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死神の名は

 からっぽの胃袋を刺激するふくよかな匂いが、ドアをあけてなかに入ってきた。
 いつのまに朝を迎えていたのだろう。貧民街は複雑に入りくんだ建物に阻まれて陽の光もろくに届きはしない。
 あまり眠ったような気もせず、身体はまだ睡眠を要求している。もっとも、満足するまでぐっすり眠るなどと自分にはあり得ないことでもあるのだが。
 意識は少し前に覚醒していたが、瞼をもちあげるまでの意欲はない。固いベッドに頬をすりつけるような格好で、テッドは寝たふりを決めこんだ。
 わずらわしい挨拶は回避できるならそれに越したことはない。この家に食事を運んでくれる人間など、ひとりしか思い浮かばない。板張りの床を踏む足音はまぎれもなく、あの男のものだ。
 互いに名前も素性も語らぬ者同士。世話を焼くのは当然魂胆あってのことである。
 ビジネスライクな関係であるからこそ、こちらも存分に利用することができる。どこの馬の骨とも知らぬガキをタダで住まわし、残飯同然の材料でつくったメシを運ぶがいい。むこうには金蔓を飼育しているとでも思わせておけば、この利害関係は双方にとってまんざらでもないはずだ。
 もちろん問題はまったくなかったわけではないが―――いちばん閉口したのが、一方的に犯られたあとの体調の悪さ。できるだけダメージを喰らわずに次の日へつなげるように、防御方法というものをウンザリするほど教えこまれたけれども、現実はそれでなんとかできるレベルの話ではなかった。
 男が連れてくる『相手』は金を持っている人の姿を模した豚だ。自分よりはそれでもまだ人に近いくせに、揃いも揃って人の心などまるで持ちあわせていないのが不思議だった。
 威圧的で下卑た嗤い。金で買った少年を支配し征服しようとする雄豚ども。性欲を吐きだせるだけ吐きだしてもなお、醜く萎びた一物を崇拝するように強要してきた。
 反吐が出そうになるのを理性でこらえながら、もう幾人を腹底で嘲笑ったことか。無駄に遣う金があるのなら普通の置屋にいって女でも抱いていろ、と。
 男は客から猛烈にふんだくっているそうだが、そんなことに興味はない。他人が言うほど不平等だとも思っていない。
 倒錯した連中の欲を埋めてやるのがこちらの仕事。報酬は衣食住と小銭。宿屋の皿洗いと毛ほどの違いもない。後ろめたさなどまるでなし。否定する連中には好きに言わせておけばよい。
 働かざる者、食うべからず。何処のどいつがぬかした言葉か知らないが、ごもっともな迷言ではないか。『働けなくなったら、死ね』とはまるで弱肉強食のこの世界を象徴しているようだ。
「メシ食えよ、ちび」
 テーブルにトレイを置いて、男は言った。もごもごとくぐもった話しかたは彼独特の悪い癖である。口を動かすことを省略せずに、きちんと発音する努力をしてもいいと思うのだが。
 だいぶ慣れてきたので会話をすることに支障はなくなったが、はじめのころはタガが一本はずれた異国のフーテンを相手にしているような気分だった。
「おい、きこえてんだろ、狸寝入り」
 無視を続けていると後頭部をいやというほど小突かれた。テッドはできるだけ迷惑そうな顔をつくり、男を横目で睨みつけた。
「……いらねー。食いたくない」
「無理してでも食え。それ以上みすぼらしくなったら、売りモンにならなくなっちまう」
「腹が痛いから、あとで」
 食事だけ置いて出て行ってくれればよいのに、男は椅子にどっかりと腰を下ろした。どうやら居座って説教をする気らしい。小言ならもう聞き飽きているというのに。
「あのなあ。だからいつも口酸っぱくしていってんだろうが。どうせ昨夜もそのまんま寝ちまったんだろう。しっかり始末をしないから、えれェ目に遭うんだ」
 馬耳東風をよそおってみる。身体の芯に不快がたまって、ズキズキと疼いた。面倒だから始末を怠ったのではなく、暴力行為を受けて気絶させられ、そのあとでさんざんぶちこまれたのだ。だがそんなことをわざわざ話すつもりはない。どうせ馬鹿にするにきまっている。
 男は小机に目をやって、渋面になった。
「ほらまた。金もだしっぱなしだ。こそどろに盗られる前にちゃんとしまっとけ」
 男が客からふんだくる高額な仲介料とは別に、テッドにも相手から代金を受け取る権利がある。ほんの小銭にすぎなくとも、まったく無いよりはずいぶんましだ。
「これっぽっちか。遠慮しねえでもうちっと請求してみろや。ケツばっかりじゃなく、ココをつかうんだよ、ココを」
 男はこめかみを人差し指でツンツンした。
「ちびになら、どんどこ金を落とすぜ。ウソじゃねえ。ま、自分信じるこった」
 好意や同情から出たセリフではない。それだけは有り難かった。男がテッドの取り分にまったく手をつけないのは、それが暗黙のルールだからである。後ろめたい商売にも、長続きさせるためのコツというものがあるのだ。
 男は小机の引き出しに勝手に金を放りこみ、鍵穴に挿しっぱなしのカギを回して放ってよこした。
「枕の下にでもいれときな」
 そろそろ説教から解放されるかと思いきや、俯せになった上から背中を強く圧迫された。
「ア、痛っ!」
 せっかく散らそうと努力していたのに。我慢の限界をこえた痛みにテッドは顔をしかめた。
「今日はもう無理だな」
「ちょっと寝りゃ、なおる」
「ばーか。こんなにガタガタで客を怒らす気か? ちいとは身をいたわるってことも覚えやがれ。ったく、こんなに血だらけにしやがってよ」
「あっ」
 男はベッドの下に丸めて押しこんでいたシーツを引っ張り出した。
「隠しゃあいいってもんでもねえだろ」
「悪い。汚しちまった。すぐ洗濯する」
 ベッドシーツも毛布も男からの借り物だ。一応は商売道具のひとつであるから、洗濯もテッドの仕事だ。
「あー、オレがやるって。ちびはいいから横になってな。ただし、メシを食ったあとでな。今日はだれも寄越さねえから、ぐっすり寝ちまってもいいぞ」
「……すみません」
 滅多につかわない敬語がおかしかったのか、男は口元を吊りあげた。
 次に男から発せられたのは、それまでただの一度も訊かれなかった問いであった。
「なあ、ちび。おまえ、名前はなんていうんだ」
「……は?」
 この界隈では、名前など意味を成さない。皆それぞれ、便宜上の呼び名があるだけである。
 テッドの呼び名は『ちび』。失礼極まりないが、ほかに子どもがいないのだから文句は言えない。男が『嘴太カラス』と呼ばれているのは知っているが、長ったらしくて面倒なのでテッドが呼ぶときはいつも『アンタ』だった。そのほうが合理的で、うっかり忘れることもない。
「名前。あんだろ、ちゃんとしたのが」
「けっ。教えたら最後、次のステージにご招待されそう。くわばら、くわばら」
「へ、なんでぇその懐疑的なツラ。かわいくねえ。ホント、うれしくなるくらい性悪のカタマリだな、ちびは」
「お互いにね、ハシブトカー公」
 嘴太カラスはにやりと意地の悪い笑みをうかべて、ベッドの端に座った。
 とたんに様子がそれまでとは一変する。
 次のステージとテッドが例えたのは、すなわちこういうことだった。関係性の変化。これまで立ちいらなかった領域を侵すために、罠を仕掛けてくるにちがいないと踏んだのだ。
 横たわったまま、テッドは警戒の度を強めた。
 予想はしていた展開である。しかし対策まで考えていたわけではない。嘴太カラスは異常性癖の持ち主ではないが、そういう連中を飯の種にしているくらいだからその手の知識は半端ではない。初対面の小僧に仕事を斡旋したのも、鋭い眼力がテッドを金の稼げる経験者であると見抜いたからだろう。
 十代の前半くらいにしか見えない薄汚れた浮浪児に、嘴太カラスが当初からある種の特別な評価を抱いていたことは知っていた。行き場もなく、そのままでは淘汰されるのを待つだけの子どもを、でなければわざわざ拾いはしない。嘴太カラスにそなわった生存本能が、このガキを逃がすなと咆哮したにちがいないのだ。
 あるラインに達するまではけして性急に踏みこまず、飼い慣らす。嘴太カラスは狡猾で、頭がいい。ガキのほうも自分を利用するだけ利用するつもりなのだと、とっくのとうに気づいている。その上で駆け引きを愉しんでいる。とんだ食わせ者だ。
 嘴太カラスの作戦は巧妙で、えげつない。
 ただひとつの過ちを除けば、彼の計画はおそらくは完璧だった。
 哀れな彼が見抜けなかったのは、真に恐るべきガキの正体。
 その失敗については、嘴太カラスに非はない。むしろテッドの事情が特殊すぎたのだ。
 嘴太カラスのごつごつとささくれだった手のひらがテッドの背中を這いあがるように撫でまわした。刺すような痛みに身を強張らせるのを、勝手に別の意味に解釈したとみえる。
「そうやって誘うワケか。ったく、どこで覚えたんだか知らねェが、巧いな。淫乱小僧」
「出て行け。ぐあいが、悪いんだ」
「金は払うぜ、もちろん。好きなんだろ、ヤルのは」
「下衆が」
「へっ、くだらねえ世の中に絶望してるやつってのはたくさん見てきたけどよ、ちびはそん中でもサイアクだな。生きのびようって気が、これっぽっちもねえんだろ。かといって死んじまうのも面倒だ。当たりだろ? 顔に書いてある」
「聞こえなかったか? 出て行け」
「家主に向かって偉そうな口をきくじゃないか」
 起きあがろうとしたが、無惨にもベッドに押しつけられた。体内を駆けめぐる嵐が悲鳴を喉奥から絞りとる。強張った脚のあいだに、昨夜の薄汚い残滓が流れ出る感触があった。
「セックスは死の疑似体験ってほざいてたヤツがいたな」と嘴太カラスは侮蔑を含んだ声で言った。「おまえもそうなのか、ちび」
「離せ」
「おまえさ、無理矢理されるのがイイんだってな。こないだの客がいってた」
「勝手な……」
「男をイかせる趣味はねえけどよ、ちびだけは別だぜ」
 振りほどこうともがいても、体格のよい嘴太カラスには抗えない。
「ちびが狂ってやがんのか、ほかの連中が狂ってんのか、じっくり確かめさせてもらうかな」
「キチガイはテメエだろうが! やめ……やめろよ! 痛ァッ!」
 叫んでも虚しく壁に跳ね返るだけ。声は外部に漏れ放題だろうが、悲鳴を聞いて駆けつけてくれる殊勝な輩はこの界隈にいるはずもない。むしろ聞き耳をたてて、己の欲を処理しようとする連中ばかりだ。
 すでに肥大していたものを、強引にねじこまれた。激痛に息が詰まる。
「うへっ、キツ……こんなにギュウギュウに締められてよ、喘いでるヤツらの気が……知れねえな。くそ、もうちっと弛めろ。ああそうか、ちびも、よくなっちまえば……いいんだよな」
 ざわざわと下腹部をまさぐられて、必死に抵抗しようとした。怒りと恐怖で理性的な思考が吹き飛びそうになる。
 性器をいじくられて、反応するのは身体がそういうしくみになっているからだ。テッドも例外ではない。けしてそれを望んでいるわけではないのに、結果として陵辱者を悦ばせてしまう。腹が立って、悔しくて、ベッドに爪を立てた。
「いいんだろ? な、認めちまえよ」
「もう……イヤ……だ」
「強情だな。ココ、こんなにしてるクセによ。やっぱ根っからの淫乱だな、おめぇは。男に突っこまれるのが、へっ、嬉しいんだろ。ホラ……腰、使えよ」
 やめろ。それ以上、触れるな。
 虫が這いずり回るような、ぞわりとした悪寒が全身を奔る。
 自分のなかでなにかが頭をもたげ、ささやいた。
 死ねばいいんだ
 反射的に耳をふさごうとしたが、その声はテッドの意識野に赤黒い疵を印してするりと逃げた。
 いつも身近に聞いていたような、懐かしいその声。
 あれは、自分自身の、声。
 成熟しない幼い自我の、残酷さだけは失わない声。
 死んで当然だ。こんな男は。死んで。
 死んで死んで死んでしんでシンデ
 音がどこかに遠ざかる。ぐちぐちと聞こえていた淫猥な音も、辱め、傷つけようとする戯れ言も。すべて遠ざかり、あたりはまったくの無音となる。
 体内をつらぬく男の熱だけがはっきりと認識できた。
 嘴太カラスは、境界に踏みこんでしまったのだ。
 自業自得。
 笑いがこみあげてきた。いちおう警告はしたのだから、その先はどうなろうが知ったことではない。死んでからの恨み言は聞く耳を持たない。
 せっかく拒絶してやったのに、退き際を見誤った嘴太カラスの負けだ。
 ふたつの醜悪な魂は、けっきょくは引きあい、寄り添ったことになる。
 好意のみが互いを引き寄せるのではない。憎しみの力はそれに匹敵するか、あるいはそれよりも強い。
 自分はひょっとして、こうなることを知っていたのだろうか。
「……ね」
「ン? なんだ。いまのがよかったか」
「し、ね」
「いいねぇ、その刹那的なカオ。ゾクゾクしちまう。おまえって、アレだな。男、狂わせちまう。細っこいガキだからよくまあ客がつくなと思ってたら、そういうことかよ。ちっ、オレもよ、おかしくなっちまったみてえだぜ。ちびは、もう、よそのヤツには売らねえ」
 嘴太カラスはうっとりと息を吐き、腕と脚をからめて拘束するようにしがみついた。
 首筋に舌を這わせ、歯をたてる。
 唾液と赤い痕を残して、唇が離れた。
「ちびは、オレのモノだ」
 膨張し、亀裂を生じていた感情がついにはじけとんだ。
 死ね。
 嘴太カラス。
 醜く潰れて黒い塊と化し、その姿で地獄に堕ちるといい。
「泣いてるのか」
 涙が頬を濡らすその理由を、嘴太カラスは完全に誤解したようだった。
「わかった。キモチいいんだな。オレも……ああ、いっしょに、イこう」
 恍惚と下半身を打ちつけ、淫らな言葉で恋人を射すくめながら、薄嗤う。
 やがて血液の最後のひとしずくまでもが永久の闇に招かれる運命にあるというのに。
「愛してる。ホントだ。ちび……ウソじゃない」
「……”テッド”だ」
「テッ、ド」
「なまえ」
 嘴太カラスはようやく手にいれたそれをもういちど舌先でころがして、勝ち誇ったように唇を這わせた。
 鎖でからめとられたのが自分のほうであることも知らずに。
 人は死を恐れ、死に憧れ、死を模倣しようとする。愚か者たちは墓場に引き寄せられ、なかには足元の裂け目から転げ落ちるやつもいる。
 墓場の番人であるカラスまでもが、甘美な死を望むというなら。
「おやすみ、ハシブト」
 快楽にふるえる身体に抱かれながら、テッドはつぶやいた。
 死が彼にとって絶頂であり、終焉もまた幸福であるように。






2006-09-18