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インコグニート-秘匿の王-

 指導者たる立場の者、ひとたび外へ出れば危険はつねにつきまとう。クレイ商会の雇われ始末屋の存在も気にかかる。ノエルを安全な船に縛りつけておく理由ならいくらでもあった。
 が、リノ・エン・クルデスはけしてノエルを籠の鳥にはしない。
 かつてオベル王国の国王である自分がそうであったように、自らを最前線に置いてこそ人民を率いることができる。
 民に必要なのはお飾りのリーダーではなく、実力で先導する者なのだ。
 指導者が右手を挙げれば、民もまた倣う。
 彼が闘うならば、民も続く。
 彼が笑うときは、民も幸せになれるだろう。
 ノエルに指導者としての器を見いだしたからこそ、リノは決断した。
 群島諸国をまとめあげる。そのためには王の地位は揺らいでもかまわない。新しいリーダーはノエルという少年だ。自分は単なる補佐でよい。
 王宮に座すだけが王の役目ではあるまい。理不尽な勢力が民を惑わすならば、反撃の旗印を掲げることも自らの仕事。
 クールーク皇国との戦渦が日増しに広がっていくなかで、ノエルはリノの期待したとおりの武将に成長し、その手に完全なる仲間を得ていった。
 そして遂にここまで来たのだ。最終決戦という歴史の舞台へ。

 軍師エレノアの指導のもとで準備はちゃくちゃくと整いつつあった。
 リノは腕を組み、我が軍の大将を誇らしげに見た。ノエルは潮風を全身に浴びながら、繋留の作業を率先して手伝っていた。
 以前と比べて精悍な顔つき。海の男になりつつある体格。背も少し伸びたか。迷いの吹っ切れた表情は明るい。もともと口数は多いほうではなかったが、最近では仲間と談笑する姿をよく見かけるようになった。
 彼のかつての友らしい、スノウという少年を船に乗せてからはとくにその変化は顕著だったように思う。
「さて、ぼちぼち行ってこいや」
「はい」
 今日はミドルポートで武器と食糧の調達だ。エルイール要塞の海域に入ると補給は難しくなるので、いまのうちにできる限りの手は打っておく。貿易都市ミドルポートなら正規品からヤバい闇物資まで、ひととおりの物は揃う。
 こういうことは確かにリーダーの仕事ではあるまい。だが敢えてノエルには外の仕事を提言することにしている。
 彼は少しでも多く外の世界を見て歩いたほうがいい。それができるのはいまのうちだけかもしれないから。
 ノエルがその左手に受けた呪いは現実なのだ。リノは軽く眉をしかめた。
「お出かけになりますか」
「うん、よろしくね」
「行ってらっしゃい、ノエルさん」
 船守のラクジーにほほえみかけると、ノエルは元気よく昇降版を下りていった。
 そのあとを青いコートの少年が続く。
(ほう。またか)
 外へ出るときは複数でがこの船の原則だ。ノエルが出かけるとき、供をするメンバーの選択は本人に一任してある。退屈なリノが無理矢理同行することも多いのだが。
 最近ではノエルはまっ先にひとりの少年を呼ぶ。少年、テッドにとってはそれはかなり迷惑な事態であって、毎回必ず文句を垂れるのを忘れない。もっとも、厭という言葉は少年の口から出たことはない。
 最後は無言でついていく。
 共に戦ってみるとノエルの選択が賢いことがわかる。テッドはあらゆる戦闘面でこれ以上は望めないほどの逸材なのだ。
 が、逸材であることは裏を返すと敵にまわせないということでもある。
「ラクジー、留守番まかせたぜ」
「リノ様も同行されるんですか」
「ああ、ちょいと気がかわったんだ」
 リノはあとを追いかけて波止を駆けた。エルイール要塞へ乗り込むメンバーを決定するにあたって、テッドは無視できない存在になるはず。そのためには、どうしても確認しなければいけないことがあった。

 テッドを「霧の船」で拾ったのは、打倒クールークを訴えながら群島を巡っていたときだ。あのころは確固たる勝算もあるわけではなく、兎にも角にも才能のある人材を必要としていた。
 正直なところ、テッドを受けいれると宣言したノエルにリノは驚いた。起こったことの説明もつかぬうちに、正体の見えぬ少年に仲間になってくれと手をさしのべる。
 あるいは、ノエルはすでにあのとき気づいていたのだろうか。
 リノは本拠地船でのテッドの動向を人一倍気にかけるようにした。すなわちそれは、ある意味で不信感のあらわれでもあった。
 ノエルよりもあきらかに年若いその身に感じる深い疲労感。関わる人々を拒絶する野生動物のような眼。だが彼が望む孤独を包括するには華奢すぎる体躯。
 そして、おそらくは巧妙に隠されているのであろう、哀しみ。
 ただのこまっしゃくれた少年ではないと感じた自分の直感に誤りはなかった。
 白兵戦に参加できそうな乗組員とは、その適正を見るために訓練と称して共にフィールドに出ることもある。未成年であっても立派な戦闘員候補だ。
 テッドの戦いかたは冷徹そのものであった。
 リノはぞっとした。速い。矢は正確に、残酷に獲物を射抜く。そのくせ、敵の攻撃には防御の姿勢すらとりはしない。まるで自分などどうなってもいいと思っているかのようだ。
 さすがに危なかろうとかばってみせても、にこりともしない。
 そして驚いたのは幼い躯にあふれる奇跡的なまでの魔力。それは人のものとはとうてい思えなかった。
 大魔法使いウォーロックに「闇の申し子」とまで言わしめたテッドの魔力は、軍で所持する五行の紋章魔法を選り好みせず軽々と扱えるほどのものだという。
 生まれながらの才能があり、且つ、長い鍛錬を積んでこそ、人はそこまでの力を手にすることができる。
 それを子供のテッドが、表情も変えずに、左手の動きひとつで叶えてしまう。
 だがリノが戦慄したのは、彼の右手に宿されたものであった。あけすけに使う左手の紋章とは違い、テッドがそれを振るう機会はひどく少ない。
 その現場に居あわせた者は誰しも怯え震えるであろう。凍えた虚無のような吸収魔法。
 あれが何なのかは仲間の誰もが知るよしもなかった。だが霧の船でテッドがその紋章をを受け継ぐのを見たリノには、憶測ではあるが悟る余地があった。
 あれはこの世に二十七あるという、真の紋章ではないか。
(ノエルと、あのガキ)
 ひとつところにふたつの危険な紋章。
 テッドを見張る必要がある。それがリノの役目に思えた。

 思いもかけぬリノの同行にノエルは歓迎の意を示したが、テッドはつまらなそうにこちらを一瞥しただけだ。見張る挙げ句に構いまくった反動か(チビは無差別に構いたくなるものだ。とりわけリノにとっては)、どうも嫌われているらしい。
 ミドルポートでの商談はラインバッハとミッキーほどに実務に長けた者たちはいない。ノエルの役目はむしろ、決戦を前にして住民の士気を鼓舞することにあった。
 ミドルポートの領主ラインバッハ2世(ラインバッハのお父上だ)がノエルを地元の有力者たちに紹介してくれるというので、そちらは任せることにし、リノとテッドはひとまず旅人よろしく宿をとることにした。
「あんたは顔を出さなくていいのか。王様のくせに」
 ブツブツ言うテッドを尻目に、リノは部屋のベッドに大の字になってみせた。わざと大部屋にしたこともテッドには虫が好かなかった様子で、ほかに客もいないのに離れたベッドに腰掛けている。
「たまにはいいのさ。こういうお忍びみたいなのもな」
「呑気なもんだ」
「オマエもらくにしときな。息がつまるンだろ、船じゃ」
 テッドははにかんだように答えた。「べつに」
「そうか? おれと同じだと思って連れだしたんだがな。思い過ごしか」
「……そんなに気を張っているように見えるのか?」
 リノは笑った。「まあな」
 テッドはそれ以上はなにも言わず、さも居心地悪そうに窓の外に目をやった。
 リノはひとつあくびをすると、片肘をついてテッドをじっと見た。
 ───得体の知れない少年。
 船を預かる役として、ノエルの連れてきた者を誰でも無防備に受けいれるわけにはいかない。人を見極めるのがリノの仕事であり、危険を未然に防ぐことは義務でもある。たとえどんなやり方でもだ。
 そして目下の最重要懸案事項はこの少年。
 興味もある。
 一対一で話をしてみたい。そう思ってわざとノエルから引き離したのだ。
「霧の船」で起こったことはリノには説明がつかない。
 船のあるじ(謎の女性は『導者』と呼んでいた。テッドにとっては『船長』らしかった)はノエルに求めた。運命を肩代わりするかわりに、自らの配下にと。
 ノエルに課された運命の重さはリノには計り知れない。かつてリノの妻が罰の紋章を宿し、葛藤の末に命を落としたように、ノエルもまた過酷すぎる運命に呑みこまれようとしている。哀しいかなリノには救う手だてはなかった。運命とは神の領域そのものであったのだ。
 いつからかリノはノエルに失った息子を投影するようになっていた。息子が生きていれば、いまごろはこれくらいの年齢になっていたはずだ。
 運命とは悪戯なもので、ノエルは妻と同じ罰の紋章を受け継ぐ者だった。
 やがてノエルにも裁きが下るときが来る。三年。いや、戦火の下ではもっと短いか。リノは黙って待つことしかできない。せめて「その時」を遅らせることくらいしか。
 ただの人間であることが悔しくて、歯がゆい。
 そんなとき、リノは出逢ったのだ。真の紋章を宿すもうひとりの少年に。
 彼もまた、ノエルと同じような運命を背負っているなら、そこに幾ばくかの希望があるようにリノには思えた。
 そしてあの場にいたもうひとり、謎の女性もまた告げた。運命に立ち向かう人の強さを。
「運命の紋章たちよ。共に追われる身なれど、きっといずれ、また……」
 去る間際につぶやいたあれは、どういう意味だったのか。だが。
 信じられるかもしれない。リノはけして三度目は失わない。妻のように、息子のようには、ノエルをこの手から奪わせはしない。
(テッド)
 リノはその少年の名を心に留めた。
 第四甲板に個室を与え、動きは逐一把握する。
 他人を寄せつけまいとするその姿にはどこか痛いものがあった。
 時に寂しげなのは気のせいか。いや、違う。
 テッドが孤立する理由を薄々と感じて、リノの胸にお節介ゴコロがむくむくと湧いた。食堂や甲板で会ったときなどリノは積極的にテッドに声をかけるようになった。
「よう、チビ! ちゃんとメシ食ってるか」
 あからさまな迷惑顔で返されるのはもはや日常になっていた。

 沈黙を破ったのはテッドのほうだ。
 何がおもしろいのか、窓の外のある一点を長いあいだ見つめていた彼は、ふと振り返りリノに言った。
「……で?」
「あん?」
「で、どうすんだよ。でかけてきていいなら、そうさせてもらうけど」
 その語尾には「用事があったらさっさと済ませてくれないかな」という含みがくっついていた。
 リノは鼻を鳴らして笑った。たしかに、普通の子供らしくない駆け引きだ。
「お見通しってやつだな。メシならあとで食わせてやる。おれのおごりだぞ。だからたまにはつきあえ」
「いっとくけど」
「かまわないでくれ、か? いつもそればかりだな、オマエ。連中も呆れてるぞ」
 テッドは少しムッとした顔になった。こうした合間合間の表情は年相応に見える。
「いいんだよ。とっとと呆れられたほうが」
「友達できないぞ」
「……いいんだよ!」
 とつぜん激しく感情を爆発させた相手を見て、リノは肩をすくめる。意外に短気なのかもしれない。
「なんだよ。話ってそれかよ。おれ、帰る」
「ちょ……おいちょっと待てったら」
 冗談じゃない、とつぶやいてベッドを下りるテッドをリノはあわてて引き留めた。
「すまん。真面目な話だ。いま帰られては困る。とにかく座ってくれ」
 テッドは苛々しながら、それでも案外おとなしくリノに背を押された。ソファーと呼ぶにはスプリングの効いていない椅子に腰掛けさせられて、諦めたようにそっぽを向く。
 ふう、とリノはため息をついた。なんと扱いづらい子供だ。よもや攻撃は仕掛けては来るまいが、相手になったらこちらの分が悪いのはわかっている。何たってあの右手にある、アレ。
(くわばらくわばらだぜ)
 ソファの肘掛けに置かれた手には、古びた革手袋。袖口から包帯がのぞいている。その下に隠されているものの正体を、リノはただしくは知らないのだが、おそらくは本物の真の紋章なのだ。
 ヘタに介入してはまずい。
 まずは様子をうかがうことだ。彼の側の事情に触れないという当初の契約をふまえた上なら、テッドが最大の戦力に値する事実。それはけして無視できない。
 リノは悩んでいた。ひとまず勝利のみを考えるか。
 クールークに対してもはや後には退けない。大事なのはなによりも勝つことだ。それは賢い王の採るべき正しい選択だ。王の迷いは人民をも迷わせる。
 だが、リノには好奇心があった。それをどうにも抑えられないのだ。
 伝説の紋章を持った人間への好奇心。
 リノの妻は真の紋章を発動させたがために命を落とした。妻は何を思い、何を願って自分の命をさしだしたのか。宿主のほんとうの心など、相方にすら知るよしもないということだ。守ると誓った人間に守られた自分のふがいなさといったら。
 今度こそ、ノエルはおれが守る。失った妻や息子のかわりだからではない。同じ過ちを繰り返す自分がいやだからだ。
 そのためには、テッドを単なる戦力にしたままではいけない。リノはそう思った。
 意を決して、口をひらく。
「落ち着いて聞いてくれ。テッド、オマエの、その右手にある紋章のことだ」
 テッドの表情は見てとれなかった。黙っている。
 リノはかまいなしに続けた。
「おれはそれについて正確に知る必要がある。オマエもわかっているだろうが、じきに重大な戦局を迎えることになる。その前に不安のタネは取り除いておかなくてはならない」
「おれが不安のタネならばいつでも追い出してくれて結構だ」テッドはぶっきらぼうに言った。
「いや、それは得策ではない。オマエの紋章砲砲手としての能力はウォーロックも舌をまいているからな。利用するだけ、させてもらうことにする」
 テッドはフンと鼻を鳴らした。
「で、ぶっちゃけた話なんだが」リノは声をひそめ、ぐっとテッドに顔を近づけた。「オマエ……何者なんだ」
 テッドは頑として眼をあわせようとしない。その反応は予想していた。リノはふたたび背もたれに寄りかかる。
「まあいい。じゃあ別のことを訊こう。オマエの手にあるそれだが、その、たとえると罰の紋章のようなものなのか」
 テッドの茶色い眼がゆっくりとリノに向いた。冷たい光が宿っている。
「あんた、見ただろ。あのとき……見たまんまさ。それ以上言う必要もない」
「ふん、なるほどな。悪いがもうひとつ訊くぞ」
 ひと呼吸おいて、リノは言った。「あのな、大丈夫なのか───ええとその、オマエはよ」
 テッドはリノをじっと見た。やがてゆっくりと口をひらく。
「……なに?」
「いやあの、いろいろとたいへんなこともあるんだろ。そういうのを持っていると。おれも罰の紋章については前にも関わったことがあるし、その、心配でな」
「おれがか?」テッドは意外そうに言った。
「ああ、すまない。気にさわったのなら許してくれ。なにもお節介を焼こうというわけじゃないんだ。ただ、ノエルの件もある。あいつが、ああ、こんなことを言っ ちまって悪いんだが、あいつにはいま前だけを向いていてもらわなくちゃなんねえんだ。もしオマエになにかあって、それでノエルが妙な連帯感を見せちまったら、あまり愉快じゃねえンだよ」
 テッドがかすかに笑ったような気配がした。
 リノは頭をかく。そしてまた謝る。「すまん」
「……おれは大丈夫だ。ノエルの紋章とは違うから。あんたたちが心配するようなことはなにもないよ」
「そうか。ならいいんだが」
 リノがようやく頭をあげると、テッドの顔はやはり笑んでいた。子供らしくない、ひどく大人びた笑みで。
 その見かけゆえ無視されると構いたくなるのだが、ときおりかいま見せる違和感のあるしぐさにリノは冷や汗をかくこともある。
 そんなリノの焦りを見透かしたように、テッドはさらりと言った。
「苦労性だな、おっさん」
「お……おっさん?」
 テッドはぷっと吹き出した。「おっさんじゃないか。いつもチビだのガキだの言われてるから仕返しだ」
「は、ははははは、は」
 から笑いするリノを今度はテッドが促した。「おっさん、メシ食いに行こうぜ」
 そして立ちあがる。「はらへった」
 リノも外を見た。いつのまにか陽が傾いて薄暗さが増してきていた。

 派手好きと誉れの高いラインバッハ卿が打ちあげた壮行の花火のせいで、その晩のミドルポートは賑やかだった。
 いまごろリーダーはラインバッハ親子のもてなしでさぞや豪華絢爛な目に遭っているにちがいない。多少は気の毒に思うものの、滅多にない機会だからこういうことも味わっておいたほうがよい。
 すまんなあ、ノエル。
 こっちはこっちでちょいと取り込み中なんだ。そう独り言つリノの目前で、テッドが空になったグラスにまた酒を注ぎだした。
「おい。そのへんでいい加減にやめとけ」
「うっさいなあ」
 目が据わっている。一杯だけならとすすめたのがまずかったか。「ふだんは飲まないんだ」とか何とか、かなり子供らしくない発言で遠慮したわりには消費がハイスピードである。
「つまみにマグロでもあったらなあ」などと口走りはじめた。
 ここは大人として取りあげるべきだろう、と手を伸ばすとギロリとにらまれる。
「おっさんも飲めよ」
「子供の言うセリフじゃねえぜ、それ」
「だれが子供だって? いいから、ほら」
「お、おお」
 ひょっとして絡み酒か? まあいい。おかげで話す機会を得た。息子と宴会している気分もなきにしもあらずだが。
 グラスを差し出すと、テッドは手慣れた風情でボトルを傾けた。そういう仕事でもさせられていたのだろう。酒の味もどこで覚えたことやら。飲みっぷりが初心者のそれではない。
 そんなことを考えながらふと相手を見ると、また窓の外だ。しかも何もない暗い空の一点を。癖なのだろうか。
 ときどきこうやって、テッドはありきたりの空間を見ている。
 けしてそこへ踏み込むことなく、なんの感情も示さず、ただ見つめている。
「あのな、テッド」
「うん?」
 テッドの首がゆっくりこちらを向いた。
「オマエ、この戦争が終わったらどうするつもりだ?」
「どうするって……さあ。またどっか行ってみるさ」
「行くあてはないんだろ」
「あてがなけりゃ行っちゃだめなのかよ」
「いや、そうじゃないが……」リノはグラスをくるくると弄んだ。口ごもるリノをテッドは面白そうに眺める。いつもと立場が微妙に逆だ。
「なんだよ。居て欲しいのかよ」
 即座にリノはうなずく。誘導に乗せられたような気もするが、本心だ。
 テッドは自嘲気味に笑った。そして無下に言い放つ。「ダメだね」
 これにはリノもかちんときた。子供相手に気を遣っているのに、するりと逃げることはないだろう。
「ほんっと、素直じゃないガキだな」
「そっちこそ、考え方がガキなんだよ」
「どういうことだ」
 テッドはリノを睨みつけた。いつも目を反らしているのは彼のほうなのだが、今夜は酒の回りもあってか態度が違う。
「居て欲しいといったな。誰のためにだよ」
「そりゃオマエ自身のために決まっているだろう」
「違うね」テッドはぴしゃりと言った。「あいつのためだろ」
 リノは真っ赤になってグラスを荒々しく置いた。すべて見通しているというわけだ。
(いやなガキだ)
 否、ガキと思っているからいやなのだ。テッドはリノが思っているより数倍賢い。どんな過去があるにせよ、年齢と思考がかけ離れすぎている。もはやそれは同情に値しないレベルだった。
 今度はテッドの目は置かれたグラスに向いている。琥珀色の液体が慣性でくるくる渦巻くのを似た色の瞳でじっと見据えて。リノの返答を待っているようにも思えた。
 リノは渋々口を開いた。「ああ、それもある」
「……おっさんさ」
「また、おっさんか」
「リノ……おれは、あいつにも関わるつもりはないんだ。よけいなことを期待しているんなら、諦めてくれないかな」
「だが」
「だが、なんだ? おれにならあいつの気持ちがわかるだろうって言うのか?」
 リノはふたたび口をつぐまざるを得なかった。そのとおりだ。確かにそれを期待していた。
 テッドはあぐらを解いて膝を抱えた。いつの間にやら、外の喧噪もだいぶ収まっている。沈黙が少しのあいだ支配する。
 やがてテッドはゆるりと言った。「無理だよ」
「なぜだ?」リノは訊いた。
「おれとあいつは、ちがうから」
 それがテッドの答えだった。
 小さくまるめた背中に、頑とした拒絶が見え隠れしていた。リノは眉根にしわを寄せてその沈黙に耐えた。
 この子供は、なにをそれほどまでに抱えているのか。
 それこそが、手の内の紋章に関わる秘密なのか。
 ならばこそ、ノエルがテッドの支えになり、テッドがまたノエルの支えとなることを、リノは願わずにはいられない。だがテッドはできないと言う。
 やはりおれは紋章を持つ者の気持ちなどわからない。いや、わかろうとさえしていない。
 リノはきつく唇を噛んだ。

 にわかに階下が騒がしくなった。
 リノは廊下をのぞき見た。幾人もの人が慌ただしく出入りしているのがわかる。女性の叫ぶような声も混じる。
「なにか、あったのかな」
 テッドもさすがに興味津々のようで、リノのあとから部屋を出た。
「おい、酒瓶は置いてけよ」
「いいじゃん、けち」
「そんなもんは消毒薬のかわりにもなんねえぜ」
 一階にある酒場には大勢の町人が集っていた。そのうちのひとりをつかまえて事情を訊いてみる。
「子供たちが帰ってこないんだとよ。どうやらあの爺さんの屋敷にはいっちまったらしい」
 リノとテッドは顔を見あわせた。
「ウォーロックの家だ」
 言いかけて、声をひそめる。この町では我が軍の誇る老魔法使いウォーロックは鼻つまみ者なのだ。
「まったく! あの家には近づくなとあれほど言ったのに」
 怒る男たちの声に、母親らしき女性が怯えて泣き出した。
「どうするよ」と、テッド。
「どうするもなにも」リノは諦めたように言った。「行くしかないだろう」

 話によると迷い込んだのは近くに住む幼い兄と弟。以前からウォーロック家の空き家で遊んでいたらしいのだが、このお祭り騒ぎで冒険心が刺激されたか、禁じられた地下室へのハシゴをおりたらしい。
 ミドルポートは平和な貿易都市だが、例外としてただ一カ所、ウォーロックの家の地下室とそこから続く謎の地下道だけはモンスターの巣窟になっていた。
 宿泊していた奇妙な二人連れがオベルの王とその供ということがわかり、宿の主人は卒倒するほど驚いたが、人々は光明を見たとばかりリノに助けを求めてきた。
「だからといって、なんだよあの態度。わっはっはまかせとけ、ってのはちょっとパフォーマンスとしてもナンだぜ、王様」
 ぶつぶつ言いながらも律儀に付きあうテッドにリノは少しだけ感謝した。
 それにしても。
「大丈夫かよ、オマエ。足元あぶねーぞ」
 意識ではなく足に来るタイプだったらしい。
「だいじょーぶ、だいじょぶ。っておい、おっさん、後ろっ!」
 おっと、あぶない。雑魚とはいえ、不意打ちされたらどうしようもない。何せこちらはふたりだけだ。慎重に進まなくてはいけまい。
「……ったく。こんなことになるなら、きちんと慣れた武器を用意しておくんだったな」
「へえ、リノ。そういうことふだんからしておいたほうがいいぜ?」
 テッドはからかうように言った。正論ごもっともだ。テッドの戦闘準備はいつでもそつがない。常にその事態を想定してこそできることである。
 今回は武器屋の提供してくれた最高級の槍でなんとかなったが、いつもそういうわけにはいくまい。リノは反省した。
 地下道はいくつにも枝分かれし、四方八方に道が延びている。ウォーロックに会うために最初に訪れたときも、抜けるのにだいぶ苦労した。坑道の跡らしいが、そんな場所に研究室をつくってしまうウォーロックはつくづく変わった爺さんである。
 おまけにそこかしこの闇に魔物がひそんでいて、侵入者を排除しようと狙っている。
「こういうところは、左右どちらかの壁に沿って進んでいけばすべてを回って元に戻るんだ」
「ほう。じゃあ、右か左か?」
 テッドは黙って右へ進んだ。
 以前は灯されていたあかりが消えている。子供たちはそう遠くには行けまいが、モンスターに追われて深いところに入りこんだということも考えられる。ともかく、すべてを捜すしかない。
 狭い地下道で弓は使いづらいらしく、テッドは矢を収めてかわりに短剣を抜いた。そういう技能もあったのかとリノが舌をまくほどに、テッドの攻撃は正確だった。
 だがいかんせんスタミナが無いうえに、酔っぱらいである。
「はあ、はあ。少し多くないか? ここのモンスター」
 馬鹿め。運動して酒が全身にまわっただけだ。
「ガキ」
「ああ? なんか言ったか、おっさん」
 その言葉に先ほどのような刺すような拒絶はない。
「それにしても、マズいかもな。この先は、爺さんの研究室だぜ」と、テッド。
「ああ……」
 その心配の意味はリノにもわかっている。研究室の入り口に、おそらくはウォーロックの仕業だろうが、一体の厄介なモンスターが棲みついているのだ。
 子供たちが万が一、そこへ追われて来ていたら、一刻もはやく駆けつけなくてはならない。
「行くか、おっさん」
「当然だ」と言いながらリノはつけ足した。「おっさんはやめろ」
 テッドはカラカラと笑って、短剣を腰に戻した。

 ヒュッ、と風が空を斬る。
 威勢よく突っ込んでいったものの、巨竜対人間ふたりではさすがに分が悪い。
 リノはてっきりテッドが回復魔法くらい使えるものと思いこんでいたが、テッドはあっけらかんと言った。「そんなもの、知るもんか」
 この少年が防衛本能希薄だということを忘れていた。
「薬くらい標準装備しやがれ、ガキ!」
「あーアンタが酒瓶もってくりゃ消毒薬くらいにはなったかもな!」
 そんな漫才の最中にも二人のあいだを縫ってカマイタチの刃が襲ってくる。
 こうも相手が巨大だと、テッドの弓もダメージを与えるに至っているのか不安になる。
 もちろん、リノの槍などは届きすらしない。
「な、なにか魔法使えるだろ、オマエ」
「土なら」連続攻撃を避けながらテッドが憮然と呟く。土魔法のことである。
 空に浮かぶ竜には通用するはずもない。
「土だぁ? なんで肝心なときにそんなもん!」
「仕方ないじゃないかよ! 訓練所の竹槍特攻オヤジがそれ覚えとけってしつこいから! おっさんこそ魔法のひとつも使えやしねえのかよ、なさけねーなー!」
「おれはそういう微妙なモンは相性悪ィんだよ!」
 叫び終わるか終わらないのうちに、竜が電閃を飛ばした。あまりの素早さに身動きできず、テッドはそれをまともに喰らった。
「うあっ!」
「ば、ばかやろーっ! ひっくり返るなッ」
 テッドは頭を振りながら立ちあがり、「こん畜生」と唸った。リノはその襟首をひっつかむと、回復するまでのあいだ背中でかばった。
「悪いな、おっさん。げほっ」
「まったく油断大敵だぜ。どうする。一度退いて出直すか?」
「いや、いい。おれに考えがある」
「どうする気だ」
「これを使う」
 テッドは革手袋に包まれた右手を軽くあげてみせた。リノはぎょっとした。
「大丈夫か」
「何度も言わせるな。こいつはノエルのやつとはちがう」
 軽く肩で息をすると、テッドは今度はリノをかばうように竜の前へ進み出た。たしかに、いまはその方法に任せるしかない。テッドがやると言うのだから、おそらく自信はあるのだろう。
 だが。
「リノ……下がってろ」テッドは短く言うと、低い声でつけ加えた。「目を瞑っていてくれ」
 そのひと言でリノの中に危険信号が瞬いた。
「よせ……テッド」
 テッドは聞いていないふりをした。竜の攻撃は止まず、カマイタチの刃がテッドに狙いを定める。テッドは足を踏ん張ってそれに耐えた。
「やめろテッド、もういい」
 リノの言葉を遮断するかのように、テッドを包みこんで青暗いもやが巻いた。それは段階的に濃さを増し、重力の渦と化していく。
 リノは畏れで目を見開いた。戦闘の際にテッドが時折見せる右手の力とはあきらかにレベルがちがっていた。
 ノエルが罰の紋章を発動させたときの、果てしない恐怖をリノはその姿に重ね合わせた。
 人知を超えた力。すべてのものを破壊し尽くす予感。
 のどがカラカラに乾く。必死で名を呼ぶも、もはや声にならない。
 耳障りな轟音が感覚のすべてに充満する。轟音の正体は巨大な闇であった。そして。
「……ソウルイーター」
 テッドの声に同調するかのように、重力が裂けた。
 リノは圧力を感じ、床に膝をついた。視線は必死にテッドを捕らえたまま。
 我が目を疑うしかなかった。瞬きする暇もなかったはずなのに、竜の姿が忽然と消えていた。
 最期に放った電閃のかけらがキラキラと舞うなかに、テッドはまっすぐに立っていた。
 その顔がゆっくりとリノを振り返る。栗茶色の髪がサラリと風に揺れる。
「終わった」
 そう言って、テッドは寂しそうに微笑んだ。

 どれくらいそうしていたのかは、さだかではない。
 テッドは何も言わなかったし、リノもまた語る言葉を失っていた。キラキラ舞う粉に浮かびあがった笑顔がリノの心を重たげに掴んだ。
 テッドがそんな表情を見せたのは───
 そうだ。出逢ったとき。霧の船のあるじが手放したその紋章を、テッドは大事そうに両手でやさしく包み込んで。やはり寂しそうに、微笑んだ。
「おれはもう逃げないよ」
 そんなことを呟きながら。
 テッドの傷というものは、これだったのだ。
 他人を寄せつけず、友をつくろうともせず。
 ただひたすらに、テッドが守ってきたものが、これだったのだ。
 運命から逃げるのではなく、それを受けいれるため。
 リノは失った妻を想った。大切なものたちを守るため運命を受けいれた妻を。
 そしてノエルを想った。失った息子のようなその少年を。
 ノエルもまた運命を受けいれる。否定し続けてきた予感を、リノはいまはっきりと感じた。
 人が紋章を選ぶのではない。紋章が人を選ぶのだ。呪いを受けいれる器を。
 真の紋章とはリノがけして立ちいることのできない領域であったのだ。
 それを思い知らされて、腹がたってしかたがなかった。竜を倒した安堵感などかけらもなく、さらにはここへ来た目的すらもすっかり忘れ去っていた。
 テッドはリノを促さず、ただ無言でうつむいていたが、ふいになにかをとらえたように左右を見渡し、小さく「あっ」と言って駆けだした。
 リノもすぐに気づいた。子供の泣き声だ。
 竜のいた場所からさらに奥まったところにウォーロックの研究室があり、泣き声はそのなかから聞こえていた。
 リノが研究室にはいると、先に飛びこんでいったテッドが七、八歳くらいのふたりの男の子に左右から抱きつかれてよろめいているところだった。
「よしよし、もう大丈夫だから。怖かったよな」
 どれだけ泣き叫んだのか、枯れてカスカスになった声でそれでも泣くのをやめない兄弟にテッドは満面の笑顔を見せながら、ふたりいっぺんにぎゅっと抱きしめた。
 それは船で見かける無粋なテッドではなく、今しがた紋章を発動した哀しげなテッドでもなかった。リノの知らないテッドがそこにはいた。

 子供たちになつかれてまんざらでもなさそうだった明るい表情は、ミドルポートの人々に囲まれるころにはすっかり影をひそめてしまった。
 感謝と礼の嵐をなんとかかわして、部屋に戻ったのは夜更け近く。宿の主人は気前よく最上級の二人部屋を用意してくれていた。
 ベッドに倒れこむと、テッドもそうした。何となく気まずさを感じ、リノは言葉を探した。
「テッド、あのな」
「よかったな」
 同時に発せられた言葉に、リノの心臓が跳ねあがった。
 テッドはかまわず先を続けた。「なんとか無事でさ。あの子たちのお母さん、生きた心地しなかっただろうしな。よかったよ」
「あ……ああ、そうだな、まったくだ。はは……」
 テッドは身を横にして、生返事を返すリノをじっと見た。やがて、気持ちを固めたかのように、言った。
「リノ。たぶんもう、少しのあいだだろうけれど───約束どおり、最後まで手は貸すから。そのかわり……」右手の人差し指をたて、唇に当てる。「内緒だぜ?」
 リノは目を瞬いた。
 あのテッドが、にやにや笑っている。
 イタズラを目撃された子供のようだ。
 テッドは大きくのびをして、ごろんと天井を向いた。
「あーあ、爺さんになんて言い訳するかな」
「竜か」
「それにしてもここのやつら、ヘンな生き物飼うの趣味だよなー」
「ひょっとしてあれか。ラインバッハ卿の」二人の声が唱和する。「デイジーちゃん」
 リノはぷっと吹き出した。その笑いは止まらない。やがて、宿じゅうに王様の大笑いがひびきわたった。「あっはっはっは」

 リノは思う。
 ノエルに息子を投影し、今度こそ守りきれると自惚れていた自分の浅はかさ。
 彼を戦乱に巻きこんだとき、自分に課せられたものは守る力ではなく、最期を見送る覚悟だったのだ。
(おれは、また大切なものを失ってしまうのだろう)
 否定し続けてきたその未来から、もう目は反らさない。
 悲痛を味わうまいと逃れてきた自分と、悲痛を忘れぬために孤に生きるテッド。
(……負けたな)
 だが、これで心は決まった。戦いを前に迷いはすべて吹っ切れたような気がした。
 目を閉じる。やさしく闇がおとずれる。
 隣のベッドからテッドの寝息が聞こえる。
 朝が来たら、船に乗ろう。ノエルも、テッドも共にだ。そうして、もう次の寄港地はない。
 エルイール要塞に向けて進軍するのみ。
 その時を前に、夜はただただ、静かだった。






初出:u/Lar/nim/memo
Incognito 1-8 (2005-02-12-15)
大幅加筆訂正。別題「泥酔発動」

2005-02-17