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灰の海

 群島諸国が常夏だなんて、誰がぬかしたのかは忘れたけれど、とんだ冗談だ。ガッチリ凍てついて閉まらなくなったクソ窓に、俺は食堂から失敬してきた紅茶をブッかけた。湯気は窓枠をとかすどころか海風でますます凍りついた。
「ちっ」
 俺は舌打ちして、それ以上の努力をやめることにした。
 だいたい、イルヤ島に居着いてからこっち、ろくな目に遭っていない。この島の人間が性に合わないのだ。南国気質かなんか知らないが、やたら慣れ慣れしくて、お節介なやつら。
 いくぶん温暖な地方だからいざとなれば野宿でまかり通ると思った自分が甘かった。
 この島ときたら、島じゅうどこへいっても人の目があるのだ。ましてや俺は見た目がおもいっきりガキだから、野宿など見つかったひにゃ速攻で連行されてあれこれ要らぬことを詮索されちまう。放っておいてほしいのだが、この島は戦災孤児がウロウロするような場所ではないらしい。
 何度目かの連行で知りあったオヤジが安宿をやっていて、俺は有無を言わせずそこへ投宿させられた。払えない金じゃなかったけれど、オヤジは頑として受け取ろうとしなかった。そのかわり俺の行く先がどうの、メシがどうの、親代わりの人間がどうのとまくしたてやがるので、俺はこのボロ宿のクソ窓とひっくるめて、いつ見限ってとんずらするかの策を練っていたところだ。
 階段の下から三段目を巨躯で踏む音がする。  誰かが踏み抜いた上から、船にも使えないような薄い板をクギで打ちつけただけの。いつかはふたたびそれを踏み抜くであろう、この宿のおかみのパンジーだ。
「テーッド!」
 たぶん、メシのしたくができたよ、の呼びかけであろう。パンジーはいつも、ご飯だよとかちょいと手伝っておくれとか言うかわりに、俺の名を呼ぶ。ぶっきらぼうででかいおばさんだが、悪い人ではない。
「テーッ、ド!」
 俺は一呼吸して部屋から出た。あまり腹は減っていない。むしろ、いつでも腹が減ったという感覚はない。食べることにほとんど興味がないのだ。しかし、黙っていてもことがこじれるだけだ。
 食堂には相変わらず、怪しげな酒瓶を傾けているオヤジと、パンジーしかいない。流行らない宿屋だ。
 オヤジの名前は聞いたけれど、忘れてしまった。パンジーが「あんた」と呼ぶから、あんたなんだろう。パンジーの名前はこの宿屋につけられているものと同じなので、嫌でも覚えた。
「まったく、またそれっぽっちしか食べないのかい」
 スープの皿に無理矢理おかわりを盛りながら、パンジーがぶつぶつ言った。いつものことだ。このまま手をつけなくても黙って片づけてくれるのは知っていた。
「育ち盛りにそんなじゃ船にも乗れないよ」
 俺は軽く微笑むフリをして席を立った。その気があれば、今夜か。遅くともあしたかあさってには、この島を離れるつもりだった。いつもだったらもう少し見物してもいいくらいだったが--この島は、苦手だ。そうして俺の中の警報は、いつも当たりやがる。

 港に停泊している船のどれかに潜りこめないものかと、偵察に出た。少し遠回りになるが、気分転換に円形広場に寄ってみる。イルヤの町はこの広場を中心に同心円を描いていて、早朝は市場が立ち、地方からやってくる魚売りや野菜売りのかけ声に旅人が足を止める。俺はその雰囲気が好きだった。俺もふつうの旅人と同じようにその中をそぞろ歩けたら楽しいのに、といつも思った。
 霜のおりた日は天気がよいのだろうか。太陽が建物を越えて照ると、今朝の冷え込みが嘘のようにぽかぽかとあたたかくなった。俺はしっかりと閉じていた首元のベルトをはずした。手袋はしたままだけれど、これは習慣なので、どうということはない。
 大噴水に群がった鳩を見あげたときだった。
「きゃっ!」
 誰かがものすごい勢いでぶつかってきた。
 不意を突かれた俺は、噴水の足元にある花壇に背中からころがってしまった。
「あーっ! あのっ、ごめんなさい!」
「い、いや・・」
 差し出された右手をとろうとして、俺の背筋にぞくりと冷たいものが走った。
 右手を蠢く、氷の感触。
 ヤバい!
 とっさに出しかけた手をひっこめた俺に、少女は困ったような笑みを見せた。
「ごめんなさい。わたしの手、どろだらけね」
 俺は相手を見あげた。鮮やかなオレンジ色のパーカーを羽織った、おかっぱ頭の少女。年齢はせいぜい十二、三というところか。見かけ上の俺とそう違わない。そして、おっしゃるとおり手も泥だらけなら頭の先から足の先まで泥だらけ。
 俺は自力で花壇からはい出ると、無意識に右手をポケットに突っ込んだ。
「ほんとうにごめんなさい。荷物を持ってて、前が見えなかったものだから」
「ああ、こっちこそ、ぼっとしていてごめん・・・」
 言って俺は、少女の取り落とした大きな麻袋を見た。口が開いて、なにかタマネギの小ぶりなものが大量に散らばってしまっている。
「ああ、球根? チューリップ」
「そう! くわしいんですね」
 少女がぱあっと明るく笑った。茶色がかったサラサラの頭髪が揺れる。俺はポケットの中で握りしめた拳を、確かめるように、握ったりひらいたりした。大丈夫。もうなんてことはない。そんなはずは・・・ない。
「広場じゅうの花壇に植えるんです。霜で土が固まってしまう前に。だからついあわてちゃって。痛くなかったですか」
「広場じゅうって、まさかきみひとりで? だれかに頼まれてるの?」
「いいえ、わたし、好きでやってるの。お花が好きだから!」
 俺は、つられてふっと笑った。それで奮闘して泥だらけなのか。
「よかったら、おわびに手伝おうか」
 口にしてから、よけいなことをと思った。だがすでに遅かった。その足で島を出るはずだった俺は、午後いっぱいかけて、スコップと麻袋をかかえて泥だらけになっていた。

 不本意ながら宿に戻った俺を、パンジーは笑いながら風呂へ押しこんだ。いつもの革手袋をはずし、その下に巻いた包帯もとって湯船に浸した。
 右手のそれは、いまはおとなしくひそんでいる。禍々しくも見慣れた模様。命を喰らう鎌首。百五十年連れ添った相方。
 昼間得た感触は、いったい何なのだろう。
 ソウルイーターは宿主にもっとも近しい者の魂を犠牲にする。その呪われた性質のために俺は、村を出てからずっと、他人との過剰な接触を避けてきた。こいつの宿主の身体に及ぼす力が他人に知れる前に、住む場所を転々とし、時には数ヶ月もの間ひとりで森に暮らすこともあった。
 気のせいなどではない。ソウルイーターはたしかに反応した。
 あの少女の魂を喰いたいと。
 湯の中で右手にそっと触れる。そんなことがあるのだろうか。けして近しい魂ではない。初対面だ。あのときはじめて会った。
 暴走か。
 いままでにも、そういうことがないわけではなかった。俺がうっかり気を許してしまったがために、複数の命が一瞬で消えた。あのとき、俺は廃墟のなかでひとり立って・・ひとり、立って。
「テーッド?」
 パンジーが心配して風呂の外から名を呼んだ。

 俺はぼんやりと港に座っていた。
 イルヤの海は、港内でも青く透明で美しい。だがこの海にもまもなく冬がやってくる。群島諸国でもっとも北に位置するイルヤ島では、冬の厳しさはトラン地方にも匹敵するという。
 交易商の船に混じって、漁業船の意外に多いことに俺は気づいた。観光島だとばかり思っていたのに、港は住民のために機能している。みな、この島に永く住む人々のための船だ。俺の居場所はここにはない。どこにもない。
「ニャー」
 ひまそうな俺を見て、猫が一匹すりよってきた。いつも不思議に思うのだが、港ってところはなんでこんなに猫が多いんだろう。まるで誰か飼っているようにまるまると太っているし。
 目と目が離れておまけにロンパった、お世辞にもかわいいとは言いがたいサバトラ猫だった。それでも足にスリスリされると、ついかまいたくなる。頭をなでてやると、のどをゴロゴロ鳴らしはじめた。
「おい、おれはうまいものは持ってないぞ」
 くすぐりながら、ひょいと抱きあげた。
 猫がびくっと身体を硬直させるのがわかった。
 俺はハッとした。思わず猫を振り落とした左手で右を押さえつけた。明確な、あの感じがあったわけではない。だが、瞬間おとずれた不安な気持ち。
 猫は毛を逆立てて波止の反対側に飛んだ。
 そこへ木箱を積んだ台車が突っ込んだ。
 何が起こったのかわからなかった。交易商の「あーあ」という声を背中に聞きながら、俺はその場から逃げるように走り出していた。
 飛び散った赤い血。必死にその光景を追い払いながら、右手を痛いほど握りしめる。  身体が震えた。広場に、オレンジ色のパーカーが見えたのだ。
「・・・テッド?」
 右手が。まるで意識を持つ蛇のように、脈打つ。
「・・・来るな・・・!」
 俺はもう少女を見なかった。走った。そして走った。誰もいない場所へ。

 どこをどう彷徨っていたのか、憶えてはいない。
 幾日かの夜をすごしたような気もする。結局持っていたのは、木の弓と幾本かの矢だけであったが。腹がへったという感じも、眠いという感じもまったく襲ってはこなかった。
 気がつくと、いまも空は薄暗かった。寒い。ただただ寒い。俺は子供のように膝を抱えて座る。肩が小刻みに震える。でも俺自身は、そのことに気づかない。
 はるか崖下に灰色の海が見えた。イルヤの海は青いと思っていたが、このような表情も時には見せてくれるのだ。霧が濃く、足元はどこからが断崖なのかわからない。
 どこにも行くところがないなら、あの海に飛びこんでみたらどうなるだろう。
 ふと、そう思った。そしてそれがいちばん賢い考えのような気がした。
 どうだい、ソウルイーター。深い深い灰色の海の底なら、おまえも悪さができないだろう。誰かの手に渡ることも、もうない。
 いい考えじゃないか。ソウルイーター。
 俺の魂だったら、くれてやるから。もう眠れよ。
 まるで公園の花壇から起きあがるように、俺は背中についた草を払い落として、笑った。







むちゃくちゃ、暗いんですけれど。テッド一人称にしたのは失敗だったかなとも思います。本来、もう少し長く語るべき話だと思いますし。
イルヤがこの数年後にどうなったかは多くの皆さんがご存じの話です。オレンジな少女がイザクさんの語った少女と同じ子かどうかは、ご想像におまかせします。


2004-11-22