Press "Enter" to skip to content

無窮動

 明けには小鳥のさえずり、夜半には虫のささやき。
 己はなにもせずとも時は確実に巡ってくる。朝と昼と夜。繰り返し、また繰り返す。
 高窓からかすかにきこえてくる時の息づかい。手を出すことができずにぼくはただ非現実のなかで虚ろにとらえている。
 望み? ちっぽけなものならば、ある。しかもシンプルだ。
 おなかいっぱい食べたい。靴と靴下がほしい。
 裸足はぱんぱんに腫れあがり、掻きむしった痕に血がにじむ。
 監視者は生きていく最低限の食べ物しかくれない。
 冷えきった床、カビ臭い毛布。不自由なく与えられるものは、毎日汲みかえられる清浄な飲み水と、部屋の隅にあるトイレだけ。
 潤して、排泄する。それだけが自由だ。
 悪魔憑きに自由など要らないと、人々がぼくをこの湿った部屋に閉じこめたのはいつだったか。
 神さまを信じるかと訊かれ、わからないと言った。やつらの顔が醜く歪んだ。
 だって、わからないものは、わからない。
 物乞いをするための手段に嘘を使いたくない。
 ぼくはこの町で、人を殺してしまった。故意じゃなかった。右手に宿る紋章をほんの少し甘く見ただけだ。
 逃げるスキなどまったくなかった。大勢の人に見られた。ぼくは怒り狂った大人たちに捕らえられ、閉じこめられた。
 小さい町には牢屋などなかったふうで、古い石造りの棟にある冷たい小部屋に隔離された。
 この子には悪魔が憑いているよ。口々にそう言われたらしかたがない。なぜならばそれは本当のことかもしれないから。
 ただひとつ、腑に落ちないことがある。
 神さまを崇拝すれば悪魔はぼくから離れていくの?
 目に見えない信仰の対象を、ぼくはきちんと把握できていない。
 神さまとはだれだろう。ほんとうにこの世を統治しておられるのか。人の心が悪い方に傾かないように。悪魔に喰われないように見守ってらっしゃるのか。
 ぼくのとっての神さまを敢えて言うならば、あのときぼくを救ってくれた人たちがそうだ。
 村を襲ったのは、魔女と、吸血鬼と、人ではないなにか。
 その魔手から逃れえたのは奇蹟としか言いようがなかった。
 燃えさかる火から庇って、知らないおにいちゃんと、おねえさんと、おじさんがぼくを逃がしてくれた。
 ぼくには彼らが「人」に見えた。神さまでも、悪魔でもない。ただの人。はじめて会った人たちなのに、ぼくのことを知っていたし、たしかに名前を呼んだ。親しみをこめて「テッドくん」と呼んだ。
 おじいちゃんの知り合いだったのかも知れない。だったら合点がいく。けれども、まだ違和感が残る。どうしてあの人たちは、命がけでぼくを逃がしてくれたのだろう。
 村は完全に焼かれ、おじいちゃんは殺された。みんな死んだ。生きのびたのはぼくひとりだった。
 荒野をころげるように逃げて、村はずれにあった光る祠に彼らは消えていった。手招きされたのに、「いっしょに行こう」という声をたしかに聞いたのに、ぼくが行けたのはそこまでだった。
 おねがい。いっしょに連れて行って。ぼくをひとりにしないで。一生のおねがいだよ。
 叫びは虚しくかき消された。
 追っ手はまだ背後にいる。お願い、戻ってきて。守って。たすけて。
 無力な弓一式で己の身を守れというのか。そんなのはあまりにも酷だ。いっそのこと、この村で運命をともにしろと言われたほうがましだった。
 ぼくがどんな思いで村から離れたのか、きっとだれもわかってくれない。
 喉が渇けば泥水だって口にした。木の根をかじり、涙を拭きながら重い足を引きずった。
 どこまでも果てが見えなかった。
 けして負けないこと。おねえちゃんが言ったあの言葉がぼくを縛りつけた。
 継承した紋章についてのささやかな知識はあった。これは世界に27しか存在しないという真の紋章のひとつ、生と死を司る紋章。それを持つ者は未来永劫、けして老いることはないという。運命のあの日、自分はそのひとりになった。
 だけど空腹は避けられない。うっかりすると怪我もする。幼い容姿は武器にならない。
 どうやって生きていけというのか。
 息をして、蠢くだけの虫けらなのに。
 命はとまらない。何者かによって故意に動かされている。その思惑を推し量るほどぼくは成長していない。
 もしもぼくの命を救ってくれたのが神さまだったら、ぼくは神さまを恨む。
 どうして命を絶ってくれなかったの。
 どうしておじいちゃんといっしょに逝かせてくれなかったの。
 神さまは慈悲深くて、愚かな人々を憐れむというけれど。
 ぼくは、なにか神さまの気に触るようなことでもしたのだろうか。
 だから、その小さな鼓動が永久に止まらないように、呪いをかけたのだろうか。
 それとも、ぼくは悪魔にたぶらかされた?
 考えれば考えるほど、虚無に陥っていく。
 たったひとことごめんなさいと、これからは神さまを讃えて生きますと、そう嘘をつけば慈愛に満ちたスープがもらえるはずなのに。
 できない。
 神さまも悪魔も、ぼくを傷つけ翻弄する存在だから。
 自分の心に嘘はつけない。信じられるものなどなにひとつない。
 真実は、右手の紋章だけ。
 呪いの意味を、ぼくはやっとのことで理解したのだ。
 それは、知識で教えられるたぐいのものではなかった。どんなに難しくても、自分の身で理解しなければならなかったのだ。そのために人から蔑まれることになっても。
 おじいちゃんの幻がゆらゆらと揺らぐ。
 ぼくは泣いていたのだ。いまはじめて、おじいちゃんの苦しみがわかったからだ。
 神さまのことはもう忘れよう。悪魔つきと呼ばれることにも慣れてしまえばいい。
 ぼくの前には永久がある。曲げることのできない真実のみがある。
 ぼくは、ぼくの存在を誇りに思っていい。『大いなる意志』に選ばれた己をのみ、唯一無二として信じればいい。
 時は、止まらない。ぼくとともに、永久(とわ)に巡る。


「無窮動」(ペルペトゥウム・モビレ)/常に一定した音符の流れが特徴的な、通常は急速なテンポによる楽曲ないしは楽章。文字通りには永久機関を指す(Wikipediaより)

2007-12-24