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だれも見ていない

 甲板にあがると、陸(おか)の匂いを含んだ潮風が鼻腔をくすぐった。
 帆は風をいっぱいにはらんで、海峡を軽快に疾走しているところだった。右舷側にも左舷側にも島が見える。とくに立ち寄る必要のない、無人島だ。
 操舵手は読図によっぽどの自信があるらしい。ときおり白波がたってようやくそれとわかる暗礁を寸前でかわしていく。ブリッジの仕事を与えられなくてほんとうに幸運だったと思う。無謀操船を諫める役割だったらとっくのむかしにストレスで胃をこわしていたことだろう。
 ぼくは目をとじて、おもいきり深呼吸した。ああ、この爽やかな香りは若芽だ。今日の陽気に誘われて、一気にほころんだにちがいない。
 植物には争いも、憎しみ悲しみも関係ない。春が来ればいっせいに芽吹き、短い命を全力で生きる。夏にあざやかに咲きほこったあと、晩秋には子孫を残して、枯れていく。屍は朽ちて、次の世代を養う土となる。種の存続を未来に託しつづける、終わりなき循環が来る年も来る年も、大地を緑に萌えあがらせる。
 いったいどれくらいの人が気づいているのだろう。こんなささくれた世の中にも、また新しい春が訪れたこと。
 作戦室では首脳陣がこれからのことを議論している。訓練所は鼻息の荒い連中の熱気でむんむんしているし、サロンもおしゃべりをしたい人たちでいっぱいだ。真っ昼間から見飽きた海を眺めに甲板に出てくる暇人など、数えるくらいしかいない。
 思ったとおり、人の数より猫の数のほうがだんぜん多かった。天気はよいけれど、ぽかぽかというにはまだほど遠い。こんなところでのんびり昼寝できるのは、毛皮にくるまれた猫くらいのものだ。
 いや。
 いた。のんびり昼寝している人間が一名。
 だれであるかを瞬時に悟ったぼくは、心臓が跳ねあがった。彼は木の樽に背中をあずけてだらしなく大口をあけていた。
 めずらしく、コートのボタンをぜんぶはずしている。その下で薄いセーターが規則的に上下した。どうやら本格的に寝入っているらしい。
 ぼくは思わずふきだしそうになった。彼だけならまだしも、ざっと数えただけでも七匹の猫が、その身体によりそうように丸くなっているのである。まるで託児所の集団お昼寝の様相だ。
 一匹だけ恥じらいもなく股をおっぴろげた雌猫が、昼寝に加わらずに御髪の手入れにいそしんでいる。唾液で肉球を湿らせては顔を拭き、また湿らせては耳を拭き、だまって見ていたらなにを思ったかクッションがわりの人間まで磨きはじめた。
 ざり、ざり、ざりと音がする。猫の舌はざらざらしているけれど、こんなに音をたてるものだとは知らなかった。やすりで包丁を研ぐときの音に似ているかもしれない。
 目が覚めたら、靴がぴかぴかになっているので不思議に思うだろう。はて、どこかでそんな童話を読んだろうか? ぼくは記憶を手繰ってみたけれど、思い出せなかった。
 それにしても。
 いい光景に出逢った。彼のこんな姿を、きっとだれも見たことがないにちがいない。
 人前で無防備にうたた寝するような子ではないし、だいいち自室にこもりっぱなしで仕事のときしか姿を見せない。そしていつでも仏頂面。こんな弛緩しきった、紋章砲が落っこちてきても眠ってるんじゃないかというような少年は、ふだんの彼からはまったく想像がつかない。
 ぼくは音をたてないようにして、彼から見えないようにそっと木樽にこしかけた。
 なるほど、ここはまさしく秘密のかくれがだ。きっとだれも来やしない。よしんば見つかったとしても、相手のほうが気まずくて、遠慮して去っていくだろう。
 あんなトゲトゲした顔でにらまれたら、たいていの人はよく思うまい。彼を知っている人ならいつものことだから、困ったもんだで済ませられるけれど、アカギさんのようにすぐ逆ギレする人だとややこしいことになる。
 この前も、彼が一方的にびんたをくらっていた。暴力を受けても頑なに態度をあらためないものだから、アカギさんもかっとなってエスカレートしたにちがいない。ミズキさんが制止してくれなかったら、軍規問題にまで発展するところだった。
 だけどあの事件で、どちらがより多くの同情を集めたかというとだんぜんアカギさんのほうだ。
 アカギさんは自分の気持ちをストレートに口にする。主張がすごくわかりやすい。それにくらべ、彼はほんとうになにも言わない。怒鳴られても、殴られても、氷のような表情を崩さない。
 心のどっかに飛んじまったいやなガキ、とだれかが叩きつけるように言うのを聞いた。ぼくはそのとき、すごく悲しかった。くやしかった。悪口をわざと本人に聞こえるように言いふらすなんて、卑怯だ。それでも黙っている彼に腹が立った。きみが反論しないのならぼくがやってやろうかと立ちあがりかけた。
 だけどぼくは、できなかった。彼がほんのわずか、そう、だれも気がつかないくらいに、寂しくほほえんだのを目にしてしまったからだ。
 ぼくは彼が泣いているのではないかと思った。だけど涙は落ちなかった。そのかわり、なにもなかったかのように彼は背中を向けて、自室のほうへ歩いていってしまった。
 残った人たちのあいだに、しらけムードがただよった。ひょっとして大乱闘になるのを期待していたのか、けっこうな人数があつまっていたけれど、彼の弁護をこころみようとする者はひとりもいなかった。
 たくさんの視線を感じた。ぼくが彼のことを気にかけていると、みんな知っているからだ。ぼくがこのあと彼のあとを追って走っていくのを、想像しているにちがいないのだ。
 ため息がもれた。どうしてこううまくいかないのだろう。彼はだれよりも深く傷ついているのに、理解してもらうことを自分から拒む。乗組員もみんな陽気でいい人たちなのに、ひとりだけぽつんと孤立している男の子のことをちっともわかろうとしない。
 ただ、あの人だけは―――ノエルさんだけは、すべて知っているような気がした。なんの根拠もあるわけではないが、ノエルさんと彼のあいだには特別なつながりを感じる。もしかしたら、という確信に近い仮定はあった。
 真の紋章を宿しているノエルさん。もしもノエルさんと彼のあいだに接点があるとしたら、ひょっとしたら彼も。
 ぼくは否定しない。そう考えたらすべてつじつまがあう。だけどもしそれがほんとうであれば、ぼくなどの出る幕ではない。
 ぼくは悩んだ。考えすぎて夜もぐっすりと眠れないくらいに。
 だけど、彼はもっと悩んでいるんだ。それにくらべたら、ぼくの苦しみなんてほんのちっぽけだ。人にどう思われようともかまわない。いままでだって、ハンターとしては致命的な欠陥があるとさんざん言われつづけ、それでも持論を曲げなかったぼくだ。
 だいじょうぶ。
 ぼくは彼を理解できる。迷わなくてもいい。自信を持てばいい。
 ぼくは考えて、ノエルさんに手紙を書いた。彼の立場を案じる言葉を少しと、それから―――
 ”できるだけ、ぼくが悩みとかきいてあげられたらいいな”
 相手は軍のリーダーだから片時も休むことなく激務に追われているはずで、よけいな心配事は背負わせたくない。共同生活になじめない人間のケアという戦略にはまったく関係のない話を、リーダーのところまでとおすべきではないのかもしれない。ノエルさんは罰の紋章の影響で体調もかんばしくないと聞く。けれどもほかにだれが耳を傾けてくれるというのか。
 彼が口癖のようにそれを繰り返すように、ノエルさんにまで「構うな」と一蹴されたらどうしようとはらはらした。心配になって目安箱をのぞいたら、手紙は回収されたあとだった。
 ノエルさんからの回答はなかったけれど、リーダーは士気鼓舞の朝礼で軍師エレノアが重要な演説をしているその真っ最中に、なぜか執拗にぼくと視線をあわせてにっこりとうなずいた。
 そういえばノエルさんも、彼に負けず劣らず無口な人だったかもしれない。
 ”テッドをよろしくね”
 そう頼まれたような気がした。
 ふっと、心の荷が下りた。
 ぼくは、長いあいだずっと森で迷子になっていた。自分のことがわからなくて、どちらを向いて歩いていけばよいのかを自分で決められなくて、不安をかかえながらさまよいつづけていた。ノエルさんの船に乗ったのも、なりゆきだった。
 その船で出逢った彼。名前はテッド。たくさんの人のなかで、彼だけはちがっていた。
 ぼくははじめから、彼が気になってしかたがなかった。理由はわからない。ハンターのはしくれのぼくには、テッドくんは追い詰められた獣の子のように見えた。
 ぼくはハンターのくせに、最後の最後でとどめをさせない。仲間内ではただひとりの落ちこぼれだった。狩りの最中に仲間とはぐれたのも偶然ではない。ぼくのほうから群れを離れたのだ。仲間もいい厄介払いができて、ほっとしているにちがいない。
 テッドくんを狩ることのできない人間が、この船にひとりくらいいてもいいではないか。そう考えたとき、ぼくの心はきまった。
 ぼくがこの船に乗ったのは、意味があったのだ。
 ぼくはテッドくんの力になりたい。
 彼が悲しむなら、彼が苦しむなら、ぼくもいっしょに苦しみたい。テッドくんはけしてみんなが言うような、心を喪った人格障害者ではない。それどころかだれにもまして繊細で、傷つきやすい男の子なのだ。
 だれも見ていない。人の来るはずのない甲板の隅。テッドくんはおそらくこういうところでだけ、ほんとうの自分をさらけだしてひなたぼっこさせているにちがいない。
 猫は知っている。海は知っている。潮風は知っている。碧い空は知っている。
 テッドくんがほんとうはやさしい人だということ。
 ぼくもなんだかとろとろと眠くなってきて、それをまぎらわすために空を見あげた。
 かもめが高くさえずりながら視界をすべっていく。帆のすき間からきらきらと光がこぼれ、床板の上をいたずらっぽく躍りころげた。
 まぶしい。目を細める。
 そのとき、声がした。
「いてっ」
 ぼくはドキッとして、我に返った。
 テッドくんが目を覚まして、例の猫をげんこで小突いていた。爪をたてられるかなにかしたのだろう。さいわい、こっちには気づいていないようだ。
 テッドくんは両手で猫を抱いた。いつもの革手袋をはめていた。あの下、おそらくは右の手になにかの秘密を隠していることをぼくは知っている。
 猫は抱かれて気持ちよくなったのか、ゴロゴロとのどを鳴らしはじめた。テッドくんは指で猫の首筋や耳の前をいじくり回して遊んだ。
 ぼくはじっとその様子を見ていた。ちょっとでも音をたてたらばれそうな気がして、呼吸もひかえめにした。
「へ、へへへ」
 テッドくんが笑った。そういうふうに笑うのを見たのは、はじめてだった。彼はにっこりと、それこそ満面の笑顔をうかべて、猫を高々と抱えあげた。
 次に彼の口から飛び出した言葉を、ぼくはなんと説明したらいいのだろうか。
「おまえは犬だ」
 猫と視線をあわせて、あやしげな催眠術をこころみる大道芸人のように命じた。
「いいな。おまえは、犬だ。い、ぬ。ワンコロだ」
 意図がぜんぜんわからない。テッドくんはもういちど繰り返して、それからハハハと声をあげて笑った。
 ぼくもなんだか楽しくなった。同時に、とんでもないものを見てしまったと狼狽した。
 どうしよう。万が一のぞき見をしていたことが発覚したら、おそろしいことになりそうな気がする。ぼくはべつにかまわないのだが、むしろテッドくんが心配だ。
 おもむろにテッドくんが立ちあがった。猫を足元に下ろして、大きく伸びをする。まずい。もしもこっちへ来たら身を隠す場所がない。
 老人がするように首をコキコキ鳴らしたあと、テッドくんは幸運にも反対方向へと歩いていった。猫軍団が寝そべったままその後ろ姿を見送る。ぼくもいっしょになって見送りながら、猛烈に安堵した。
 犬だとマインドコントロールされた猫が、ぼくの気配に気づき、足元にすりよってきた。
 どうやらさっきのではもの足りなかったので、もっと甘えたいらしい。ぼくはおいでおいでをして、抱き寄せた。人懐っこい猫だ。
 よく見ると、おもしろい顔をしている。だがまぎれもなく猫だ。犬ではない。
 ぼくは猫ににっこりと笑いかけて、言った。
「ワニャン?」
 猫はにゃーと返事をした。
 ふわりと、あたたかいひだまりの匂いがした。


2007-03-13