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表と裏【そのつづき】

表と裏【未完】からお読みください

 その家で、あるじのくつろぐ姿を見ることはまれかもしれない。
 テオ・マクドール将軍が無能な官僚たちの尻ぬぐいに忙殺されていることは、宮殿内に居らなくともきこえてきた。齢四十二は心身ともに働き盛り、ましてや帝国五将軍のひとりに名を連ねるとあらば、課せられる重責も相当のものであろう。
 ひとり息子と住む自宅には寝食に戻るだけ。それすらも毎日というわけにはいかない。ちかごろは帰らない日のほうが多いくらいだ。
 ひとたび遠征に出立したらおいそれとは帰られない。かなり長期に家をあけることもたびたびで、オーバーワークと周囲からとがめられるのだった。それでもテオは、けして優先順位をまちがえない。人一倍責任感の強い男なのである。もちろんそれくらいの人徳がなければ、百戦百勝の将軍と讃えられることもあるまいが。
 主人が留守のあいだ、家のことは付き人のグレミオがいっさいがっさいを仕切っていた。
 グレミオは几帳面で、家事に関してはまさにプロ級の腕前だ。男性にしておくのが惜しいという声にテッドも賛同した。ハウスキーパーとして有能なうえに用心棒もりっぱにこなすのだから、一家にひとりグレミオという居候たちの評価もうなずける。
 グレミオはあるじの書斎をほこりひとつ見逃さず、丁寧に掃除するのが日課だ。テオ将軍が先祖から受け継いだこの書斎をことのほか気に入っていることを、勤勉な下男は知っているのである。
 たしかにいい書斎だとテッドも思う。蔵書の質も量も格が高い。個人の持ちものとしては贅沢すぎるとあざけりたくなるほどだ。だが、所有者の人となりを見ていると次第に納得がいくようになる。
 富は本来在るべきところに集まるもの。テオは高官にありがちな知性に欠けた成金ではない。
 自由に使ってかまわないという承諾を得るや、テッドはマクドール邸における余暇のほとんどをこの書斎ですごすことにきめてしまった。与えられた私室はなんだか監視されているような気がして居心地がよくなかったし、書斎ならば掃除の時間をのぞいては無人になるからだ。
 読書がとびぬけて好きなわけではない。ましてや、本からなにかを得ようだなどと甘っちょろいことを思ってもいない。ただ周囲に本の虫であると匂わせておけば、いろいろと好都合ではあるからして。
 不自然に思われないために、これでもだいぶ思考をめぐらしたのだ。お節介な住人たちに万が一にも迷惑をかけないために、意識してふだんから適当な距離をおくことがテッドのになう最低限の義務である。ただし、あくまでもさりげなく。けして怪しまれないように。
 マクドール邸に依存するのを苦痛とはいわないが、これまでとだいぶ条件がちがうことをテッドは危惧しないわけにはいかなかった。金持ちの家に厄介になるなんて、数十年にいちどあるかないかの幸運である。しかしテッドは、ラッキーをしめしめと享受するほど愚かな人間ではない。
 テッドには三百年という歳月の重みがあった。希望よりも後悔が、悲しみよりも痛みが、まだ見ぬあしたよりも過ぎ去ったきのうが圧倒的に勝る二十四時間のつみかさね。わずかな夢もことごとく悪夢にすりかえられていく、呪われた日々。そのような人生でも、テッドは歩みをやめず、どんなにちっぽけな、藁くずのような光でも、その手でつかんで糧にしてきた。
 放棄しないと誓った。逃げないと誓ったのだ。長い長い旅の途中で。裏切って、たしかに手放したはずのそれを、みずからの意志でふたたび右手に宿したとき。
 テッドは幼かった。守らなければと必死だった。くじけたとだれが責められよう。しかし、あやまちは一度きりだ。二度はくりかえさない。テッドは成長し、ふたたび運命を受けいれた。こんどこそ、永遠に守っていく。
 ソウルイーター。
 疑念は抱くまい。感情は、捨てさるのはむずかしいかもしれないが。
 真の紋章も、それほど非情ではない。宿主が泣き、怒り、喜び、笑い、そして苦しむのを、彼はむしろ望んでいるそぶりすらある。
 感情がなければただの生きた屍だ。嘆きも嗚咽も、テッドという世界にふたつとない個のあかしではないか。ソウルイーターを他者に預けたそのとき、テッドははじめてそのことに気づいた。
 おかしいな、涙がでない。悲しみを感じないかわりに、あるはずだった喜びもない。からっぽだ。なにもない。
 そうか、おれは屍になったんだ。まとわりつく霧は棺桶だ。ここで肉体だけ生かされながら腐乱していくんだ――
 思えば、そこはひとつの通過地点だった。
 ソウルイーターを継承してから百五十年めの話。
 いま、ふたたび百五十年がすぎた。次の試練は、いったいいつのことになるのだろう。
 テッドは、自分が変わったことをはっきりと認識していた。以前のテッドだったら、いずれ落胆することを承知で高名な将軍家にとりいろうなどと、けして思わなかったにちがいない。
 長い時を経て、ようやく自由になった好奇心がいまさらながらにそうさせた。
 いまのテッドは、三百歳の子ども。生まれもった奔放さが、めだって表に出てきたのだ。村いちばんのやんちゃ坊主と評判だった(悪名高い?)あのころと、毛ひとすじのちがいもないほんとうのテッドだ。
 せっかくならば愉しんだもの勝ちとほくそ笑む。失敗しない自信もある。
 こうやって、無邪気な人の子に擬態しながら、また何百年も生きていくのだろう。おそらくは世界が混沌にのまれる最期の日まで。
 未来に思いを馳せるとき、テッドはきまって寂しく笑った。それからあきらめたように首を振る。たったいまあった思いを否定するためだ。
 悲観なんて、らしくない。明日を向いてもしかたがない。自分にとって大切なのは、これまでしるしてきた足跡だけだ。人々の記憶からは忘れ去られても、大地はテッドを憶えている。過去を振り返ることは、少なくともテッドにとっては罪ではない。そうだろう?
 しあわせなマクドール家の人々をうらやむ気持ちはない。不幸のどん底につきおしたいとも思わない。
 そんなことは、一度だって思ったことがない。いままでも、そしてこれからも。
 年下ながら称賛にあたいする勇猛果敢なテオ将軍、お人好しで思いこみの激しいグレミオ、聡明なクレオ、精神はまだまだ未熟だが大物ぶりを発揮するパーン、それから未知なる可能性を秘めた少年、ルーファス・マクドール――彼らのおだやかな、まっとうな未来をテッドは心から願い、だからこそ疫病神である自分は時が満ちたらすみやかにそこから去ることを、当然の条件として課したのだった。
 期限は一年。場合によってはもっと短かろう。異変を察知したらすぐにでも離脱できるように、少ない荷物はつねにまとめてある。
 夜は別宅ですごしたいと申し出たテッドを、みんなはさぞ、かわいげのないわがままな子どもだと思ったことだろう。生活援助だけでも異例のはからいなのに、将軍がそこまで孤児の言いぶんにしたがう道理はない。グレミオやパーンは不快をあらわにした。にこやかに承諾してくれるなどと、もちろん期待してはいなかったけれど。
 こちらにもやむにやまれぬ事情というものがある。相手にどう思われようと、これがぎりぎりの譲歩である。ルーファスとの親友宣言だって、本来ならば考えられないような妥協なのだ。少しでも本気になったら最後、ソウルイーターにつけこまれかねない。
 友だちと呼び、また呼ばせるのは、単に尽くすべき礼のひとつ。箱入りお坊ちゃんをあざむくのはわけもない。あとはいかにルーファスを傷つけずに、最善の人間関係を維持するかにつきる。
 断言する。これはビジネスだ。サービスを得るかわりに代金を支払う。文化黎明期にすでに存在した、究極の理屈。
 衣食住、すべてにおいて不満のあろうはずがない。これ以上を望んではばちがあたるというもの。ふところに追加料金に充てる余剰分など残っていない。
 与えられた好意に甘えすぎてもいけず、かといってすっかり孤立してもやりづらくなる。ほどよい線引きというのはめんどうだ。テオ将軍とその息子だけならばともかく、マクドールの家にはその他大勢がにこやかに暮らしているのだから。
 これを称して家族ごっこというのだろう。加わりなさいと手招きされても、鋭意ごめんこうむる。そういうのは慣れていないし、好きでもない。
 はなはだ不本意ではあったが、ゆがめた情報を植えつけることでテッドは当面の自己防衛をはかった。
 会話が苦手なんです。人づきあいもうまくできません。社会性に欠けるのは自覚していますけど、他者に関心はありません。大人の都合にふりまわされてきました。つらい目に遭ってきました。ボクは不信感にこりかたまっています。だけど精神的に自立していますから、よけいな心配は無用です。悪いこともしません。見張らなくてもだいじょうぶです。テオさまにご迷惑はおかけしません。ルーファスとも仲よくします。
 大部分はでたらめだが、まるっきりのうそでもない。
 そういう時代があったことも確かだから、うそをついているという罪悪感はない。
 日中はルーファスとすごすようにというのは、テオ将軍の代理人としてのグレミオの意向だった。テッドは坊ちゃんの話し相手として連れてこられたのだと、彼はおそらく思っている(事実は多分に異なるのだが)。
 グレミオはルーファスを目にいれても痛くないほどにかわいがっていて、興奮すると盲目的になる。
 ルーファスが金持ちにありがちな高慢な少年で、孤児のテッドを子分か奴隷のように扱うのだったら、さほど気を遣うこともなくテッドもおとなしくグレミオの命に従っただろう。蔑まれることにテッドは慣れていたし、上下関係は明確なほうが気楽だった。ルーファスも当然そうするものとテッドは期待していた。
 しかしルーファスは、頭を下げるテッドを見るや、やけに真剣な目で、なにかを思いつめたように訴えてきたのだった。
 ”やめてくれ。ぼくは、テッドとは同等でありたいんだ!”
 意外な展開にたじろいだのはむしろテッドだった。
 まずい。早急に路線変更しないと計画が破綻してしまう。ソウルイーターもいまの会話を聞いていたにちがいない。おかしなことになる前になんとかしなければ。
 そうだ、書斎だ。あそこならばさしもの御曹司も、邪魔をしようとは思うまい。本を読むふりをして、話しかけてきても上の空をつらぬきとおして相手にしなければいいのだ。
 時間も適当につぶせるから、一石二鳥。これを利用しない手はない。
 なさけない、とテッドはため息をついた。おれは逃げてばっかりだ。
 予想外の展開というやつが大の苦手で、出くわすとおおあわてで逃げて、物陰でああびっくりしたとネズミのように大汗をかいて。逃げて逃げて逃げて――往くところもないくせに。
 先見の明も度胸もしかり。なんにも持ちあわせちゃいない。年の功かそこそこに狡猾ではあるけれど、とくに人より秀でているわけでもない。こんなに出来がよくないのに、どこのだれよりも長く生きているだなんて恥ずかしくて他人には言えない。
 積み重ねた年輪を、おくびにも出さぬように努力はしてきた。しかしばれるときにはばれる。どうやら思ったことがストレートに顔に出るたちらしい。
 己の不甲斐なさに、浮上しては沈み、また浮いては沈み。
 同等になりたい、だって。つまりおれのように落ちぶれたいと。ルーファス・マクドール、もうすこし経験をつんで相手をよく見極めたほうがおまえのためだと思う。
 手にした本にはまったく意識を向けずに、テッドはマクドールの家を逃げだす算段ばかりを考えていた。
 開いたページがめくられることも、ほとんどなかった。
 そんなある日のことだった。テッドが”それ”を発見したのは。
 古めかしい蔵書の片隅に、それはひっそりと置かれていた。時を刻んだ革表紙。まるでテッドが気づくのを待っていたかのように。
 掃いて捨てるたぐいの無益な情報の山にまぎれこんだそれも、見ようによってはほかとなんら変わりのない、低俗なざれごとだった。妙なひっかかりを感じなければ、順当に記憶から排除していたにちがいない。
 なにがテッドの興味をひいたのだろう。
 真の紋章に触れていたからか。いや、それだけならば何度も落胆させられた過去のものとおなじだ。
 書物は、信頼に足りるものではない。すでにわかりきったこと、あるいはありもしないことをろくな検証もせず、さももっともらしく語る。それを承知で読むぶんにはかまわないだろうが、テッドは騙されることを好まない。
 活版された時点で、書物の多くはすでに破綻しかけている。辛辣な意見かもしれないが、そんな不安定なものは手にするだけ時間の無駄だとテッドは思う。
 正しい知識、時間差のない有益な情報はけして書からは得られない。書物は楽しみながら感性を磨くものであって、過信しすぎて支配されるようなことがあってはならない。己の目と耳に勝る手段はどこにもない。
 考えてみるがいい。人の踏みこんだことのない世界のバランスの話を、どこのだれが正確に語り得ようか。いかに雄弁で言葉巧みであろうとも、単なる憶測にすぎないものを真実というのは正しくない。
 真実は人にとって神話の領域、何人たりとも踏みこむことのかなわない伽噺の世界。
 親が寝る子に語ってきかせる、創世のむかしばなし。
 そうだ、真実は童話に姿を変えた。童話ならばだれもが知っている。
 どこのだれがなんの目的で、それを捏造したのやら。
 作者不詳。いつの時代のものかもわからない。だが、すべての国々、あらゆる種族に共通する、摩訶不思議なものがたり。
 テッドも例外ではない。幼いころのおぼろな記憶に、たしかに根をおろしているそのストーリー。
 むかしむかし、”やみ”がありました――
 これこそ先達の遺したとてつもない知恵なのではあるまいか。
 そう、人智の及ばぬものだからこそ、神の怒りをこうむることのないかたちにして後世に伝えたのだとしたら。
 人は闇をすべてのみなもととしてうやまい、剣と盾の闘いに万物を反映し、27の真の紋章を崇高なものと讃えるであろう。それらが人に災いを及ぼすことをなにひとつ知らぬまま、子から孫へ、子孫へと語り伝えていく。
 これは作り話なのだ。恐れることはなにもない。神はけして災いをもたらさない。人々が剣と盾に別れてたがいに争わないかぎり、世界は滅びはしない。
 疑う者はよもやおるまい。もとより『作り話』なのだから。
 たとえ異を発する者がいても、圧倒的多数の人々が酔狂だと糾弾するであろう。ほんとうのことは闇にうもれていく。それを生んだという闇が、すべてを喰らいつくしていく。
 不幸にして真実に遭遇しても、それに触れてはならない。恐怖に絶望し、狂気に没したくたくないのならば。
 テッドは、その身を真実の代理人とやつしてしまった。
 人ならざる力とひきかえに、テッドはあまりにも多くのものを失った。一度ならず狂ったことだってある。いまいる自分が正気かと問われると、断言できない。
 真の紋章に力を求める者もいる。永遠の命を、森羅万象の支配権を、またある者は復讐の機会を。テッドはそんなものを欲しがったことは一度もないし、生殺与奪の権を与えられても頑として駆使しなかった。
 なのにソウルイーター、”生と死を司る紋章”は、まだ幼かったテッドに身も凍るような力をおしつけ、はじめからいいようにもてあそんだ。宿主の意志を確認もせずに、ひどく一方的に。
 幼い継承者は、それを守らなければと必死だった。ただそれだけである。紋章を守ることは必然であり、義務であり、彼の存在意義でもあった。
 しかしそれは、操作された意志であった。村人を紋章の守護者として意識操作した人物が必ずいる。テッドの祖父がその人だったかもしれないし、祖父もまた動かされただけなのかもしれない。テッドがみずからの選択を疑問に思わなかったのは、祖父の記憶の一部をテッドが紋章とともに受け継いだからにほかならない。
 テッドが自由意志だと信じていたものは、じつはそうではなかった。テッドはいつでも背くことができたのに、そこに思い至らなかった。
 祖父の魂に囚われ、テッドは紋章を守護しつづけた。
 ソウルイーターはこの世に災いをもたらす。けれど守らなくてはいけないものだ。テッドは頑なにそれを信じ、たったひとつの道を選択するために自分の持ちものをすべてあきらめた。
 しあわせも、安堵も、笑みも、肉親も、眠りも、死ぬ権利も。
 それこそが、ほんとうの狂気だったのかもしれない。
 真の紋章なんて、ただの伝説だよ。そう言ってテッドはつくり笑いを漏らす。革手袋でおおった右手を背中に隠しながら。
「真の紋章は例外なく、表の相と裏の相を有する。分離することも理論上は可能である。ただし、分離した真の紋章はそれ自体、非常に不安定であるために、完全な姿に戻ろうとする……」
 理論上は、可能。
 その一文を飽きるほど繰り返す。
 真に受けるな。もうそのへんでやめておけ。なにを期待している?
 理論。なんという薄っぺらなことば。学者はそれが好きなのかもしれないが、すべてがすべて役にたつとはかぎらない。いや、役にたたない理論のほうが圧倒的に多い。  なにも考えず、求めず、いままでどおりソウルイーターとともに世界を放浪する。なんの不満があるというのか。
 分離させて、そのかたわれをいったいぜんたいどこのだれに押しつけるというのだ? いまでさえ扱いあぐねているのに、さらに不安定なものをどうやって守っていくというのだ?
 表と裏がそろって、はじめてひとつである。ひとつは全。剣と盾がそうだ。光と闇がそうだ。生と死も、けしてべつべつにしてはならない。絶対にだ。
 なにを迷っている?
 この世界をかたちづくる根本の存在は、理論という束縛に支配されない。それらは単独でいかようにでも形を変え、また外因によってけして形を変えさせない。
 たかが27の個。されど27の個。同胞であるが、相互に関わりを持たぬものたち。
 彼らの眷属は自由きままに動きまわって各地で不協和音を奏でて歩く。そこにはあるいは理論も通用するかもしれない。しかし根源となる27個は特別である。
 理論でひとからげにするのは傲りだ。
 人ごときになにがわかる。それを宿したこともない者に、なにがわかる。
 テッドが三百年のあいだ寄り添い、いまだ理解できぬ”もの”。三百年前から、それはなにひとつ変わっていない。
 いまさら関係性を変化させようとも、新たな感情を抱こうとも思わない。
 テッドは目をつぶり、本を閉じた。はかない望みにすがるのはもうやめよう。そう、思った。
「……テッド」
 ふいに声がして、テッドはびっくりして顔をあげた。机の横で、パジャマ姿のルーファスが怪訝な顔をして立っていた。
「あ、ルー」
「徹夜、したんだ」
「……え?」
 まるでいま気づいたかのように、テッドは朝の光をまぶしそうに見つめた。すっかり冷めてしまったココアが半分ほど残ったまま、所在なげにたたずんでいる。
「なんだ、もうそんな時間か」
「なんだじゃないよ。根、つめすぎだよ。だからいったのに」
「だいじょうぶ、元気、元気」
「目の下青くしていうセリフじゃないと思う」
「あー、わかったわかった。ご心配ありがとう。ちゃんと昼寝で埋めあわせっから。ルーとちがってひまだからよ」
 ルーファスはその言いかたが気にくわなかったらしく、無言でテッドをにらみつけた。
 苦笑いで返してやると、敵はぷいっとそっぽを向いてしまった。
 まずい。相当怒っている。
 ご機嫌をとらなければ、こじれるだろうな。
 脳内であれこれと画策しているすきに、ルーファスがさらりと先手を打った。
「グレミオもいってたけど」
「……はい?」
「テッド、ほんとうにどこか悪いんじゃないの。顔色もあんまりよくないし、このごろいつもぼーっとしてるし。ごはんだって、あんまり食べてないんだろ」
「小食なのは、いつもなんだけどな」
「食べ盛りに食べないのはいちばんよくないのに。寝ないのもダメだ。そんないいかげんな生活するなら、首に縄つけてでもこのうちで暮らしてもらうけど」
「ルーファス、グレミオさんみたいだな」
「ぼくは真剣にいってるのに」とルーファスは声をあらげた。「心配なんだ」
 テッドは無意識に、右手を机の下におろした。まったく、相棒が聞いたら舌なめずりしそうなセリフをぽんぽんと連発しやがって。
 動揺を隠し、愛想笑いをうかべる。
「ありがとな。ルーは親切だな」
 ルーファスは表情を変えずに、まっすぐにテッドを見た。考えの読めないその視線に耐えきれず、テッドが目を反らそうとしたそのとき。
「どうしてテッドはそうやって、すぐ壁をつくるの」
「えっ」
「わかりやすいうそばっかついてさ。ぼくが気づいてないとでも思ってるんだろ。そんなにびくびくしなくたって、ぼくはなんにもしない。テッドがいやなことは、なにもするつもりないんだ。気を遣わせたんなら、あやまる。けどさ、ぼくがテッドと同等でいたいっていったの、誤解してほしくないんだ。そんなつもりでいったんじゃないんだ……」
 ルーファスの言うことは、すぐにはわからなかった。ちょっとした混乱と、焦りがテッドを襲った。
「なんのこと? ルーファス」
 喉がからからに渇く。水がほしい。
「さあ、なんのとことだろうな。テッドが言わないなら、ぼくも言わない。いいたくない。けど、いつか言えるようになったらいいと思う。そんだけ。じゃ」
「ルーファス、おい」
「庭で棍の稽古してる。朝ご飯、てきとうにつくってくれるとうれしいな。あ、ぼくのぶんもね」
 テッドは唖然として、ルーファスの背中を見送るしかなかった。
 得体の知れない汚泥が、身体に蓄積していくような感じだった。
 流しださなければ。
 考えるな。だいじょうぶだ。ルーファスはなにも知らない。知るはずもない。
 水が要る。いますぐに。水はどこにあるんだ。ああ、そうか。キッチンだ。
 立ちあがりかけて、ぐらりとめまいがした。とっさに机で身体を支えようとしたが、一瞬遅かった。
 冷たい床にみっともなく這いつくばって、テッドは舌打ちをした。
「なに、やってんだか……」
 砂漠だったらよかった。ほんのすこし横たわっているそのあいだに、こんなどうしようもない身体は砂が埋めてくれただろうに。
 おれは、汚い。
 いらないものだけでできている。ルーファスだって、こんな”もの”には関わりたくないにちがいない。
 ソウルイーターを宿したままでいいから、人の世からいなくなりたい。消えてしまいたい。
 できることならばルーファスと出逢うその直前まで時をさかのぼって、自分という存在をなかったことにしたい。
 逃げて逃げて逃げて――
 往くところなど、ない。そして安らぎも。
 せめて眠ることが許されるのならば。だが、おそらくはそれもない。
「ルーファス……」
 その名前が弱々しく口をついた。無意識だった。
 己の声すらも夢まどろみのように、どこか遠いところにきこえた。


2007-06-25