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蒼穹

「テッドという子どものことです」
 忘れるはずもないその名をきいて、パーンの身体がこわばった。

 明るい陽ざしのさんさんとふりそそぐ午後の作戦室。ふいに書類がばさばさと舞いあがった。
 一週間ぶりにからりと晴れわたったので、こもった湿気を追いだすために窓という窓をすべて開け放ったのである。トラン湖の古城は、いたずらな風の通り道になっていた。代書屋のテスラが書きかけの書類を追ってがに股で走り回った。
 東塔の屋上あたりからかまびすしくきこえてくるのは、洗濯当番の女性陣だろう。洗濯物を干すついでの楽しい楽しい井戸端会議というわけである。
 戦時下であろうが、圧倒的不利に置かれようが、ここの連中は笑うことを惜しまない。
 明日死ぬかもしれないかわりに、今日は美味いものを食い、たくさん働き、楽しく語らう。夢や希望をけしてあきらめない。
 パーンの心もぬくもりにゆるみかけていたのかもしれない。そこへいきなり冷水を浴びせかけられたようなものだった。
 軍の事務管理を担っているサンチェスは、気の毒そうな顔をしてさらに声をひそめた。
「この件はどうかご内密で、お願いします」
 広い作戦室にはほかに、軍師であるマッシュが腕組みをして座り、端の小机ではテスラがしきりにこちらを気にしながらなにかを書いている。
「軍主はおられない。お気遣いなく、パーン殿」
 きょろきょろと落ち着きのないパーンに、腰掛けるようにマッシュは手で制した。
 どうやら招集をかけられたのは自分だけのようだ。クレオが同席しなかったことに、パーンは少しだけ安堵した。
 マッシュがうなずき、サンチェスはやけにもったいぶって先を続けた。
「テッドくんを、パーンさんはご存じですね」
「ああ。ルーファスさまの、友だちだったから」
「……そうでしたか」
 サンチェスは思わせぶりに言葉を句切った。埒があかない。パーンはいらいらとして、いまにもつかみかかりそうなほどに身を乗りだした。
「いったい、なんなんだ。テッドがどうした。なにがあった」
「亡くなりました」
 パーンは絶句した。
「……密偵の持ち帰った情報によりますと、前回の満月の夜、宮廷内で磔刑に処せられたとのことです」
 喉がからからに渇き、声がつかえて出てこない。握りしめた拳が、みるみるうちに色を喪った。
 淡々と補足したのは、マッシュであった。
「帝国に刃を向けた者は子どもでも厳罰に処すという、そういった見せしめの意味もあったようですね。グレッグミンスターで高まっていた反体制の気運も、これでしばらくはなりを潜めることになるでしょう」
「ウソ……だろ」
「ざんねんながら、信頼性の高い情報です」
 パーンは大きく息を吐いた。
 耳のあたりでがんがんとうるさく脈打つものがある。これが鎮まらないことには、冷静な思考が期待できない。
 やっとの思いでぎくしゃくとひろげた手のひらは、じっとりと生ぬるく汗ばんでいた。
「パーン殿」とマッシュは言った。「このことは、軍主のお耳にいれたくないのです。わたくしは詳しいいきさつを存じませんが……ルーファスどのにとって、いまは知らなくてもいいことだと、勝手に判断させていただきました。いずれわかってしまうことではありますが、当分のあいだ、敵軍から流入してくる情報はわたくしどもで操作する必要があると思います」
「ルーファスどのをおれたちであざむくと、そうおっしゃられるのか」
「そうです」
 パーンが黙りこくってしまったのを見ても、マッシュは話の流れを堰きとめなかった。
「帝国も、こちらの攪乱を狙ってわざと情報を流したのです。ターゲットは我々でなく、ルーファスどの個人であることが明白です。叛乱軍を叩くには、まずリーダーを潰して士気を下げればいい、そういう理屈です。これほどわかりやすいものはありません」
「じゃあ、なんだ。テッドは生贄ってわけか」
 なにか言おうとしたマッシュをパーンはさえぎった。
「おれは帝国に残って、テッドの弁護を願い出た。だけど取りつく島もなかったさ。それどころか、理由もなくクレイズの野郎といっしょにコウアンくんだりまで飛ばされちまった。黄金の皇帝は慈悲深くて、犯罪者とはいえ悪いようにはしないと信じていた。それがなんだ? 敵将を潰すための見せしめだって?」
「パーンどの、落ち着いてください」
「じゃあ、おれのしたことはなんだ。帝国ならばテッドの怪我も診てくれるだろうと思って通報した。止血くらいでなんとかなりゃいいけどよ、ほっといたら命にかかわるとこだったんだぜ。それに、追われてるテッドのほうがぜったいなんかしたに決まってるって思ったんだよ。ああ、もちろん浅はかだったさ。けどよ、かりにも人の上に立つ皇帝が、無抵抗の、しかも大怪我を負っている子どもを殺すか? まだあんな子どもだぞ。いいも悪いもわかってねえ。だからってそういうお仕置きはないだろうが。なあ、アンタ、そう思わないか、軍師さんよ」
「それが現在の、赤月帝国の本質です」
 いまにもマッシュに噛みつきそうな形相のパーンだったが、油が切れるように力が抜けた。がっくりと肩を落とし、しばらくして「くそっ」と小さくつぶやいた。
 後悔ならば、お釣りがくるほどしたはずだ。だが、まだ足りないと自我が訴える。
 テッドが死んだ。帝国に殺された。自分のせいだ。
 話をさせてくれと幾度も願い出て、門前払いされた地下牢。かたく閉ざされたあの暗闇の奥で、少年はけしてしあわせではなかった短い生涯を終えたのだ。
 密告したパーンを恨んだろう。弁護してくれる味方もいるはずがない。ひとりぼっちで長いあいだ囚われ、おそらくは心ない暴力も受けたにちがいない。
 そうさせたのは、あの雨の晩の自分だ。
 帝国に自分本位な理想を重ね、嘘を見破れなかった未熟者。
「帝国をぶっ潰す」とパーンは低く言った。「あいつの弔いだ。おれにできるはなむけは、それしかない」
 マッシュは黙ってうなずいた。
 礼をして作戦室を辞すと、いつからそこにいたのか、緑色の服を着た魔術師の少年と目があった。彼はすぐに興味なさそうに顔をそむけて、階段を下へおりていった。
 みなそれぞれの任務で出払っているようで、作戦室のある四階はしんと静まりかえっている。
 部屋にもどるのもためらわれ、パーンは階段に足をかけた。
 中央塔の屋上はすぐ上だ。この時間なら、ひまな人間もさほど居るまい。
 トラン湖の湖面がきらきらと輝き、西に冠雪した山並みが見えた。
 トランの地は、美しい。神々に祝福された悠久の大地。
 ぽつり、としずくが落ちた。
 雨など降るはずがない。空はあんなに蒼い。
 やんちゃな弟でもできたかのように可愛がった悪ガキが、大好きだと言っていた色だ。
 パーンは大きく空を仰いで、そのどこかにいるだろう少年に語りかけた。
「ごめんな。おれも、あとから行くからな」
 その前に決着をつけなくてはなるまい。訣別すべきものがたくさんある。すのすべてにおいてルーファスが手を汚す必要など、ありはしない。
 罪はおれが引き受ける。
 その日がけして遠くないことを、パーンは知っていた。


2007-04-06