Press "Enter" to skip to content

死へと誘うもの

 イルマが半狂乱になって自分の名前を絶叫している。
 いや、いや、いや。どうして。テッド、テッド!
 見かねた大人が数人がかりでなだめようと試みるのだが、哀れなイルマは気が動転して、押さえつける手をふりほどこうともがくばかり。
 ちがうんだイルマ。その死体はおれじゃない。
 手にびっしょりと汗をかいて、出かかったその言葉をのみこむ。足が影縫いに遭ったように動かない。
 野次馬たちは、テッドが見物人の群れにまぎれていることにだれひとりとして気づかず、凄惨な現場見たさに我先にと押しかけた。
 名乗り出た目撃者が複数いて、その証言はみごとなまでに一致した。
 しかし、この町の法律では犯行グループを捕らえることはできても、首謀者を断罪するすべはない。
 被害者は、税金を食いつぶす厄介者でしかない孤児。領主の息子は町のために、目についたゴミを掃除しただけなのだ。
 もちろん、狡猾な彼はけして己の手を汚さない。とりまきの少年たちに命じて、被害者を待ち伏せさせたのである。
 取り囲んで逃げられないようにし、殴る蹴るの暴行を加えたあと、あらかじめ瓶に用意しておいた揮発油を頭からたっぷりとかけた。そうして必死で命乞いをするのを大声で笑いながら、なんのためらいもなく火を点けたのだ。
 二階の屋根に達するほどの火柱をあげて、”テッド”は地面をのたうちまわった。皮膚がズタズタに焼けただれても、声帯はなおも救いを訴えつづけた。
 たすけて、あつい、だれかけして。
 白昼の屋外。あまりの猛火に通行人はなすすべもなく、火だるまになった子どもが死んでいくのをただ遠巻きに見ていることしかできなかった。
 そして、他愛もない運命のいたずらで難を逃れたほんとうのテッドも、息を止めてその光景を凝視していた。
 名乗り出ることも、戦うことも、救うことも、なにひとつ叶わぬまま。
 身体は硬直し、命令を聞こうともしない。かちこちに凍結して、叱咤したくらいではとうてい動きそうにない。
 ただ一箇所、その右手だけが、まったく別の生命体のように拍動していた。
 また、ひとつ。
 これで、幾つめ。
 右手がちりちりと灼ける。新たな犠牲者の魂が体内に流入するのがはっきりとわかった。
 いくら拒絶しようとも、右手に棲まう強欲な相棒がこちらの意志などまるで無視して、勝手に『喰って』しまう。
 どうして。あの子は安全圏にいたはずだった。愛情はおろか、同情すらも与えてはいない。
 あんまりな身なりを憐れんで、自分の着替えをたまたま譲ってやっただけだ。背格好や髪の色が似ていたのも、単なる偶然だった。たったそれだけのことなのに、なぜあの子が自分の身代わりに殺されなくてはならないのだ?
 理由は、とうに気づいている。あの子は、テッドを慕ってくれたのにちがいない。おそらくは、やさしくされた経験がなかったのだろう。だから。
 親に棄てられ、施設をたらい回しにされて、知的障害を疎んじられた少年はやがて居場所を完全に失った。悪臭の充満する裏町で残飯をあさりながら、餓えをしのいでいたのである。
 下手な干渉をしなければよかった。
 後悔しても、もう遅い。
 イルマはまだ泣き叫んでいた。身寄りのないイルマ。同じ教会で暮らしている彼女は極端に内向的な性格ではあったけれど、かわいらしくて、心やさしかった。だから領主の息子に目をつけられたのだ。
 欲しいものはなんでも手にはいると勘違いしている息子は、イルマを教会から連れだそうとした。下卑た言葉で怯えさせ、逆らったらこの教会を潰してやる、と脅迫した。
 息子の目的がイルマの身体であることは明白だった。犯して、奴隷のように屈服させ、飽きたら捨てるつもりなのだろう。
 テッドはふたりのあいだに立ちはだかった。理不尽な要求をだまって見ているのは癪に障った。なによりこんな低俗な豚が、大きい顔をして人を支配した気分でいるということが許せなかった。
 多勢に無勢。しかしこちらは辛酸を舐めてきたぶんだけ知恵がある。虎の威を借る狐の一匹や二匹、頭脳戦でこてんぱんにするくらいは朝飯前に思えた。
 あんのじょう、敵は捨て台詞を残して手ぶらで帰っていった。そして事件は次の日に起きた。
 炭化した遺体は男女の別もわからないほど損傷していたが、衣服の一部だけが奇跡的に燃え残っていた。イルマはそれを見て、瞬時にテッドであると確信したらしい。悲鳴がのどからほとばしり、途切れることなくこぼれ落ちた。
 明確な殺意に裏打ちされた、これ以上ないほど残酷な仕返し。
 ただの穴ぼこと化した口は、死してなお助けを叫びつづけるかのように大きく開けられていた。炎から逃れようと前屈みになって、両手は頭をかばうかのように上で組まれ。
 皮膚は真っ黒に焼けただれ、無惨に癒着し、蛋白質特有の異臭を放つ。
 どんなにか熱かっただろう。苦しかっただろう。
 人生をこんなむごい形で終えるなんて、あの子も思ってはいなかっただろうに。
 『死神』に関わったばっかりに。
 どくん、と胸が鳴った。
 意識が遠くなり、テッドは昏倒しそうになった。
 麻痺していた罪悪感が目を覚まして、一挙に襲ってきたのだ。
 どうしてソウルイーターを、叩きつけてやらなかったのか。
 人の命は尊く、大地よりも重いと言う。だが、クズどもまでそうだとは思わない。快楽で人を焼き殺せるくらいの連中とあらば、裁かれる資格はじゅうぶんではないか。ソウルイーターは醜悪なものを粛正するために存在するのではなかったか。
 弁解や恨み言はあの世に葬送ってから聞いてやっても遅くはない。なのに、なぜ、手をこまねいていた?
 躊躇しているあいだにもあの子は生きたまま炎に焼かれ、地獄の、いや、それをはるかに上回る壮絶な苦しみを味わっていたのに。
 たすけて、たすけて
 耳からその声が離れない。舌っ足らずな、幼い声。あの子は体格こそテッドほどもあったけれど、年齢はずっと、そう、ずっと下だった。
 お世辞にもきれいとは言えない古着をうれしそうに握りしめ、何度も何度も頭を下げて、このご恩は忘れませんと繰り返した。
 あの子がなにをしたというのだろう。
 だれのせいで、あの子は死ななくてはいけなかったのだろう。
 なんのために、あの子は生まれてきてしまったんだろう。
「……ごめんな」
 痰がからんだような声が、呻きとなって喉からもれた。
 右手はテッドを嘲笑うかのように、傷みにも似た熱を帯びる。どうだ、思い知ったかと、拍動する。
 生かすため。虜囚として永遠につなぎとめるため。近づく者の魂を狩り、それを餌に、宿主を飼う。時には気まぐれに戦乱を巻き起こし、備蓄用の糧を得て、貪りつくす。
 どこへ逃げようとも、無駄なのだ。みずから望んでそれを放棄しないかぎり。心を閉ざしても、他者と関わるのをやめても、人のなかにいるうちは、まぎれもなくテッドは、災いをまねく悪魔なのである。
 けれども人は、人の世でしか生きられない。
 もうたくさんだ。
 悪魔として生きるのも、人として生きるのも。
 謝罪するのも、後悔するのも、うんざりだ。
 なのに人であることを捨てられぬ自分は、愚か者。
 テッドはふらつきながらもなんとか踏んばって、背後の石壁にもたれかかった。
 視界のはしでイルマはようやく死体から引き離され、引きずられるように連れて行かれた。地面に横たわる黒こげの子どもを憐れんで布をかけてやる者もなく、だれもが憲兵に早いところ片づけてもらいたいような顔をしていた。
 一歩、二歩、テッドは後ずさり、くしゃくしゃに顔をゆがめたあと、反転して脱兎と駆けだした。
 この町にはもう、居られない。イルマにも、会ってはいけない。あわせる顔などあるものか。
 一刻もはやく離れなければ。できるだけ、遠くへ。ソウルイーターの力が及ばないところへ。でないと次はイルマを『喰って』しまうかもしれないから。
 テッドは駆けた。ひたすらに、駆けた。
 右手が、熱い。痛い。重い。
 人を人とも思わない、冷徹な束縛が、からみつく。
 ”逃がさぬぞ”
「……あっ」
 足がもつれて、テッドは地面に叩きつけられた。
 あらがおうとする力は、そこで限界だった。すぐに立ちあがるのは困難で、テッドはあおむけになって荒く息をしながら空を見あげた。
 町はずれはとうに抜け、突っ伏したのは見知らぬ場所だった。いつの間にか、星がまたたきはじめていた。
 手も足も擦り傷だらけ。荷物も武器も教会に置きっぱなしで出てきてしまった。いまさら取りに戻る勇気もない。
 横暴を許してしまったのが悔しくて、刃向かえなかった己が情けなくて、罪のない子どもを見殺しにしてしまったことが許し難くて、いまこうしている自分がみじめで―――
 声をあげて、泣きたかった。
 涙のかわりにこぼれたのは、自嘲の笑みであった。
「はは、は、は……」
 テッドはうつろに笑い続けた。
 肩をふるわせ、時にひきつりながら。
 そして最後に、ぽつりとつぶやいた。
「死ね」
 だれに向けた言葉だったのか。おそらくそれを発したテッドですらも、わかってはいないだろう。
 宵闇だけが、聞いていた。


2007-04-28