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表と裏【未完】

 ガラスのコップに水を満たし、テッドは一気に飲みほした。
 渇いた喉はそれでも潤わない。発汗したわけでもないのに、水がほしいと、飢えるように欲する身体。
 室内の空気は乾燥していない。干からびているのは心のほう。水分補給をこまめにしてみたところで楽になるはずもないのに。
 最後にまともな食事をしたのははたしていつだったか。昨夜のことすらすでに思いだせない。ひとりでいるときはほとんど食べないから、少なくともきのう一日はたぶん口にいれていないだろう。
 水ばかりくりかえし流しこむ。体内に満たされるものは虚無感と自己嫌悪。
 悪循環だとわかっている。自傷と似たようなものだと。けれどもやめられない。
 生活環境を変えたばかりのときは、あるいは旅をしているさなかは、けしてこんなことはない。一箇所におちつき、そこからある程度の時間が経ったころ。周囲の人々との関係がそれなりに安定してくるあたりから、症状が顕著になる。
 ある種の自己防衛なのかもしれない。原因といえばひとつしかあるまい。
 喉の異常な渇きは不安からくるものだろうと思う。
 まだここにいてもだいじょうぶだろうかという不安。潮時を見極めねばならないという緊張感。
 ――制御できているか?
 ――ほんとうに、まちがいはないのか?
 不眠がいっそう強くなるのは、眠ってしまうと過去の失敗を思い出すためだ。人を犠牲にしたことへの罪悪感はいくらぬぐい去ろうとしても消えてくれない。
 罪は生涯引きずってこそ、贖えるというもの。忘れようと躍起になるのが愚かなのである。けれども浅い眠りのあいだくらい、心おだやかでいたいではないか。
 いったんバランスが狂いはじめると、食べ物を胃に送りこむのも義務的になってくる。食事に興味がないのは常日頃からだが、なにか食べておかなければと己を叱咤するたびに嫌気が差して、よくない考えが加速する。
 日々が平穏であればあるほど、苦しい。
 その平穏は、人を騙して手に入れたものだ。
 人の情を利用しなければ生きていけない。
 なぜなら、「テッド」は子どもだから。
 お笑いぐさだ。欺瞞に満ちている。
 胸くそが悪いが、しかたがない。老いることを放棄した身体は今日もあしたもその先もずっと子どものままなのだから。
 じたばたしても、変えられるものではない。これが現実。
 信頼はひどく得がたい。こんな見かけで他と交渉しようだなんて、どだい無理というものだ。身寄りのない子どもは、どこへ行ってもうっとうしがられる。金をもっていようがだめなものはだめ。ましてや一人前の男として権利を主張することなど、願うべくもなく。
 戦災孤児と嘘をついて、捨てられた仔猫よろしく臭い演技を披露して、食事と寝床とはした金ををめぐんでもらう。そういうやりかたのどこが悪い? 恥はないのかと問うのなら、そんなものはまっ先に棄てた。せこい手口だと自認しているのにいちいち羞恥心を覚えるわけがなかろう。矛盾は、きらいだ。
 嘘をつく者は心を病んでいる。何度そうたしなめられたことか。そういうたぐいの説教が大好きな小賢しいやからは、みな口をそろえて同じことを言う。嘘をついてはいけないよ。嘘をつく子どもはろくな人間になりゃしないよ。
 ご期待感謝。あいにくだが手遅れだ。ろくな人間でなくて悪かったな。
 テッドを勝手に病人扱いする連中は、りっぱな人間らしい。
 りっぱの基準はこうだ。根拠のない自信を誇らしげにかざすこと。ろくでもない子どもを更生させることが己の使命であると信じて疑わないこと。
 反吐が出る。泥棒のほうがよっぽど人間くさいように思う。
 いちばん利用のし甲斐があるのが、そういうご立派な人たちだ。大きなお世話と唾を吐きたいのを自制して、こちらから近づく。
 なにごとも最初が肝心。すぐにバレる嘘はつかない。その点はテッドのほうが何枚も上手である。
 こいつらの仰るがままにぜんぶすなおに告白したら、最高に愉快だろうな。
 考えながら、苦笑い。
 もちろん想像で愉しむだけ。危険な綱渡りはしない。そんな愚を犯してみろ、たちまち狂人呼ばわりされてどこか鉄格子のはまった部屋に閉じこめられるのがオチである。
 ソウルイーターの噂がひろまりでもしたら、もっと厄介なことになる。
 ろくな人間でなくて結構。ぼろくそにののしられてもなんということはない。何重にも泥をかぶっているから、そうかんたんに傷みなどしない。病んでいるのはあいつらのくだらない正義のほうなのだからして。
 だけど、なに?
 なにが不満だというのだ。おれの身体。
 からからに渇く喉。これ以上はよくないと思いながら飲み続ける水。
 眠りが足りないとか、栄養がじゅうぶんでないとか。文句をたれるのもいいかげんにしろ。みにくい姿をしているくせに、人を支配しようとしやがって。
 こんな身体はいつ棄ててやっても構わないんだ。ソウルイーターさえ切り離せるのならば、守る義務などおれにはない。それができないからしかたなく生かしてやっているだけで。
 水をコップにそそぐ。飲みほす。
 血液が薄められていくような感じがする。
 汚いものを洗い清め、老廃物を体外に排出する、あの感じ。
 不安も、罪悪感も、大嫌いな”テッド”も。
 いらないものはすべて、流れて消えればいい。
 そのためには、まだ足りない。水が、足りない。もっともっと、水、を。
「……う」
 コップが手から離れて落ち、足元でこなごなに砕けた。

「テッドのおっちょこちょい、ばーか」
 ルーファスは救急箱を片づけながら、ふてくされている親友をからかった。
「割れたガラスつかんだら、ざっくり血だらけってふつうわかりそうなもんだけど」
「るさい。はずみってやつだ」
 ガーゼと絆創膏で保護した上から包帯でグルグル巻きにした左手をひらひらとふりかざす。血相を変えて駆けこんだくせに、手当てしてくれてありがとうのひとこともない。
「なんのはずみさ」
「考えごとしてた」
「もう。気をつけてよね。それでなくてもたまにぼんやりしてんだから」
 テッドは苦笑して、テーブルに頬杖をついた。マクドールの坊ちゃんにはかなわない。
 夢想癖があるのだということで解決するのに異存があるわけでもなし。
 左手がずきずきと痛む。右でなくてよかった。逆だったら、手当てをだなんてうかつに言えやしない。不幸中の幸いとはまさにこのこと。
 ガラスの破片に手をつっこむだなんて、どういう失態だろう。ルーファスの小言を聞かなくとも呆れかえる。
 無意識の衝動が招くものが、たんなる怪我のうちはいい。もしそれが、取り返しのつかない事態を引き寄せてしまったら。
「笑いごとじゃないな」
「ほんとだよ。ちゃんと反省してよ」
 テッドのつぶやきを微妙に勘違いしたルーファスが、ぴしゃりと言った。
 ルーファス・マクドールは、テッドを世話しているテオ将軍のひとり息子だ。世に名だたる将軍家の御曹司である。名はだてではなく、ルーファスも高い教養と卓越した技量を兼ねそなえている。
 歳は十五歳。師匠に叩きこまれたという長棍の腕前はテッドに言わせればまだたしなみ程度のものではあるが、実戦を繰り返したら相当の腕になるにちがいない。
 官僚の腐敗が噂され、涜職だの背任行為だのが事実上野放しにされているこの国。だがルーファスのような若い勢力が控えているのならば、赤月帝国もまだ捨てたものではない。
 亡国の徒どもが悲観論をかざして戦いを挑んできたとしても、大国赤月はそう容易くは斃れまい。なによりも皇帝バルバロッサがそれを許すはずがない。衆愚政治はではこの国を幸福にできないからだ。
 バルバロッサは名君である。生殺与奪の権を握ると言うことは、並大抵の決意では成し遂げられない。だからこそ皇帝は覇者たり得るのである。
 ルーファスならば、もっともっと成長して、やがて皇帝とともにこの国を正しい方向へと導いていくだろう。
 テッドはその姿を最後まで見届けることはできない。どこかここから遠い国で、風の噂に聞くことになると思う。
 グレミオに言わせると、自由奔放に育てられすぎて無事に務まるのか心配との弁。テッドの評価はまったく逆である。案じなくとも、ルーファスは帝国兵として優秀すぎるほどに優秀である。むしろ彼はもっと、自由奔放でいい。
 どこか神経質なのは、いつも気を遣うことを強いられてきたからだろう。後継ぎの肩書きが息苦しいときだってあったはず。付き人のグレミオはやさしいが、ルーファスを枠にはめたがるきらいがある。時にはその保護下から逃げだすときもあっていいのではないか。
 てきぱきと動くルーファスをながめながら、テッドはくっくと笑った。
 こいつを見ているとおもしろい。
「いま、笑いごとじゃないっていったばっかりのくせに」
 ルーファスはおおげさに顔をしかめた。
 救急箱を定位置に戻すと、「泊まってくだろ」と言った。
 めずらしいことに、家族はみな不在なのである。グレミオまでがテオの使いで今宵はレナンカンプにお泊まり。邸宅に御曹司ひとりというのも物騒だからと、テッドにつきそいの要請があったことはあったのだが、鼻でふふんと笑って断ったのがほんの半日前のこと。
 まさか本当にお守り役をするはめになろうとは。うっかりだ。
 グレミオはいまごろ、坊ちゃんが心配で寝酒も喉をとおらないにちがいない。ざまあみろ。
 テッドがマクドール邸に入りびたらないのにはわけがあった。住人どうしの親密さもさることながら、それよりも重大な理由がこのルーファス坊ちゃんである。
 こんなだだっぴろい家なのに、ルーファスは身を寄せて眠りたがる。どうやら、親友なのだからそれくらい当然と思いこんでいるらしい。
 睡眠中に肌を寄せ合うなど、テッドにとっては言語道断、まちがってもあり得ないこと。もっとも無防備な時間帯に特上のごちそうを横に置くようなものだ。ルーファスがいびきをかいて眠っているあいだ、悪いことがおきないように必死に抵抗しなくてはならないなんて、考えただけで気が遠くなる。もちろん、眠るどころのさわぎではない。
 ただでさえ深く眠ることができない体質なのに、そんな試練が上乗せなんてまっぴらごめんだ。すまないとは思うけれど、頑として一線は引かせてもらう。
「ちょうどよかった。テオさまの書斎に読みたい本があったんだ」
「えーっ。テッドってば、本読みはじめるといつも徹夜するんだから。もうあしたでいいじゃない。いっしょに寝ようよ」
「うん、でも気になりだすとどうしようもないし」
「まったく、本好きなんだから。ちぇっ……じゃ、あとでココアもってってあげる。でもちゃんと寝るんだよ。夜更かし、だめだよ」
「悪いな」
 納得してくれたらしい。テッドはほっとした。
 とりわけ本が好きなわけではないのだ。ただ、読書は口実になる。知識の習得にもつながるから一石二鳥。このすばらしい手口を行使しないのはもったいないではないか。
 テオ将軍の蔵書は価値がある。すべてがすべて本人が蒐集したわけではないらしいが、古いものからごく最近のものまで、じつに興味深い本がそろっている。グレッグミンスターでは国立図書館が市民に開放されているので読みたいだけならそちらのほうがだんぜん便利なのだが、個人の蔵書は持ち主の人柄がにじみでるので、ながめていて飽きがこない。
 読みたい本があるというのは嘘ではなかった。ただし、テッドはその本を暗記するほど、もう何度も読み返していた。
 書斎にはいると、ランプをともしてテッドはその本に手を伸ばした。どの棚のどこにあるのか、もはや暗闇でもわかるほど親しんだ革表紙。
 それはかなり昔に出版された紋章学の専門書で、いまは流通していないものだった。新しい概念に支配されがちな紋章学では、古い理論はすぐに置き去りにされる。
 だがそれはテッドにとって、腑に落ちない考えかたであった。紋章というものは人よりもずっと真実に近いものであるから、容易には変化しない。日々落ち着きなく変わっていくのは人のほうである。
 ああだこうだと理論をこねくりまわして、いまはこうだと主張することに意味があるとは思えない。街で商売をしている紋章師たちはみな、学校で紋章を専門に学んだあと、十年後には通用しなくなるかもしれない浅い知識を切り売りしているだけだ。本物の紋章師に出会うことなど、めったにない。
 ずっしりとした本を膝にかかえて、めくる。
 時代の匂いがする。
 作者名がどこにも記されていない奇妙な本。紋章学の権威と言えば名を売りたがるのが常と思っていたが、これの筆者はそうではなかったらしい。
 ところどころに判別不能な文字がある。共通言語で書かれていても、地方独特の文体はよそ者にとっては難解だ。ありったけの知識を動員するに、これは赤月よりもっと北の国で書かれたものだとテッドは思う。未知の言語は、理解にはほど遠い。
 赤月の北にはジョウストン都市同盟があり、ハイランド王国があり、その先にはハルモニア神聖国がある。大地は広大で、道のりは遠く、国境はつねに緊張状態にある。
 諸国を歩いたからといって、なにかが得られるわけでもない。しかし。
 異邦人であることで、わずかに安堵できるなら、迷うことなどあるまい。
 未知のものを畏れては、足が動かなくなる。
 だから、もっと知識が欲しい。
 ここももうまもなく、旅立つ頃あいだ。一年。長かったようでいて、もう一年かと驚きもするけれど。
 目的のページは折りぐせがついて、ひらきやすくなっていた。
 第四章、『真の紋章の知られざる真実』
 このたぐいの議論は通常、果てしなく机上論的で傍観していられない。けれど、どうだ、稀にこのような邂逅もある。
 文字はけして真実を語ってはいない。が、真の紋章の持ち主たる自分の目を引く程度には凄みがある。
 そして、この部分。
「真の紋章は例外なく、表の相と裏の相を有する。分離することも理論上は可能である。ただし」
 一字一句を丁寧に口にして、テッドは文字列から目を反らした。
 理論上は、可能。
 理論上は。
 聞き飽きた理論という形のない単語。それがここ数日、テッドの心につきまとい、微熱のようにからまっていたのだった。
 例外なくと言うのなら、ソウルイーターにもあてはまるのだろう。
 単純に考えて、生が表の相、死が裏の相ということになる。
 分離とはどういう意味だろう。もっとも想像しやすい、テッドですら思い描くことのできた仮定がそうと言うのなら、宿主が二名で紋章を保有できるということなのだろうか。
「……ただし、分離した真の紋章はそれ自体、非常に不安定であるために、完全な姿に戻ろうとする」
 目を閉じて暗唱する。
 すなわち。
 理論上は可能だが、悲劇はまぬがれぬぞとする結論。
 真の紋章に人が抗えるわけがない。理論が秩序に勝てるわけがない。
「けど、理論上は……できる」
 つぶやいたとき、ドアがノックされた。
「テッド、ココアできたよ」
 ほかほかと湯気のたつカップをふたつ盆にのせて、ルーファスが入ってきた。
「お、サンキュ」
 閉じた本をこころもち隠しぎみにして、テッドは笑みを向けた。べつに隠す必要もないのだけれど、ルーファスを相手に紋章の話はあまりしたくなかったのだ。
「どう、お勉強、はかどってる」
 お勉強の部分にトゲをこめてルーファスは腰掛けた。
「おかげさんで絶好調」
「なにをそんなに夢中になって読んでるの」
 そらきた。
「なにって、紋章の本だけど」
「テッド、紋章に興味あるの」
 語尾に「ぼくよりも」というおまけが聞こえたような気がしたのは空耳だろうか。
「一般的な知識としてそれなりにな」
「ふうん」とルーファスは気のない返事をして、ココアに口をつけた。
「そういうおまえだって、紋章学は習うだろ」
「それなりにね。一般教養だから」
 皮肉てんこ盛りである。へそを曲げたとたん、どうにもこうにも扱いづらくなる少年だ。
 添い寝を回避するために本をだしにしたのがよっぽど気にいらなかったらしい。機嫌がよくないときのルーファスは顔に出るのですぐにわかる。だが、こんな顔を見せるのはマクドール邸の居候たちとテッドに対してだけだ。
 あたたかい色のココアがゆらゆらとゆれる。将軍家のお坊ちゃんが、テッドのためにいれてくれたココア。
 ココアなんて、贅沢な飲み物だ。原料となるカカオは群島よりも南で栽培される植物で、トラン地方ではめったに流通しない。牛乳と砂糖も、裕福な家で消費するものである。テッドにしてみれば、値段が高いだけでべつに欲しいとは思わない。
 けれど、マクドールの家に招かれているあいだはべつだ。そこで出されるココアには、たんなる飲み物以上の意味がある。なんと称したらよいのかわからないが、これを飲むと、ほっとする。
 ルーファスは机に頬杖をついて、じっとテッドを見た。
 漆黒の瞳が、語りかけてくる。
 テッド、ぼくはきみの裏も見えているよ。
 気づいていないと思ってるだろう。なにも知らない、温室育ちのお坊ちゃんだと。
 だけど、心にとめておくがいいよ。ぼくは―――
「おやすみ」
「あ? あ、ああ……おやすみ」
 ルーファスは自分のカップだけを持って書斎を出て行ってしまった。テッドは軽く首をかしげ、それからまた手の本をめくった。


2007-05-25