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along the way

 降り出した雨の気配に気づき、重い瞼をあげる。
 雲が重く垂れこめている。雨粒は大きいが、張り出し屋根のおかげで派手に濡れることはない。
 石畳からじわりじわりと水がせりあがってくるのを避けながら止むのを待つ。この季節にありがちな通り雨。
 多少は湿っても、凍えるまでに至らない。自ら望んでずぶぬれにならなければ。
 温暖だということは路上生活者にとって慈しみ深き恩恵の筆頭となりえる。その反面、うっかり死体になりかけた日には、息の完全に止まる前に眼窩蛆だらけの憂き目に遭うから気をつけた方がいい。不衛生な環境には蠅も多い。
 仄暗い路地にはすえた臭いが充満している。垂れ流しの汚水、鼠やノラ猫ノラ犬の生活臭、やる気のない住民が始末を怠る残飯の臭い。時を経た建築物をびっちりと覆う、肺に浸潤するような黴の臭い。
 たむろする社会不適格者にさえ無頓着な街。たいがいの貧民街には仕事を斡旋してくる仲介者がいるものだが、ここではその姿すらもない。
 仮にそのようなシステムが機能していたとしても、自分のような見かけでは仕事にありつくのは困難だろう。貧相な身体は、だれが見ても十代のはじめにしか見えまい。
 行くところがないわけではない。否、居場所などどこでもいい。この街はもとから健全さに欠けていて、自分のような異質の存在が紛れこんでいてもあまり目立たない。いろいろと都合がいいから住み着いているだけなのだ。
 いや、住むというのは言い直そう。衣食住が揃ってはじめて住むという意味合いが成立する。
 テッドは座りこんでいる。もう二週間も身じろぎもせず、人の行き交う通りを虚ろに睨みつけている。
 その間、食事はただのいちども摂っていない。水も口にした記憶がない。なのに飢えずに生きていられるのは、宿主に相談なしに、彼の相棒である紋章がどこかの誰かを喰らっているからに相違ない。
 空腹という感覚はほんのりとわかる。だが飢えるという表現はしっくりとこない。普通は二週間飲まず食わずで平気なはずはないのだ。しかしテッドにはそれもまた日常である。
 おそらくこのまま飲まず食わずを飽きるほど続けても、この状況は永遠に変わるまい。
 ただし。
 代償として見知らぬ魂が消費されていく。顔も素性もわからない、どこかそのあたりでたまたま出くわした運の悪い獲物。皮肉なことにそういう「食物」はこの界隈にごろごろころがっている。
 食べるものをいちいちさがすのは面倒くさい。どうしても食べたいという欲求があるわけでなし、喉が渇いたら雨粒でも舐めればよい話。食べても食べなくても生かされるのならば、些細な努力すらも無為に思えてくる。衣食住、なにもかもすべて放棄したくなってあたりまえだ。
 このごろ、なんとなくわかってしまった。右手の紋章は、無条件でこの身体を生かしつづける。食べること、眠ること、運動すること、他人に奉仕すること。紋章の前ではすべて無為である。
 食べもせず飲みもしなければ排泄すらも他人事になる。己の身体は正常に循環していない。ただ、置物のように「在る」だけだ。食物摂取を中心とした循環をとくに必要としない。魂という物質エネルギーさえ絶えずに摂っていれば、あるいは摂らされていれば、半永久的に、それは確かに仮定ではあるが、姿形を変えずに在りつづけることが可能であると思われる。
 紋章を継承した瞬間から、自分は人ではなく器になった。
 器は陶器のように衝撃ですぐに壊れたりはしない。真の紋章を納める「もの」だから、簡単に壊れては困るのだ。
 人であったとき蓄えた知識はまったく役に立たない。別次元に去(い)ってしまった、遠い過去の物語。懐かしんでも、今さら懐いてみようと鼻を鳴らしても、器にはそぐわない。
 いっそのことあのとき、人の姿形すらも失ってしまえばよかった。だったら苦しむことなどなかったろうに。人の子に擬態して、ひっそりと身を隠すこともせずにすんだだろうに。
 忘れるほどの時を経た思考はフラットなようでいて、じつは千々に乱れている。なんてことだ。この姿のせいだ。醜く変貌してしまえばいいのにとテッドは願う。
 誰からも相手にされない痘痕の老人が恨めしい。どうして己の姿は幼子なのだ。愛くるしい相貌をして、善人を騙す。人ならざる化け物のくせに。
 それこそが紋章の呪いなのだと、何度も自分に言い聞かせた。呪いに責任転嫁すれば己は被害者でいられる。人の魂を盗って喰っても、おれのせいではないのだと。
 思考が歪む。修復できないほうへと歪んでいく。見せかけはそのままで、中身だけが醜悪に変貌していく。
 悪食のせいだ。魂ばかり喰らっているからそうなるのだ。
 不摂生が祟るとだめになるのはあたりまえじゃないか。
 最悪だな、おれ――
 自嘲の笑みを漏らして、テッドは膝に顔を埋めた。
 石畳を打ちつける雨音と、急の雨に慌ててばしゃばしゃ走っていく大人の足音。遠く教会の鐘の音。刻まれる時間(とき)を告げる、自分には必要のない不協和音。
 我が身の不幸にもっともらしい理由をつけても、事態は改善しない。むしろみじめになる一方。かといってなにも考えるな、石になっちまえというのも無謀な提案だ。
 怯えている。これからのことではなくて、もっと身近に起こりうる事態――たとえば親切な人に声をかけられるとかだ。けしてあり得ない話ではない。路傍にみすぼらしい子どもがしゃがんでいれば、哀れに思って連れ帰ろうとするお節介が必ずいる。
 人とはおかしなものだ。自分よりも弱いと判断した人間を放っておけない。
 この二週間のあいだそういうトラブルがなかったのは、ボロ布を頭からかぶって歳がわからないように身を隠していたからだ。
 意識をこっちに向けられたら、心臓がすくみあがるほどびっくりするだろう。構われるというのは最悪の展開だ。そこに悪意があろうがなかろうが、興味本位だろうが心からの親切だろうが、寄ってこられたらどうしていいかわからなくなる。いじめられつづけて人間不信になったノラ猫と同じで、テッドは人が怖い。時を刻みながら生きているものすべてが怖くてたまらない。
 信じられるものは、手元からすべり落ちていった。生家のあった村とともに炎に呑まれた。忘れもしない、あの悪夢の日。
 ただひとつ遺ったものが、右手に宿された、生と死を司る紋章だ。
 これだけは自分を裏切らない。自分がそれを裏切りさえしなければ。
 他人の魂を糧にすることの後ろめたさは、とうに手放している。生まれいずるものは必ず死ぬことをきちんと理解できていれば、理屈は容易いことだ。そうでなければとっくの昔に、重すぎる罪悪感で自滅の道をたどっていたにちがいない。
 だが、とりあえず食事を摂る努力くらいはしたほうがよいのだろうか。捕食する魂の代償になるだろうし。
 ただし紋章の負担が少し減ったところで、人の世は平和になどなりはしない。
 この手の紋章があるかぎり、争いは否応なしに巻き起こされる。それが生と死を司る紋章の本質だ。
 幾度も戦争をまのあたりにし、人の死ならいやというほど見せつけられた。だからこそ、己が幾分かばかり自重することで、気むずかしやの紋章を宥めることができ、それによって争いを減らせるなどと――そんな傲ったことは考えたくない。それこそ自分の存在がいやになる。
 永劫の平和など幻にすぎない。争い諍いがこの世を動かし、支えている。それこそが真の紋章が司る世界のバランスだ。本質を見誤ってはいけない。
 とりあえず、そろそろ潮時だ。居場所を変えてみるのも一興。そもそも、ひとつところに長居してもよいことなどあったためしがない。魔女に嗅ぎつけられる恐れもあるし、そうでなくともこの姿が人々の記憶に残ったらそれはそれで厄介だから。
 弓矢は濡れないように注意していたから、まだ錆びてはいない。弦の張りも大丈夫。水筒は空だけど、どこか適当な水場で汲めるだろう。金はもっとも必要のないものだ。これが貯まると欲が出る。欲は積もり積もると、もっともろくでもない荷物になる。
 小さな袋、たよりない弓、二本の足。持ち物はそれだけでじゅうぶんだ。べつに世話になったわけではないから近隣への挨拶はいらないだろう。
 この街のことはすぐに忘れる。濡れた石畳の色や、鼻をついた生者の臭いも。
 目的はない。ただ理由があるだけだ。旅とも呼べない旅。
 それがテッドにとって、生きるということ。


2008-01-28