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正面突破の日

※テッド×4主

 ブリッジを占拠する豪傑たちへの激励か、はたまた幕間の退屈しのぎか。上甲板は暇をもてあました乗組員たちでごったがえしていた。
 舳先が岩礁をすれすれでかすめるたびに、やんやの歓声があがる。生死がかかった、一か八かの賭けであることを危惧する雰囲気ではまるでない。あろうことか真相はまったくの正反対。ピンチという名目の特別イベントを、クールークをぶちのめす前哨戦としてとことん愉しむ気なのだ、連中は。
 お祭りの舞台は、群島諸国ではけしてめずらしくもない岩礁帯のひとつである。座礁の危険が高いため、大型船はその海域を避けて航行するのが慣例となっている。
 水面につきだしている岩はちっぽけに見えても、視認不可能な暗礁がそこかしこにひそむ、危険きわまりない海域である。これほどの難所は、小回りのきく小型船だろうとうかつに踏みこめないはず。そこを根性丸のような大型帆船が銅鑼をならして突破しようというのであるから、ただごとではない。海神の申し子が聞いたら、敵ながらあっぱれと称賛するか、呆れて天を仰ぐかのどちらかだ。
 岩に激突しないためには、潮路をわずかな狂いもなく正確に読まなくてはならない。岩礁帯は潮の流れが複雑でしかも一定でなく、いかに経験を積んだ船乗りでも、必ずやまちがいを犯す。
 毛先ほどのミスがかさなり、ひずみが最大になったとき、それは致命傷となる。船長、操舵手、機関長、水先案内人、そして見張り。ひとりひとりは完璧に役割を果たしたつもりでも、息がぴったりあわなければ結局は命取りだ。
 しかし、根性丸の辞書に迂回という二文字はなかった。
「おーもかーじ、いっぱーい!」
 小山のような白波が船べりを乗り越えようが、厨房のスープ鍋と料理長フンギの精神状態をお陀仏にする角度に床が傾こうが、不穏な衝突音が船底からゴンゴン響こうが、ひるむような面子ではない。船酔いで意識朦朧のごく一部をのぞけば、お通夜のように押し黙っている気の毒な関係者は船大工のトーブただひとり。舵をにぎる連中は、うちの船にかぎって難破などありえないと本気で思っている。
 真帆に追い風を受けて、根性丸は岩と岩のあいだを疾走した。面舵と取り舵を瞬時に判断するジャンゴの眼は、人のものとは思えなかった。難関をひとつクリアするごとに、調子にのったブレックがけたたましく霧笛を鳴らす。人なつこいカモメたちもこれには仰天し、寄りつこうともしないのだった。
 海の男たちというのは、どうしてこうも怖いもの知らずなのだろうか。陽気で片づけるにはあまりにも度を逸している。ブリッジの気ちがいどもはもともとが海賊稼業だからまだわかるとして、理解できないのがその他大多数。
 床板一枚下は死の世界。AくんもBさんも根性丸に命を預けているのに、どうして誰ひとり、この暴走行為を諫めようとしない?
「あんた、帆綱につかまってると、万が一切れたときいっしょにぶっ飛ばされるよ」
 反射的に手を離した瞬間、波頭が崩れて船を大落下させた。
「うわーっ!」
 テッドの小柄な身体は、慣性で一瞬宙に浮いたあと、甲板に激しくたたきつけられた。
「忠告しないほうがよかったかな」
 色素の抜けたような髪の少女が、一応は申し訳なかったという顔をしてケラケラ笑った。
 さしのべられた腕には、無駄な贅肉のひとかけらもなかった。ノエルと同じくガイエン海上騎士団の訓練生だったという、ジュエルだ。
「だけど、ひとつ勉強したってことで。怪我、しなかった?」
 上腕をつかんで引き起こそうとするのを、テッドは邪険にはらいのけた。いまの衝撃ですねにこっぴどい痣ができたんじゃないかと思ったが、痛みをこらえて憮然を装う。人前で不様な格好をさらしただけでも大失態なのに、女にたすけ起こされたとあらば、のちのちどんな酒のツマミにされるかもわからない。
 無視されてもジュエルは気分を害したふうでもなく、テッドの背中をぽんとたたいて「だいじょうぶそうだね」と言った。
 顔をあげたときにはもう、ジュエルは反対の左舷側で仲間に囲まれて談笑しているところだった。テッドはなにかで身体を支えないと立っていることもままならないのに、自由に動きまわれるなんてどんな平衡感覚の持ち主なのだろう。
 そういえば、海上騎士団の若者たちは船上での生活に慣れているようだ。ノエルもしかり。地に足をつけて暮らしてきたテッドは、なかなか馴染むことができずにいるのだが。
 岩礁帯通過の時刻に運悪く上甲板での任務が回ってこなければ、自室でベッドに寝ころがって体力温存に徹していたのに。なにを期待されているのか知らないが上陸となると決まって最前線に就かされるから、敵船に遭遇する可能性の低い海域ではせめて静かにすごしたいと考えてしまう。けして基礎体力がないからではない。
 船の航行ひとつでバカ騒ぎできる集団心理を、理解しようとつとめるだけ無駄なことは承知している。放っておくが勝ち。血管にアルコールが流れている連中と、まともな自分をいっしょくたにしてはいけない。
 酒類補給ルートの確実さにテッドは苦笑するしかなかった。あきらかに戦時中のそれではないからだ。寄港先で沖仲仕の積みこむ荷の六割はまちがいなく酒瓶とテッドは推測した。ここまでお見事ならば、ひょっとして根性丸の動力も度数高めのアルコールではあるまいかと疑いたくもなろうというもの。
 陽気な笑い声がきこえる。天高くひびきわたる、宜候(ようそろ)の声。
 ”自由な我らを阻むものはなし! このまままっすぐ、前へ進め!”
 テッドは顔をしかめて、胸をおさえた。気分が悪い。
 群島の人々の、屈託のない、希望に満ちた姿を見せつけられるのは拷問にもひとしい。
 おまえの居場所はここにはないのだと、嘲笑されるのとおなじ。
 息がしづらい。罪悪感がどす黒い固形物となって気道をふさぐ。
 割り切ったはずなのに、心がまだ納得していない。だからあのとき、やめておけばよかったのだ。手を貸すだなんて考えないで、とっとと立ち去るのが正解だったのに。くだらない衝動で、離脱の機会を台無しにしやがって。
 罰の紋章は、テッドが見守らずとも群島諸国の紛争をひとつの結末にいざなうはずだった。
 導く。司る。それが真の紋章の力だ。継承者の運命は、あくまでも本人が選びとること。
 物語はけして交差しない。ひとつの物語に、まったく別の紋章が干渉するのは、愚でしかない。もしも祖父だったら、そう考えただろう。
 なのに自分は、辞すことを躊躇った。
 厄いをもたらすだけとわかっていた。ソウルイーターはつねに飢(かつ)えている。戦渦はなによりの御馳走であるはずだった――
 血迷ったとしか言いようがあるまい。凶状持ちである己の正体をぼかしたあげく、心にもない約束を交わして、あろうことか一軍の兵士に身を置こうとは。借りができたから返すなんて、口先だけの、とっさのでまかせだ。幽霊船から解放されて、高揚していただけだ。
 踊り場で足をとめて、テッドはそこにある鏡に目をやった。
 無表情でこちらを見返す、気の弱そうな少年の姿。
 嫌悪感にあらがえず、心のなかで吐き捨てる。
 まだ、そんなところにいたのか。
 おまえは偽りだ。ニセモノの人間だ。不確かな生きものだ。
 邪念でつくられたあの霧とおなじ。存在すること自体が誤りなんだ。
 おまえを愛する者などいるわけがない。死神のほかはだれも。
 この世のものではない混沌界への導者ですら、おまえを愛さなかったじゃないか。わかっただろう、おまえの存在する意味なんかどこにもないということを。
 つまらない感傷にすがって、愚かな夢に惑わされて、ほんとにばかなやつ。人のふりをして、厄いをばらまいて、そしてまた逃げるんだろ。見え見えだ。
 そんな欺瞞に満ちた姿で、悲しげにこっちを見るな。
 ものいわぬ石くれのほうがまだましだ。
 おまえなんか消えてしまえ。消えて――
 ふいに、背後に人の気配がした。
「気分、悪いの」
 声だけで相手の正体を見破ったテッドは、「べつに」とぶっきらぼうに言った。
「そうか、テッド、午後、甲板シフトだったよね。ごくろうさま。あ、でも交替の時間、まだだけど」
「ふん。あんだけ野次馬がうじゃうじゃいりゃ、ひとりふたりズルしたからっていちいちわかっかい」
「あはは、まったくだ。うちは騎士団じゃないんだから、そのへんはヌルめにね。あ、でもカタリナさんにばれたらたぶんうるさいよ。気をつけて」
「トップのくせにノンキだな、あいかわらず」
 会話を長引かせる理由もないので、テッドは階段を下りはじめた。いつなんどきまた船が揺れるかもわかない。手すりにつかまりながら、慎重に歩を進める。
 ノエルはブリッジに檄を飛ばしにきたのかと思いきや、反転して向きを変えるとトコトコとテッドのあとをついてきた。
「なんか用か」
「ちょっと話がある」とノエルは声を抑えて言った。
「いっしょにいると、目立つ。どうしてもってんなら三十分後、武器倉庫で」
「どうしても。あとでね、テッド」
 階段を一段飛ばしに去っていく足音を送りながら、懲りない自分にテッドはふかぶかとため息をついた。

 幼い指と指が複雑にからみあう。革手袋はまくれあがって、足元に落ちていた。テッドが自分ではずしたのだ。もうひとつの紋章に、存在を誇示し、それを御するために。
 唇がかさなる。慣れぬ子どもがするような、不器用で、乱暴なキス。
 術中にはまったのはいずかたやら。噛みつくようなテッドのキスは、余裕のなさの裏返し。ノエルは長い睫毛を伏せ、テッドの情動を受けいれる。
 腹を空かせた獣の仔が、久方ぶりの獲物に一心不乱にかぶりつくのにも似て、テッドの欲求は本能そのものだった。諾否を問うてからならばまだしも、たいがいの男性が拒絶するようなおぞましい行為を、それが当然だといわんばかりにおこなうのである。
 思いどおりにならなければに拗ねて癇癪をおこし、いいなりになったらなったで身勝手にも不満をつのらせる。結局のところ、どんな反応を返してもテッドは納得しないのだ。彼はノエルに屈従を求めているのではなく、ただ単に、裏切られる痛みを逃避の手段としたいだけなのだから。
 スノウと正反対だ、とノエルは思った。
 スノウは人に裏切られることをなによりも恐れた。人を集め、いつも人に囲まれているノエルを憎んでいると言った。
 幼いころからスノウは、なにかにつけてノエルを独占しようとした。ノエルの持つ、天魁の資質を妬んでいたからだ。
 しかし、スノウの執着もまた愛の形。その点はテッドも共通している。
 スノウはもう、どこにもいない。最期のことばも聞けなかった。
「ガマンするくらいだったら、さいしょっからイヤだっていえよ」
 いたわりのまったくない、冷ややかな声が降ってくる。眼をあけると、テッドのむくれつらが目の前にあった。
「イヤだっていっても、むりやりするくせに」
「わかってんじゃん。お利口もほどほどにしとけよ」
「ぼくがいつ、イヤだっていった? テッドこそ、したいならだまってすればいいじゃないか」
 テッドはすぐに挑発にのる。乱暴に押し倒されて、ノエルは狭い床に背中をついた。
「おまえみたいないい子ぶったやつは、痛めつけてやりたくなる」
 スノウとおなじことを言う。ノエルは、なんだかおかしくなった。
 喉の咬痕に舌を這わせ、耳許でテッドはささやいた。
「後悔、すんなよ」
 自暴自棄はどっちだろう。思う間もなく、下着のなかに手が侵入してきた。
 テッドとの性交渉ははじめてではなかったが、慣れもしなかった。受けいれるのはいつでもノエル。おざなりに愛撫されたあと、交合する。相当の無茶をするのだから、痛まぬわけがない。激痛に悲鳴をあげても、猛ったテッドは容赦しない。
 その理由を、ノエルはうすうす気づいていた。テッドはいま、身体の変化をもて余している。いまの年格好に成長したのは、つい最近のことだという。だれもが経験する通過儀礼を、テッドは人よりもだいぶ遅れて課せられているのだ。
 永遠に生かされるというのは、どういう気分なのだろう。ノエルにはわからない。宿主の命を削る罰の紋章にも増して、それはおそろしい呪いに思えた。ノエルには死という罰がつきつけられているが、人はだれしも、遅かれ早かれ死を避けることはできない。しかしテッドが背負っているものはもっと陰湿で重い、彼にしか与えられることのない、死よりも冷たい呪縛だ。
「なんで声、ださないんだよ」
 テッドはいらいらと言った。
「外に……筒抜け、だから」
「きこえるもんか。猫しかいねえよ、こんなとこ」
「もしみつかったら、どう弁解するつもり」
「ちぇ、ごりっぱな本音。そうか、おまえ、リーダーだったな、いちおう。下っ端のガキと倉庫でよろしくやってるのがバレたら、そりゃ信用がた落ちだ。かわいい女の子ならともかく」
 テッドはからかうように、局部をもてあそんだ。
「う……」
「キモチいいんだろ。キモチいいっていえよ。男にされて、つっこまれて、イッちゃいそうですって。こないだみたいに、たっぷり出してみろよ、ほら」
 尿意にも似た快感が、ノエルの芯を痺れのようにつらぬいた。体内にあるその中心に、テッドの指先が触れたのだ。
「やべ。こっちがもたねえわ」
 指といれかわりに押しこんだものを、テッドはすぐに抜こうとした。
「なんで、やめるの」
「アホ。中でだすのはさすがにまずいだろ。ギリギリまでいれてりゃじゅうぶんだ」
 テッドは体勢を立て直して、気晴らしにキスをした。
「手でやってよ。口でもいいけど」
 ノエルは首をふった。
「さっきのつづきをしよう」
「だから、ムチャだって」
「だめだ」
「なにムキになってんだよ」
 ノエルは真剣な目で、テッドをにらみつけた。
「ぼくは道具じゃない。テッドとこうするのも、そんな理由じゃないからだ」
 こんどはテッドが口をつぐむ番だった。
 しらけた沈黙が空気を支配する。
「……じゃあ、どんな理由があるってんだよ」
 押し殺した声が、喉から漏れた。
「テッドをもっと知りたいんだ」
「知る必要なんてない。見たまんまだ」
「知らないことがたくさんある。もちろん、知ってどうなるものでもない。ぼくの勝手なわがままだ。じゃなかったら、きみなんてとっくにこの船から追い出してる」
 テッドは口元をゆがめて神経質に笑った。
「そうやって笑ってるけどさ。テッドだって、ぼくがいたからここに残ったんだろう」
「へえ、意外だな。そりゃ図星だ」
「わかるさ。ぼくだって紋章持ちだから」
「若造のクセに、口だけは達者だ」
「テッドにとっては若造かもしれないけど、ぼくはいま、記憶をもってる」
「……なに?」
 テッドは怪訝な顔をしてノエルを見た。
「紋章を継承してきた人たちの、記憶だと思う。何年、何十年、何百年前の記憶だ。断片的ではあるんだけど、けっこうはっきりとしてる。テッドはそういうことはなかったの」
 ソウルイーターを祖父から継承したのは、百五十年も前の話だ。たしかに異質の世界をかいま見たり、他者の記憶を感じたりしたことはあったような気がする。しかし、既視感といわれればそれまでの話だ。
「おまえの紋章と、おれの紋章は、どうやら性質がだいぶちがうみたいだな」
「どうかな。だけどひとつだけ、思ったことをいっていい?」
 ノエルは思わせぶりに目を輝かせたあと、紋章のやきついた左手でテッドの右手をつつみこんだ。
「”罰の紋章”と”生と死を司る紋章”。会話しているような気が、しない?」
 テッドはギクリとした。
「引きあってる。ここにふたつが集うことを、必然だといってる。テッドに出会ってから、罰の紋章が、少しだけ変化したのを感じたんだ。きみに会ってなかったら、いまごろぼくはもう、たぶんこの世にいないと思う」
「……おれも」
 テッドの声はわずかに途切れた。
「おれも、なんか妙だと思ってた。ほんとうなら、おまえはとっくの昔にこいつに喰われていてもおかしかない。こんだけ執着したんだ。ソウルイーターなら黙ってないはずだ。けど、喰う気配がまるでない。船の連中ならばともかく」
 結論は、ひとつしかあるまい。
「なんてこった。やっぱりあれもこれも、こいつらのしわざかよ」
 テッドが舌打ちするのを、ノエルはかすかにほほえんで見守った。
「テッド、しないの」
「はあ? やめてくれ。そんな気分になんねえよ」
 口調とはうらはらに、テッドはかっと紅潮して、あわててしらをきった。
 むっつりとうつむいて、口ごもる。
「……ちょっとだけ、なら、いいか」
 ノエルは笑いそうになるのを必死にこらえた。
 ふたたび抱きあい、小鳥のようについばみあう。
 罰とソウルイーターがからみあう。
 長い長い時間をかけて、テッドはノエルの体内に挿入した。
「苦しく、ないか」
「だいじょうぶ」
「痛かったら、あの……」
「いいんだ。ぼくが、そうしたいんだ。おねがいだから」
 テッドは動くのをやめて、ノエルをぎゅっと抱きすくめた。
 熱と、鼓動。ふたつの魂と、ふたつの紋章。
 おれはもうすぐ、この熱を永遠に喪うのだろう。
 ノエルの記憶もまだ見ぬだれかに承け継がれる。だがテッドにとって、ノエルはこの世でただひとり。いまここにある熱。これがノエルだ。
「動くなよ、ノエル、ばか」
 テッドは切ない吐息を漏らした。雄ははち切れんばかりに高まっていて、もうあまりもちそうにない。しかしノエルはテッドの腰を離そうとはせず、だめ押しのキスをほっぺたに落とした。
「切なそうな顔、はじめて見た。テッド」
「ばか!」
「許されないことじゃない」とノエルはつぶやいた。「がまん、しなくていい。ぼくだって……テッドが支えなんだ。テッドだけだ」
「おまえには、たくさん仲間が……いるくせに」
「けど、さびしい。苦しい。テッドがいてくれなくちゃ」
「ばか……」
 テッドはノエルの名を小さく叫んで、身体をふるわせた。
 蒼い瞳の少年を、壊れそうなほど抱きしめて。

「ほんとうですってば! たしかに聞いたんです。この耳で」
 バン。両のてのひらで机をたたいた音だ。
「第五甲板にはだれもいなかったんですよ。あれはぜったいに、幽霊の声です! そうにちがいありません」
 ノエルはにこやかに、だがどことなく機械的な表情で、ナレオの訴えを受理すべく書類におざなりなサインを走らせているところだった。
「ノエルさん、”マル済”じゃなくって! ぜんぜん解決してないです。それでなくても第五甲板はトーブさんがつくった覚えのない部屋があるっていうし、なんだかじめじめと湿気てるし、おかしな現象がいっぱい起こるっていうじゃないですか。いっぺんきちんと調べてみたほうがいいです。絶対です!」
「えー、ナレオくん」とノエル。
「はい、なんでしょう」
「その幽霊は、なんかいってた?」
 ナレオ少年は思い出すのもとんでもないといった顔で、ふるえあがった。
「なんかって……うあああああ!って、この世のものとも思えない不気味な声でうめいたんですよ! ぼ、ぼくはっきりと聞いたんですから!」
「あ、そう」
 ノエルはちらりと視線を横にすべらせたが、真っ昼間から真犯人が執務室にいるはずもないのであった。

 岩礁帯を無事に通過した根性丸は、舳先を北へ向け、さらなる進軍を開始した。


2007-07-06