Press "Enter" to skip to content

星の旅人

This Ted’s story is a Christmas present to gentle reader.

星の旅人

 旅人は人知の及ばぬ幽遠の深みにいとけない心を沈めていました。
 欲で黒ずむ前の穢れのないかがやきを、みずから望んで常闇に封じたのでした。
 旅人の瞳は、見る者を魅きつける美しく透明なヘーゼル(明るい茶)です。
 本来ならばとても奔放で無邪気で、無限の可能性をたたえているはずの双眸。なのに、わたしはそこにまったく色彩を感じなかったのです。
 人の眼ではない。あるいは、生きとし生けるものの眼ではない。まさか、そんなことはあり得ないと否定しても、それが現実でした。
 もっとも近いものに例えるとしたら、人形かもしれません。
 精巧な細工をほどこされた、まるで生きているかのような人形でもその瞳はつくりもの。どんなに愛らしくとも、それ自体は単なる硝子玉にすぎず、どんなに愛しもうとも、命が宿るわけではない。誰しもそれはおわかりのことと思います。
 人に真似てつくられた人形と、人は根本的にちがいます。人には心があります。心は、どんなに腕のたつ職人でも造形することは不可能です。
 瞳は身体のなかでもとりわけ心に支配されやすい場所。人の眼は外にある対象物を映すレンズであるのと同時に、内にある心を映す窓でもあるのです。
 喜び、憂い、疑念、悲哀、怒り、驚き、笑い。表情は多種多様な人の気持ちをこまやかに、そして器用にあらわすことはできますが、そこだけで人物を判じるのは危険です。真実を語るのはじつは瞳なのです。ですから心を閉ざした子どもたちに接するとき、わたしは表面上のことばやしぐさではなく、彼らの持つふたつの眼と対話します。
 瞳。そこにはほんとうの心が宿ります。けしてごまかすことのできない、閉ざすのはとても困難なはずの、命あるものが賜った比類なき恩寵であります。
 ならば、無機質な鉱物を眼窩にはめているのではないかと疑うような旅人の瞳はどういうことでしょう。
 機能しています。レンズとしての役目はりっぱに果たしています。なのに、内なる心を映していないのです。
 ああ、彼は心の支配を断ち切ってしまったのだ。どんなに暴こうとしても徒労に終わるにちがいない。なぜならば彼の心はすでに在るべき処には存在しないのだから。ふいにその啓示を受けたわたしは、あまりの衝撃と深い哀しみのあまり、神を恨まずにはおられませんでした。
 なぜこのような年端もいかぬ子どもに、斯様な試練をお与えになったのですか、と。
 一切の干渉をはねのけて、たったひとりで大陸の果てから歩いてきたのだそうです。心身も、二本の脚も未成熟であるにもかかわらず、彼はそれを今日まで成し遂げたのです。強靱な意志と、それを支える覚悟がなければ大人でも容易くできることではありません。
 彼の名前を訊ねました。わたしはどんな場合でも、まずはじめにそうするのが常でした。
 名はひとりにひとつ。人の世で魂とともに、もっとも公正にわけ与えられるものです。
 どんな酷い環境に育ったとしても、名前だけはまぎれもなくその子の財産ですから。わたしは仮の呼称ではなしにきちんと名前で話しかけます。互いを対等であるとみなし、相手の個を認めるわたしなりの儀礼のつもりです。管理するためではけしてありません。
 予想したとおり、手負いの獣が捕獲者を威嚇するようにぎろりとわたしはにらみつけられました。治安のもっともよくない一角で鼠とともに寝起きしていたのを、わけもきかずむりやり連れてきたのですから無理もありません。それでもこちらに悪意がないと知ると、空腹を癒してもらおうとでも思ったのでしょう、拒絶から交渉のステージへと彼はみずから踏み越えてきました。
 凍えた唇をふるわせて、ありふれた、けれどとても大切なものにちがいないその名前を教えてくれました。
 彼にしてみれば、善人には適度に懐柔しておくが得策。質問に答えるのも衣食住にありつくための手っ取り早い手段だからそうするだけです。警戒をゆるめたわけではないことは、こちらも当然わかりきっています。
 そこまでなら周到に計算する子どももなかにはいます。けれども彼はやはり特別でした。はじめに抱いた彼への評価が過ちではないことを再確認するたびに、わたしはこれまで信じてきた価値観が音をたてて崩れゆくのを実感しました。
 偽善を承知で敢えて申しあげます。いやしくも聖職に就くこのわたしが、人として生きてまだ日も浅い子どもにこれほどまで辛辣に、敵対心をむきだしにされるのは、ほんとうに稀なことなのです。
 いいえ、言いなおしましょう。敵対という表現は正しくありません。彼にはわたしや周囲の大人たちに対する憎しみも反感もあるわけではなく、ただ彼は、なにがなんでも己を守りぬくという原初的な本能を遵守しているのです。
 まるで無垢なその魂を守護せんがために、天から使わされた殉教者のようではないですか。
 彼が弱年にしてすでに完成された旅人であるその理由も、自然に納得がいきます。
 幽遠の深みに沈めた心、手をのばせばまだ届くであろうのに欲し求めることをせず、また外からもけして触れさせまいと孤独を選び択った希有なる少年。
 創世の神話に登場する『闇』がもし人であったなら、彼の姿をしていたでしょう。
 わたしは確信してしまいました。淘汰されて然るべしと、傲った世の誰もが異口同音に賛成したであろう、この不幸な仔こそ神々の御使いであらせられると。
 汚され傷つけられてそれでもあるじを保護しなければと熱を閉じこめる着衣。小さな手のひらのかわりに生活道具をかかえて連れそうボロの鞄。滑り止めの溝も知らぬうちに削れて平坦になり異国の泥で紐も容易にほどけなくなった靴。か弱い肩に非情に食いこむ殺傷の道具。こわばった身体でわたしと向かいあわせに座らせられた彼は、主観を交えずにいうならそんな感じでした。
 右手の肘から指の根元までをきつく巻いた不衛生そのものの包帯が、そこだけ不自然に思えて、わたしはじっと見てしまいました。興味を反らそうとしたのか、はたまた牽制のつもりか、彼は右手をそっと背中に隠しました。
 笑顔のとても似あいそうな、いたいけな貌がぷいっと横を向きます。そこにはステンド・グラスのはめられた窓がありました。彼の眼はその些末な美術品に冷たく釘付けたまま、そよりとも揺らがなくなりました。
 動揺するでもなく、思案も、感嘆もするでなく。
 ただ視線の先に、行動の先にたまたまそれが立ちはだかった。
 偶然も必然も、彼にとってはとくに意味を持たぬようです。周囲に展開するできごとそのものが、意味のないことなのかもしれません。
 街の浮浪児たちとよく似ていて、紛れたら区別がつかないのに、じつはまったく異質の存在である少年。
 彼の在ろうとしている場所はこの孤児院でも、この街でも、この国でもありません。
 もっと、はるかに遠く、それ以上に近くあるところ。わたしの勝手な憶測にすぎませんが、彼が身を委ねたいと真に願う場所は『世界』なのであります。
 はるか昔、この世界を創世したといわれる七日七晩の闘いがありました。さびしさの中でとても長いあいだ苦しんだ『闇』でありましたが、孤独のあまり流した涙の生みだしたものは原罪だったのです。
 神話の時代から現在、そして未来に至るまでなおもつづく永遠の闘争に、『闇』はどんなにか心痛めたことでしょう。それはさびしさをも打ちのめす壮絶な苦痛だったに相違ありません。
 完全なる静寂に還らんがために、『闇』はいつかふたたび涙するとささやかれています。世界を巡礼する二十七人の御使いたちは、その多くは静かに、ある者は陽気にこの世界を審議しているのです。
 この世界が破滅する日、それは原罪がほんとうの意味で贖われる日です。
 われわれ聖職者は、その日をだれもが苦しまずに迎えるために、日々弛みない祈りを捧げています。
 なぜでしょうか。彼はそれに関してをわたし以上に正しく理解しているような気がしました。少年は人の子でありながら、人であることを匂わせない、不思議な旅人でした。
 ともに暮らしたほんのひと月のあいだに、わたしの知り得たことといえば彼の名前と、十五というそれなりに予想を覆した年齢と、おそらくは右手が原因であろう、精神的な病巣だけでした。わたしはそのどれをも否定することを善しとしませんでした。
 姿を消す前の晩でした。彼ははじめてわたしに自分から歩み寄り、「ありがとう、おやすみなさい」と告げて寝室に去りました。
「おやすみ、テッド。よい夢を」
 後ろ姿がかすかにうなずいたような気がしました。それが彼を見た最後でした。
 笑顔はついに叶いませんでしたが、むりに用意した偽りの愛想よりもはるかに崇高な贈りものを、彼はこの教会に置いていきました。それは、わたしの残されたわずかな人生に穢れのない光をそえたように思いました。
 お往きなさい。わたしもあなたに贈ります。無事を願う祈りと、その足許を迷わせぬためのほのかな光を。
 どうか、あなたに星々のご加護あらんことを。
 『闇』よ、われら愚かなる人々の罪を赦して、
 そして母なる『闇』よ、終わりなき命へわれわれを導きたまえ。
 『闇』よ、
 汝の同胞(はらから)たる旅人を、いついかなるときも、
 その魂安らぐときまで永久(とわ)に慈しみたまえ。


It came upon the midnight clear,
That glorious song of old,
From angels bending near the earth
To touch their harps of gold!
“Peace on the earth, good will to men,
From heaven’s all gracious King!
The world in solemn stillness lay
To hear the angels sing.

—賛美歌114番 (It Came Upon the Midnight Clear)

2006-12-06