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デッドリーピース

ソウルイーターに裁いてもらう
おれが宿主に相応しいか、そうでないか

デッドリーピース ―DEADLY PIECE―

 留守をしているうちに、家が火事で焼け落ちていたとしよう。
 否が応でも不幸なことである。慰めようもない。ご愁傷様。だが前向きな人は考える。ああ、在宅中に巻き込まれなくてよかった。
 つまり、運不運の分かれ目は当事者しだいなのである。命あっての物種を甘受できるかどうか。財産と生命を秤にかけられるかどうか。
 テッドは、無惨な姿をさらす我が家を前に、ぐるぐると考えていた。
 おれはなんて不幸なんだ。ちょっと留守をしていたらこの有様。
 べつにテッドは財産を持っているわけではない。仮に持っていたとしても留守宅に置きっぱなしなど考えられない。大切なものは肌身離さず主義。
 なのに彼の考えが後ろ向きなのは、無理からぬ理由がある
(……いっそのこと火をつけてパーッと燃やしてしまったり?)
 そんな臭いものに蓋をする的な、窮余の一策すら頭をよぎった。隠滅したいのは、とんでもなく下品な風俗サロンに変貌を遂げたアパートメント。もとの姿形を保ったままなのが、余計に悪い。
 見た瞬間、回れ右をしたくなった。
 あり得ない。大家は気でも狂ったのだろうか。いや、あの男にかぎってそんなまさか。
 だらしなく口を開けたまま、テッドは目の前の現実を凝視した――が、目は自然とあらぬ方向へ逸れていく。いたたまれないのである。
 いまの寝ぐらは居心地のよいところだ。敷地は金網で囲まれているし、住人は必要以上に干渉してこない。近所づきあいもない。ついでに法の介入もないとくれば、まさに至れり尽くせりの優良物件だ。
 が、しかし。
 四棟並んだ外壁をびっしりと隙間なく埋める、猥雑な春画はどういう了見だ。
 こうまで徹底的だと、もはや視覚的暴力である。下手をすれば公害で近隣住民に訴えられる。法の手が伸びるのである。そうなったらまずい、いや恥ずかしい。
 まあ落ち着けオレ、こんなものに過剰反応するほどウブじゃないだろと表面上は冷静を装いつつ、ついつい視線が泳いでしまうのは健康的な男子としてしかたのないことだと思う。ドキがムネムネするのは生理的現象なのである。深呼吸、深呼吸。
 無意味に体操などをしてみる。だれかに見られたら間違いなく変な人だ。
 そういえばこれと似たものが、花街に隣接するダウンタウンにあったような気がする。
 あれは、そうだ、ストリート・キッズのカウンターカルチャーとかほざいていた。自己表現の手法としては奇抜で有効的なのだろうが、公共施設や民有地への落書きとみなされて犯罪扱いとなるはず。芸術だ文化だと主張しても言い訳にならない。捕まったら説教か、下手をすると臭い飯を食うはめになる。
 テッドは苦虫を噛みつぶしたような顔でカリッと歯を軋ませた。
 捕まったら? 冗談じゃない。ここをゲームエリアにするのなら負けは即ち死であると覚悟しなくてはならない。
 この金網の内側は、底なし沼。落ちたらまず助からない。
 街にたむろするガキどもは、クリマトリアムがいかに危険な場所であるかを心得ている。近づくのは本気で死にたいやつだけだ。ゲームとしては割に合わない。
 無言で境界を示唆する金網。威圧するようにそびえる無機質な四つの建物。
 どこのどいつが最初に火葬場などというイケていない名前で呼びだしたのか。
 金網には人の出入り口がひとつだけあるが、常に閉ざされている。扉を開けるための鍵は十六個存在し、奇しくもチェスの手駒と同じ数である。
 ただしマテリアルアドバンテージ(相手の駒を獲得すること)の発生しないゲームだ。鍵の数は永遠に十六個。
 クリマトリアムには常時、十六人の住人がいる。彼らはチェスの駒の称号で呼ばれる。キング、クイーン、ルーク、ナイト、ビショップ、ポーン。
 テッドはポーンのひとりとして、ここに住む権利を得ていた。
 鍵は大家に預けてあるが、権利は抹消されていないはずだ。
 テッドの知る限り、住人たちは、めまぐるしく入れ替わった。みずから望んで出て行く者、そうでない者。そこにはぞっとしない理由がある。
 隣人の顔はいちいち憶えない。関心も持ったことがない。ひとり減り、ひとり増えるのが気配でわかる。それぞれの部屋は夕に明かりが灯り、朝に消える。
 十六人を束ねるボスはキング・ヴィルヘルム。五十一歳の優男でクリマトリアムの実質的な大家だ。彼に関する情報は赤月帝国から流れてきたという噂だけだ。
 そして大駒と称されるルークが、ガイである。
 鍵がないので中に入られず、金網の外に突っ立っていたテッドを最初に発見したのが彼だ。純情少年の動揺もいち早く看破した。
「そりゃあま、びっくりもするよな。じつは、新しく入ったビショップがほんまもんのクレイジーでよ……ほとばしる魂の叫びとやらをだな、ぶつけてみたんだとよ。平らなもん見っけちゃカンバスにしちまう。ったく、やってらんねえぜ」
 ガイは煙草を唇に挟んだまま、けばけばしい壁を顎で指して、しんそこ気怠そうに言った。
 アーティストは現在、建物内部に目をつけて、歓迎されない創作活動にいそしんでいるらしい。
 ガイはクリマトリアムに比較的長く住んでいる男だ。多く見積もっても三十は越えていないだろう。猫科の肉食動物を連想させるしなやかな体つきをしている。浅黒い色をした長躯は無駄な肉がそぎ落とされ、野性的な眼は髪と同じ煉瓦色。服装は常にシンプルで目立つパフォーマンスは好まない。
「やっこさんが言うなればエロスとタナトスは本質的に同一でありリビドーである……だったかな、キングの解説では、欲求不満と破滅願望でオツムがややこしくなってるだけだから好きにさせてやれということらしい。ハハハ、こういうとき学がなくてホントよかったと思うよ。ハタ迷惑だぜぇ、ありゃ」
 傍迷惑という部分には同意する。
「景気悪いから宗旨替えして風俗でもはじめたのかと思っちゃった」とテッド。
 ガイはにやりと笑った。テッドの声がじつに三週間ぶりだったせいもある。
 三週間前、少年は来たときと同じようにふらりとクリマトリアムを出て行った。同居人だったガイは、彼を追うことも、捜すこともしなかった。去る者は追わず、それがクリマトリアムの不文律であったし、実際のところガイは同居人など誰でもよかったのだ。
 クリマトリアムの住人になるには少年はいささか歳が若すぎた。だがガイはホームボーイに不審を抱くこともなく、言いかえればまったく興味を示すことなく、日々の生活をともにした。
 少年がいなくなった日も、ああ、消えたのか、と思っただけだ。
 心配も同情もしない。
 駒の入れ替わりは日常茶飯事だ。
 まともな精神の残っているうちに、出て行ったほうが幸せになれる。クリマトリアムは狂人の住むところだ。堕ちたら最後、天国へ往けるくらいに。
 ところが少年は戻ってきた。金網の外にひっそりと立っているので、ガイは驚いた。鍵を持っていないので開けられないらしい。ガイは一瞬迷ったが、自分の鍵を使って少年を招き入れた。
 扉をくぐっても少年は理由を語らなかった。
 自己判断とはいえ、中に入れたからにはヴィルヘルムに報告しなければならない。テッドをその場に待たせ、ガイはキングのいる棟へ向かった。
 ヴィルヘルムはまるでテッドの再訪を事前に知っていたかのようなそぶりだった。デスクの上にあらかじめ用意されていた鍵を受け取り、ガイは驚愕のあまり色を失った。
 そこにしるされた刻印――。
 クイーン。
 事実だとすればヴィルヘルムはテッドを組織のナンバー2と認めることになる。
 この時はじめて、ガイはテッドという少年の存在を強く意識した。
 まだ幼さを残す顔。歳は十五、六。ひどく無口で、表情はいつでも陰気。背も高くはなく、猫背も災いして殊更小さく見える。偏食が多く、同じ歳ごろの男の子と比べればだいぶ貧相な身体つきをしている。子どもらしく激高したり大笑いしたりすることもない。あまり目立つところのない、福祉施設へ行けばひとりかふたりは必ずいそうな印象の薄い少年である。
 一年近くも同室で暮らして、ガイが知っていることといえばそれくらいだ。
「ふふん、腑に落ちんという顔をしているなあ、ガイ」
 ヴィルヘルムの声でガイは我に返った。
「ああ、べつに異議は、ないけど。ただちょっと意外でびっくりしたかな」
「だろうな。まあ深く考えなさんな。で、おまえの部屋のベッドが空いていただろう。また一緒に暮らせばいい」
「いや、でも……おれがクイーンと?」
「以前と同じ接し方でいいじゃないか。なにも変わらんさ」
 ヴィルヘルムは愉しんでいるようにも見えた。本来であればキングの直下に配属させるべきのクイーンを、格下のガイに預けるという。一度リタイアした駒の敗者復活でさえ異例のことなのに、よりによってクイーンのポジションを与えるなんて。ヴィルヘルムの思惑がわからない。
 ガイはふと眉根を寄せた。
「前のクイーンがいただろう。あんたと仲のよかった。彼はどうした」
「掃除した」とヴィルヘルムは事も無げに言った。
「マジでか! どうして」
「おまえは知らなくてもいいことだ」
「掃除屋は」
「テッド」
「……!」
 ガイは今度こそ息を呑んだ。
 テッドがクイーンを掃除した。すなわち、クイーンはテッドに始末された。
「ガイ、わかったらそろそろ退いてくれ。くそ、おれは寝るぞ。最近揉め事が多くてろくに寝てねえんだ。もう死にそうだ。ふらふらだ」
 やんわりと退去を命じられる。たしかに疲れた顔をしている。知らぬ者が見たら、老舗の道具屋を親から譲られて細々と営んでいるといった感じの、人当たりのよさそうな五十男だ。あくまでも見かけだが。
「……ああ、おやすみ、どうぞごゆっくり」
「今夜は積もる話でもしな」
「そうするよ」
 キングの部屋を辞したあと、ガイは廊下の小窓から外を見下ろした。テッドは両手をコートのポケットに突っ込み、金網に背中をあずけてボーッと立っている。弓と小さなショルダーバッグが足元にあった。
 本当に帰ってきたのだ。
 ふいに背筋がぞくりとした。
 掃除屋として長年クリマトリアムに住み着いているガイだったが、こんな薄ら寒い気分を味わったのは久しぶりだ。
 クリマトリアムの住人として認められるくらいなら、人を殺すことなど雑作もないだろう。また、そうでなくては困る。依頼された掃除はどんな難しい内容でも請け負う、それがクリマトリアム・アパートメントの十六ピースだからだ。
 子どもに要人殺害の任務はきつかろう。どうせすぐに嫌気が差して出て行くと思っていた。
 実際そのとおりになった、はずだった。
 しかし、テッドは戻ってきた。いや、ちがう。
(あのガキ、ただ掃除で出かけていただけなのか……?)
 わけあってクイーンを片づけるというのなら、ルークであるガイが引き受けるべきトップレベルの仕事である。キングは基本的に現場には出ずに、指揮を受け持つ。
 クイーンほどの大物がそうやすやすと殺されるとは思えない。もしも背信があったとして、それが露見したとわかれば、身辺を厳重に固めてくるだろう。己が掃除される可能性も予測していたはずだ。
 だからこそか?
 油断させるため、敢えて掃除屋に見えないテッドを派遣したのか?
 クイーンとテッドに面識がないのいならあり得る話だ。末端の駒をクイーンが認識していたかどうか。
 下りてくる足音に気づいたのか、テッドが顔をあげた。
 ガイは鍵をふたつ手渡した。ひとつはクイーンの刻印が入った金網の鍵、もうひとつは部屋の合い鍵だ。
「キングに話はついていた。どういうカラクリかは知ったこっちゃないがな。で、住処のことだが、あいにくおれのところにしか空きがない。例によって汚い部屋だが、我慢してくれ」
「よろしくおねがいします」
 テッドは少しはにかんだようにぺこりとお辞儀をした。

 夢を、見ていた。
 心が乱れているときなどに見る、昔の夢だ。
 室内は吐く息が白く見えるほど冷えこんでいるのに、寝間着が汗をたっぷり吸いこんで気持ち悪い。
 音を立てないように半身を起こし、見るともなしに窓の外へ目を向けた。
 向かいの棟は真っ暗。みな寝静まっている。クレイジーアーティストの作品も闇の中では冴えない。
 四つある建物は等しくL字型をしていて、すべて二階建て。中庭を囲んで正方形になるように配置されている。二階には住居用の部屋がふたつ、それぞれ別々の階段で上がる構造である。隣室に用事があるときは(滅多にあることではないが)いったん階段を下りて中庭に出なければならない。
 中庭にはすがすがしいほどなにもない。放っておくと雑草がどんどん生えてくるので、時折むしるように言われている。
 だれが餌をやっているのやら、猫が二匹棲みついている。パッツィーとジョーディー。住人の名前すら交わされないというのに、なんだかなまいきだ。名を聞いてメスかと思いきや二匹とも立派な玉つきなのである。
 一階は倉庫になっている。ただし本来の目的で使われることはない。暖房設備も置いていないので、二階はいつも底冷えがきつい。
 だいたいは一部屋を二人でシェアする。例外としてキングの部屋は他人が使っているような形跡がない。ということは、どこかの部屋に三人暮らしていることになる。
 テッドの相方はガイ。はじめて来たときからずっと同室だ。他の住人と同様、めったに干渉してこないところが気に入っている。でなければ他人と同居などあり得ない。
 部屋は刑務所の雑居房にキッチンとシャワーをオマケでつけたような感じだ。殺風景なことこの上ない。いちばん大きな家具である二段ベッドは軍隊の放出品らしく、実用本位でしっかりとしている。これならば長身のガイでも足をはみ出さずにすむ。
 ガイはとても静かに眠る。いびきをかくこともないし、寝返りすら打たないのではないかと思う。だから眠っているのか起きているのか、下のベッドにちゃんと横たわっているのかも気配だけではわからない。
 水が飲みたくなって、テッドはそろそろとベッドから抜け出した。はしごがないので、鉄の枠をうまく足場にする。
 にゅっとのびてきた手にいきなり足首をつかまれ、テッドはヒッと詰まらせた悲鳴をあげた。
「な、なに?」
「おまえのせいで、すっかり目が覚めちまったよ。クソッ」
 そうも不機嫌な声を絞り出されると、さすがに申し訳ないような気分になった。
「ごめん、うるさかった」
「うなされるなんて、めずらしいこともあるもんだな。怖い夢でも見たか」
「うん、まあ」
「……アルド」
 テッドはぎくりとした。全身に緊張が奔る。
 どうやら余計なことを口走ったらしい。
「フッ。彼女か?」
「ちがうよ」
「すげえ必死なご様子だったけどな」
「ガイには関係ない」
「死んだのか」
「関係ないっていってるだろ!」
「おや、図星?」
 ガイは意味深にくっくと笑った。
 からかわれているようで、ひどくむかつく。
 ガイがこんなふうに絡んでくるなんて、いままでなかったことだ。おれに興味など持たないほうが身のためだと教えてやろうか。
 裸足でぺたぺたと部屋を横切り、蛇口をひねろうとして気が変わった。テッドは牛乳瓶を手に取った。コップになみなみと注いでがぶ飲みする。
「そうやって牛乳飲むのに背が伸びねえのな。へんなの」
 やけに突っかかる。弱味を握ったつもりだろうか。
「酒が欲しかったら、あるぜ。あんまり強くないけど、カナカン純正の。聞いてびっくり三万二千ポッチ。お小遣いじゃめったに買えないよ。旨いぞ」
「いらない。飲めないから」
「ウッソ。飲めるっしょ」
「未成年だし」
「ふーん。キングとサシで飲んでるって話だったがな。ありゃ、おれ、聞き間違ったかなーあ? なーんつって。なあ、意地はってないで、つらいことがあんならスパッと飲んで忘れちまったほうがぐっすり眠れるぜ、ぼく、ちゃん」
 ネチネチとうるさいやつだ。寝しなに起こされて虫の居所でも悪いのだろうか。愉しんでいるのだったら、はり倒す。
 それにしても、ガイ相手にこんなに長く会話を続けたのははじめてだ。いやな予感がする。
「なあ、ちょっと話さないか」
 ほら来た。きっとクイーンのことだ。その件に関してガイにはなにも打ち明けていないし、話す必要もない。
 テッドは無言でベッドに這い上がった。これ以上会話を長引かせる気はない。意思表示のかわりに、毛布を頭からひっかぶる。
 ガイがベッドの鉄枠をつかんで身を乗り出してくるのが揺れでわかった。
「おい、テッド。テッドさんてばあ、つれないお人ネ」
 どこのおネエだ。気色悪い。
「……」
「いきさつが知りたいんスよ。同居人としちゃあ」
「……うるさいな。寝るんだから静かにしてくれ」
「クイーンを殺ったんだろ? キングに言われて」
 声色を変えられても頑として寝たふりをする。なんてこった。こんな事態は想定していない。
 ガイは集団で馴れあわない一匹狼のはずだった。組織がどう変わろうが、彼にはどうでもいいことではなかったのか?
「テッド、おれはおまえがクイーンと入れ替わったわけを知りたいんだよ」
 黙っていても朝まで終わらせてくれそうにない。テッドは毛布にくるまれてため息をついた。
「知る必要はないって、キングに言われたんじゃないの?」
「ああ言われたよ。だからおもしろくねえんだ」
「拗ねてんのか。意外とガキっぽいのな、あんた」
「おまえの口がそれを言うか?」
 毛布をむりやり剥がされて、頬っぺたをまんじゅうのようにつかまれる。テッドは抗わなかった。
「おれはなにを言えばいいんだ?」
「ぜんぶだよ。黙って出て行った理由、戻ってきた理由、いないあいだにあったこと。おれが納得するまでとことん話してきかせろ」
「おまえはおれのお父さんか?」
「いいか、おれはいま猛烈に機嫌が悪いんだ。おまえごと部屋を大掃除したくてウズウズしてんだよ」
「部屋なんか掃除したことないくせに」
「もののたとえだよ!」
 エキサイトするガイにテッドは冷ややかな笑みを向けた。
「ガイ。おまえに関する認識をあらためなくちゃいけない」
「はあ? どういう意味だ」
「気楽な同居人撤回だ。お節介のクソ野郎」
「勘違いすんなよ。てめえの身を案じてるわけじゃねえ。起こっていることを聞きたいだけだ。それくらいもわからねえって言うのか」
「なにも起こっていない」
「ウソつきめ。じゃあ三週間もどこへ消えていた」
「……さんぽだ」
 鋭い衝撃が頬を奔った。ひっぱたかれたのだ。
「あんまり馬鹿にしていると痛い目を見るぜ」
 唇が切れて、うっすらと血の味がする。テッドは舌でぺろりと傷口を舐めた。
 ガイはベッドから離れて、デスクの椅子に座った。
「こっちへ来い。きちんと話そう」
 なにを話しても平行線なのに。苦々しく思ったが、このままでは寝かせてもらえそうにない。
「座れ」
 ガイの怒りがビシビシ伝わってくる。本当に、これほど簡単に熱くなる男だとは思わなかった。
 まあいい。知ってどうなるものでもない。
 テッドが従ったのを確認すると、ガイは重々しく訊いてきた。
「クイーンはなにをやらかした。クリマトリアムの不利益になるようなことか」
「逆。クイーンはクリマトリアムに利益をもたらそうとして、がんばりすぎた」
「……どういうことだ?」
「ガイ。『白』って知ってる?」
 ガイは不意打ちを食らって黙した。しばらくして聞き返す。
「おれたち『黒』に対しての『白』という意味か?」
「そう。白のプレイヤー。実在する組織だってことは?」
「……は、まさか。だれも信じちゃいない。真に受けるなよ」
「そう。ガイならひょっとしたら知ってるんじゃないかと思ってた。結論から言うけど、『白』は実在する。クリマトリアムの上部組織だよ。っていうか、『白』が『黒』を創ったんだ」
 ガイはまたもや面食らった。テッドは構わず続ける。
「『白』はクリマトリアムとは存在理由がまったく異なる。掃除屋ではないし、アンダーグラウンドで動いているわけでもない。どちらかというと漠然とした感じだ。だけど、でっかい。そして絶対的。『白』と『黒』は対等ではないし、もちろん争ってもいない」
「……?」
「クイーンは、もともと『白』に属していた。『黒』が活動をはじめたときからずっと関わってきたから、野心がわいたんだと思う。もともとクリマトリアムは非合法だけど、脱法行為が見逃されているのはどうしてだかわかる? 『白』の役に立ってるからなんだよ。それを盾に、クイーンは『白』に対してルールを逸脱した脅迫をはじめてしまった。キングの知らないところで、独断でやったのがまずかった。発覚したときにはクイーンも引っ込みがつかなくなってたみたいで、キングとも相当やりあったそうだ。まあ、『白』にいたときから独善的なところはあったようだけど」
 ガイは鼻を鳴らした。たしかに、クイーンはいけ好かない男だった。
「自分の掃除依頼が舞い込んだときはクイーンも慌てたと思うよ。まさか『白』が自分を切りすてるだなんて考えてもみなかっただろうから」
「ならば依頼人は『白』なんだな」
「そう。『白』の依頼なら断れない。だけどキングは逃げる時間を与えた。そして、おれみたいな下っ端を掃除に派遣した。ぜんぶキングの温情だよ。キングはクイーンとずいぶん長く組んでいたし」
「もしかして、クイーンはまだ生きてるのか?」
「……ガイ。おれは、掃除しろと命令されたんだ。けじめをつけないと『白』が納得しない」
「おまえがクイーンに敵う相手とは思えないが」
「だろうね。でも、いまはおれがクイーンの鍵を持ってる。それが証拠のようなもの。いけない?」
 ガイは深く息を吐いて煙草を手に取った。
 一本くわえて火をつけ、まだ暗い窓の外を見る。
「……『白』ってのはいったいなんなんだ?」
 もっともな疑問だった。だがテッドも、それに関する明確な答えを持たなかった。
「わからない。ただ、とてつもない権力を持ってる。たとえば、国を動かす人たちとか」
「国家、ねえ……そりゃあまたでっかいおハナシだ」
 紫煙がゆらゆらと揺れる。ガイは思案に暮れるように、そのまま黙り込んでしまった。
 この地、クールークはかつて、皇王の統治する皇国であった。だがクールーク皇国は長老派と呼ばれる一派が群島諸国を支配下に置こうと戦争を仕掛けて大敗し、その後、皇王派と長老派の権力争いで内乱が勃発した。やがてクールーク皇国は疲弊していき、解体へ向かうことになる。
 現在は一部が周辺国家の保護国となり、やがては大半が北の赤月帝国に吸収されると見られている。クールークは独立国家としては崩壊したも同然だ。
(――赤月帝国)
 テッドは椅子の上で膝をかかえ、そこに顎をのせた。
 そういえばキングの出身地も赤月帝国だ。
 赤月のような巨大国家が『白』に関係しているのか、テッドは確信していない。あるいはクールークの古い支配者層かもしれないし、国家とまるで関わりのない第三の組織なのかもしれない。すべては「かもしれない」だけで、憶測の域を出ない。
 しばらくして、テッドは思いだした。もうひとつ言わなければいけないことがある。
「ガイ」
「……ん?」
「あのな、悪いがおれはだれとも馴れあわない主義なんだ。構われるのはだいっきらいだ。今日みたいなおしゃべりも、できればもうやめてほしい。じゃなければ部屋を変えさせてもらう」
 ガイはくすっと笑った。
「どこの国の偏屈王子様だ」
「なんとでも言え、バーカ」
「バーカ? あらまあ、先輩に向かってバカ呼ばわり? 口の悪い子はお父さんが許しません。ああ、そう睨むなよ、頼むから。呪い殺されそうな気になる」
「呪い殺してほしいのか」
「はいはい、わかりました、わかりましたよ。誓って今後いっさい構いませんし話しかけません。うまい具合に人嫌いはお互い様だ。おれの秘蔵の酒は絶対にやらん」
 大丈夫だろうか、この男。深入りしすぎて、魂を盗られたりしないだろうか。
 テッドは右手を軽く握りしめ、ふたたび窓の外を見た。
 雪がちらついているようだった。

「それで、ガイのあんぽんたんとはうまくやってるのか」
「いまのところは。前といっしょです。平和です」 テッドはピーナッツをせわしなく咀嚼しながら答えた。
「なんやかんやうるさく問いつめられたんじゃないの」
「ええ、うるさかったんで封じ込めました」
 ヴィルヘルムはにっこりと満月のように笑った。人の善さそうな笑顔だ。無類の酒好きだが、昼間はさすがに自重しているのかグラスは傾けていない。
「掃除のほうはどうだ」
「最近はめっきり暇ですね」
 クリマトリアムの事業は掃除請負である。広義に解釈すれば何でも屋だ。字面通りの掃除からはじまって、廃棄物処理、事件事故現場のクリーニング、公にしたくない書類の改ざん、証拠隠滅、暗殺と遺体処理に至るまで、クライアントの要求に従い清掃に応じる。
 テッドをスカウトしたのはヴィルヘルムだ。旧市街のスラムで悪事を働いていたヤクザ者たちをクリマトリアムが一斉清掃したとき、アジトから救出された少年だった。彼はひと月も陽の当たらない地下室に拘束され、日常的にリンチを加えられていた。
 その原因をヴィルヘルムは被害者本人の口から直接聞くことで納得した。
「やつらの仲間に絡まれた。殺らなければ殺られるところだった。正当防衛だ。あんたに助けられなくても、そのうち勝手に逃げるつもりだった」
 テッドはまるで他人事のようにさらりと言ってのけたのである。
 だが、いい度胸をしているだけでは物足りない。ヴィルヘルムが目をつけたのは、テッドの持つ類い希な特質についてである。
 ヴィルヘルムは一昨年、ファレナ女王国の王都、ソルファレナを訪れていた。ファレナ女王国と群島諸国連合が平和と友好に関する一般協定を結び、両国間の交流が盛んになったことに乗じてである。真の目的は、ファレナ女王国が奉じているという太陽の紋章、黎明の紋章、黄昏の紋章について調査するためであった。
 ファレナ女王国は赤月帝国と肩を並べる大国である。ソルファレナの繁栄は真の紋章の上に成り立つというまことしやかな噂を聞く。
 太陽宮にあるらしい封印の間には近づくことすらできなかったが、東と西の離宮は一般見学客も受け入れていた。さらには紋章師を訪ねて話を聞き、国立議会図書館で紋章学の文献を読みあさった。
 だから27の真の紋章に関しても、他人よりは幾ばくかの知識があると自負していた。
 しかしながら、意外な状況で真の紋章のひとつと邂逅したヴィルヘルムは、あまりにも突然に己の持つ知識を疑うはめになった。無理もない。それを身に宿した少年は薄汚れていてみすぼらしく、全身に殴打の痕があり、残飯を犬のように食べていたからだ。
 テッドは口調こそぶっきらぼうだったが、ヴィルヘルムの詰問に素直に応じた。そしてみずから右手を差しだして見せたのだ。
「ソウルイーター。『生と死を司る紋章』だ」
 この事実はヴィルヘルムしか知らない。テッドもまた、ピースにはなにも語ろうとしない。
 テッドは環境への順応性が高いらしく、クリマトリアムという租界に属しても飄々と暮らしている。
 それにしてもピーナッツがよっぽど好きらしい。リスのように頬張るしぐさはまだまだ子どもだ。ヴィルヘルムから見たら孫みたいなものだ。
「冬場はなあ、おまんまの食いあげよ。経理も胃が痛むのよ」
「水、使わなくていいから助かりますけどね」
 ヴィルヘルムはデスクに頬杖をついてテッドが餌を食むのをじっとながめていたが、やがてぼそりと言った。
「おまえみたいな駒がずっといてくれりゃいいんだがな」
 ところがテッドの返事は素っ気ない。
「無理。せいぜいもってあと一年ってとこです。これでも譲歩はしてるんですよ」
「そんなにちょこまか動いてたのか?」
「まあ、昔はとくに。点々とするってうか、ずっと旅をしてる感じでした」
 そうなのだ。とある時点まではとにかく逃げることに必死だった。変化したのは群島諸国にいたころだ。すべてに絶望し、自分が生きているのか死んでいるのかの区別さえつかなくなっていた、あの暗い迷宮で。
 霧の船に拾われ、そこに囚われた。命令されるがままに紋章も手放した。だがそれはテッド自身の願望だった。重すぎる紋章から解放され、ようやく楽に息ができると思ったのだ。
 それが新たな地獄のはじまりとも知らず。
 数年の後、テッドはふたたび自身の意思で紋章を取り戻し、彼を庇護する霧の船を棄てた。そして、真の紋章「罰」を宿す少年とともに群島諸国統一のために戦ったのである。
 そのさなかで、テッドは気づいてしまった。
 自分は最初から監視されている。その可能性になぜ思い至らなかったのだろう、影のようにつきまとう複数の視線。霧の船の船長は異世界から来たと言っていた。この世界には『門』があり、八百万の世界と繋がっているとも。異世界へ紋章を持ち去ろうと狙う者たち、それから門の番人。なによりも27の真の紋章が自分の行動をじっと見ている。
 すべてが敵とは限らないが、少なくとも敵はあの魔女だけではない。うまく隠れているつもりでいても、いまこの時でさえ何者かがテッドを見ている。
 逃げるのは労力の無駄遣いだ。奈落の底から抜け出したら、自分はもっとじょうずに生きられるような気がした。大切なのは逃げることではなく、紋章を守り戦うことだ。これまでの自分は魔女の手から逃れるべしという責任感に酩酊して、紋章と向き合おうとはしてこなかったかもしれない。
 墜ちてゆく崖は険しく、だけど這いあがるのはなんと簡単なことだったのだろう。
 怖い紋章だと思っていた。信じていなかったのだ。
 テッドは紋章の優しさを認めた。「彼」は無闇やたらと人の魂を盗って喰らうわけではない。テッドがそれを願ったとき、あるいは本当の意味で心を交わせるだれかが現れたとき、ソウルイーターは眠りから目覚め、魂を喰らう。テッドの心が闇に囚われれば、宿主を鼓舞するように戦乱を起こす。
 もう、逃げない。
 心を閉ざしてさえいればよい。そうすることでテッドは集団の中でも生きられる。誰も死なせたりはしない。深い闇に囚われることもない。祖父もまたそうやって生きてきた。ソウルイーターを宿しながら、テッドを十の歳まで育ててくれたおじいちゃん。
 もう紋章を恐れたりはしない。こんなにも力強い相棒である。心を引き裂かれるような哀しみは――あれで最後。あやまちは二度と繰り返さない。
 潮騒のさざめきが聞こえたような気がした。
「旅も悪くないですけどね。いろんなところを見て歩くのは、楽しいです」
「ああ、おれも旅は好きだ。ところで、長くてどれくらいだ? 一箇所に居着いたのは」
「五年……六年だったかな?」
「じゃあ、クリマトリアムにも同じだけ貢献してくれよ」
「あそこは特別ですよ。クリマトリアムの千倍はやばいとこだったし。それに、居たいって思ったわけじゃない。出るに出られなかったんです。おれは根無し草のほうが性にあってます」
 ヴィルヘルムは嘆息して、「有能な駒はすぐ辞めてしまう」とブツブツ言った。
 ノックの音がして、男が入ってきた。ナイトのダンカンだ。
「キング。酒場が火事になって、掃除を頼まれたんですが大仕事になりそうなので、いま残ってるのから何人か連れてっていいですかね」
「あ、おれも行く」とテッドは立ち上がった。

「臭ぇ」とガイは鼻をひくつかせた。「おい、なんかきな臭いぞ」
 帰ったそばからふて腐れた声で迎えられて、テッドはがしがしと頭を掻いた。臭いのはしかたがない。火事現場の後かたづけをしてきたのだ。人も二、三人焼け死んだようだから、蛋白臭も混じっているだろう。
 テッドは上着とシャツを大胆に脱ぎすてて上半身裸になると、シャワー室に向かった。背中にガイの視線がちくちく刺さる。
 構うなと釘をさしたのに、もう忘れてしまったらしい。どれだけ鳥頭なのか。
 熱いシャワーを頭から浴びるとようやく人心地ついた。今日はさすがに疲れた。腹は減っているが、食事を用意するのも食うのもめんどうだ。もうこのまま寝てしまおう。
 コンコンとガラス戸が叩かれた。返事をしていないのにガラッと開けられる。
「見るな、えっち」
「あのなあ」と、ガイ。「ただいまくらい言えよ」
「金輪際会話はしません。以上」
「可ッ愛ィくねえの。あ、ひょっとしてツンデレ?」
「だれがツンデレだよ!」
 かっとしてテッドはみるみる真っ赤になった。すぐむきになる自分もよくない。バカに油をそそいでどうする。
「それ」
 ガイはふいに、なにかを指さした。剥き出しになったテッドの右手だ。
「紋章?」
「見りゃわかるでしょ」
「ふうん。めずらしいね、紋章ってさ」
「……」
「なんの紋章?」
 テッドは無言でガラス戸を閉めた。ガイの指が勢いよく挟まれる。
「痛ってえ!」
 しまった。油どころか可燃性ガスをそそいでしまったようだ。
「なっ……にすんだこの、クソガキ!」
 胸ぐら――はこの場合つかめないので、腕を引っぱられてシャワー室から引きずり出された。
「拭いてない、まだ拭いてないから!」
「やかましい! あああ、血が。折れてたらどうすんだよ、指!」
 折れてたら乱暴できるものか。そう反論する間もなくドカッと靴底で向こう脛を蹴られた。こっちのほうが折れそうだ。暴力反対。
「……ッ」
「おまえなあ、ツンツンケンケンもほどほどにしろよ? こっちもいい加減キレそうになるのよ。干渉しないって取り決めと礼儀は別モンじゃねえの? そりゃいまはおまえのほうが格は上だろうぜ、なんたって女王様だもんな。けどおれのほうが先輩だ。ただいまいただきますごちそうさまおやすみなさいおはようございますいってきます! こんだけでも言えっつーんだよ、ボケ!」
 また蹴飛ばされる。
 青痣になりそうだ。平和主義の俺様になんてことを。
「た、だ、い、ま、帰り! まし、た!」
 負けじと力んでやった。精いっぱい突っ張って睨みつける。
「ああ、どうも! 今日はずいぶんときな臭いお帰りで」
「酒場が火事で全焼したんで掃除をしてきました!」
「おやそれはご苦労様でした!」
 意地の張り合いというか、ほとんど子どもの喧嘩である。
 しかも、間というものはどうしてこんなにも悪いのか。
「あのー、お取り込み中、おじゃまします」
 ヴィルヘルムがなんとも微妙な顔でうしろに立っている。
「げっ、キング!」
 テッドは両手でぱっと前を隠して、脱兎のごとくシャワー室へ逃げ込んだ。
「いいかね、ガイ?」
「あは、あはは……」
「はい、これ、来週予定してる掃除のシフト表ね。まとめるのが遅くなって、すまなかった」
「いえっ、あの、こちらこそとんでもないところをお見せしまして……すいません」
「ガイ、きみね……」 ヴィルヘルムは前後左右をぐるりと見て、急に声をひそめた。「まさか、そういう趣味じゃないよね?」
「そういう……とは」
「ほら、ゲイ……とか?」
 煉瓦色の毛がぶわっと逆立った。
「ま、ままま、まさか、天に誓ってそんなばかげた! っていうか、おれ? なんでおれが」
「そうか。そうだよね……。はあ、たのむよ。奇人変人はアーティストだけでこりごりだからね」
 そうか、何も言わないと思ったら、やはりキングも例の芸術家には匙を投げていたのか。組織のトップともなれば気苦労も絶えないことだろう。お疲れさまです。肝臓をお大事に。
 ガイはぼんやりと考えながら彼の上司を見送った。

 同居人とは冷戦状態のまま、一週間が過ぎた。
 クレイジーな芸術家はいつのまにやら姿を消した。噂によると「カンバスがなくなったから」という一身上の都合らしい。暇を見つけて壁を塗り直さなくてはなるまい。
 テッドはひとりで朝食を摂っていた。簡単なサラダと目玉焼きとパン。ガイはいつも一緒に食べるのに、今朝は目が覚めたらいなくなっていた。山猫のように静かな男だ。あれで口も物静かだったらどんなによかっただろう。
 本日も掃除の予定はなし。こんな寒い日は外に出るのも億劫だから、ゴロゴロできてありがたい。ガイが戻ってこなければ最高なのに。
 期待はほどなく裏切られる。
 相方のお帰りだ。
「先にいただいています」
 棒読みでお迎えする。型どおりなのはわかっているが、何か言わないと機嫌を損ねる。
 ところがガイの様子がどことなく変だった。気難しい顔をしている。
「テッド」
「なに」
「猫が、殺された」
 ――猫?
「……どっち」
「どっちも」
 テッドは椅子から立ち上がって、窓の外を確認しようとした。すかさずガイが引き止める。
「見るな。見ないほうがいい。それよりも……」
 ガイは急に落ち着きを失った。その先を言おうか言うまいか、思いあぐねているようにも見える。
 やがて気が進まないように手を腰のうしろに回して、シャツとズボンのあいだからなにかを取り出した。
「これを」
 机にひろげられたのは、あまり大きくない紙切れだった。
 だが、そこにあったものに、テッドは少なからぬ衝撃を覚えた。
 血。
 血で書かれた、文字だ。
『Q』
 たった一文字。その上からさらに血で大きな×印。
「殺された猫のそばに落ちていた」
「……クイーン」
 クリマトリアムにおいてQが示すのはクイーンである。
 それがバツで消されている。
「殺害予告だ」とガイ。「おまえの」
「なんで」
「知るか」
「だれが」
「知らねえよ」
 おうむ返しの会話を打ち切って、テッドは腕を組んだ。思いの外落ち着いた表情だ。あきらかに苛立っているのはガイのほうである。
「いまキングとも話をしてきた。猫はポーンに掃除させる。おまえは今日からこの部屋に監禁させてもらう」
「やだよ」 テッドはむっとして言った。
「もう一度説明してほしいか?」
「説明はいらない。こんな曖昧なやりかたは好かない。閉じこもるのもごめんだね。構われるくらいならここを出て行く」
 ガイはうろたえた。
「わかってんのか? おまえ」
「わかってますよ」
「どこまでバカなんだ、おまえは」
「バカにバカって言われたくない」
「また殴られたいか」
 だが、ガイは手をあげなかった。ふーっと息を吐いて、椅子にどかりと座る。
 そんなに苦りきった顔をしなくてもいいのに、とテッドは思った。
 腕組み同士で向き合うと、部屋に鉛の重しが落ちたような気分になる。
 無言の対峙に耐えきれなくなって、先に降参したのはガイだった。
「……こんなところで拗れていてもしょうがない。正直、おまえの身になにがあろうと、こっちにゃ関係ねえ話なんだがな。ま、ちいと寝覚めは、悪ぃわな。それよか、喧嘩は外でやってくれって気分だぜ。よりによってクリマトリアムの中でよ、くだらんゴタゴタを指くわえて見てるってのは我慢なんねえ。そのへんはキングも同じ考えだし」
「ああ、猫ね……」
 テッドははたと理解した。そうか、猫はクリマトリアムの中庭で飼われていた二匹だ。それが何を意味するか。
 パッツィーとジョーディーは敷地内で惨殺された。外部の人々はクリマトリアムを恐れて近寄らない。金網には常時、鍵がかけられている。よじのぼって侵入することも可能だが、まずはもっとも考えられる線から疑うのが推理の鉄則である。
「内部犯行の可能性がある。ビンゴだったらとんだ恥さらしだ」
「だから出て行ってやるって言ってんのに。なんか矛盾してる」
 テッドは悪態をついて、目玉焼きを口に放り込んだ。
「よくメシなんて食ってられるな」
「残したらもったいないじゃん」
 ガイはさらに深くため息をついた。ただでさえ狭い部屋の酸素が減りそうだ。こんな悲観論者だなんて思わなかった。
「ガイ」 テッドはもぐもぐしながら言った。「悩みすぎるとハゲるぞ。若禿げはみっともないぞ」
「だれが悩みの種だと思ってやがる!」
「おれのせいじゃないし。で、クリマトリアムの沽券にかかわるってとこまでは説明されたことにしよう。おれも、世話になってるのに迷惑はかけたくない。追い出しゃぁいいのにそれもしてくれそうにない。しかたない、あんたらに協力する。要するに犯人を挙げりゃいいんだろう。なあガイ、難しく考えるなよ。ただの脅しかもしれないじゃんか。あんな紙切れ一枚にビクビクしてどうするよ。それこそクイーンのメンツの問題だ」
「猫たちの死に様を見せておけばよかったよ。脅しじゃないってわかったのに」
「待つのは趣味じゃない。こっちから探し出してごめんなさいを言わせてやる」
「……クレイジーなやつだ、おまえも」

 ガイを完全に黙らせたあと、涼しい顔で遊び支度を終えたテッドは意気揚々と部屋を飛び出した。そこまではよかったが、こうなることを予測していたヴィルヘルムが階段下で待ちかまえていた。テッドは猫のように首根っこを掴まれて、拳骨でしたたかに殴られた。
 どうしてクリマトリアムの上役はすぐ暴力に訴えるのだろうか。文化人のストラテジーはまず言葉で仕掛けるものだ。
 ガイもテッドも、しばらく冷却したほうがよかろうとヴィルヘルムは言い、テッドはそのままキングの部屋へ連行された。普段は柔和で害のない、商店街のおじさんみたいな風采の上がらない男なのに、ここぞというときは野蛮人になる。しかも恐ろしく強い。キングの称号はけして伊達ではない。
 切れた頬っぺたに赤チンをちょんと塗られ、テッドは憮然としてソファに寝ころんだ。キングのソファは二段ベッドよりもずっとゴージャスで、身体が沈んで気持ちいい。これがひなたぼっこなら確実に眠ってしまう。
 午前中だというのに、ヴィルヘルムは高級そうなグラスを氷と琥珀色の酒で満たし、テーブルにコツンと置いた。いけない誘い水だ。
「まあ、ふて腐れてないで、クッと飲め」
 テッドは片眼だけで二、三回まばたきしてから、さも重そうに身体を起こした。酒を飲むというのはすてきな提案だ。腐った気分にはリフレッシュドリンクを。比類のない解決法である。
 いただきますも言わず、舐める程度に口をつける。途端、喉がカッと熱くなった。
「辛っ、ぺっ」
「わはは、そいつは強いぞ。気付け薬にもなるくらいだ。そう高くないし世界中どこでだって手に入る。旅をするとき一本持っていればなにかと便利なんだ。覚えておくといいさ」
 ヴィルヘルムはひとまわり小さいグラスを自分のために用意して、ストレートで一気にあおった。渋い男の飲み方だ。カッコイイ。
 テッドの身体は幾つになってもアルコールを受けつけない。味や酔ったときの高揚感はそう嫌いなわけでもないのに、量は一杯か二杯が限界だ。ボーダーラインを超えると意識はプツンと飛んでしまい、自分が自分でなくなる。過去の目撃者たちによると急に口数が増し、他人にしつこく絡むらしい。後で笑われて情けない思いをするのは癪だし、記憶がないというのも怖いので、人前ではあまり羽目を外さないように気をつけている。
 ヴィルヘルムのような酒に溺れない酒豪は永遠の憧れだ。
「ピーナッツ食うか」
「食う食う」
 何の因果か、朝っぱらから宴会モードに突入する二人だ。
 キングの前では何度も撃沈しているので、いまさら見栄を張ることもない。
「ガイとも話したんだが」 ヴィルヘルムは酒を足しながら、言葉を選ぶような感じでおっとりと話しはじめた。「どう考えても、おまえに恨みのある人間に心当たりがない。クリマトリアムのピースは、おれがこの眼で選んだ確かなやつばかりだ。おれだってたまには間違うこともあるかもしれないが、これだけははっきり言っておく。ピースはこんな回りくどいやりかたはしない。人は殺ったとしても無抵抗の猫をあんな残酷なやりかたで殺したりしない」
 テッドにも理解できる。それはキングの自尊心というやつだ。
 前のクイーンと対立し、結果として排除せざるを得なくなったことを、キングはいまでも深く悔やんでいる。できれば生きて袂を分かち合いたかったにちがいない。同じ過ちを繰り返したくない気持ちは、痛いほどわかる。
 酒が辛いのか苦いのか、それともすでに酔いが回っているのか。テッドはソファの背に深くもたれた。頭が鈍く痛む。いや、痛むのは心だ。
「テッド、むしろおまえのほうに心当たりがあるんじゃないか?」
 テッドは弾かれたようにピョコンと背を正した。
「いえ、べつに」
「……そうか。すまなかった。訊いてみただけだ」
「恨みなら、買ってるかもしれない。けど、おれがここにいることはだれも知らないはずだから」
「うん。やはり考えられるとしたら、クイーンの仇討ちの線、だな」
「え?」
「なあテッド。おまえ、親友はいるか」
「……」
「おれはクイーンを、ずっと親友だと思っていたんだ。抜け目のないところ、狡いほど要領がいいところ、悪知恵の働くところ……ぜんぶ解ってたつもりだった。おれの相棒として、やつほど相応しい男はいない。おれたちの絆は強かった。けどよ……」
 ヴィルヘルムは口元を卑屈に歪めた。
「ざまぁねえよな。おれがひとりでいい気になってただけで、やつはおれなんか信じちゃいなかった。やつに言われて目が覚めたよ。『おまえはおめでたい男だ。意外に使えない駒だったな』……ハッ、そういうことさ」
 自虐的に嗤われると返す言葉もない。
「そういや、クイーンはあちこちに顔の利く男だったなあ。クリマトリアムの交渉人と呼ばれるだけの値うちはあった。だったらよ、おれの知らない、あいつの相棒がいたとしてもおかしくはないってことよ。クリマトリアムの情報なんかずっと前からあっちに筒抜けで、おそらく合い鍵だって渡していた……気持ちも、通じあっていた」
「でも」
「おれがクイーンの相棒だとしたら、きっとおまえをつけ狙う。地の果てまでも追っかけて、罪を償わせる」
 ヴィルヘルムは断言した。テッドを狼狽させるほど、深刻な表情で。
 テーブルにグラスが置かれた。ヴィルヘルムは深く頭を垂れた。
「すまない。おれの責任だ」
「ちょっと待って。まだそうと決まったわけじゃないでしょ」
「決まる決まらんの問題ではない。おまえもへらへらしてないで、もっと危機感を持つんだ。冗談じゃすまされねえんだぞ。いいか、万が一のこともある、ガイ以外にはぜったいに気を許すな。武器は、おまえは弓を使うんだったな。いつも携帯していろ。便所にもだ。そのややっこしい紋章も、ピンチになったら四の五のぬかさねえでぶっ放せ。ガイを巻き込むんじゃないかとかいらんことを考えるな。クリマトリアムにいる限り、ぜったいに手出しはさせねえ。おまえは、おれが守る。なめんなよちくしょうめ」
「あのな、おっさん」
 とりつく島もない。こいつは単なる酔っぱらいだ。天下の酒豪ヴィルヘルムも乱れるときは乱れるのだ。うっかりおっさん呼ばわりしてしまったが、いまだったら気づかれないだろう。たぶん。
 ところがヴィルヘルムの大弁舌はこれからが本番だった。
「わはは、おっさんか。最高だ、ブラヴォー、テディ! さては俺様をうだつが上がらない穴蔵の窓際経理だとでも思ってやがったな? このこのこの! フハハ、たしかに見てくれはちーと悪ぃが、赤月じゃ豪腕で鳴らしたもんよ。耳垢かっぽじってよく聞きな、赤月帝国大将軍、星火燎原のヴィルヘルムたぁ、おれのことだ!」
 セイカ――なんだって? ちかごろ歳のせいか理解力にキレがないんだ。

「マグロが食いたいなあ……」
 ぼそりとつぶやいたのをガイは聞き逃さなかった。
「マグロ?」
「うん、マグロ」
 テッドは結局、自室に軟禁と相成った。ガイが見張りについているので、一歩も外に出られない。せっかく気晴らしに街をさんぽしようと思ったのに。藪蛇だ。
「マグロなんて、おれはお目にかかったこともねえよ」
「あーあ、船ンときは、よかったな……くそ、食いたい。なんか今モーレツに食いたい」
 テッドは両の拳をぎりりと握りしめてぷるぷると震えた。
「船って、海の船か?」
「決まりきったことを聞くな、間抜け。どこのマグロが川で泳ぐっつーの。群島、群島。ほら、戦争してたじゃん? あんときおれも軍隊にいたの。ちなみに連合側な。無敵艦隊だったんだぜ」
 ガイはぶっと吹きだした。
「何十年前の話だよ。まだ寝言いってんのか、ばーか。法螺ばっか吹いてると、口が腐ってもげるぞ」
 そう、この男にとって群島諸国統一戦争は生まれる前の歴史なのだ。テッドにとってはまるで昨日のことのような、リアルな現実である。
 ガイはテッドの話を冗談だと受け取ったらしく、それ以上相手にしてくれなかった。構うなと言ったときは絡んでくるくせに、盛りあがらないやつ。
 見張りもさぞ退屈だろう。さっきからキッチンに立ってはピクルスをつまみ、本をぱらぱらとめくっては放り投げ、意味もなくうろうろし――。
 ガイの緩慢な動きを、テッドはぼんやり目で追った。することがないならばその暇を部屋掃除に費やせないものか、このゴミ溜め男は。時間は有効に使うものだ。看板倒れの掃除屋。
 ――と脳内で教育的指導をしたところで、その顔が引きつった。
「それに触るな」
「えっ……弓?」
「触るな!」
 態度を豹変させたテッドに、ガイは驚いて苦笑いを返した。
「なんだよ、やぶからぼうに」
「ごめん……でも、その弓だけはダメだ。触るな」
 ガイはベッドの下に半分だけ覗いている鉄の弓と、尋常でない様相のテッドを交互に見比べた。
「べつに、おまえがダメだって言うんなら、触らねえよ」
 テッドは右手で自分の胸元を鷲掴んで、浅く息を吐いた。乱れがおさまらない。
 なんて忌ま忌ましい。こんな些細なことで逆上してどうする。酒が入って少し神経過敏になっているせいだ。
(――大丈夫、ガイはなにもしない)
 テッドは自分に言い聞かせた。
 つかえが下りると、テッドはあらためて謝罪した。
「大っきな声出して悪かった。その……友達、の、形見なんだ」
 友達。
 それを口にするのはまだ少し憚られた。
 嘘である。友達とか、そういう関係ではなかった。
 友達になりたいと彼は言った。はじめて会ったときから、何度も、何度も、しつこいくらいに。テッドは、最後まで拒み続けた。彼の魂を紋章に盗られることを危惧してのことだ。拒んでさえいれば平気だと思って、油断した。
 結末が決まっていたのなら、いっそのこと、認めておけばよかったのに――。
 後悔しても遅い。もう彼とは、一生、友達になれない。差しだされる手は二度と握り返せない。
 テッドが友達になりたいと願っても、もう、いないのだ。
 じわりと目が熱くなって、テッドは慌てて誤魔化そうとした。その拍子に、見えない石につまづいてずっこけた。
「わっ!」
 デスクの角に、ごつんと後頭部をぶつける。
 星が舞い散った。
「おい、なにやってんだよ、バカかてめえ」
「痛ってぇー! バカバカゆうなコンチクショー!」
 今のは絶対にコブができる。見ていろ、明日になったらもっこり盛り上がってくるから。
 なんという散々な日なのだろう。まだ陽も落ちていないのに、すでに厄日だ。
「ははは、変なやつ」
 ガイは腹を抱えて笑った。
「けど、なんだかホッとしたな」
 涙を拭きながら言う。
「その口から、友達なんて言葉が出るなんてよ。おまえにも人並みに感情ってもんがあるんだな。あはは」
 さっと血の気が引いた。
 いけない。
 自分の身を案じている場合ではなかった。事はもっと重大だ。一刻も早くクリマトリアムを離れなければ。
 キングが、ガイが、危ない。
 なにを悠長に構えていたのだろう。テッドは己を詰った。このままでは自分が殺される前に、ソウルイーターが二人を喰い殺してしまう。

 いまだ。仕事熱心な見張りも、トイレだけは我慢できまい。
 本当は階段のつきあたりにある小窓から建物の外に出たかったが、部屋のドアは内側からこれ見よがしに南京錠が取りつけられている。そこまでしなくてもと思うけれど、実際ご期待どおりに脱走を図ろうとしているのだから、ガイの読みは正しい。
 手際よく弓と荷物を背中にくくりつける。よし。
 音をたてないようにそろそろと窓を開けて、桟ににまたがる。泥棒になった気分だ。中庭を確認してみるが、人のいる様子はない。日中なのでみんな掃除や買い出しに出払っているらしい。チャンス。
 あとは百花繚乱のヴィルヘルムに見つからないことを祈るのみ。
 外壁には鉄パイプがくくりつけられてあるが、足場にするには残念ながらわずかに遠い。勇気を出して窓枠にぶら下がってみる。いけそうだ。しくじっても、まさか骨折することはあるまい。痣やタンコブくらいなら許容範囲内。
 息をととのえて、まさに飛び下りようとしたその時。
 テッドはハッとして、行動を思いとどまった。
 誰かいる。
 忍び歩くようにして、こっちへ近づいてくる。男のようだ。おそらくクリマトリアムの者ではない。
 まずい。見つかる。
 テッドはぶら下がったままの状態で必死に祈った。
 気づくな、たのむ、気づかないでくれ。
 男はあたりをうかがっていたが、足早に階段を上っていった。この部屋に続く階段だ。
(たすかった?)
 ほっとして、テッドはあることに気づいた。
 目に映るあざやかな原色の作品。気ちがいアーティストの置きみやげ。
(保護色……)
 苔色の衣装は背景に違和感なく馴染んでいた。
 微妙な感じだ。よもや例のエロ壁画が、こんな窮地で役に立つとは。
 その時。
 部屋の中から、ドン、ドンという激しい音がした。ガイの怒鳴る声。ケツは拭いたのだろうか。
 二人はなにか大声で言いあっていた。続くガーンという強烈な衝撃が、侵入者がドアを蹴破った音だとわかる。
 しかし、テッドはそれどころではなかった。
 手が痺れてきた。ふたたび窮地だ。このままでは重力に負ける!
 体勢は最悪。なんとか着地しないと。
 ――なんか、昔もあったよな、こんなこと。
 既視感を確かめる余裕もなく、無情にも手がずるりと滑る。
「わっ、うわー!」
 ゴン。
 昼間なのに流星群がきれいだ。
 意識が遠ざかっていく。

「……っ」
 浮いてはまた沈みかける頭を宥めながら、テッドはようやく目をこじあけた。
 腰骨のあたりがずきずき痛い。わずかに吐き気もする。どうやら背中から落ちたようだ。みごとに着地失敗。
 おかしいな。土の上じゃない。
 感覚が、シュッと鋭敏になった。
「ガイっ!」
 目の前の床板に、シャツを鼻血で汚したガイがへたりこんでいた。
 見慣れた風景。二段ベッド。室内だ。
 ガイの手足が紐で括られている。
 クリマトリアム切っての格闘技王をぶちのめすなんて、どんなくせ者だ?
「うっ、くそっ」
 テッドは自分も後ろ手に縛られているのを自覚した。もがいてもよじっても、がっしりと食いこんでいてはずれない。
「やっとお目覚めですか、クイーン」
 だしぬけに鷹揚な声が降ってきた。振り向くと、男が椅子に足を組んで座っていた。さっき中庭で見た男にちがいない。
 銀鼠の短髪、薄くのばした髭、神経質そうに吊りあがった一重の目。均整のとれた体つき。耳にはピアス。開襟シャツの上にあまり趣味のよくないブラックジャケットを羽織っている。下は軍隊的なチノパンにコンバットブーツ。一目で戦闘に長けていることがわかる。傭兵だろうか。歳はおそらくガイよりも若い。
 手でダガーナイフをもてあそんでいる。ほかに武器のようなものは見えない。紋章は――革手袋で隠されているので不明。
「だれだ」
「はじめまして。わたしの名はハンニバル。しがないゴロツキです。このたびは名だたるクリマトリアムのクイーンとルークにお目にかかれて光栄至極」
「ふざけるな。どうやって侵入した」
「ちゃんとほら、鍵を開けて」
 男が指で鍵をつまんで見せた。
 やはり合い鍵があった。ピースの持つ鍵を写したものだろう。
「キングにもご挨拶したかったんですが、残念ながらお留守でしたので」
 ガイがもぞっと顔をあげた。血と痣でぐじゃぐじゃで、いい男が台無しだ。
「そんなはずはない。外出するなんて聞いてないぞ」
「さきほどお急ぎのご様子で出かけられましたがね」 ハンニバルは薄く笑いながら言った。「ビショップのお二人が不慮の事故で亡くなられたそうですから」
「なんだって!」
「伝えにいらしたのはポーンですが、あなたたちは彼からお話をうかがっていない?」
 嘲笑うような口調だった。
「キングはよほど慌てられたとみえる。このお部屋に立ち寄る余裕もなかったとは」
「ポーンはどうした!」とガイ。
「彼でしたら、まだキングのお部屋に」
 スッと目が細められた。
「……息はしてないようでしたが」
「殺したのかよ!」とテッドは叫んだ。
 ハンニバルはククッと笑った。
「殺しますよ、必要とあらば何人でも。でも、わたしの殺したい人はひとりです」
 大仰な動作で、テッドを指さす。
「クリマトリアムの、クイーン。あなた」
「……っ!」
「余興は愉しんでいただけましたか?」
 なんということだ。ヴィルヘルムの予想どおりではないか。この男が二匹の猫を惨殺し、あのメッセージを残したのだ。動機はテッドへの私怨。目的はテッドを、殺すこと。
 やはりクイーンの仲間なのか?
「せっかくですからもう少し愉しみましょうか」
 ハンニバルは椅子から立ちあがった。靴底を鳴らして近づいてくる。
 二人の横で片膝をつく。
「クイーン? こちらをお向き下さい」
 テッドは敵愾心をあらわにして、ハンニバルを睨みつけた。
 ハンニバルも射るような目つきでテッドを品定めした。
「……伺ってはいましたが、実際に見るとほんとうにお若い。その歳で『黒』のピースとはたいしたものです。ところで、さっきはいったいどうされたのです? お姿が見えないと思ったら、お庭でのびてらっしゃるなんて。フッ、ハハハ」
「このバカは、逃亡を図ってそこの窓から落っこちやがったんだよ」
 あっけらかんと言ったのはガイだ。テッドを落ち着かせようとしてのことだろう。
「おやおや、腕白な坊っちゃんだ」
「ああ。それでおれも手を焼いてるんだ」
「子ども扱いするな」とテッド。「こう見えても、おれは、百……」
「存じています。あの”クイーン”をじょうずにお掃除した、遣り手の掃除屋さんでしょう?」
 ダガーナイフが閃いた。
 シュッと額のあたりをかすめていく。
 明るい色をした髪の毛がパラパラと床に散らばった。
「どうやってお掃除したのか、ぜひ聞かせてもらいたいですね」
 額がちくちくする。薄皮一枚切られたかもしれない。
「そいつに手を出すな」ガイが牽制した。
「ルーク、おとなしく見ていれば、あなたは生かしておいてさしあげましょう。クイーンの死に様をキングに語る人も必要です。わたしはあの方も後悔させてあげたくてしかたがないのです」
「だからガキを縛りあげてなぶり殺しにするってか? そういうのを猟奇殺人って言うんだよ。地獄に堕ちるぜ。後悔するのはてめえだ」
 ハンニバルはさも滑稽だと言わんばかりに引きつり笑った。
「あははは、なんと奇遇なこと。わたしはね、クイーンの遺体をこの目で見たのですよ。そのときに思いました。これは猟奇殺人だ、ってね。こんな酷い真似のできる犯人こそ地獄に堕ちるべきだ、とも思いました。いえ、だれが見てもそう思ったでしょうよ」
 ガイは平手打ちを食らったように、言葉を失った。
 テッドも沈黙する。
「わたしはただ、友の無念を晴らしたいだけです。さあ……クイーンと同じ目に遭わせてあげますから、どうやって手を下したのか、順を追って説明してください」
 テッドはフンと鼻を鳴らした。
「お望みだったらあんたの身体で証言してやってもいいけど?」
 ハンニバルの口元がぴくりと歪んだ。
「テッド! 挑発するな、こいつはまともじゃない」
 だが、遅い。
 ナイフがテッドの肩口をざっくりと切り裂いた。
 熱い痛みに顔をしかめながらも、テッドは苦痛の声をあげなかった。
「今度のクイーンは、ずいぶん強情な方のようだ。これだから子どもは嫌いです」
 ハンニバルはわざとらしくため息をついた。ナイフからぽたぽた滴る血を指ですくい取り、困ったように首を傾げる。
「目には目を、のつもりだったんですが、お話する気がないのでしたら無理強いはしません。わたしなりのやりかたで、あなたに思い知らせてあげるだけです。あんがい、そのほうが復讐としては完成されているのかもしれませんね。では、お覚悟を。せいぜいもがき苦しみながら、ご自分のやったことを悔やんでください」
「やめろ! くそっ、やめろ! キチガイめ」
「ガイ、黙れ!」
 テッドはガイに向かって一喝したあと、ナイフを構えるハンニバルを真っ直ぐに射た。
 ぎりっと唇を噛む。
「……生と死を司る紋章よ……我の前にその力を示せ」
 それは小さなつぶやきで、二人の耳には届かなかった。
 ピシッ。
 空間にわずかな亀裂が生じた。
 目に見えぬヒビから這い出した異質なものが、ハンニバルを包みこんでいく。
 一瞬のできごとであった。
「……!」
 ダガーナイフがはじかれて、回転しながら床を転がっていった。
 ハンニバルは硬直し、その姿勢のままどうと後ろに倒れた。
「テッド?」
「紋章を使った。溜めるひまがなかったから、気絶させただけ」
「ええい、くそっ! 秘密兵器があんなら最初っから出しとけ!」
 後出しするからこその秘密兵器なのだが、今は突っ込んでいる場合ではない。
 テッドは床を這いずって後ろ手にナイフを握った。
「持ってるから、先に切って!」
「おう!」
 ガイの両手から戒めが解け、足の紐も切ると、最後にテッドも自由にした。肩を貸して立ちあがらせる。テッドの上着はすでに出血でどす黒く変色していた。
「大丈夫か」
「腕が千切れてなきゃ平気」
 気丈に言い放つ。
 そのあいだに、ハンニバルも意識を取り戻した。
 息を乱して、起きあがる。
「なにをやった、小僧!」
 よろめきながらも、幽鬼のように立ちはだかった。偽られた笑みは消え、鬼気迫る形相でじりじりと間を詰めてくる。
 両陣営はふたたび対峙する格好となった。二対一。ナイフはガイの手にある。形勢はテッドたちに有利だ。だが敵の能力が未知数なので、こちらも迂闊には手を出せない。
 ダガーナイフひとつで乗り込んでくるくらいだ、接近戦に自信があるのだろう。
 分が悪いとわかっても、ハンニバルは退こうとしない。次の行動が予測できず、不気味さが増していく。
 一挙手一投足を牽制しあう。息詰まるような沈黙が続いた。
 拮抗を破ったのは、思いもよらぬ伏兵であった。
 その場にいただれもが一瞬、はっとして意識を削がれた。
 金網の開けられる音。階段を駆け上がってくる靴音。開いたドアから猛然と突っ込んでくるクリマトリアムの闘将。
 隙を見せたのは、ガイだった。
 ハンニバルの踵が宙を踊る。
 ガイの腕にヒットした。
 衝撃で手を離れたナイフは、次の瞬間にはハンニバルに握られていた。
 目にもとまらぬ早業。なんという身の熟しだ。
 ハンニバルは翻って、テッドの背後を盗った。
 羽交い締めにされ、首筋に押し当てられるナイフの刃。
 すべての駒が静止した。
「……八つ裂きにしてやる」 キング・ヴィルヘルムの絞り出す声は凄まじい怒気を孕んでいた。
「お帰りなさいませ。予定より早かったですね」とハンニバル。
「ビショップの死体からおまえの臭いがしたもんでな」
「ふん。鼻がよすぎるのも困りものだ」
「虚仮威しはよせ。えげつない手を使いやがって、サディストが」
「何とでも。さあ、これで役者が揃いました。キング、あなたが来てくださったおかげで、わたしも本懐を遂げられそうです。これ以上の状況はまず望めません。クックック」
 ナイフの刃が舐めるように食いこんできた。
 激痛に身を捩っても、拘束が強すぎて逃れることができない。こらえていても自然とうめき声が漏れる。
 頸静脈すれすれのところで、刃が離れていく。
 致命傷を与えずに苦痛を長引かせるつもりだ。
 血はテッドの衣服をさらに濡らし、ハンニバルの腕を伝わり落ち、床に拡がっていった。
「つらいですか、キング。そんなに苦しそうな顔をして。しかたないですね、すべてはあなたが招いたことですので。裏切りは、いずれ裁かれるものです。これは、口のきけないクイーンのかわりです」
「おれが憎いなら、なぜおれを殺さない。おれが裏切り者なんだろう? どうして関係ないやつばかり手に掛ける。ジェーソン、トビー……どうせアンディも殺ったんだろうが。パッツィーとジョーディーだって被害者だ。で、次はそいつか? テッドか? どれだけ殺せばクイーンは浮かばれるってんだ? 説明してみやがれ」
「この子でお終いです」 ハンニバルは笑った。「この子の穢れた血をクイーンの墓に捧げる。それですべて終わりです。あなたはただ、懺悔するだけでいい」
「狂ってやがる」
「かもしれませんね。わたしはクイーンを喪って、狂ったのでしょう。あの日から、この子を殺すことだけがわたしのすべてになりました。ただ殺すだけじゃ飽き足らない。クイーンと同じ恐怖を味わせてやりたい。全身をじわじわと切り裂き、腸を引きずり出し、眼を抉り、爪を剥いで、生かしたままバラバラにしてやりたい。想像しただけで興奮しました。ほかの命では心は満たされなかった。わたしの求めていたのは、この血なのです。ようやく辿りつきました」
 ハンニバルはテッドの傷口にキスをした。
「会いたかったよ、クイーン」
 ふたたびナイフが当てられる。
 ヴィルヘルムが耐えかねて動こうとした。
 その時。
「クイーンをどうやって殺したか知りたいと言ったよな」 テッドが口を開いた。
 深手を負っているとは思えないほど、冷静な口調だった。
「教えてやる。紋章を使ったのさ。さっき放った、あの紋章だ。手加減しなければ、人だったら即死させられる。クイーンはそれで死んだ。苦しむ間もなかったはずだ。せめて苦しませずにって思ったんだけど、そんなのただの免罪符にすぎない。殺した事実にかわりはない。あんたがクイーンを大切に思っていて、おれのやったことが許せない、おれの罪を裁きたいってんなら、それはれっきとした権利だと思う。おれも紋章に訊いてみたくなった。クイーンを殺したのは正しかったのか、間違っていたのか。知りたい」
「テッド」
「キング、手を出さないでください。ガイも。なにが起こっても、そこで見ていて。一生のお願いだ」
「……」
「この紋章、ソウルイーターに裁いてもらう。おれが宿主に相応しいか、そうでないか。相応しくないのなら、紋章はハンニバル、おまえに譲る。それを使って、おれをクイーンのように殺せばいい」
「ソウルイーター?」
「ああ、そうだ。生と死を司る紋章。この世にひとつしかない紋章だ。紋章にしちゃあ、すげえたちが悪い。呪われた紋章というやつもいる。ソウルイーターは宿主に永劫の命を与え、その代償として宿主にもっとも近い者の魂を喰らう。まあ、実際のところは宿してみないとわからないだろうな。口じゃ言えないけど、かなり厄介なしろものだ。手に余るから封印して紋章屋に売るというわけにもいかない。ひとたび宿主とあるじの関係になったら、次に継承するまで圧倒的な支配下におかれる。裏切り……は一度だけなら許してもらえるかもしれないが、二度目は絶対にあり得ない。あんたに、この紋章を宿す覚悟はあるか?」
 ハンニバルはわずかのあいだ黙りこみ、ニヤッと笑った。
「おもしろいじゃないですか。いままでで最高に愉快な話だ。人生は愉しくなければね。わたしもその紋章とやらに判断をおまかせしましょう。いいですよ、”クイーン”」
 テッドはうなずき、静かに目を閉じた。
 念じる。
 厳かに。清冽に。少年の唇に紡がれるものは絶対無比の存在に対する問いかけ。
「……汝、ソウルイーター、生と死を司る我があるじ。汝、これより先も我を宿主として認めるか否か。汝が望むならこの身体を出で、この者ハンニバルに、力を与え、我が魂を喰らえ」
 誰も彼もがみな無言で見守った。
 刹那。
 空間が変異した。
 仄白い光の天蓋が、そこだけを覆ったように見えた。
 家具がピシッと振動する。
 ヴィルヘルムは、光の波動が網膜を灼くのを感じた。
 耳を聾するばかりの噪音。
 だが光と音の洪水は、あまりにも唐突にかき消えた。
 ――静寂。
 誰のものか、小さな吐息が、ひとつ。
 少年の額を汗が伝い、彼は崩れ落ちるようにしてハンニバルにもたれかかかった。
 眠っているのか。
 その顔は安らかだ。
 ハンニバルはテッドを力強く支えた。
「……どうやら、審判が下されたみたいですね」
「テッド!」
「テッド、おい!」
「おっと、それ以上近寄らないでください」 ハンニバルは牽制した。「クイーンは命拾いをしたようです。だいじょうぶ、気を失っているだけです」
 ヴィルヘルムは大きく息を吐いた。
「こう言っては負けを認めるようで不本意なんですが、なんだか清々しました。世の中にはまだ未知なるものがあるのですね。個人的に、その紋章の『声』も聞かせてもらいましたし。ということで、長居は無用です。今日のところは引きあげるとします」
 ハンニバルはテッドをそっと床に横たえた。力の抜けた右手がぱたんと落ちた。
「クイーンが目を覚ましたら伝えてください。わたしはいつでもあなたが地獄へ堕ちることを願っていると」
 ヴィルヘルムがそれに応えた。
「ああ。忘れるな。今後はおまえがクリマトリアムに命を狙われることになる。仲間を殺られた落とし前は必ずつけさせてもらう」
「肝に銘じておきます。では」
 ハンニバルは悠然と部屋を出て行った。口元が微かに笑っているようも見えた。
「ガイ、ぼやっとするな! 服を脱がせるから手伝え。ハサミ!」
 ヴィルヘルムが怒鳴った。
「あっ、はい!」
「包帯と絆創膏とタオル、布ならなんでもいい、ありったけかき集めろ。止血が済んだら、そのへんの医者を引っぱってくるんだ。質は関係ねえ、ヤブ上等だ。クリマトリアムだって口を滑らすなよ。つべこべぬかすようだったらぶん殴ってでも連れてくる、いいな」
「はい!」
 ヴィルヘルムはハサミでテッドの衣服を豪快に切り裂きはじめた。
「ビショップたちの掃除も急がなきゃなんねえな。ちっ、なんでこう忙しいときに限って全員出払ってやがるんだ? いっそのことおまえが行ってきてくれ。噂がひろまる前に片を付けるぞ!」
 もはや「はい」しか返す言葉のないガイだった。

 灰色の空から埃のように落ちてくる雪。見あげていると吸いこまれそうになる。
 テッドは飽きもせず眺めていた。
 鼻の頭に、肩に、胸元にそっと降りつもる。
「いい加減、入れ。身体に障るぞ」
 せっかく白く染めあげたのに、平然と足跡をつける無風流な男が気にくわない。
「……おれに構うな」
 聞き飽きた台詞は意に介さずに、ガイは彼の足元に目を落とした。
「煮干しをあげてくれたのか」
 テッドが立っていたのは、猫の墓の前だった。
「喜んで食ってるぜ、雲の上で」
「いつかマグロを食わせてやってくれ」
「はは、どんだけマグロに執着してんだか」
 テッドは無言で踵を返した。
 ガイは横を並んで歩く。
 階段を上がりながら、ガイが言った。
「やっぱ、出ていくんだってな」
「……」
「怪我もちゃんと治ってないんだし、せめて春まで待てばいいのに」
「もうじゅうぶんだ。義理は果たした」
「そうか。引き止めてもどうせ無駄なんだろうな」
 部屋に入ると温もりで肌がじんとした。住み慣れた部屋も、これが見納めだ。出戻ってからはともかく、最初の一年間はあんがい快適な住みかだった。
「で、いつ出発するんだ?」
「今日」
 ガイはびっくりした。
「今日? おいおい、夜半からもっと吹雪くっていってたぞ? いくらなんでもムチャなんじゃないの」
「心配ない。キングに挨拶は済ませてきたし、鍵も、もう返した。餞別くれた」
「餞別? キングが?」
「あたぼうよ。おれたち飲みダチだもん」
 ふーん、とガイは納得しかねるように腕組みをした。
「世話になった先輩に感謝の贈り物はないのか?」
「なんであんたにやる必要があるんだよ」
 テッドはぷいっと後ろを向いた。
 可愛くない。徹底的に可愛くない。こんなやつのために藪医者に頭まで下げて、後々まで小言を聞くはめになったというのに、とんだくたびれ損だ。
 紋章持ちだかなんだか知らないが、薄気味の悪い。あげく大人の言うことを聞かないロクデナシには、きっぱりと絶縁状を叩きつけてやる。道端でのたれ死んでしまえばいい。さようなら、願わくば二度と戻ってきませんように。
 ブツクサ言いながらも、その背中を見つめる目は優しい。
 黙々と荷物を整理している。肩越しに、使い古されたショルダーバッグの中身が見える。
 荷と言えるほどのものはなにもない。
 旅をするにしてはあまりにも心許ない装備に、胸が痛んだ。
 あてもないのに、どこへ行くというのか。こんな小さな身体のいったいどこに、それほどの強さを持っているのだろうか。
 いや、強さではない――ガイは気づいている。テッドがどれほど脆い人間かを。
 強がることで、必死に己を守ろうとしている。ほんとうの弱さをひた隠しにして、精いっぱい虚勢を張って、他人を拒絶しながらこれまでも生きてきたのだろう。
 夜陰に守られたベッドの中、浅い眠りを破って顔を覗かせる幻影に煩悶していた少年。夢だから大丈夫、おまえはクリマトリアムに守られている。怖いことはなにもない、幾たびそう言って揺り起こそうとしたことか。
 少年の内包する闇は底が見えなくて、ガイはついに踏み込むことができなかった。
 触れたとたんに壊れてしまいそうな、あやうい均衡に、ガイ自身が苛立った。
 少年が右手に宿す、呪われた紋章。
『宿主に永劫の命を与え、宿主にもっとも近い者の魂を喰らう』
 にわかには信じがたいが、テッドが背負っているというものが真実だとしたら、神はなんと残酷な運命を彼に科したのだろう。
 悠遠の昔、紋章と少年のあいだにあった取り決めをガイは知らない。
 一方で、テッドは知ってしまった。契約をここで終わらせてはいけないことを。
「……じゃ、おれ、行くから」
 弓と矢筒を背負い、ショルダーバッグをたすきがけにして、テッドは振り向いた。
「ああ、元気でな」
「ガイもね」
「おまえより先には死なない」
「フッ、どうだか」
「意地っ張りめ」
「言ってろ、バーカ」
 大人を小馬鹿にする憎らしげな口調も、もう聞けない。
 階段を下り、雪の降りしきる中庭に出たテッドは、ふと思い出したようにポケットをまさぐった。取り出されたのは巾着袋である。
 中からなにかをつまみ出すと、ガイに差しだした。
「やる。ささやかですが、先輩に感謝の贈り物です」
 手のひらを出すと、テッドはそこにちょこんと乗せた。
 一粒のピーナッツ。
「なんだ、これは」
「見ればわかるだろう」
「だから、なんでピーナッツなんだ」
「キングの餞別だよ。せっかくだから一個やる」
「バカ。そういうのは贈り物じゃなくてお裾分けっていうんだよ。ささやかすぎて嬉し涙もでやしねえ」
 テッドはケラケラと笑った。珍しいこともあるものだ。
「じゃあな、ガイ」
 テッドは金網から外へと一歩を踏み出した。ここから先、彼を守る者はいなくなる。
「あばよ、テッド。寂しくなったらいつでも帰ってこいよ」
 テッドはもう振り返らずに、右手を大きく振った。
 遠くなっていく後ろ姿を見送りながら、ガイはピーナッツを口に放り込み、カリッと噛み砕いた。
「……帰ってこいよ。待ってるから」
 すでに声は届かない。
 クリマトリアムの鍵が、下ろされる。


テッドオンリー同人誌即売会「一生のお願いだよ!」
紙の同人誌で頒布した作品です。

2009-10-25 初出