幻想水滸伝もの書きさん同盟へ投稿した作品です。
坊ちゃん/ティル・マクドール
「ティル、は」
なかなか舌になじまないその名前をテッドは遠慮がちに口にした。
割烹着の青年がゆっくりと振り向く。
左手に鍋ぶた、右手にレードル。立ちのぼる湯気と同じ雰囲気の、あたたかくてふわりとした笑みをグレミオはごく自然にうかべた。
言いかけたその先をさっそく取りこぼしそうになって、テッドはわざとらしくテーブルに頬杖をついた。口元を革手袋でちょっと隠すようにする。
あんのじょう、グレミオは子どものはにかみなどお見通しで、笑みのレベルをさらに引きあげた。
テッドのほうから話しかけることは、めずらしい。
少しはここにも慣れてきましたか、よかったです、と温和な顔に大きく貼りついているのを悟って、テッドはさらに顔を赤らめた。
シチューという名称の典型的家庭型煮込み料理を大鍋で何時間もかけてコトコトと調理する青年は、将軍家の雇われコックではない。後付けではあるが、れっきとしたマクドール家の一員である。
大食らいの家族のために、宿屋で使うような巨大な寸胴鍋を火にかけるのが、この家のならわしだ。
ここに帰る者が、みな飢えることのないようにと。
戦争孤児であったグレミオをはじめ、テオ・マクドール直属の部下であるパーンやクレオもみな、マクドール邸を帰る家として慕っている。
テッドもひと月ほど前、偶然知りあったテオによってその中へ招かれた。
歓迎の晩餐で最初に出されたシチューのあまりのうまさに、テッドは髪の毛を逆立てて絶叫した。
手間暇と愛情をかけて大事につくったあたたかい食べ物は、これまでの人生ではあまり縁がなかったのである。だからというわけではないが、今夜シチューをつくりますよとグレミオが玉葱を剥きはじめるたびに、テッドの心はうきうきと躍った。
うれしそうに何皿もおかわりをする新参者に目を細めて、テッドくんはほんとうにシチューが好きなんですねと顔をほころばせる。その左頬に生々しく刻まれた十字型の傷もやさしく包みこんでしまうほどの、天性の笑顔をグレミオは持っていた。
ふつうの家庭でごくしあわせに育った子どものように、頬杖をついて足をぶらぶらさせ、大好物がテーブルに置かれるのをわくわくしながら待っている。
本来はあり得ない光景であって、半分は計算づくだ。
どんなしぐさをしてみせれば相手が警戒せずに、食事と寝床を無償で与えてくれるのかをテッドは熟知している。
しかしあとの半分に、この夢がずっと終わらなければいいのにと願う浅はかな自分もいる。
狡猾だけれど、愚か。いくら経験を重ねてもそれは変わらない。
話の次を切りださないテッドをグレミオはやさしくうながした。
「はい、なんですかテッドくん」
もごもごとテッドの口が動いた。
「ティルって、あんまり友だちとか、いないみたいだけど……」
いま厨房にいるのはふたりだけ。マクドール家の一人息子は外出先からまだ帰宅していない。気にしても詮無いことだが、わけを訊ねるにはよい機会だった。
グレミオの表情が一瞬だけ翳り、すぐ打ち消すように笑みを戻した。
「そうですね。あんまり、ではなくてまったく、といってもいいかもしれないですね」
ふうん、やっぱり、とテッドは合点した。
グレッグミンスターは帝国の首都だけあって、住人も多い。白い石畳が印象的な路地はティルくらいの年齢の腕白少年たちに占拠されて、明るい笑い声が絶えない。
マクドール邸の周辺は広場に隣接した高級住宅街だが、友だちになれそうな子どもは大勢住んでいるようだった。
それなのにテッドが見る限り、ティルはただの一度も友だちらしき人物と接触したことがない。
庭で棒術の稽古をするときも、ひとりで黙々とこなしている。誰かと手合わせをしようなどと、まったく考えもしないらしい。あとは自室で本を読むか、釣り竿を持ってふらりと裏手の森に消えるか。
極度の人見知りか、あるいは協調性に欠けるのだろうと最初は思った。だが、どうもそれらはしっくりと当てはまらない。マクドール邸の来客には礼儀正しく応対するし、パーンやグレミオ相手なら年相応にゲラゲラと笑う。
テッドに対してもそうだった。テオに紹介されたその場で、満面の笑みを浮かべて握手を求めてきた。最初が肝心と仏頂面を突きつけて、出された手は思いきり無視してやったけれど、ティルは別段気を悪くした様子もなかった。
よろしくねテッド、と受け取ってもらえなかった右手でぽんと肩を叩いた。
二重人格だろうか。それとも。
「べつに、いい家の坊ちゃんだからよその子を見下しているわけではないんですよ」
テッドが脳裏に浮かべたその仮説を、グレミオはまっ先に否定した。
鍋ぶたを少しだけずらして寸胴にかぶせ、独りごとのようにグレミオは続けた。
「ただ、坊ちゃんはやさしすぎるから……どうしても、まわりを避けてしまうんです」
指をそっと頬の傷に這わせる。まるでそこに理由があるかのように。
テッドは妙な既視感に襲われた。遠い昔に、それと同じことを言われたような気がしたのだ。
誰だったろう。
思いだせそうで、思いだせない。
”テッドくんはやさしすぎるから、そうやって人を避けようとするんだね”
記憶の深い、深いところに意識的に封じこめたはずのその人物が、ふと目前の青年にかさなった。
胸がドキンと鳴った。
人の生まれ変わりを、テッドは信じない。生と死をつかさどる紋章を手にした日から、その宗教的な言い伝えが真実ではないことをテッドは知っている。
人はすべて死ぬと大地に還り、そこから再生される。保存された魂は新しいものに変換されて、以前とはまったく異なったものになる。
あの日、彼を喪って、やさしかったその穢れなき魂も呪われた右手が消費してしまった。
彼が再生すべき機会を、自分は永遠に奪ってしまった。そう、思っていた。
罪の意識があのできごとを記憶の奥底に追いやった。
だからテッドは、この期に及んで前触れもなく襲ってきたあらぬ考えに戦慄した。
あまりにも似ている。
似すぎている。
気のせいだ。素朴で、あたたかい笑みなら誰でも浮かべることはできる。似た人なら大勢いる。この広い世界に偶然はいっぱいある。
第一、自分は彼の顔も、名前すらも憶えていない。忘れようと必死になり、そして首尾よく忘れることができた。
だが合致したパズルは糊で貼りついたかのように頑として外れない。
心臓が激しく跳ねた。動揺を気取られまいと、テッドは両手で顔を覆った。
もしグレミオがただならぬ気配に気づいて振り向いていたら、どこか具合でも悪いのではないかとあたふたしたであろうシナリオだ。
グレミオはこちらを向くこともなく、鍋に視線を釘づけてまた頬を撫でた。
傷はとっくの昔にふさがって癒えているはずなのに、こうやって思いだしたようにいつまでもちくちくと痛む。
赤月帝国には移植術という方法でついた傷を目立たなくすることのできる医者がいると聞かされ、テオにもそこを訪ねるよう勧められたが、グレミオは断った。傷を過去の恨事とともに遺しておくことが、自分自身への戒めだと思ったからだ。
だが、いまになってそれがほんとうに正しい選択だったかと問われると自信はない。
グレミオの傷を目にするたびに、ティルがどれだけ心を痛めたかを思うと。
自分が金銭との交換材料に使われるたぐいの人間であることを、ティルが幼くして気づかされた事件があった。グレミオの傷はそのときのものだ。
あの一度きりのこととはいえ、将軍家の子息はつねに犯罪に遭う危険と隣りあわせで暮らさなければならないことを、だれもが胸に刻んだ事件だった。
だからティルは一生懸命に考えたのだろうと思う。だれも巻きこまずにすむにはどうしたらよいかと。傷で済んだのは運がよかっただけで、一歩間違えたら付き人は命を奪われていたかもしれないのだ。
小さい時分に母を喪い、ティルは愛する者が永遠にいなくなる悲しみを知っていた。
ティルがけして友だちをつくろうとしないのは、おそらくはそれが理由だ。
ティルの悲壮な決意に心を痛めたのはグレミオだけではあるまい。父のテオも、成長と逆行して心を閉ざしていくティルを案じてテッドをマクドール邸に招いたのであろう。
黙りこくっていたグレミオの唇がわずかにふるえた。
「テッドくん、坊ちゃんの友だちになってくださいませんか」
小さい、小さい声だった。
衣食住と引き替えに、こんなことをお願いするのは卑怯である。テッドのみならず、ティルをも侮辱するような行為だ。それをグレミオはちゃんとわかっていて、あのティルがなぜかただひとり偽りのない笑顔を向けた少年に頭を下げた。
テッドはようやく呼吸をととのえて、覆っていた手をそっと外した。ふわふわとただよう湯気のなかに、やさしき付き人の背中が見えた。
几帳面にリボン結びされた割烹着の紐。それが小さな嵐にそよぐようにゆらゆらと揺れていた。
友だち。そのことばを反芻する。
友だちになってくれ。過去にどれだけそう願われたことだろう。
どんなに請われても、それを受けいれるすべをテッドは持たない。
だがいまは、本心でなくともうなずくのが正解であるような気がした。
「もちろん……そのつもり、です」
慣れてしまった嘘。
嘘は相手を傷つけない。痛みは自分にはね返ってくる。
それでも、この人を悲しませたくないとテッドは思った。
あたたかくて、そして懐かしい色をたたえた瞳がテッドを映し、ありがとう、と笑んだ。
2006-04-20初出 2006-06-10再掲