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クッキー

「お口を、あけて頂戴」
 気怠い動作でおねだりをしてみせる己の不甲斐なさに目がくらんだ。
 だが従うしか方法はない。命じられたことは絶対。拒否することは、万にひとつもあり得ない。
 期待どおりの可愛らしいしぐさに彼女は満足したようだ。飼い猫に餌を与えるように、病的な白い指でクッキーの欠片を押しこんできた。
 焦げたバターの香りがふわりと鼻に抜け、舌の上にまろやかな甘みがそっと乗る。
「よく噛んでおあがりなさいね。このあいだのようにいきなり丸飲みしちゃだめよ」
 じょうずに食べられなくて喉につまらせたことをからかっているのだ。あれは噛むことを示唆しなかった彼女の落ち度なのに、非はせっかちなおまえににあるとでも言いたげだ。
 こんな他愛のないことまでその都度命じられないとできないだなんて。幼児以下の自分が情けなくて、死にたくなる。
 ところで、口にいれられたその味には覚えがあった。週にいちどはお相伴にあずかっていたものを間違えるはずがない。マクドール邸にほど近い菓子屋の店先で五個百ポッチ也で売っている、ごく狭い界隈で静かなブームの定番商品。いい家のお坊ちゃんである悪友の小遣い銭は惜しげもなくそこにつぎこまれ、少年たちのお腹と心を満たしたものだった。
 久しぶりに食べた。叛乱勢力に対する帝国軍の監視が厳しくなったいまも、変わらずに店を続けているのだろうか。
 ほとんど道楽でやっているような小さな店で、子どものいない初老の夫婦が旧式のかまどを使ってパンやクッキーを焼いていた。あのグレミオが焼き菓子を習いたいと談判したというくらいだから夫婦そろって相当な職人なのである。
 ふたつめのクッキーをつまみながら彼女は意味深にほくそ笑んだ。
「あなたの墓前に供えてほしいって、わざわざ見えられたんですよ。泣いて懇願されちゃったら、ダメとはいえなくって、ね。あなたのこと、息子みたいに思ってらしたんですって。お気の毒に」
 口が黙々と咀嚼するのを確かめ、おぞましいせりふは淡々と続けられる。
「素敵なご夫婦よね。その愚かさに免じて、首を刎ねてさしあげたわよ。だって、冤罪、冤罪ってうるさいんですもの。うふふ、あの世で存分に焼いておあげなさいっていったら、こんどはひきつって命乞いよ。人間って、なんてつまらないのかしら。ねえ、そうは思わない……?」
 なんということだろう。夫婦は、魔女の逆鱗に触れたのだ。皇帝の寵愛する宮廷魔術師の正体を知らぬがゆえの悲劇であった。
「もっとも、幽世(かくりよ)であなたと遇えればのお話」
 白い指が少年の頬を引き寄せ、もの言わぬ唇に軽やかなキスを落とした。少年はガラス玉のような瞳で魔女を見、ぎこちなくほほ笑んだ。
 クッキーはさほど噛まぬうちに唾液で形を失い、静かに嚥下された。

 繋がれていた牢から出されて結構な時間が経った。窓のないこの塔では朝と夜を数えることもできないので正確な日数はわからないが。
 爪は幾度かはさみで切ってもらった。成長を妨げていたものを失ったせいで、髪も明確に伸びはじめた。あまり自覚はないけれど身体が本来のリズムを刻みだしたのだろう。つけ替えられた紋章は、時までは制御してくれないと見える。
 このところ前髪が視界をさえぎって煩わしい。趣味か倒錯かと疑うほど浴槽には頻繁にいれられるのに、散髪をしてもらったためしはない。どうやら少し長めなのが支配者の好みらしい。
 激しい拷問で起立すらもできないほど徹底的に痛めつけられた両脚は、ここに来てから正常な機能を取り戻した。クレイズが嗤いながら一本ずつへし折った両の指も、放置されて壊死しかけていたはずなのに、どんな魔法で治したのやら、わずかな痕すらも残っていない。
 苛むだけさいなんで、奴らは鬱憤を晴らそうとしたのであろう。ほんとうは見せしめと称して、グレッグミンスター広場のど真ん中で、できるだけ残酷な方法で公開処刑したかったにちがいない。慈悲深い宮廷魔術師が首を横に振らなければ。
 最後にはほとんど意識を失いかけていたから、どのような経過で救われたのかはさだかではない。気がついたときにはこざっぱりとした服に着替えさせられて、魔女の居室らしき薄暗い場所に幽閉されていた。身体の痛みも、もうなかった。
 傷つけられた記憶がつくりものなのか、それともいまここにいる自分が幻なのか。
 もしかして肉体はすでに嬲り殺されて、魂だけが囚われているのだろうか。
 テッドは必死になってその考えを振り払った。
 堕ちてはいけない。
 一瞬でもらくなほうに意識を向けると、現実とそうでないものの境目はあっというまに不確かになる。それこそ魔女の思う壺ではないか。
 身体的な拷問からはたしかに解放された。もう死に瀕した苦痛に怯えなくともよい。あとほんの少し、そう、少しだけまどろみを求めれば、なにもかも苦しまずにすむようになるだろう。
 けれど。テッドは最後の精神力で抗う。堕ちてはいけないのだ。
 ぎりぎりのところで健気なぼうやならば足掻くだろうと、魔女は確信している。傀儡として貶めることは容易だが、それでは彼女も面白くなかろう。単に支配するのではなく、もがき苦しませることこそが真に望む復讐なのだから。
 魔女ウィンディは美しく、残忍な悪魔である。テッド個人に対する憐憫などはこれっぽっちも持ちあわせてなどいまい。
 抗わねば、つまらぬ人間という烙印を押されるだけだ。
 魔女の書いたシナリオはテッドを利用し、ルーファスからソウルイーターを奪い取るというものである。物語は悲劇であればあるほど喝采を浴びる。演じる役者次第で彼女を悦ばせることもできるだろうし、またがっかりもさせられるだろう。彼女を失望させたら最後、怒りの矛先はおそらくルーファスに向けられる。
 ソウルイーターさえ確保すれば、ルーファスの生死など魔女にとってはどうでもよいこと。だがテッドが思いどおりの働きをしてくれないとなると、事情は変わってくる。
 耐えるのだ。テッドが親友の血でその掌を深紅くそめて狂い往くストーリーを、彼女に期待させなくては。
 支配される身で逆転を狙うのは無謀に過ぎると自分でも思う。しかし絶望との境界にこそ、残された唯一の突破口があるはずだった。
 ルーファスをむざむざ殺らせはしない。ソウルイーターを守るという誓いを、テッドは放棄してなどいない。間際の選択でソウルイーターは彼の右手を離れたが、科された責任から逃れたわけではないのだ。たとえこの身とひきかえにしても、ソウルイーターとそれを継承してくれた親友は、命あるかぎり自分が守ってみせる。
 テッドはルーファスにもう一度会わなくてはいけないと思った。あの時、伝えなかったことがある。やり残したことがある。それらをすべて叶えるまでは、この戦いから離脱するわけにはいかない。
 だから、こんなところで挫けてたまるか。抗って、抗って、ウィンディを狂喜させてやる。
 テッドが胸に秘めた悲壮な決意を、魔女はどんなふうに見ているのだろう。
 心までは懐かぬ仔猫。それを支配する恍惚感といったら。
 彼女の嗜虐心はテッドが苦しめば苦しむほどに高ぶり、歪んだ愛となって暗くほとばしる。
 そう、彼女は、テッドを狂おしいほどに愛していた。
 捕らえた少年をなぶり殺しにすることも、心を持たぬ傀儡にもできたのにそうしなかったのは、ひとえにその情のためだ。
 ウィンディにいわせると、相容れないものは互いに惹かれあうのだそう。憎悪はもっとも激しい愛情の形であると。魔女の弁に賛同するのは癪だが、テッドにとっても彼女の存在はけして小さくはない。
 私利私欲のためだけに罪もない村人を惨殺し、幼いテッドからなにもかも奪い去った張本人を、時を免罪符に赦す気など毛頭ない。祖父が死に際に託したものは決して復讐ではなかったけれど、テッドは心の奥で絶えずそれを願っていた。魔女ウィンディへの憎悪は歩き続けるための糧となってくれた。
 憎しみを否定されたなら、生きる目的を失ったら、三百年もとうてい耐えられなかっただろう。
 彼女も同じ。老いぬ躯を、ただひたすら復讐を願いながら生かしてきた。
 哀れな女だ、とテッドは思った。思いながら、己を重ね合わせて慄然とした。
 彼女と、自分は、同じ。
 夜も眠れぬほど憎んで憎んで憎みつづけたのに、その姿はいつのまにか自分自身にすりかわっている。
 求め彷徨い歩いても望むものは手にはいらず、やがて疲弊し老いていく魂。それを宿すものは、人形のようにいつまでも朽ちぬ躯。醜悪で、滑稽で、存在するべきではない『過ち』。それが、自分。
 憎い。憎い。どうしてみじめに生きているのだ。己を始末する機会など、幾度もあっただろうに。
 少年のふりをして無為に生きるために、テッドは自ら目を瞑り、耳をふさいできた。
 運命に翻弄される悲観論者でいることが、己を正当化する唯一の手段だったからだ。そうすることでテッドはこの世界への存在を許され、祖父にも叱咤されずにすむと思った。
 魔女に対する憐れみと同情を認めたら最後、テッドはこの日までの人生をおのずから全否定することになる。結果論としてウィンディとテッドが似たもの同士なら、どうして自分は彼女がそうしたように、持てる力を復讐と破壊に向けなかったのか。いまも艶やかに尽きぬ欲望を剥きだしにする彼女にくらべ、自分はなんと無気力で、意味を持たない存在なのだろうか。
 暴力を擁護したくはない。だが。
 力があれば、人を集めることができる。いまのルーファスがそうだ。人を率い、己の足で立って、戦っている。
 テッドには想像もつかなかった方法。条件つきで人に力を貸したことはあっても、よもやソウルイーターが人を招くとは思いもしなかった。ルーファスは持って生まれた才で、それを無意識にやってのけたのだろう。
 生を受けてまだほんの十数年しか経っていない未熟な少年を『怖いもの知らず』と嘲笑うことは、テッドにはできない。むしろ少年ルーファスこそが、ソウルイーターの真の継承者に相応しいとさえ思う。
 三百年ものあいだ、自分はいったいなにをやっていたのだろう。自問自答しても、虚しい結論しか導けない。ただひたすらに自分をごまかしつづけながら、隠された紋章の村から赤月帝国まで紋章を運んだだけ。それ以上でも、以下でもない。
 テッドくんはやさしいね、といって笑ったのは、百年、あるいはもっとむかしに出会ったアルドという名の青年。
 やさしいだって。冗談じゃない。弱さを隠していただけだろうが。
 もしかしたら、彼にはそこまで見透かされていたのかもしれない。ならば面と向かって、情けないと断罪してくれたほうがよかった。でももう過去のことにする。証人もすでにこの世の人ではないのだし。
 綻びをなによりも恐れて、びくついて、人から目をそむけてきた。
 そのくせ寂しくて、構ってほしくて、いつも人の中にまぎれていた。
「おばかさんね」
 そのとおり。否定はしないよ、ご主人様。
 テッドは自由にならない眼で魔女ウィンディを見た。彼女も口元にうっすらと笑みをうかべながらテッドを見た。
 操る者と操られる者。支配者と被支配者。しかし両者の関係はそれだけにとどまらない。
 三百年という時はふたりに対等に与えられた。憎しみ、追い求め、恋い焦がれ、そして邂逅するまでの長い長い時間。ウィンディは老い、テッドもまた老いた。変わらぬものは互いの姿だけである。
 ウィンディが欲したものをテッドがすでに手放していたとしても、テッドが生きのびるための糧とした強い復讐心を昇華させ得なかったとしても。
 用意された結末を覆すほどの感情が、時によって育まれていたのだ。
 認めたくなどない。しかし、テッドは確信する。彼女は己の最大の理解者であると。すべて理解しているからこそ、彼女はもっとも理想的な手段でテッドを苦しめられる。
 城内ではすでに処刑されたことになっている自分。テッドが生かされているのは、魔女の嗜虐心を満たすためだ。
「かわいいわ。わたしの、おばかさん」
 殺し足りないほどに愛しているから。
 だから死なせてなどやらない。永遠に、わたしの前に跪かせてあげる。
 甘いクッキーを含ませると笑み、仔猫のように肌を寄せてくるテッド。ウィンディは思うがままに媚びさせる。そうして彼の心が崩壊していくさまを愉しむ。
 善と悪、光と闇、愛情と憎悪。相反するものはだれであろうと等しく持っているものだ。真の紋章はその本質をあらわにする。人は人である以上、どちらか一方に逃れることはかなわない。
 魔女と少年は互いをついばみながら、やがて動きだす次なる時を待っていた。
 風が吹きはじめた。じきに嵐が来る。歴史は思いもよらぬ力によって揺さぶられるだろう。星見の占星術師が予言した、暁(赤月)の鳴動だ。
 想いは異なれど。
 はるか遠くから確実に近づいてくる転機の足音は、まぎれもなくひとつ。

「では、わたしはちょっとお仕事があるの。三日ほど戻れないと思うけど、いい子にしていなさいね」
 ウィンディは立ちあがって、クッキーの詰まった袋をテーブルに置いた。
「ぜんぶ、おあがりなさい。お残しはよくなくてよ。あなたにっていただいたんですから」
 よく噛んで飲みこむのよと言い残し、魔女の姿は音もなくすっとかき消えた。
 濃密な闇にまたひとり取り残されたテッドはぼんやりと彼女の去った虚空を見、そのまま役目を終えた人形のように動かなくなった。


2007-02-27