庶民というのはまことしたたかで、どんなに手酷く打ちのめされても起きあがる。一時は存亡も危ぶまれたグレッグミンスターが以前のような活気を取り戻すのは雑作もないことだった。
歴史はきらびやかな飾りがついてずっしりと重みを増し、ルーファスの手のひらからこぼれ落ちて奔放に跳ねまわる。もはや自分がどうこうしてよいものではない。
緊迫した状況が日常的であった戦時下から一変して、ルーファスの身辺もなごやかになっていた。警護される必要がなくなったことにはほっと胸をなで下ろしたが、今後の身の振りかたを性急に決めなくてもよいと言われたのはしんそこ驚いた。おそらくは未成熟な精神を憂慮して、レパントの奥方あたりが根回しをしてくれたのだろう。しょせん自分はみんなにとって、まだ子どもにすぎないんだなと思ってルーファスは笑った。
人々の陽気な笑い声や、平和をさえずる鳩のグルグルポッポというのんきな声が復興した広場にこだまする。ほんの少し前までここが解放戦争の舞台だったなんてだれが想像できようか。
己が軍を率い、そして勝利を手にした。それは事実なのだ。けれどまるで遠い国の物語を読み終わったときのような、現実味に欠けた余韻だけがまとわりつく。
ご褒美だといわんがばかりの讃辞を昼夜ひっきりなしに食らっても、実感がわかないばかりか、逆にどんどん空虚な気分になっていく。ほんとうに自分はそんな大それたことをやってのけたのだろうか。シンボルとしてまつりあげられただけではないのか。実際に貢献したのは亡くなったマッシュ軍師や、縁の下で働いてくれたレパントだ。なのにマッシュの名を語り継ぐ者はごく少数にすぎないし、レパントも初代大統領の座はルーファスに相応しいなどととんでもないことを平気でいう。
流されるままにまかせておくと、ほんとうに大統領にされてしまいかねない。もちろんその意志がないことはきちんと伝えたが、レパントは不満たらたらだった。あせらずゆっくり考えるという折衷案でひとまずは落ち着いたものの、あれは将来に向けた口約束のようなもので、ひねくれたいいかたをすればレパントの仕掛けた罠だった。
断言してもいい。自分は人の上に立つ器ではない。解放軍の中心に座したのは、特別な理由があったからだ。それを失ったいま、代わりとなる理由も目的もなく、人を率いることはできない。
屋敷にいてもすることもなく、ただ窓の外が以前にくらべてざわざわと騒がしいだけ。
クレオはあまり料理を得意とする女性ではなかったけれど、グレミオがいなくなってからは食事のしたくを完璧にこなしてくれた。このごろは腕をあげて、ルーファスの舌をうならせる。クレオも彼女なりに、精いっぱいの気遣いをしてくれているのだ。
「ルーファスさま、シチューをつくってみたんですよ。召しあがりますか」
一抹の寂しさを感じた。クレオも変わった。坊ちゃんとはもう呼んでくれない。
ルーファスはぼんやりとした決意を固めていた。思い出の残るこの家にだらだらとしがみついていても、おそらくいいことはないだろう。それにいまの自分は、紋章を持っている。放置していたらこの右手は、クレオや町の人たちに牙を剥く。
それは逃げたいという衝動だったのかもしれない。偽りの笑顔をふりまくのもそろそろ限界を感じていたから。ルーファスを疲弊させたのは、不平等な賞賛でも、大人たちによる束縛でも、周到に準備されたお仕着せの義務でもない。自由という、あまりにも突然におとずれた不安定で如何様にも変形する物質の渦を、扱いあぐね、困惑するうちにふと託された紋章の重みに気づいたことだ。
すでに覚悟はしていたはずなのに、絶望にも近いショックをルーファスは感じた。取り残されるという恐怖がこれほど薄ら寒いなんて、想像もしていなかった。
ルーファスの身体はもはやこれ以上の成長を続けない。周囲がみな同じ速度で老いていくなかで、ひとりルーファスだけが石のように変わらないのだ。だれもがおぞましいと眉をひそめるだろう。クレオでさえも、老いぬあるじを羨むだろう。そんなのは我慢ができない。
テッドが旅をしていた理由が、ルーファスにはようやく理解できたような気がした。テッドも同じだ。逃げていたのだ。紋章を奪おうとつけ狙っていた魔女ウィンディから逃れるためというのは口実で、ほんとうは人から逃げていたのだ。そうにちがいない。
あの雨の夜以来、近づくことのできなかったテッドの部屋に足を向けた。クレオが額にいれて壁にかけたのであろう。親友の肖像画が大口をあけて笑っていた。
「テッド」
なにひとつ遺さず逝ってしまった少年の、せめてもの遺影がわりのそれに話しかける。
返事がかえってくるわけはない。喪った者は、もう二度と戻らない。父が、グレミオがまたそうであるように。
厨房に戻ると、クレオはまだ鍋と格闘していた。ルーファスは小さい荷物を隠しぎみにして、できるだけ明るく言ってみせた。
「ちょっと、でかけてくるね」
クレオは振り向きもせず、やさしい声で返した。
「ルーファスさま……坊ちゃん、シチューがさめる前に、お戻りくださいね……」
肩が小さくふるえているような気がした。
グレッグミンスターを出る前に、寄っておきたい場所があった。そこはマクドール邸からさほどの距離ではなく、屋根裏にあがったら見下ろせるほどだった。
ドアに手を触れると、予想どおり鍵がしっかりとかけられて、内側から板が打ちつけられてあった。しかたないので裏に回り、背伸びをして窓に手をかけると、それはあっけなく開いた。
悪戦苦闘してはいのぼり、床に足をつく。カバンからロウソクを出して点火すると、室内の様子がよくわかるようになった。ひんやりとして、ほこりの匂いがする。
この家は亡き父が賃貸契約を結んでいたらしいが、戦時中に帝国軍の管轄下に置かれて以降はずっとこんなほったらかしの状態だ。
見覚えのあるベッドやテーブルは残されている。丹念に調べてみると、食器類もみつかった。けれど目的のものは、どこを探しても見あたらなかった。帝国軍に没収されてしまったのだろう。
テッドのカバンと弓。いつも手足の延長のように使いこなしていたあの鉄の弓を、テッドの形見として旅に連れて行きたかった。ルーファスは落胆して、固いベッドに腰掛けた。
テッドらしい。ほんとうになにも遺していかなかったんだ。墓すらも。
親友がそう望んだのかもしれない。ならばがっかりすることはない。形見など、いらない。
最後にこの家に来たのはいつだったろう。この狭いベッドで、じゃれあって眠った。それほど時は経っていないのに、遠い昔のことのように感じる。
明け方まで、もう少し時間がある。ここでテッドといっしょに待とう。東の空がオレンジ色に染まるまで。そのあとはもう振り返らない。行くあてはないけれど、だいじょうぶ。テッドが、ソウルイーターがきっと導いてくれる。
ロウソクを吹き消してから、ベッドに横たわった。毛布を頭からかぶる。なんだかテッドの匂いがした。
目を閉じる。
息づいている。テッドの魂。強く、弱く、ささやきながら生と死の真実をぼくに教えてくれる。
「テッド」
ルーファスはもういちど親友の名を呼んで、短い眠りについた。
2007-01-18