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四つの嵐

三都物語85 無配ペーパーです

 十数年ぶりという強い野分が来た。
 俺は地下深くに収監されていて、風の音も雨の匂いもここまでは届かない。昼も夜もない暗闇では、外界と隔絶されてから幾つの季節が過ぎ去ったのかもわからない。看守どうしの会話だけがささやかな情報源だ。
 グレッグミンスター城の主城塞直下にあるこの地下牢獄は、下水設備に近すぎるためあまりにも不衛生で、継承戦争時の捕虜に蔓延した流行病を機に使われなくなったと聞いた。暗くじめじめとした鼠の棲み処に渋々下りてくる見張り当番たちの、来た早々帰りたいがにじみ出る不景気な面つきといったら。
 いいか、俺はとてつもなく暇だ。粗末なメシを食うことと、寝ること以外やることがない。あとは人生の独り反省会と、出入りする奴らの人間観察。最近は後者がなかなか興味深い。ここに至って呆気なく気づいてしまったのだが、どうやら近衛兵たちの多くは上司に恵まれていないようだ。ティル・マクドールだけが貧乏くじを引き当てたわけではなかったのだ。
 下っ端どもから漏れ出る憂鬱はじつに痛々しい。この人たちに革命をけしかけてみようかと幾度揺らいだことか。もっとも、発覚したら今度こそ問答無用で縛り首だ。どうせいつかは殺されるのだけれど、もうちょっと利口な終わらせ方もあるような気がするので、些細な違いとはいえ、とりあえずは自重する道を選ぶ。
 それよりも、野分が気がかりだ。自然が牙をむく恐ろしさをこの地方の人々はきちんと理解しているとは言い難い。平常時ならばともかく、国が内戦状態とあっては防災に人員を充てることもままなるまい。なんともタイミングの悪い嵐である。
 しかし、俺にとっては掴みかけた藁だ。地下牢はすでに浸水が始まっている。ほら、とっとと上に行って土嚢を積み上げないと、ここら一帯が大変なことになるぞ。下水設備の排水もどうやら追いつかないみたいだし、となると雨水の流入を食い止めるしか手段はない。のんびり囚人の見張りをしている場合か。働け、働け。
 そして俺様は監視の手薄な隙を突いてとんずらだ――と、さすがにそこまで甘い期待は抱いちゃいない。地下牢が水没して使い物にならなくなり、ソニエール監獄に移送されるシナリオでじゅうぶんだ。
 ソニエールへの道すがら、親友が占拠しているというトランの湖城が遠くに見えるだろう。人生の終わりに、その景色を網膜に焼き付けたい。青い空と緑の大地。そこに印された俺の足跡。これからも続く長い長い旅を、それを託した人の背中を。
 俺の選んだ道は正しかったのだろうか?
 それだけは、どんなに自問自答しても答えが出ないのだ。すべてを終わらせた気になって、無理に結論を引き出そうとしているからだろうか。でも、どうしたらいい。俺にはもう、できることはおそらく何も残されていない。

 これほど強い野分は十数年ぶりだそうだ。
 船着き場は高波をかぶって危険なため閉鎖を命じた。船はすべて風裏となる湾内に避難させてある。歴史に語られる勢力の嵐でも石造りの湖城はびくともしない。解放軍の荒くれたちは妙に生き生きとした表情で、本拠地の増強に走り回っている。
 事実上の休戦である。まさに恵みの嵐。日頃ゆっくりと食事をとれない前線要員も、この時ばかりはしっかりと炊き出しのごはんを食べて、ベッドで休んで欲しい。
 うち捨てられ魔物の棲み処と化していた湖城も、随分と立派になった。マッシュがこの城を制圧してアジトにすることを提言したとき、正直なところ帝国から丸見えで危険な挑発行為としか思えず、ひょっとして我が軍師殿は真の紋章の存在を知って、それを体の良い旗印にし、帝国と差し違えることを目論んでいるのかと疑ったものだ。その懸念は、結果として半分だけ当たっていた。
 帝国主義が腐敗を生む元凶ならば民衆はそこからの解放を求めるであろう。誰しも格差の大きい社会など望まない。本拠地と決めた湖城には、僕の想像をはるかに超えて多くの人々が集まった。
 僕は、真の紋章の継承者という名ばかりのリーダーとして孤独に戦わなくてもすむ。マッシュの狙いは人数だった。敢えて派手なふるまいをし、人を集める作戦だ。
 地下に潜って実体の見えにくい抵抗活動を続けたオデッサの時代は終わった。彼女は偉大なる先駆者として名を遺した。さて、僕の名を後世の人々はどのように語り継ぐのであろうか。戦犯か、英雄か。あるいは「つかの間の夢に酔った愚か者」か。
「ティルさま、炊き出しが始まっていますよ。豚汁とおにぎり。早くいらっしゃらないとどんどん無くなっちゃいますよ」
 いつもの軽鎧のかわりにエプロンを装着したクレオが、お玉を持ったまま僕を呼びにきた。敬称が「坊っちゃん」から「ティルさま」に変わったのは気づいていたけれど、その理由は敢えて聞くまでもない。寂しさは否定しないが、これはクレオのけじめだから、元に戻せなどとは言えない。
「できるだけ目の届くところにいらしてくださいね。グレミオが血相を変えて走り回らないように」
「子供じゃないんだから、そんなに心配しなくてもいいよ」
「いいえ。また前のように刺客が紛れ込まないとも限りません。ティルさまは軍主なのですから、ご自分の立場をいま一度、しっかりとお考えになったほうがよろしいかと。ここにいるみんなが、ティルさまの下で戦う覚悟を決めています。わたしもです。だから、できるだけ心配かけさせないでください」
 僕は素直にうなずいた。ちょっと前の自分なら、「やっぱり子供扱いじゃないか」と膨れたかもしれない。今だからクレオの気持ちがわかる。彼女は命がけで僕を守ることを決めたのだ。だから、僕は卑屈になっている暇などない。
 ほんの少しの迷いや回り道が、すべての希望を断ってしまうこともある。この戦争に決着がつくまでは、この身はいつも嵐のただ中にある。歴史として書物に刻まれるであろう、激しい嵐だ。

 空中庭園の薔薇を根こそぎ散らす嵐を、塔のいちばん高い場所で私は眺めていた。天の底が抜けたような豪雨は雨粒のひとつひとつが驚くほど大きく、硝子を割るほどの力強さで窓を打つ。
 私は雨が好きだ。とりわけ、人の命を容易く奪うほどの猛烈な雨が。慈悲深き自然が牙をむくさまは、私が憧れてやまない美しさの象徴だ。
 その偉大なる力と比べれば、人の世のなんと見窄らしく、不格好なことか。人の手によって創り出された花もそうだ。薔薇はその最たるもの。欲望の姿形をしている。そんな醜悪な花に皇帝はこともあろうに私の名をつけた。紫の薔薇、ウィンディ。
 ああ、いまいましい。私は帝国のお飾りになどなる気はないのに。どれだけ遠回りをしたら、私の望むものが手に入ると言うのだ? 赤月の栄枯盛衰は私にはまったく関係のないこと。誰が死のうが生きようがそんなものは単に採った手段の結末であって、いちいち責任を負わせられてはたまらない。いっそみんな死んでくださらないかしら。赤い月の帝国も、叛乱軍も、私のうなじに愛の吐息を囁くバルバロッサも。
「そろそろ、あの子を呼ぼうかしらね」
 紋章で支配し、躾けるにはある程度の時間を必要とする。叛乱軍に寝返ったところで痛くも痒くもない捨て駒ならいざ知らず、切り札には確実に役立ってくれないと困る。それに、あの子には大きな貸しがあるのだ。私の声に耳を貸さず、三百年も逃げ回った報いはきっちりと受けてもらわねば。
 殺して欲しいと懇願するほどの生き地獄はお気に召すかしら。そして、すべてが終わったあとは、心を持たぬ人形として奴隷にしてあげるの。そうね、私が飽きるまで。
 いっそあの子と旅をしようか。ふとわき起こった思いつきに私は満足し、ほほ笑んだ。きっと楽しいわ。一脈相通ずる、謂ってみれば似たもの同士。同行者としてこれほどの適任がいるだろうか。ユーバーもネクロードも、目的が似通っているだけの傀儡に過ぎないけれど、あの子はどうかしらね。紋章の器として持ち歩くのなら、ティル・マクドールではなくテッドにするべき。ソウルイーターだってきっと元の宿主に戻りたがっている。ティルはあくまでも真の紋章を貸与されているに過ぎない。
 未来は鮮明だ。私は何も間違っていない。なのに、この不安はどういうことだろう? まるで私の中に絶えぬ嵐が在るよう。

 浸水で地下牢獄が被害を受け、外に出された囚人の身柄をウィンディが引き受けたという事後報告を、バルバロッサは玉座の間で聞かされた。
「また、あれの気まぐれか。彼をどうするつもりかね」
 独り言のような皇帝のつぶやきを問いと誤解したらしく、上級兵士はあたふたと経緯を説明した。
「はっ! ソニエールに送ることは不可能なので、その、毒薬で処刑なさるとのことです。犯した罪は重大ですが、ええと、子供ですし、外部には聞こえない方がいいだろうとのご判断で……」
「処刑、か。なるほど、なるほど。あれの考えそうなことだ」
 兵士を退出させてから、バルバロッサは遠い風の音に耳を澄ませた。おもては嵐が吹き荒れているのに、皇宮のなんと静かなことか。それとも私が己の耳を塞いでいるのか。
 少年が何者なのかは知らないが、ウィンディの彼への執着は異常に過ぎる。殺しはしないだろうと直感でわかるほどだ。
 覇王の紋章を使って少年に接触することはできる。しかし手段としては賢くない。ウィンディはすぐに悟るだろうし、私が紋章の支配を受けていないことがわかったら、二度と心を開いてくれなくなる。あの怯えた獣のような女は、人が思うより存外傷つきやすい。
 彼女が亡き妻クラウディアに似ているなどと、一瞬たりとも思ったことはない。なのにそれを咄嗟に言い訳としたのは、一目惚れを隠したかったからである。クラウディアには申し訳ないと思うが、自分自身の心は欺くことができない。
 ウィンディがどのような秘密を抱えていて、何の目的で赤月帝国を揺さぶっているのか、単に知ろうとするなら問いただせばいいだけの話。彼女は語ってくれるだろう。だが、それを知ってどうする。語ればウィンディは私から離れていく。嵐はもはや収まりはしない。私が最後の機を自ら捨てたのだから。
 バルバロッサ・ルーグナーは赤月帝国最後の皇帝となるかもしれない。それでも私は、覇王として信念を貫き通す。
 それが間違いであるなら、私がこの国を終わらせる。

2019-09-16 三都物語85
隠された紋章の村04/ふうかの根 無配ペーパー