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沈澱

 幾度めかの無駄な寝返りのあと、ついにあきらめて目をゆるゆると開く。期待などはしていなかったが、辺りが相も変わらずの薄墨色の闇だったので、もういちど眠りに落ちてしまおうかと思ったくらいである。
 帝都の賑わいもここまでは届かない。それどころかいつも変化しない薄闇に満たされたこの部屋のほうが、ほんとうに帝都の中心に存在するのだろうかという疑問さえ生じてくる。
 ひょっとしたら、なにか異質の力で保たれている空間なのかもしれない。
 手の届かない位置に窓はある。いつでも月明かりのない夜しか映さず、外気すら流れこむ様子のない窓だ。どこかに通じるドアがあることも知っている。そこにはいつも鍵がかけられていないことも。
 ドアを押して外に出てみようという意志はすっぽりと抜け落ちていた。自分がなぜそのような闇に捕らわれているのか、その経緯は鮮明に憶えている。ルーファスは首尾よく逃げ延びただろうか。あんな厄介なものを押しつけられて、無事でいてくれるだろうか。
 テッドは右手を闇に透かしてみた。からっぽの右手。ただの右手。
 あれほど忌み厭った呪いはいま親友の手元にある。
 自分の意志でそうした。そうせざるを得なかったとはいえ……後悔がまったくないわけではなかった。いちばん大切だったルーファスを地獄へ突き落としたことへの後悔。
 ……大切?
 ふいに、そう思った自分に戦慄がはしる。
 誰かが大切だなんて、自分には許されない感情だった。もちろん、まだやり方がわからなかった昔の自分と違い、人をすべて拒絶することなどしない。右手の呪いをうまくごまかすすべは心得ているつもりだった。ルーファスとは別れる潮時だったのだ。残るのは、楽しかった思い出だけでよかった。
 そんなときに、あの女が。
 こめかみが痛んだ。
 思わず目を閉じる。薄闇が流れこんでくるのがわかった。
 わずかでも抗おうとして、己の肩をかかえてうずくまる。
 身体が小刻みにふるえるのを抑えることができない。あらん限りの力をこめる。雨の夜に受けたはずの身体の傷は癒えていた。おそらくはあの女が魔法でそうしたのだ。あのまま放っておいてくれれば、自分は勝手に終わらせることができたのに。または憎しみを暴力でぶつけてくれれば。それはそれで、もっと楽だったろうに。
 どうして癒したりするのか。どうして生かそうとするのか。
 あの女は、賢い復讐のやり方を知っているんだ。
 ルーファス。逃げろ。逃げてくれ。俺から。
 俺は、おまえに何をするか、わからない。

 ドアが外側から開けられた。この部屋に足を踏みいれる人間はひとりしかいない。
 宮廷魔術師、ウィンディ。
 派手な青のローブをまとい、口元には絶えず笑みを浮かべている。実質的に帝都を握っているのはこの女だ。命がけで三百年も逃げ続けてきた相手。
 いつだったか、女はなぜ自分がソウルイーターを欲しがるのかをテッドに語って聞かせた。まるで弟にでも語りかけるような口調でだ。そんな理由は聞きたくなかったが、テッドは耳を塞ぐすべを持たなかった。
 同情などはするまいと必死になるほど、テッドの心に例の闇が忍びこんできた。
 女は哀れみにも似た表情で、幾度となくテッドに触れた。彼の頬をとり、キスもした。
 そうして決まってこう言うのだ。「かわいいテッド」と。
 吐き気がする。こんなときでさえ、何かわからないけれどとても大事なことを失っている自分に対してだ。
 この女は、自分を苦しめいたぶって笑っているのに。俺はどこへ沈んでしまった? はやく浮きあがってこい。早く、そうしないと、じきにとんでもないことが起こる。
「テッド」
 女が名を呼んだ。それがきっかけのように、身体の震えが止んだ。テッドはふわりと立ちあがった。
「テッド」ウィンディは微笑む。「あなたのお友だちを迎えにいきましょう。来てくれるわよね……?」
「……はい」
 そうしてテッドは、闇の部屋からはじめて身をすべらせた。






2004-11-24