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干渉するな

 活気のある街の中心からほんの十五分ほどはずれた汚くて狭い一角が、政府に黙認された置屋街になっていた。非合法に国境を越えてくる女性やその子供たちが、身を売って餓えをしのぐ場所だ。
 足を運ぶ上客にはこの街の高官も含まれている。よって治安をあずかる憲兵も見て見ぬふりというのが現状で、最下層の隔離という意味ではむしろ積極的に治外法権を認めていた。
 そのような場所はこの時代、大中規模の都市ならどこにでもあり、それぞれが独自の闇社会を形成していた。さまざまな事情で陽光の下から弾かれた者たちには生きやすいところだ。
 テッドもまた、その中に身を置いていた。
 長居をする気は毛頭ない。ほんの一時、雨風をしのぐことができて最低限の食料が手にはいりさえすれば。人のいない荒野を逃げまわることと人にまぎれて逃げまわること、どちらが容易かと問われたらまず後者だ。木を隠すなら森の中とはよく言ったものである。
 テッドによく似た子供が掃いて棄てるほどたむろしている貧困地帯が、逃亡生活にもっとも最適なフィールドだった。
 ほどよく荒んだ乱世をテッドはありがたいと思った。見た目という大荷物を背負ってさまよい歩くのは、想像以上に重労働なのだ。せめてあと数年程度、成長した身体を授かっていたら、生きのびるのにこれほど苦労はしなかったろう。
 十歳をわずかに過ぎたくらいの身体を重く引きずって、木造のスラムをつなぐ迷路のような階段を下りる。昼でも陽のささない内部はじめじめと暗く、汚水と麻薬煙草の交じった、饐えた臭いが充満していた。
 気のふれた大工が建造したらしい、牢屋風に連なる長屋の奥から嬌声がひっきりなしに聞こえてくる。小部屋のいくつかは実質的な牢だ。借金のカタかなにかで連れてこられた女性や少女が、絶望した顔で手足を鎖につながれているのを見たことがある。
 上半身裸で博打に興じていた大男が、テッドに気づきじろりと睨みつけた。ここを管轄しているらしい、筋肉質と強面しか武器をもたない小悪党である。もっとも、難民を脅す程度ならそれだけで資質はじゅうぶんなのだろうが。名前は知らない。
「うまくいったか」
 テッドは無言でポケットから茶封筒を出した。ひったくるように取ると、中身を確認する。札束の枚数は男を満足させたようだ。
 足元に投げられた小銭を拾うときもテッドは口をきかなかった。いつものことである。一部ではテッドが聾唖者であると早合点している者もいた。会話をしないのは自己防衛のためでもあり、それ以外の理由でもあった。
「フン……あいかわらず愛想のないガキだ」
 用件が済んだから立ち去ろうと上り階段に足をかけたテッドだったが、別の男に進路を塞がれて困惑したように目をあげた。その細い肩をつかまれる。
「……なんだよ」
 めずらしく言葉を用いて、簡潔に抗議した。濃茶の瞳に警戒色がうかぶ。
「まァ、そう急ぐこたぁねえさ。おまえにとってはいい話だと思うぜ。聞いていきな」
 博打を打っていた男たちの笑い声。どうやらはじめから示し合わせていたらしい。だがテッドはうろたえもせず、首謀者と判断した男の前に毅然と歩み寄った。こういう場合ははっきりと拒否の意思表示をするに限る。
 想像に難くなかったが、やはりろくでもない話を切りだしてきた。
「小僧。ああいうクソ仕事だけで、ここに居着こうって腹じゃねェよな……?」
 ああいうクソ仕事というのは、怪しげな商品の運び屋のことである。小さい包みにくるまれた中身がなんであるか、テッドは知らされていない。引き替えに預かる大金を考えるとかなりヤバい代物なのだろう。知る必要もないし、知りたくもない。
 テッドの受け取る手当ては街の子供の小遣いよりもさらに少なかった。それでもないよりはマシである。残飯をあさる浮浪児たちがほかにもたくさんいることは、羞恥を覚える必要性がここではまったくないことを意味していた。底辺の人間なればこそ小銭を軽んじることはしない。
 男がなにを言いたいかはテッドにはわかっていた。もちろん、きっぱりと拒否をするつもりである。
「おめぇだって、もっときちんとしたモンを食いてえだろ? わかってるよな。なあに、怖がるこたぁねえ。おまえなら、スゲエ客がつくって。前々から目をつけてたんだぜ。もったいねえよなぁ、そんな金を稼げる身体を持ってるくせによぉ」
 何をか言わんや、だ。これと同様の理屈で取り囲まれたことは一度や二度ではない。闇社会の男どもというのはどうしてそろいも揃って同じことしか言えないのだろうか。
「なぁ、試しに客をとってみる気……」
「ないです」
 潔いほどの即答であった。最初からその意志のないことをきちんと示し、次の手を繰りだしてくる前に辞す。それがもっとも賢い。貧民窟に暮らす子供がみな金や食い物に飢えていると思ったら大きな間違いだ。
 甘い言葉を遮られた男は出目金のように口をぱくぱくさせた。
「じゃ、ぼく、これで」
 このタイミングは逃せない。男たちの気を萎えさせるためには、一にも二にも先手を往くことが必要だ。
 だが、事態はそれほど甘くなかった。踵を返してテッドはぎくりとした。頬に傷のある、あきらかに危険な色をまとった男がいつの間にか背後に控えていたからだ。
 気配を感じさせぬというだけでも尋常ではなかった。置屋街のチンピラどもとは格が違う。願わくば近づきたくない階層の人間────少なくともテッドにとってはあまり喜ばしくない、地獄への招き人に思えた。
 反射的にテッドは身体を屈めた。男の手が剃刀のように振りおろされ、いまのいままでテッドのいた空間を斬った。その足元をネズミよろしくすり抜ける。
 しかし逃げ道は例の上り階段しかなかった。ディフェンダーはひとり。いざとなれば右手の紋章の力を借りてでも突破する。
「退けよ!」
 テッドの形相に階段の男は一瞬ひるんだかに見えた。紋章に願うまでもない。突き飛ばす勢いでテッドは階段に足をかけた。その瞬間。
 バン。
 小石が弾けたような音がして、左上腕に重い衝撃を感じた。
「……!」
 衝撃は鈍い痛覚をともなった。なにが起こったのか確かめる余裕もなく、痛みは急激に脈打ちはじめ、階段に突っ伏したときにはこらえきれないほどの激痛になっていた。
「ゥあっ……」
 目の前で、赤い液体がしずくとなって階段を垂れた。男たちがうろたえる声がする。
「だ、旦那、そいつぁいったい」
 凶弾を放った男はクックッと笑いながら言った。
「はじめて見るか? こいつはな、ハルモニアが作った武器だ。鉄の弾を火薬で撃ちだして敵を仕留める。こう見えても殺傷能力は高いぜ。ガキだから急所ははずしてやったがな」
「ふえぇ、恐ろしや」
 傷が脈打つたびに、ドクンと血が噴きだす。まずい、とテッドは唸った。右手を握りしめる。
 銃を持った男を立てるように、数人の男が獲物をぐるりと取り囲んだ。発砲音に驚いてやってきた何人かも、階下を覗きこんでにやにやと見物している。
「傷モノにしちゃあ売れねえですよ、旦那」
「少々の傷なら、むしろ箔がついて高く売れる。そういうのがお好きな御仁がごまんといるんでね」
「へえ、そんなもんですかねえ。あっしらにはわからねえ世界ですよ」
 多少いたぶっても大丈夫、とお墨付きを得るや、最初に会話した大男が投げだされた腕を靴の踵で踏みつけた。
「へっ。うめき声もあげやがらねえ。こんな強情なガキ、見たこともねえや」
 脳天まで突き抜ける激痛に息をつまらせながら、テッドは男を睨みつけた。いますぐ殺すつもりがないのなら、逃げるチャンスはいくらでもある。だがせめて意地を張らないことには、腹の虫がおさまらない。
 人を売るだの売らないだの、バカにしやがって。
 テッドの眼が気にくわなかったのか、男はくわえていた火のついた巻き煙草を首筋に押しつけた。
「顔はやめとけよ」
「あいよ」
 じりじりと責める灼熱にテッドは必死に耐えた。下卑た笑いがあちこちからわきおこる。
「おおっと。かわいそうになあ坊主。ヤケドしちまったか。手当てしてやるから上着、脱ぎな」
 言うなり、血と埃で薄汚れた濃緑の服を剥ぎ取りにかかった。上着はおろか、その下の衣服まで引き裂くように奪ってしまう。
「やめ……」
「おい。誰かバケツに水汲んでこい」
 上半身をすっかり晒しものにされて、さしも強気なテッドも悔しさで表情を歪めた。たかが仕事の誘いを断ったからといって、これほどの仕打ちを被る謂われはない。
「熱かったろう。いま冷やしてやるぜ。そらよ!」
 背中から氷水をぶっかけられて、テッドは短く悲鳴をあげた。急激な萎縮した身体はショック状態となり、心臓を不規則にさせた。唇が色を失って病的に震える。
「足りなかったかな。もうひとついくか?」
「ふざけんなよ。死んじまうぜ」
 誰かが制止してくれたおかげで、それ以上の拷問は受けずに済んだ。痙攣する肩を押さえつけ、なんとか呼吸をととのえようと試みるがうまくいかない。思考だけが奇妙に冷静に、情けないにもほどがある、とため息をついた。
 銃の男はテッドを品定めするように、足で蹴って上を向かせた。
「いかがです、旦那」
「ま、ちいと痩せすぎで貧相だがツラは申し分ないな。よし、引き取ろう。値はいつものようにボスと交渉してくれ」
「まいど」
 どうやら当事者を無視して交渉が成立してしまったらしい。組織ぐるみの人身売買だ。
 ひとりの男が手慣れた様子で薬瓶を開けるのを見てテッドは舌打ちした。あんなものを使われたら逃げるのが困難になるではないか。身体は複数の男によって地べたに押しつけられ、身動きがとれない。
「……ン?」
 銃の男は革手袋からはみ出している包帯に気がついた。乱暴に手袋がはずされる。
「やめろ!」
 テッドは抗った。右手を身体の下に隠そうとする。だが抵抗も虚しく、脱臼するくらいに強く後ろに引っ張られた。
「アッ……痛っ!」
「なんだコイツ。こんなところまで傷モノか?」
 テッドの眼が恐怖で見開かれた。封印しなくてはならない『それ』が、白日の下へ晒されていく。引きちぎられた包帯がはらりと落ち、一同の視線がテッドの右手に釘付けになった。
 どくん、と『それ』は脈動した。
「だっ……」
 ダメだ。眼を覚ましては駄目だ。頼むから、眠っていろ。
 テッドの必死の懇願も虚しく、右手は深呼吸をするように疼いた。これと似た感覚は以前にもあった。自らの意志で発動させるのとは違い、いま右手は恐るべき悪意を伴っている。自分には制御しきれない。
 暴走がはじまろうとしていた。
「なんでぇ、これは」
 右手の甲にある赤黒い痣のようなものを、男たちはじろじろと見た。それがある種の紋章であると気づくのに時間はかからなかった。
「紋章……か? それにしても」
 触れようとした指先をテッドは拒絶した。「さわるな!」
 血液が逆流した。周囲の音がだんだんと遠ざかっていく。
 限界だ。テッドは最後にかすれた声で叫んだ。
「それに……干渉するな!」
 テッドの絶叫は魂を一瞬で強奪された男たちに届くわけもなかった。

 門の紋章の宿主レックナートは、さざ波のたつ水晶球に盲いた瞳を向けた。その中にうつろう哀しげな光は見えなくとも、レックナートの心には星のひとつが迷い往く光景がはっきりと映しだされた。
 運命の星たちは、こうして時折さざめく。なかでもレックナートが案じたのは、生と死を司る紋章を宿す小さな星であった。それはあまりにも幼く、あまりにも無力であった。やむにやまれぬ事情があったとはいえ、少年の継承は早すぎた。
 バランスの執行者たるレックナートは、星の行く末を見守ることしかできない。幼い子供を宿主に選んだ真の紋章に苦言を呈するわけにはいかない。レックナート自身が宿主を信じ、歩ませるしかないのだ。
 異世界の門の彼方から、星を狙う者がいる。堕ちるとしたら、迷い星たちである。この世界からただひとつの星も奪われてはならぬ。ギリギリの水際で阻止せねばならぬ。
 そのためには多少の干渉も仕方あるまい。どうしてもというならば、最後のその場面で自分が星を救う。
 強くなりなさい。レックナートは怯えてふるえる星にささやいた。あなたの道はまだ長い。道の半ばには、あなたを待つ星々もいます。歩むのです。幾度倒れようとも。越えていきなさい。わたくしが行く手を照らしましょう。
 水晶球はふたたび静けさを取り戻した。そこには底知れぬ闇があった。レックナートは天を仰ぎ、祈った。
 嬰児の星よ。道を喪うことなかれ、と。






2005-12-07