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叛旗の下、夜は流るる

作者注:このお話は「ルーファスとテッドの物語」や30題作品「青空」から始まる一連の続き物と設定がリンクしています。そちらを読む必要はございませんが原作と異なるオリジナル設定ですので念のため。

叛旗の下、夜は流るる

 太陽暦457年。ルーファス・マクドール率いるトラン解放軍は、帝国軍にとって最後の盾となる水上砦シャサラザードを陥落させた。この勝利によって帝都進軍のシナリオは確実なものとなった。帝都に隣接する商業都市レナンカンプの地下からはじまったレジスタンスはわずか三年あまりで強大な軍事勢力へと変貌し、大陸随一の覇権国家であった赤月帝国を激震させたのだ。
 赤月帝国はその歴史のはじまりから一貫して絶対王政を固持しつづけてきた。時の皇帝は国家におけるすべての権力を握っている。事実、初代皇帝クラナッハ・ルーグナーは王権神授を現前する人物であった。クラナッハがすなわち国家であり、神の代理人なのだった。真なる27の紋章のひとつ、覇王の紋章が赤月の繁栄を支えていた。そのことを知るものは正統な帝位継承者のみである。帝位継承権を狙ったゲイル・ルーグナーが破れたのは、紋章の存在を知らされぬが故の不幸であった。
 黄金の皇帝バルバロッサ・ルーグナーは紛うことなき帝位継承者であったから、覇王の名を賜ることに何ら問題はないはずだった。皇帝を護る鬼神六将軍の存在と、中央集権を貫きながらも民をないがしろにしない政治はすべての領民の信頼を得ていたのだ。容易には揺らぐはずのない地盤はたしかにあった。
 けして脆くはなかった赤月を瓦解させたものはなんだったのだろう。
 地方分権化という、より近代的なシステムを採択したまではよかった。交易の活発化に逆らわぬ自由な発想は先見の明があったと言ってよい。諸外国に対する交易は国家の新陳代謝をうながす。鎖国の思想をふるい落とし、名実とも大陸の覇者となるべく、赤月帝国はその穢れなき一歩を踏みだしたはずであった。
 だが、よかれと信じて地方に配置した上級士官が、国家の足を引っ張る結果となったのである。
 皇帝の忠実なる僕であるはずだった官僚たちは、中央の目の届かないところでは悦楽を求める利鈍な人間であった。金も権力も公に与えられている。これよりわかりやすい腐敗の構図はない。帝国にとってのさらなる不幸は、破滅の足音が皇帝の耳に伝わらなかったことだ。
 覇王の紋章を所持するとはいえ、皇帝バルバロッサもまたひとりの人間であった。彼は愛する妻クラウディアを亡くした悲しみからは立ち直ったようにも見えたが、その喪失感は依然として根の深いところに澱んでいた。後継ぎともなる子供がいなかったため、上層部が躍起になって推しすすめた再婚話もすべて払いのけた。それほどクラウディアへの思慕は大きかったのだ。
 ところがルーグナー一族のお家騒動は、ひとりの女魔術師の登場によってがらりと様相を変えた。
 魔術師ウィンディは、赤月帝国お抱えの占星術師レックナートの姉を名乗った。レックナートは全盲で物静かな女性であったが非常に優秀な星見の才を有し、トラン湖北方の小島に隠遁することを条件に赤月帝国に協力していた。他者を寄せつけることもなく、定期的に星見の結果を使いに持たせるだけで、その正体は謎に包まれていた。だがバルバロッサはレックナートを全面的に信頼していたし、レックナート自身もウィンディのことを否定しなかったので、グレッグミンスター城はウィンディを宮廷専属の魔術師として招きいれたのである。
 ウィンディの魔力は城内のすべての魔術師をはるかに凌ぐ強大なものであった。彼女の能力はたちまちのうちに認められることとなり、やがて皇帝に次ぐ高い地位を授かった。
 特筆すべきは皇帝バルバロッサの度を超えた寵愛である。噂では前妻クラウディアの面影を彼女に重ねたらしいとのこと。永年皇帝に仕えてきた長老たちは疑問に思うできごとであった。だが、バルバロッサが次の妃にウィンディを選ぶことはもはや疑いようがなかった。
 面影があるとするならば目鼻立ちがおぼろげにそうであるかもしれない。しかし現実には、「似ていない」という圧倒的多数の意見が城内を占めた。あたたかな慈愛に満ちたほほえみを絶やさなかったクラウディアに対し、ウィンディの笑みは冷ややかで狡猾だった。持って生まれた美しさを醜く歪ませ、人を見下し、蔑む。侍女たちも畏れて宮仕えを辞す始末であった。
 思えば、ウィンディの出現が悲劇のはじまりだったのである。皇帝は才色兼備の宮廷魔術師に溺れ、政治を顧みなくなった。堅実な官僚たちが危惧の声を発しても、絶対王政の壁がそれを阻んだ。
 皇帝はなにを考えておられるのか。
 いまや実質的な主権は皇帝ではなく、傍らの宮廷魔術師が握っているようなものだった。理想崩れゆく帝国に引導を渡して叛軍に身を寄せる者は後を絶たず、双方の軍事力は日に日に拮抗していくこととなった。
 帝国軍と解放軍、運命の最終決戦への秒読みが開始された。

 ルーファス・マクドールは、自己の砦であるトランの湖城で、水上砦シャサラザード戦で捕虜にしたソニア・シューレン将軍と対峙していた。
 シャサラザードの攻防は熾烈を極め、両軍は甚大な人的被害をこうむった。捕虜にした帝国第六軍の生き残りをなんとか説得し自軍に引きいれないことには、次なる帝都決戦で苦戦を強いられることは明白であった。
 ソニアは女だてらに第六軍を任された聡明で賢い武将であるから、説得に応じる可能性が高いとは解放軍軍師マッシュの考えであったが、ルーファスはそれとは別にソニアと対話しなくてはならない理由があった。またそれは仲介を挟まずに、秘密裏に行われる必要があった。
 ルーファスは牢番にマッシュの命であると嘘をつくと、人払いを頼んだ。二人きりでとりのこされたことを察するや、ソニアは鉄格子越しにルーファスを頑と睨みつけた。憎悪に燃えた瞳であった。
 方やルーファスの漆黒の瞳は感情を映さぬ静かな湖であった。渾身の憎悪をもその深い闇に沈みこませようとする、ぞっとするような静謐さであった。
 ルーファスは躊躇いもなく錠にカギを差すと、自らを牢の内部にすべりこませた。そのあいだも表情をまったく変えない。美しくととのった顔立ちは、この少年に以前にはなかった冷たさをそなえていた。
 ソニアはルーファスの変貌ぶりに内心驚きながら、覚悟を決めた。相手のただならぬ様子から、彼は自分を殺害に来たのだ、と確信したのであった。
 ルーファスは父親のテオをもその手にかけた。目的のためなら手段を選ばない、修羅の道を彼は歩みはじめている。黒曜石のような双眸はもう後戻りはできぬと悟った瞳だ。
 歩むがよかろう。いまふたたび阻む者の血でその掌を濡らして。
 ソニアは背をのばして瞳を閉じた。これでテオ様の傍に行ける、と思った。
 だが、その願いは届くことはなく。
「ソニアさん」
 凛と張った声がソニアを現実に呼び戻した。ルーファスの声は固い鉄の壁に反響し、プライドの高いソニアをかっとさせた。おまえと話すことなどなにもない。この期に及んでまだ自分を辱めようとするのか。
 ソニアは手のふるえを抑えることができなかった。きつく指を組み、唇をわななかせた。
「……その汚らしい口で、わたしの名を呼ぶな」
 ようやくそれだけを絞りだした。ルーファスに動揺は感じられなかった。むしろ予想どおりの反応だったのか、ルーファスはごく淡々と話をつづけた。
「……礼を失しました。貴殿を帝国水軍の将と敬って、申し上げます。我が軍に力をお貸しください」
 単刀直入。ソニアは絶句した。なんという配慮のなさ。厚かましいにもほどがある。
 つもり積もった憤りが爆発するのに時間はかからず、ソニアはぶるぶると身体をふるわせて怒鳴りつけた。
「いまさらわたしになにを願うと言うの? 裏切ったおまえが。たくさんの民を殺したおまえが。あれほど愛されながら、その命をもぎとったおまえが!」
 激情に負けてソニアは涙をこぼした。戦場ではけして泣くことはなかった。ルーファスへの憎しみに耐えきれず、ついに決壊してしまった。
 この世界でただひとり、ルーファス・マクドールだけは絶対に許さない。
 ひどい言葉をいくらぶつけても石のようにぴくりともしないルーファスに、ソニアは絶望的な眼を向けた。やがて疑念もわいてきた。ルーファスからはおよそ感情というものが伝わってこない。人の死に触れすぎて愚かにも麻痺してしまったのか。それにしても、これほどの短期間に人は変わるものなのか。
 じつは、ソニアとルーファスは昔からの馴染みであった。ソニアの母キラウェア・シューレンとルーファスの父テオ・マクドールはともに帝国六将軍に名を連ねる武将であり、継承戦争を生き残った同志であった。
 幼かったルーファスはソニアを「おねえちゃん」と慕い、おぼつかない足取りでどこまでもとことことつきまとった。ソニアもそんな弟君が可愛くてしょうがなかった。「しょうらいボクがおよめさんにもらってあげる」という、十も年下のやんちゃ坊主からのままごとじみたプロポーズも、にこにことして頂戴した。キラウェアが不幸な死を遂げることがなければ、ソニアとルーファスはままごとの続きを別の形で迎えることがあったかもしれない。
 キラウェアの死後、将軍家シューレンの名は娘のソニアが受け継いだ。母親譲りの剣技と高い指揮能力で数々の武勲をたて、水神キラウェアの再来と喝采をあびながら、テオと肩をならべる帝国将軍にのぼりつめた。
 そのころにはすでに、ソニアの心はテオの許にあった。年齢差は二人を阻む壁にはなり得なかった。テオもソニアを女性として愛した。ルーファスは初恋の人を父親に横取りされるという奇妙で切ない失恋を味わったが、気がついたときにはもう入りこむ余地などはなかったし、ソニアが新しい母親になるというならばそれもすてきだと考えた。
 テオが再婚の意を固めるなら、息子ルーファスが帝国近衛兵として立身し、テオ自身も北方の務めを終えて帝都に戻るときが頃合いであった。そう、運命の歯車が狂いさえしなければ。
 ソニアはルーファスが帝国を裏切り、父親のテオを殺めた理由を知らない。だが知ったところでなにが変わるだろう。最愛の男性をその息子が殺してしまったのだ。弁解や理屈はソニアには無用のものだった。ただ、憎かった。ルーファス・マクドールが。
 憎悪に曇った瞳に映るルーファスは泰然としすぎていた。ここにいるルーファス・マクドールは、幼き日々をともに過ごした可愛いルーファスではない。彼は記憶とあまりにも違いすぎた。別の誰かが成長したルーファスを操っているようにも思えた。
 騙されるな、とソニアは身構えた。
 ルーファスの姿をした敵将はおだやかに言った。
「恨んでくれても構いません。いや、あなたはぼくを憎んで当然だ。この戦いが終わって、あなたがそうしたければ、ぼくを殺してもいいです。だけどぼくは皇帝とウィンディを倒すまでは死ぬわけにいかないから、それまでは力を貸してください。こんな取引は一方的だと思われるでしょうけど、あなたがこの国を心より愛していることを、ぼくは知っています。だから、ぼくはあなたを信じます」
 ずるい、とソニアは唇を噛んだ。赤月帝国の腐敗はとうにわかっている。自分が戦うべきは叛軍ではなく、帝国の斜陽を認めたがらない自分自身の弱い心なのだ。その点に於いてはルーファスがソニアよりも何倍も賢かった。だからといって、ルーファスのしたことは絶対に認めない。
「わたしを信じる? フン。ならばあなた、父親は信じられなかったのね」
 テオを引き合いにだしたとき、ルーファスの表情がはじめて動いた。ほんの一瞬であったが、その瞳に哀しみの色がうつろった。
「父は……信ずる道を往くなら、まず自分を乗り越えていけといいました」
 ルーファスが惨めに弁解することを期待していたソニアはどきりとした。少年の声は崇高で、汚れをまったく感じさせなかった。じわりと、悲しみが押し寄せてきた。
「……だからって、なぜ……殺したの、テオ様を。お、お父様でしょう……あなたの、あなたのしたことは……許されない、裏切りじゃないの……地獄に堕ちるわ、ルーファス。地獄に……」
「ええ」とルーファスは言った。「覚悟はできています」
 ソニアはかっと瞳を見開いて「そう」と唸った。もはや、この少年になにも同情するまいと決めた。涙をぼろぼろとこぼし、歯をくいしばってその台詞を叩きつけた。
「いい根性ね。わかりました。我が水上軍は解放軍に協力を約束します。ただし、この戦争が終結するまでのあいだよ。それから、わたしはあなた個人に手を貸す気はないわ。そのかわりずっとあなたの傍らにいて、そう、あなたが血反吐をはいて死ぬのをこの眼で見てあげる。わたしが、あなたが地獄へ往くのを見送ってあげる」
 ルーファスは無言で頭を垂れた。少しして事務的に用件を告げる。
「カギは、あけておきます。水上軍の配置については軍師のマッシュとご相談ください。なにかお困りのことがあれば承ります。貴殿のご活躍を、期待します」
 ソニアはいくぶん呆れながら軽蔑した眼でルーファスの背を追った。だが次の瞬間ルーファスは忘れ物を思いだしたかのように振り返った。ソニアはぎくりとして、慌てて表情を追い払った。
「……あの」
「な、なに?」
 先ほどまでのルーファスとは少し違う、かすかな迷いを浮かべた顔にソニアは警戒して、つい訊きかえしてしまった。ルーファスはわずかに口ごもったあと、声を低くして言った。
「……グレッグミンスターで……テッドに、会いましたか」
「テッド?」
 意外な質問にソニアの記憶が空回りした。ルーファスとともに嫌悪するその名前。ルーファスを解放運動に荷担させた張本人であり、すでに帝国軍によって罰を受けた愚かな少年の名。
「ええ、会ったわ。見た、というほうが正しいかしらね」
「……見た?」
「そう。あの子が処刑される前の日だったかしら。テオ様がどうしてもとおっしゃるから、牢屋を見下ろせる回廊にご案内したの。それが最初で最後」
 ルーファスはしばらく口をつぐんでいたが、やがて小さくひらいた。
「あいつ、どう……だったですか」
「どう、って?」
「様子……泣いてましたか、それとも、ほほえんで…ましたか」
 今度はソニアが口をつむぐ番だった。ひどく難しい質問であった。どう答えてよいのかわからない。敢えて言うならば。
「そうね……死んだ眼を、していた。いい気味」
 ルーファスはうつむくと、「ありがとうございました」と小さく言い残し、今度こそ立ちどまらずに歩いていってしまった。

 その日は月光のすばらしく眩しい晩で、トラン湖は一枚のなめらかな鏡のように蒼白い光を反射させていた。夜が明けたらこの湖面を幾十もの船団が切り裂くのだ。トランの未来のため。今宵はそれぞれの秘めた想いを語らう最後の夜だった。
 さっきから自室にこもりっきりのルーファスを気遣って、パーンは内廊下をせわしなく行ったり来たりしていた。
 城内はいつになくざわついていた。誰もが皆、眠れぬ夜を過ごしているのだろう。長い道のりであった。幾多の犠牲を払いながら、ようやくここに辿りついたのである。参戦した理由は十人十色でも、願いはただひとつであった。
 赤月帝国を、倒す。
 トランの大地に幸あれ。
 終夜営業を決めこんだ酒場からだろうか。トラン地方に伝わる伝統の唄が聞こえてくる。
 ソニア・シューレンも、わきおこる奇妙な感情を不思議に思いながら、城の屋上で清冽な風を楽しんでいた。
 さて、腕組みをしてどすんどすんと歩きまわるパーンに業を煮やしたのはビクトールである。持っていた酒瓶を置きもせずに、ドアを開けて叫んだ。
「おい、そこの熊!」
 自分のほうがよっぽど熊に近い容姿をしているが、そのへんはこういう場合酔った者勝ちである。パーンはまず相手の無礼な物言いにむっとし、次いでその口からはみ出している海洋軟体生物の足らしきものににやりとした。
「いい塩梅に色づいてますね、ビクトールさん」
「おうよ。ちょうど相手がいなくて張りあいがなかったんだ。おまえ、つきあえ」
「いや、わたしは酒はそのう、あんまり……」
「うるせえ。てめえにちょいと話があるんだ。四の五のいわずにはいってこい」
 パーンはちらりと廊下の奥にあるリーダーの部屋を気にして、諦めたように「では」と会釈した。よくも悪くも根が真面目すぎるパーンは、年長者の誘いを断ることは苦手であった。
 年長者といったが、じつはこの二人、同い歳である。だが作戦においては現場に強いビクトールが主導権を握るケースが圧倒的に多く、そのためパーンはこの男から一歩退くかたちになった。ビクトールは傭兵然とした荒っぽさとは対照的に、人を思いやることにかけても超一流であったのだ。
 出会ってからの期間が短いビクトールに、ルーファスが全面的な信頼を寄せていることをパーンは多少の嫉妬を交えながらも安堵していた。坊ちゃんの心の支えになってくれるのなら誰でもよかった。自分にはその資格がないのだから、と。
「まあ、そのへんに適当に座っとけ」
 適当に、と言われても椅子もなにもみつからないうえに目も当てられないほど散らかっている。身のまわりのことに関しては大雑把な性格なのだろう。苦笑いを返しながらパーンは床に敷かれている茶色い毛皮に座った。よくよく見るとこれがまた熊の毛皮。
「あったけえだろ。ジョウストンのほうにいる酒飲み友だちから譲ってもらったんだ」
「ビクトールさんは顔が広いんですね」
「ま、適当にな」
 熊男は色とりどりの酒瓶が屹立する一角を指さした。
「そのへんの酒から適当に好きなのを選びな」
「ぷっ。なんでも適当なのですね」
「適当はいつでも真っ当だ」
 ビクトールの屁理屈に大笑いすると、パーンは酒瓶のコルクを素手でひねって開け、少し迷ってラッパ飲みした。酒は実際のところほんとうに得意ではないのだが、今だけは思いきって豪快に飲んでみたい気がした。
 心地よく発泡した爽快な味がした。
「おっ、眼が利くな。そいつはとっておきのカナカンの秘蔵酒だ」
「とっておきのをころがしておくほうが悪いんですよ」
「ハハハ。まあいい、そいつは特等賞ということでおまえにくれてやる」
 パーンの頬が一気に火照るのを見届けると、ビクトールは声を落とした。相手がひっくり返ってしまわないうちに本題にはいる気である。
「なあ、おまえ、クレオのことをどう思ってるんだ」
 パーンは不意をつかれて口中に残った酒をぶーっと吹き出した。
「わっ! 汚ねぇ……じゃなくてもったいねぇ!」
「ど、ど、ど、ど、どうって」
 パーンはあたふたと悶絶して髪の毛を逆立てた。純情もここまでくると滑稽ですらある。話題を振ったビクトールのほうが困惑してしまいそうだ。
 そんな下世話な意味で訊いたつもりではない。もう少し、込みいった話だ。
「おまえ、クレオが自分を避けていること、気づいてるのか」
 純情男にもわかりやすいように、今度はストレートに言ってみた。パーンはぽかんとすると、次にしょぼんと頭を垂れた。
「ったく……世話のやけるやつだな」
「すいません」
「なんでオレに謝ンだよ」
 ビクトールは不満げに頬杖をついた。自分もぐびりと酒をあおる。少々よけいに飲んだところで、意識を保っていられる自信はあった。
 パーンは恐縮してまたぺこりとお辞儀したが、その眼は重く沈んでいた。
「クレオがな、どうも思いつめちまってんだよな。相談できる相手はおまえしかいないと思うんだが。フン、どうせおまえのコトだ、なにがあったか知らねえが昔の問題にはっきりと白黒つけてねえんだろ。端から見ていて苛々すんだよ。いまのままではクレオのやつ、自分ひとりでボッチャンの盾になるとすっ飛んでいきかねないぜ」
 ビクトールの鋭い指摘にパーンは完全に黙りこくってしまった。仰せのとおり。反論の余地すらない。
 マクドール邸で同居生活をしていたときの明るいクレオはいま影も形もなかった。険しさを崩さない硬い表情に、パーンはかける言葉を失った。自分の浅はかな行いが招いた結果であったが、言葉で謝罪するよりもまず行動をと思った。
 だが、間違いであったのかもしれない。クレオはもしかしたら、パーンの言葉を待ちつづけて疲れ果ててしまったのかも。
 自分は幾たび悔やんだら、大人になれるのであろう。パーンは歯噛みした。
 ふと、ビクトールは意外なことを訊いた。
「パーン。おまえ、テッド……って知ってるな」
 パーンはぎくりとした。それこそがパーンが悔やんでも悔やみきれない、過去の過ちで犠牲になった少年の名であったから。
「……ああ」
 虚ろに返事をするパーンに、ビクトールは質問をつづけた。
「そいつがどうなったか、おまえは知っているのか」
「帝国に捕らえられたあと、処刑された……と聞いた」
 ビクトールの眼がパーンを向いた。低く、だがはっきりと告げる。
「そいつはガセネタだ。やはり、クレオはおまえさんになにも教えちゃいなかったんだな」
 パーンは衝撃を感じて跳ねあがった。「……どういうことだ?」
 ビクトールはいったん立ちあがり、廊下を窺って人のいないことを確かめると、ドアを固く閉めた。パーンの前に尻を下ろす。
 パーンの喉が、ごくん、と鳴った。
「ここだけの話だぞ」
 ビクトールは前置きを呟いてから、話しはじめた。
「テッドは表向きには処分されたことにして、じつはやつらに生かされてきた。ルーファスを罠にかける、エサとしてな。あいつらは親友だったそうじゃないか」
 パーンはうなずいた。テッドともマクドール邸で一緒だったことがある。二人の仲がよかったことは、疑いようのない真実だ。
「魔術師ウィンディは、ルーファスからあのクソ忌々しい紋章を奪うために、こともあろうにテッドを操ってけしかけてきた。おれもクレオもその場にはいなかったが……ホラ、竜洞騎士団に同盟を求めに行ったときさ。フリックが同行していた。これはヤツから聞いた話だが」
 フリックというのは解放軍の初期メンバーのひとりで、初代リーダーをつとめていたオデッサ・シルバーバーグに次ぐナンバー2だった男である。ビクトールとはよき相棒のようであった。
「フリックはテッドのことも、ルーファスの事情も知らない。だから、ヤツの報告は真実だと思っていい。シークの谷で、テッドはルーファスのことを待ちかまえていた。ウィンディもだ。フリックたちはウィンディの術によって足を止められ、テッドとルーファスだけが、向かいあった。なにか言葉を交わしたあと、テッドはルーファスに弓を放った」
 ウィンディの使う妙な紋章のことはパーンも聞いていた。人を意のままに操るという。花将軍ミルイヒがグレミオの命を奪ったのも、その紋章に操られてのことだった。
「弓は脅しにすぎなかったが、テッドは次にソウルイーターを返すよう要求してきた。もちろん、そんな要求をのむルーファスではない。ルーファスの棍とテッドの短剣が、激しい討ちあいになった」
「坊ちゃんの棍に対して短剣で、だと? バカな。実力差がありすぎる。勝ち目のない戦いを敢えてしかけるなんて……」
「だから、ウィンディにとってテッドの命などどうでもよかったんだろ」
 パーンはハッとした。
 そうか。二人が共倒れになることこそ彼女にとってもっとも都合がよいことなのだ。ルーファスはテッドを相手に防御の姿勢しかとれまい。操られていても、その身体は親友のものなのだから。
 ルーファスの激しい迷いは想像に難くない。装備も実力も勝っているのに、ルーファスは心を鬼にすることができなかったろう。心優しい坊ちゃんのことは、誰よりもパーンがよく知っている。
 だが、ビクトールは戦慄すべき結末を語りだした。
「討ちあいはテッドの優勢になった。ルーファスは棍を叩きおとされ、動きを完全に封じられた。それでも、ルーファスは紋章を渡すことを拒んだ。テッドは短剣をかざして……”死ね”、と呟いたそうだ」
「……」
「だが、振りおろされた先はルーファスではなく……テッドの……つまり、自分自身だった」
「えっ?」
 ビクトールはひとつ咳払いをした。
「それから先が、フリックに言わせるとどうも妙なんだ。ルーファスが絶叫するとともに、どうやらあの右手の紋章が発動したらしい。ぞっとするような冷たい渦、ってフリックの野郎、青ざめていやがったしな。一瞬で霧散したそうだが。なにが起こったのかおれにはわからん。だが、テッドはそん中で正気を取り戻していた。そして、ウィンディに何かを叫び……倒れた」
 さらに声のトーンを落とす。いちばん告げたくない事実を、これから言わなくてはいけない。
「ルーファスは、血まみれでテッドの身体を支えていた。二人は会話をしているようだった。そして、フリックたちの目の前でルーファスは……」
 少しの間。
「……ルーファスは、手にとった短剣で、テッドの喉頸を掻き斬った」
「……!」
 パーンは絶句した。酒瓶がガタンという音をたてて倒れた。
「そんな……まさか、そんな……バカな」
「事実は事実だ。テッドの命を絶ったのはルーファスだ」
「バカな!」
 パーンは激しく否定した。気が動転して、全否定でもしないことにはどうにかなってしまいそうだった。それが仮に事実だったとしたら、いまのいままで自分はなにをのんびりと砦暮らしを愉しんでいたのか。
 シークの谷から帰還したルーファスは、パーンの見た限りいつもと変わらぬ「坊ちゃん」であった。仲間に向ける笑顔も、軍師と真剣に戦略シミュレーションを議論する姿も、博打好きのメンバーにからまれて夕飯のおかずをかっぱがれたと苦笑する顔も、たしかにルーファスのものだった。
「クレオは、このことを……」
「知っている」
 ビクトールは断定した。「クレオは竜洞騎士団でリュウカン先生につきそっていたので、直接フリックから報告を受けた。クレオが思いつめた顔をするようになったのは、あの日からだとおれは思う」
「おれは……いったいぜんたい……くそっ」
 きつく眼を閉じて歯噛みするパーンを、ビクトールは複雑な思いで見守った。ルーファスの異変に気づかないのは、この男の無骨さ故だ。笑顔を張りつけた仮面を手放さなくなったルーファスを、ビクトールはひどく案じていた。実の父に次ぎ、親友もその手にかけたのだ。ルーファスの精神がこれ以上、平静を保っていられる理屈などどこにもない。
 あのことを、パーンに伝えるべきか─────
 おそらくはパーンがいまだに知らずにいる、もうひとつの驚愕すべき真実をだ。
 ビクトールは少しのあいだ考えて、決心した。この男は真実を知るべきだ。ほんとうに過去の過ちを悔やむ気があるのなら、受けいれることができるだろう。
「パーン、飲め」
 倒れた酒瓶をその手に握らせた。パーンはうなだれながら首を振る。
「なあ、パーン。この戦いが終わったらおまえはどうする気だ。勤め先はもうなくなっているかもしれんぞ」
 ビクトールの問いにパーンはぼんやりと答えた。
「さあ……修行の旅にでも出るつもりですが」
「ふん。じゃあ傭兵稼業や用心棒でメシ代を稼ぐという可能性もあるわけだな」
「そういうことになりますかね」
 ビクトールはパンと膝を叩いて豪快に言った。「よし。傭兵稼業にもっとも大切なのは酒だ。酒を飲めんことにはどうしようもない。おれがいますぐ特訓してやる。では、ぐっと飲め」
「そんな、ムチャクチャな」
 ビクトールの強引さにパーンは逆らうことができなかった。さっき感じた爽快さはどこへやら、やたらからくて苦いだけの液体を無理をして喉に流しこむ。熱さがカッと胃袋からわきおこり、パーンの心は妙な具合に中空を漂った。
「ビクトールさん、すいません。自分、まことに不甲斐なくも泣き上戸かもしれません。ヒック」
 酔ってさえいなければ立派な男泣きであった。惜しむらくは顔全体がみすぼらしく赤い。
「そうだ、それでいいのさ、パーン。おまえはちいとばかり実直すぎらあ。マジメなのはよいことだがな、前ばかり見てねぇでたまには後ろを振り返れ。置き去りにしちまった誰かがおまえを見ているかもしんねえぞ」
「クレオ」
「ああ、そうだ。クレオだってそうかもな。まだ大勢いるかもしれねえ。それはおまえ自身で、気づけ。な」
「はい」
 パーンはまた瓶に口をつけた。明日の出兵に二日酔いのステータスでは困ったことになるが、この際しかたがないだろう。伝えられるのは今夜しかあるまい。
 ビクトールは自分もゆるゆると酒を流しこみながら、言った。
「なあ、パーン」
「へい、なんれふか」
「おれもな、テッドとはちいと顔見知りなんだ」
 パーンは意外そうな顔を向けた。ルーファスがレナンカンプのレジスタンスと接触したのはテッドと離ればなれになったあとの話だから、ビクトールとテッドのあいだに直接の面識はないはずだ。
「つい、こないだな。ルーファスとクレオもいっしょだった。どっか知らねえ場所に星辰剣のヤロウに飛ばされて、行った先にこんなちっこいテッドがいた」
「……はあ?」
 案の定、パーンはぽかんと大口をあけた。なるほど、いまの説明では理解しろというほうが無理がある。だがもっと詳しく説明したところで、理解はさらに遠のくだけだ。こういう場合は単刀直入に限る。
「そこはいまから三百年前の世界だったのさ」
 突拍子もなさすぎる展開に、パーンの脳は酒の力を借りることもなく停止した雰囲気だ。眼の玉をひん剥いたまま銅像のようになってしまった。
「あー、もしもし? わかるか」
「わかりませんよ」
「むう、やっぱり」
 不毛な会話もそれ以上続かない。パーンはなにを思ったかすっくと立ちあがり、二、三度屈伸をして、ふたたびどすんと腰を下ろした。
「覚悟はできました。先を進めてもらえますか、ビクトールさん」
「飲むか」
「飲んでます。どうぞお構いなく」
 ビクトールは苦笑して、実直な好青年の肩をぽんぽんと叩いた。
「おれたちが過去の世界で立ちあったのは、まだガキのテッドがじいさんから例の紋章を継承する現場だった。そこにあのウィンディが絡んでやがったのさ。あの女、テッドを執拗に三百年間も追っかけてやがったんだ」
「ちょっとストップ」
 至極真面目な表情で、パーンが止めた。「……三百年?」
「そうだ」
 今宵はいったい何度硬直すれば夜が明けるのだろう。唖然とする話ばかりを聞かされて、パーンはすでにパニックを起こしかけていた。テッド、三百年、紋章。個別の単語がどうしてもかみあわない。
 パーンの混乱を察知してビクトールは補足した。
「真の紋章ってやつは、その所有者に不老の力を与えるものらしい。テッドはな、三百年前に会ったとき、なんにも知らない無邪気なただのガキだったんだぜ。ちっこい手でおれのこの手を握ってさあ、クマのおじちゃんなんて言いやがって。へっ、おれのことをクマとぬかしたやつは、この世界であいつが最初なのさ。まあ、名づけ親だな。おれたちは、あいつが運命ってのに翻弄されるそのいちばんはじめを見ちまった。なんの手出しもできずに、たすけることもできずに、おれたちはあいつを置き去りにするしかなかった……」
 ビクトールのごつい掌が開かれてまた握られた。いまでもありありと思いだす。小さな手のぬくもり。「クマのおじちゃん」と慕う声。しあわせを疑わない幼い笑顔。
「ざまあねぇな……」
 幼いテッドがどんな思いで生きのびてきたのか、想像するだけで胸がつまった。
「考えてみろよ。三百年だぞ、三百年……赤月帝国なんかより、ずっとずっと長いあいだ生かされてきたんだ。その気持ちがわかるか? おれには、わかンねぇよ……あんな……子がよ……」
 パーンは、ビクトールが泣いているのではないかと思った。こみあげる感情を必死に耐え、身をふるわせている。あの豪放な大男が。
 パーンの記憶に残された、へらへらとよく笑う悪ガキのテッド。三百年という気の遠くなるような、時。空想の産物だと信じて疑わなかった、真の紋章。
(ああ、そうなのか)
 パーンは、いましがたまで噛みあわせることを無意識に拒んでいたパズルの断片を、難なく当てはめた。それと同時に、どうしようもなく切ない想いがこみあげてきた。
「坊ちゃんは、すべてを知っていたのですね」
 ルーファスが継承したのは、右手の紋章だけではなかったのだ。彼はテッドの願いを、テッドの魂を、テッドという存在すべてをその身に継承したのだ。
 パーンは、まるで自分に言い聞かせるように語りはじめた。
「わたしは、いままでわたしの浅はかな考えがテッドくんを死へ追いやり、坊ちゃんを悲しませたのだと後悔してきました。解放軍に身を投じてからは、自分はいっときは坊ちゃんを裏切った者であると、だからその懺悔のために黙々と働こうと。そのためにテオ様に刃も向けました。ですが、所詮は保身のためにすぎません。坊ちゃんがいちばん苦しんでいるときに、わたしは気づきもしませんでした。ほんとうに、わたしはまだまだ、修行が足りません。あの世で、テッドくんに笑われてします」
 ビクトールは顔をあげて、ふっと笑った。パーンとはこの先、いい酒飲み友だちになれそうだった。もちろん、精神修行も酒修行もまだまだこれからの甘ちゃんではあるが。

 静かに夜は過ぎていく。
 トランの湖面をときおりふるわす小さなさざ波は、人々の希望と涙と祈りがおこした振動。
 天空にある月だけが、すべてを知っている。
 赤月帝国におとずれた、それが最後の夜であった。


2005-12-06