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くらやみの木槿

 小石をはねあげる音に気づいて来た道をふりかえる。辻馬車が土煙をあげて近づいてくるのが見えた。
 人の背丈ほどもありそうな大きな車輪をきしませて、ふたりの旅人を追い越すときに馬車は速度をおとした。利用してくれるものと期待したのにちがいない。だが旅人のひとりは地面に視線を釘づけたままで目もくれようとしなかった。
 背の高い、年上とおぼしき旅人は御者に軽く会釈をして、もうひとりの腕を持って待避するようにうながすと、馬車に道をゆずった。
 土埃がおさまりかけるころ、少年はとられた腕をうっとうしそうにふりはらった。
 子どもでもあるまいし、轢かれたりなどしない。なのに青年は保護者づらをして、いらぬ世話を焼きたがる。不必要な干渉などこちらが頼んだわけでもないのに、いちいち安堵して、自己満足にひたっている。
 どうやら両者のあいだには確執があるようだった。
 仏頂づらの少年テッドと、柔和な表情の青年アルド。彼らはともに旅をしていた。正確なものに言い換えると、テッドの旅にアルドが自主的に同行していた。
 テッドが不機嫌なのにはわけがある。
 雇用契約が終了したのだから、いまは群島とも、ましてやアルド一個人とも、テッドはなんの関係ももたない。つまり、つきまとわれる筋合いなど、どこをさぐっても見あたらないというのが少年の言い分である。
 アルドは軍に所属していたころは周囲に対するテッドの評価を気遣ってか、それなりに退いてはくれていたものの、ふたりきりになったいまでは開き直りという手口を行使してくる。
 いくら迷惑だと訴えても結局は徒労に終わることに、テッドはうすうす勘づいていた。
 しかしテッドにも意地というものがあるらしく、徹底的に無視をつらぬきとおす。
 するとアルドは、こんなぎすぎすとした関係なのに、一歩前進というような満足げな顔をするのだ。
 バランスがとれているといえば奇妙だが、こんな危うげな二人旅でも現実としてきちんと成りたっているのであった。
 狩りも飲料水確保も夜間の見張りも協力し、モンスターに遭遇したときは互いをかばいあって傷つくことすらある。
 アルドが怪我をしたときは、テッドの持つ水の紋章が役にたった。テッドはむっつりとしながらもそれを使うことを惜しまなかった。
 単独で切り抜けることが困難な問題でも、ふたりならば乗り越えていける。ましてや、戦争が終結したばかりで情勢不安定な国境付近を旅するとなると、協力者の存在は心強い以上に価値がある。
 もちろんこのままの状態ですむとは、テッドは思わない。アルドが事態をどの程度認識しているかはともかくとして、少年としては一刻もはやく、お節介な青年と道を違えることを望んでいた。
「テッドくん、疲れない?」
 アルドの問いかけにテッドは即答せずに、また黙々と歩きはじめた。
 宿屋のある町まではまだ遠い。次にベッドで手足をのばして眠れるのは、野宿をあと複数回は耐えぬいたあとの話になるだろう。テッドは公共の移動手段を利用することを嫌い、アルドもそれを尊重していた。
 テッドにとって、目的地に着くことはさほど重要ではない。昼も夜もつねに移動していること、それ自体が旅をする主たる理由だからだ。
 贅沢をする金があるわけでもなし、拘束される予定のあるでもなし。向かう先もたまたまそこを思いついたというだけの話であって、いつ変更しても不都合はない。
 気ままといえば気まま、不可解というならばそれもあり。べつに他人に理解など求めていない。むしろ、つきあおうとするアルドのほうがおかしいのだ。
 とっととネをあげて、離脱してくれればいいのに。
 右手の自制が効いているうちに。
 気は焦るのに、不気味な静穏は本性をあらわすそぶりも見せず、ただ時間ばかりが過ぎていくのだ。
 ひずみが日に日に高まっていくのがわかる。亀裂ができようものなら一気にはちきれそうである。
 テッドに宿った紋章は、彼に近づきすぎた魂を好んで喰らう。心配してつきまとうなど、自分からどうぞエサにしてくださいと宣言するようなものである。アルドにもそのことをきちんと告げたつもりなのに、態度をあらためぬばかりかこの有様。
 犠牲になることを厭わぬ人間など、うさんくさくて信頼できない。
 疲れないか、だって?
 疲れているのは身体ではなくて、こんな日和見男に翻弄されなくてはいけない精神のほうだ。
 けれど、本音を叩きつけたところでアルドに届くとも思えない。
 試みる前から、結果は見えている。
 だから口をつぐむ。
 せいいっぱい、拒絶する。
 クタクタに疲弊するが、しかたがない。
 悲劇を回避する手段は、もはやそれしか残されていないのだ。
「どうする、もうすこし距離を稼いでおく? でも、ぼちぼち休む場所をさがしたほうが……ほら、木槿(むくげ)もしぼみはじめたし」
 アルドの示すとおり、陽が西に傾きはじめていた。
 街道には自生したらしい木槿の群れが、薄紅色の花をみっしりとつけている。夏のあいだじゅうこうして咲きほこって、旅人の心をなぐさめるらしい。
 花ごときに癒しを求めないテッドは、その花のなまえをアルドからおそわってはじめて知った。たしかにあちらこちらの国でふつうに見かける花なのだが、食えもしないし薬にもならない植物を知識として覚える必要などありはしなかったから。
 木槿の花は朝に開花し、夕方にはいさぎよくしぼむ。一日花の名のとおり、いちどしぼんだ花は二度とひらかない。明日にはまた明日の命がその役目をになう。
「人の一生みたいだよね」
 アルドは何気なくつぶやいたのだろうが、それはテッドの心に小さなトゲとなって刺さった。
 アルドにはしょせん、テッドの気持ちなど理解できないのだ。
 なにが、テッドくんの力になりたいだ。
 わかったふりをしても、いずれは自分のもとを去っていくくせに。勝手にしぼんで、勝手に役目を終えて、おれを置き去りにするくせに。
 散った命を体内にとりこんで糧とし、真夜中も孤独に咲き続けなくてはいけない一輪の木槿のさびしさを、だれも本気でわかろうとしない。
 わからなくて当然。
 なぜならば、そんな木槿は存在しない。
 在ってはならない。
 たとえ在ったとしても、目をつぶって、耳をふさいで、否定すればよい。
 自分も同じ呪いをうけて、そのそばに寄り添う覚悟と勇気がないのならば、はじめから関わろうとしなければよいのだ。
 いらぬ同情をするから、魔性の花の餌食となる。
 そんなものに魅入られなければ、少なくとも一日は生を謳歌することができるのに。
 馬鹿なやつ。自業自得。
 いっぺんガツンと、言ってやろうか。
「……アルド」
 アルドは不意打ちをくらったようにまばたきをして、こっちを向いた。
「えっ、なに、テッドくん」
 その邪気のなさに、口から出かかったことばが打ち消された。
「あ、いや……いいんだ、なんでもない」
 アルドはにこりとほほえんで、「困ったことがあったら、いつでもいってね」と荷物をおろした。
 野営の準備も几帳面で、かつ手際がよい。群島を離れて三ヶ月、あいかわらず会話は一方通行だったが、アルドはテッドの旅をじょうずにサポートするようになった。
 ただ、それは喜ばしいことではない。アルドにはアルドの居場所というものがある。テッドもまたしかり。ふたりの道はいちど交差しただけで、あとは放射状に離れていくのが理想だった。なのにその距離はいっこうに広がらず、ユルユルとからみあったままである。
 焦燥感の正体には、もちろん気づいている。
 このままうやむやにしていれば、裁きの日がやがて来ることも知っている。
 なのに、どうしていいのかわからない。
 己の優柔不断さが、もどかしい。
 テッドは膝をかかえて、ぼんやりと暮れゆく空を見つめた。
「木槿はね」とふいにアルドが切りだした。
 星がまたたきはじめていた。
 テッドくん。木槿という花はね、永遠の力をもってるんだって。
 どんな困難にも窮することのない、けして滅びることのない力だよ。
 木槿の花の色は、血の色なんだ。
 そんな顔しないで。悪い意味じゃないんだよ。だってぼくにも、テッドくんにも流れているものだもの。
 ひとつひとつの命ははかないけれど、承け継ぎながらどこまでも続いてくんだ。
 明日も、見てごらん。きっと、いっぱい咲く。
 ぼくはね、テッドくん。きみに出逢って、
 ぼくの命が永遠に続いていくことをはじめて知ったんだ。
 ぼくは、ひとりじゃないんだってわかってすごくうれしかった。
 いつか、ありがとうって言おうと思ってたんだ。
 そして、ずっとずっと、言おうと思ってたんだ。
 テッドくん、きみもひとりじゃない。
 ぼくは、テッドくんに、
「ぼくの命をあげてもいい」
 テッドは顔をくしゃくしゃに歪めて、アルドの胸ぐらをつかんだ。
「そんなこと、いうな」
 握る腕が悲しみにふるえた。
 軽々しく死を語るな。ありがとうだなんて言うな。
 先に逝くなんて、言うな。
 そんなずるいことを、頼むから、言うな。
「本気だよ。こんなこと、嘘じゃいわない」
 アルドはテッドの肩に手をかけて、そっと抱きしめた。
 次の夜明けに花開かんとする木槿のつぼみが、月光にそよりと揺れた。


2007-05-17