に力を貸す気になった。気まぐれにはちがいないが。
「いいよ。あんたがそうしたいなら手伝ってやるよ。で、その樹はいまどこにあるんだ」
「クールークだ」
「あ、そういうこと……」
 約束したからには付き合わねばなるまい。ということで、これでますますこの戦争から離脱するわけにはいかなくなったわけだ。テッドはついつい安請け合いしてしまう自分の迂闊な性格を呪った。
 しかし、考えてみれば空恐ろしい話だ。紋章弾の製造装置がこの世界にひとつだけで、それを一国が握っているとしたら、いずれ諸国の力の均衡は崩れるだろう。群島諸国が手持ちの紋章弾を撃ち尽くすのは時間の問題で、そうなったらクールークの前になすすべもない。
 いや、それどころではない。もし、テッドの村を壊滅させた魔女のような輩が『樹』を手に入れたら、世界がどうなってしまうか想像もつかない。
「ぶっ潰したほうがいいな」
「おぬしも、そう思うか」
「思うもなにも、そんな物騒なモンがあると知っちゃおっかなくて、エルイール向いて寝られねえじゃん」
 ウォーロックは若者のように吹き出した。テッドの革手袋に包まれた右手を指さす。
「それは物騒じゃないのか」
 テッドは右手をひらひらさせた。
「これは少なくともこの世界のモンだしな」
 テッドが紋章の話題をこれほど軽く受け流すのは珍しい。ウォーロックに自分を利用する意志がないことを悟ると、途端に気が大きくなったのだろう。心地よい酔いのせいもあるのかもしれない。
 だが次の瞬間、テッドはふといつもの真顔に戻った。
「力は貸すよ。利害が一致するからな。だけどウォーロックさん、それ以外のことで、おれに構わないで欲しい。酒を飲むのもこれっきりだ。用がないときには近づかないでくれ」
「……こんな老いぼれに」ウォーロックは自嘲気味に笑った。「気を遣わずともよい。老い先短い命だ。おぬしの土産話ができれば、そのほうが儂にはよっぽど愉しいのだ。よもや今日明日に取って喰うような真似はすまい」
 テッドの胸がズキンと痛んだ。知っているのか、ソウルイーターのことを。
「そうなのであろう、テッド」
「……そうだ」
 隠す必要はもうない。テッドはうなずいた。
 不思議なもので、こんな突然に理解者が現れたのに、心は奇妙なほど冷めていた。これでまたおれはひとつ後悔することになる。同じことを幾度繰り返せば、人の死になんの感情も持たずに済むようになるのか。
「儂も、おぬしのような目を得てから死にたかった」
「……?」
「儂の目は、後悔しか映さぬ」
「……おれだって、似たようなものだ」
「いや……」
 ウォーロックは口を噤んでイスを立ち、器具類が山を築いている作業台からなにか皿のようなものを取って戻ってきた。テーブルの上に置かれたのは、小鉢に盛られた刺身であった。
「食べろ」
「あ……でも、おれ魚はあんまり……」
 せっかく遠慮しているのに胃袋は無粋にギュウと鳴る。テッドはかくっと首を垂れて小さな声で「……いただきます」と言った。
 ほんとうに魚は得意ではないのだが、赤身がつやつやと輝いて食欲をそそられた。実際のところ腹も減っている。律儀に手をパシッと合わせてから箸をつける。
「……うま!」
「旨かろうが」
「マジうまいよ。何だよこれっ! おかわりないの?」
「馬鹿たれが。貴重なホンマグロがそうそう手に入るか。味わって食え。よいか、エレノアに横流ししたことがバレたら首を捻られるから内緒だぞ」
 ホンマグロ? マグロなんだ、この魚は。人生忘れるほど生きてきたけれど、魚を心底旨いと感じたのははじめてかもしれない。
「……うま~~~!」
「その目だ」
「……へ?」
 テッドは小鉢を取り落としそうになった。箸を口に突っ込んだまま、丸い目でウォーロックをまじまじと見る。
「それが、希望というものを映している目だ」
 何を言い出すかと思えば、だ。
 マグロと希望がどこでどう結びつくってんだ。
「希望なんて、そんなものとっくの昔に……」
 ウォーロックがその言葉を遮り、受け継ぐ。 「……失ったな。だが真の希望は、すべてを失った者だからこそ手にいれられるのだ。おぬしは人の悲しみも、苦しみも、後悔も遠くに置いてきたとみえる。その真の輝きが、儂には羨ましい」
「ハッ……何言ってんのか……わかんねー」
「よいか。希望は慈愛とも書く。母親が我が子に、船大工が船に、国王が民に抱くものと本質的には同じだが、おぬしのそれはレベルが違う」
「酔っぱらったか? それともモウロクしてんのか、じいさんよ」
 テッドはなんだかよくわからない感情に困惑してグラスの中身を飲み干した。酔っぱらってきたのは自分も同様である。ふたたび手酌。
「失敬な。もーろくなどしちょらん。ぬしの慈愛に感動しておるのだ。ほれ、笑ってないで真面目に聞け」
 説教上戸か、ウォーロック。
「慈愛ってなんだーよ。ちゃんちゃらおかしいぜ。おれの寝言聞いてみるか? ぶったまげるぜ。ノエル死んじまえ~とか叫んでるかもしれないぜ。でもそれってシャレにならねーんだよ」
 語尾が少しだけ萎んだ。
「なあ、おれの目ン玉ってそんなにややこしい? てゆーか人の目ン玉どーのこーのってよっぽどヒマなんだなあんた」
 口が意志とは無関係に動く動く。マグロに饒舌薬でも盛られたのであろうか。
「ふん、慈愛が無ければ、かように苦しまぬものを」
「くそっ、わかったふりしやがって……」
「マグロ旨かろう」
「ああ、旨いぜ! えーと、おかわりはなかったっけっか?」
「イワシの酢漬けがそこらのビンにあるから勝手に食え。おかわりもたっぷりある。ああ、研究用のホルマリン漬けと間違うでないぞ」
「げげっ、いらねーや。軍師様のところには残ってるんだろ? ひとっ走り行って取ってこいよ」
「そうだ。そうやって笑ったり泣いたり叫んだりしてみろ。思う存分な」
「やかましーウォーロック。四の五の言わねえでマグローもってこーーー、ぃ」
 謎の一番星が煌めいた瞬間、テッドの意識はかっ飛んだ。


海の凪いだ日

 かの青年が『えれべーた』よりも速く階段を駆け抜けていったのは、しらじらと空が白みはじめた午前五時。
 昨夜の雷雨がまるで嘘のように澄みきった朝の空はどこまでも高く、海はカモメたちを祝福するかのようにキラキラと輝いた。
 リーリンはくすりと笑うと、甲板から小鳥のように海へ舞い降りた。
 さっきまでは自分も海に飛び込みそうな表情をしていたのに、見つかったと聞いた途端あの弾丸ぶり。
「にんげんはこわいけど、いいひともいっぱいいる。アルドさんもいいひとだ」
 想いの叶うという貝殻で、首飾りをつくってあげよう。きっと青年によく似合う。

 パブロに頬を叩かれて重い瞼をこじあけたテッドは、次の瞬間強烈な痛みを感じで顔をしかめた。
 置かれている立場を理解するのに、相当の時間を要する。記憶がなかなか戻ってこない。
「ウォーロック様!」
 パブロの怒号が脳髄にびんびん響いた。頼むから少し静かにしてくれ。
 テッドは首をコキコキして頭を振った。ズキズキする。耳から腐った脳味噌が流れ出しそうだ。
 日差しをほんのりと感じるところを見ると、どうやら夜は明けたのだろう。昨夜眠った場所は自分のベッドではなさそうだ。
「どうしてこんなところで寝ているんですかっ! 心配かけて、もう!」
 パブロのセリフで『こんなところ』の意味にテッドはようやく気づいた。大浴場の脱衣場である。
「どうしておれはこんなところで寝てるんだ?」
「こっちが訊いてるんじゃないですか! もう(怒)!」
 ウォーロックは籐の長いすでいまも高いびきである。ここに至って、テッドはゆるゆると顛末を思い出しはじめた。
 あれから軍師のキープボトルというのが登場して、それを振り回しながらウォーロックがカナカンの演歌を歌いはじめて、自分は内容はうろ覚えだが何事かわめきまくったような記憶があって、ウォーロックが「絡み酒には温泉酒で勝負だ」とか言い出して────辿ることができるのは、そこまでだった。
「脱がなくてよかった」
「わけのわからないことを言ってないでさっさと皆さんにお詫びをしてくださいっ!」
「へ?」
 テッドが目をまん丸くするのと同時に、どたばたどすんという轟音が施設街の方向から近づいてきて、いちばん会いたくない人物が鬼の形相で突入してきた。
「ア……」
「テッドくん!」
 一瞬の出来事だった。
 拒絶するヒマすらなかった。
 長い腕を背中に絡められ、小犬のようにスリスリされ、何度も何度も名前を絶叫された。慣れない衝撃にテッドはカチンコチンに固まってしまった。
 だが、さらなる危機感がテッドを内側から襲う。
「ア、ル、ド……あんまり……締めない、で………うぷっ」
「あっ、テッドくん!」
 そのあとのことは、テッドはあまり思い出したくない。

 アルドが半狂乱になってテッドの無事を祈っていたことを教えられ、さすがに目を合わせることはしなかったが、テッドは「悪かった」と素直に謝った。
 テッドはたまたま第五甲板にいたところをあの事故に襲われ、転んで鼻血を出した。見かねたウォーロックが手当てをしてやると紋章砲制御室に連れ込み、なし崩し的に日常の態度を説教し、延長戦で酒盛りとなった。
(ウソは言ってないよな)
「けれどわたしが捜したときには制御室にどなたもおいでになりませんでした。大勢で捜したんですよ。いったいそのあいだほんとうはどこにおられたのですか」
 ウォーロックは弟子の質問には一切答えない主義らしい。仕方なくテッドは「えーと」と切り出した。
「あ、あるはずのない部屋、ってとこか、な」
 ウォーロックの片眉が吊りあがり、ヒクヒクと痙攣する。
 ただでさえ未成年に飲酒を強要した罪で軍医と美人看護師から一喝された直後である。当分ウォーロックには近づくまい(リベンジされそうだから)とテッドは心に誓った。
 この日より、第五甲板がミステリーゾーン呼ばわりされたのは説明するまでもない。


後日談・海は広いな大きいな

『魚は、あんまり好きじゃなかったけど……さっき食べたマグロはおいしかったな』
 目安箱に投函されていた一枚の手紙を手に、ノエルは肩をふるわせてクックックッと笑った。いままでアルドがなれなれしいの、鬱陶しいのとそういう苦情しか叩きつけてこなかったテッドが、今回の件でさすがに宗旨変えをしたのだろうか。
「や、やっぱりテッドって単純なヤツ。あっはっは」
 この船は魔法でつくられていると自分で言っておきながら、ひとりで慌てていた彼らしい。
 用事がなければけして行動することのないテッドだ。
 ノエルに気持ちを伝えたかったのだろう。
 おそらくは、感謝してる。いや、ごめん、かな。
 だがひとつだけ腑に落ちない箇所があった。
「マグロ、ねえ?」
 ノエルはぽんと手を合わせると、キラリと爽やかに笑って言った。
「フンギに訊いてみよう」

 それから一週間、魔法使いウォーロックと軍師エレノアの間に微妙な緊張関係があったことと、テッドが誤解に満ち満ちた尾ひれつきのうわさ話に堪え忍んだ以外は、海はごく普通に平和であった。





じじいの宴会という長いお話です。たかがイワシネタ/マグロネタでここまでの情熱ってどういうことなんでしょうか。タイトルに騙されて終いまで読んでしまったあなたご愁傷様でした。でもさー、幻水4のお話ってなんかほんっと書いてて楽しいな。
ラプソディアは一応ひととおりプレイしていますが、紋章砲の記述について誤っている箇所もあるような気がします。気がついたら書き直すと思います。

2005-11-02