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蒼のマリス

4テッド愛☆祭さんへ投稿した作品に大幅な加筆訂正をしたものです。



 どれだけの距離と歳月を、孤独に歩きつづけたか。それを他人に語っても詮無いことではあるけれども。
 いまいる地は、トランという。国の名は赤月帝国。
 すり切れて薄くなった靴底でしっかりと大地を踏みしめる。ここは故郷からはるか遠く。
 たよったものは、生まれながらにして天から授かった二本の脚のみだ。
 旅の目的などはもはや時の彼方に置いてきてしまった。歩くこと、居場所をつぎつぎに変えることが目的といえばそうだったかもしれない。
 いっそ滑稽にも思える旅が順風満帆のはずもなく。
 つまづいては、幾度も己を否定した。そのたびにそこから一歩も動けなくなる。このまま永遠に動かなければ、この身も土に還れるのだろうか。呪われた躯でも、眠ることができるものなのだろうか。
 そしてまたよろよろと歩きだす。死ぬ勇気すらもないことを思い知らされ、自嘲しながら。
 気が遠くなるほど繰り返した、その一歩。
 右足。
 左足。
 冷たくひきずる両の脚。
 二度と運命から逃げぬと誓ったあの日から。世界の終わりまで未来永劫、孤独であることを承諾した自分。ソウルイーターの守護者たる己を自覚した、遠い海。
 だいじょうぶ。
 まだ、生きている。
 そして、いまはもうひとつの思いが脚を動かしていた。
 もうすこし。あとすこしだから。
 いつからだろう。そう思うようになったのは。終着点などどこにもないはずなのに。
 ひどく人恋しく、なつかしい。そう、未来が。
 未来が、過去。過去は、未来。  まるで巡りめぐるメビウスの輪のように、そこでたしかに待っている。
 裏と表のちがいはあっても、本来それはひとつのはず。
 そういうことを考えるようになった自分が少しおかしくなる。ひどくゆっくりとではあるが、自分も変わってきているのだと思う。
 己を回顧するにはまだ性急すぎる。たかだか三百年しか人生謳歌していない。
 そのとき、轟、と風が鳴った。
 ざわざわと木々を揺らす自然の猛威に驚いて周囲を見まわす。すると広大な湖がゆったりと大地にねそべっているのを視界にとらえた。
 これほど大きな湖はよそではなかなかお目にかかれない。なんと雄大な眺めだろうか。
 だが、海とはやはりちがう。
 海。Maris。
 トランの人々は、多くがそれを知らぬまま生涯を終えるという。それは赤月の帝都からあまりにも遠く離れているからだ。そこに行くためにはたいへんな労力と、資金と、時間を犠牲にするものらしい。市井の人々に、海を見たいという願いはかなわない。
 せめてもの慰めに、珊瑚でできた首飾りを、交易商人が持ちかえる。色とりどりの貝殻も、きれいに化粧をほどこされて本来とはまったく別の姿で市場に並んでいる。
 人々にとって海は憧れの地。けして手の届かぬ未知の世界。そのふところがどれほどのものか想像はつくまい。
 大地と生命をうるおすトランの湖がどれほど深い碧みをたたえようとも、母なる大海の蒼にはけしてかなわない。
 海はただそこに存在するだけではない。この世界が循環するその源にあるのだ。
 大地に生を受けたすべての命はいつか喪われ、ゆっくりと時間をかけて、空気と水とに分解される。
 生と死は万物に公平で、循環の鎖のひとつを担う。
 鎖の一片、命のひとつぶは小さな流れとなり、川となる。
 はじめはひとすじの流れに過ぎなかった川たちは、幾つもの渓を経たその先で出逢う。
 高原を、湿地を、大平野を、デルタ地帯を。潤しながらやがて大河をなし。
 大河はやがて海に果つる。
 海とはすなわち万物の墓標。ありとあらゆる命の巡りつく寝床であるのだ。
 命の終着地点ははじまりの場所でもある。
 循環する蒼。
 その底知れぬ蒼を記憶としてもっている自分は恵まれているのではないだろうか。
 しょせんこの身はどこにあってもよそ者。故郷は遠いむかし炎に呑まれ、帰る場所はもうどこにもない。
 海は故郷の思い出のかわりなのか。いまとなってはどんな宝物よりもちっぽけなその失われた小さな村よりも、海の蒼のほうがなつかしく、恋しい。
 すでに一半世紀は時の彼方に過ぎ去ってしまった古びた感傷にすぎぬ。それなのに、その記憶を、自分は未練がましく捨てずにいる。
 精彩を欠くそぶりすら見せず、むしろ年月を経るごとにあざやかによみがえっていく色彩の記憶。
 三百六十度の水平線は天の色を模した蒼。
 一刻ごとに時の色を映ゆる蒼。
 太陽に祝福される純白のかもめ。
 燃える朱を遺して水平線に没し。
 やがて無数の星々をまき散らす漆黒。
 受胎の水面を煌々と抱く月の乳白。
 新たな命の誕生を告げる黎明の紫紺。
 色彩の奔流。それがもっともたしかな記憶だ。
 その国では、人々は島と呼ばれるごく狭い土地に身を寄せあって暮らしていた。四方を絶海に囲まれる閉鎖的な風土のせいか、それぞれの島が伝統的な独特の文化を持っているようだった。
 交易はむしろ大陸よりも盛んで、港にはいつも活気があった。陽気で、頑固で、一筋縄ではいかない連中がわんさかいた。
 海の男はとりわけ喧嘩っぱやい。そして一様に酒が好きだ。
 海賊という荒くれ者にも会ったけれど、サバサバとした、いい奴らだった。
 太陽は水平線にのぼり、水平線に沈む。
 船を寝床にした夜もあった。
 海神のつかさどる国々。
 群島諸国。
 そこも、故郷からはるか遠い地だった。幼かった自分は、未熟な脚で必死に歩いてたどりついた。
 海が、見たかったのだと思う。
 最期にいちどだけ。
 長い、長い時間をかけて。小さな躯も精神も限界までぼろぼろになりながら。
 旅のさなかに、色彩というものがぽとり、ぽとりと失われていった。こぼれおちた、というほうが正しいかもしれない。
 かろうじて手元に残されたただひとつの色は、灰色。
 あたりの風景がすべて灰色に沈んでいることを、疲弊しきっていたあのころの自分は疑問にすら思わなかったのだ。
 だから生まれてはじめて瞳に宿した海は灰色だった。
 ひたすらに憧れつづけ、そしてようやく手の届きかけた海。
 荒々しく断崖を洗う波濤が、おいで、とささやいているようにきこえた。
 海は命の源なのだから、そこに身をゆだねてもかまわないのだ。
 だれもとがめない。愚か者と叱責しない。
 だから、
 目を、閉じた。
 感情はすべて麻痺しているはずなのに、なぜだか、薄く微笑っていた。
 己の鼓動と、波が共鳴する。
 おいで。その世界と訣別し、おいで。テッド。
 あの声は、誰。
 ひどくやさしく、甘やかだ。
 おじいちゃん?
 それとも、
 悪魔?
 ゆっくりと、躯がゆらぐ。
 そこにある記憶はただ圧倒的な灰色。
 時を語ることのない無限の灰色。
 テッドは、それでも生きていた。虚ろな生。だが、生きていたのだ。
 もういちど色彩を取り戻すことなど考えもしなくとも。
 そう。あれは運命の仕掛けたちょっとした悪戯。あるいは、神の下した審判。
 長かったのか、それとも一瞬だったのか。実体のないまどろみのあと、波濤のように流れこんできた色彩はあまりにもあざやかすぎた。
 鮮烈な色彩にもみくちゃにされ、この身は忘れ得ぬ記憶を刻みこんでしまったのだ。
 それが自分にとって救いだったのか、それとも罰だったのかはわからない。
 その日を境に、ゆっくりと時間が動きはじめる。
 いちど死んだ心が生まれ変わって産声をあげたような感覚。
 沈澱していたさまざまな自我のかけらが、生まれたての幼子のように、両手をかざして光を求める。
 己に与えられた時の流れは人のそれよりひどくゆっくりではあったけれど。
 そして、いちどは取り戻した肉体的な成長はふたたび閉ざされてしまったのだけれど。
 少しだけ青年の顔になった自分がいた。
 さいしょに気づいた色は蒼だった。
 海はほんとうは蒼いのだという認識だった。
 そして大空の碧。かもめの白。マストの緑。甲板の茶。夕焼けのオレンジ。雨雲の群青。イルヤの鈍色。花火の輝色。紋章砲弾の五色。歓喜の黄金色。
 友だちにならないか、と言った少年の瞳の色は蒼。
 その申し出は受けられない。なぜなら。
 己の右手の、血液のかよった、色。
 それがわかっただけでもじゅうぶんだ。
 泣くことや笑うことを思い出したのはそれからまだずっとあとの話。あのとき海からもうひとつの命をもらわなければ、それすらもかなわなかった。
 泣いて、泣いて、泣いて。
 迂闊だった自分を悔やんで、壊れそうなほど罵倒して。
 代償に与えられた、身を引き裂かれんばかりの苦しみや哀しみ。それは灰色の世界では知る必要のなかった感情だったのだが。
 これでよかったのだと、思う。
 思い出が色鮮やかなのは流した涙のおかげなのだ。
 感情よりも先に躯が勝手に涙を流したのが不思議でしかたがなかったけれど、不要なものを捨てるだけの自分はもういない。
 呪われた身であろうとも。未来永劫、万象に忌み嫌われる存在であろうとも。
 涙。それは自分がまだ人であるたしかなる証拠。
 だから自分はけして忘れない。
 はじめて知った海の蒼。
 老いの年輪を刻む瞳に、そこだけあざやかな命の蒼。
 海の話をトランのだれかに語り継ごう。
 テッドは色彩あふれる世界をまぶしげに見た。オレンジ色の髪を風がやさしく撫でていく。
 彼は生と死の守護者。
 始まりの大いなる意志がそう認めた。
 だが運命の刻は、次なる循環をささやきはじめる。






4テッド愛☆祭さんの最終日、カウントダウンチャットに参加させていただきました。総勢二十二名。ものすごい熱気と情熱にたじたじとなりましたが、忘れられない思い出となった夜でした。
ずっとロムだった私に皆さんはいやな顔ひとつせず、まるで旧知の仲だったかしらと思うような和気あいあいさで接してくれて、感激しきり。
そして、求められたのです。「小説を投稿して、Rufusさん!」と。
徹夜で書きました。お酒はいってたけど書きました。投稿したのはじつに朝の六時。完徹でした。
あんなハイテンション、ひさびさだったなあ。
今回のバージョンは転載ではなく、完全な書き直しです。ありのままの姿で大切にしようかとも思ったのですけれど、これもまたひとつの作品。まったくの別物に近いですが、お許しください。
投稿作品にあたたかい感想をくださった幸梨さま、秋嶋優津さま、結美さま、北海くるるさま、高崎いづるさま、こんな辺境でお礼もナンですが、涙がでるほどうれしかったです。ほんとうに、ほんとうにありがとうございました。
このお話を、すべてのテッド好きさんに捧げます。

2006-09-07