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春待夜咄

 グレッグミンスターの石畳を真っ白な霜がおおった朝、ルーファスは自分の発したくしゃみに驚いて目がさめた。身体のふしぶしが鈍く痛み、風邪のひきはじめですよと喉の奥がむず痒く主張していた。あたたかい毛布と湯たんぽはどこへいっちゃったんだろう。きょろきょろすると、そのふたつは塊となって五メートルほど離れた暖炉の前にころがっていた。
 たしかにゆうべは少しばかり冷えこんだし、互いのぬくもりを湯たんぽがわりにする計画は途中まではうまくいっていた。想定外だったのは、暖炉の熾が意外に早く力尽きてしまったことと、ゆうべに限ってテッドがなにかあやしげな夢を見たらしく、寝言を叫びながら大暴れしたことだ。
 毛布の片割れをテッドに押しつけて、分離したまではよかった。問題はそのあとだ。朝になってなぜ自分は寝間着一枚で冷たい絨毯の上におり、テッドは毛布を二枚も巻きつけてしあわせないびきをかいている?
 ゆうべの百倍の威力で蹴り飛ばしてやろうかと思った。
 かわいそうなぼくが風邪をひいたら、ぜったいにうつしてやるから覚悟しな。
 みみっちい復讐を画策しながら身体の硬直がやわらぐのを待っていると、早起きのグレミオがガウン姿で居間にはいってきた。暖炉にくべる薪を手にしている。
「おやまあ坊ちゃん。またこんなところでおやすみになったんですか」
 グレミオは眉をひそめると、絨毯いちめんにばら撒かれている戦略ボードゲームのアイテムやカードを拾いはじめた。この青年は見かけとはうらはらに几帳面でまめなのである。朝っぱらから散らかっているという状況がそもそも容認の範囲外らしい。
 ルーファスとテッドが夜の更けるのも忘れて熱中していたのは、架空の都市を舞台に、治安軍とテロリストが追いつ追われつする、かなりの頭脳を要するサバイバル・ゲームだった。テロリスト側はアジトと補給線を確保しながら逃げまわり、治安軍側は強力な包囲網をつくりあげながらそれを追い詰めていく。基本的に勝敗は一網打尽にするかあるいは逃げおおせるかで決まる。実際の戦闘なら無血はあり得ない状況下で、生死に影響しない駆け引きに没頭できるゲームというものは痛快だ。影響するのは寝食を忘れるくらいのものか。寝不足では人間、容易に死なない。
 テロリスト役のテッドの繰り出す戦略は冷酷で、手加減のかけらもなかった。歩み寄りや会話という交渉スキルは片っ端から破棄していく。その手口は狡猾で時には残酷でもあった。薄笑いをうかべながら駒を移動させるテッドにルーファスは冷や汗をかいた。相手がルーファスでなくともそうしただろうか。とにかくテッドとのゲームは、押しも押されぬ真剣勝負だった。
 逃げまわっているだけかと思いきや、綿密に罠を仕掛けている。そのひとつひとつは些細な足止めに過ぎないが、次の一歩を逃げ切るためにはもっとも確実な手だった。ルーファスは幾度も歯噛みしたが、優等生的な掃討作戦を崩すことはしなかった。展開は終盤になってさらに緊迫し、結末の予測は寸前までつかない、双方の直接対決という最終段階になった。
 そのとき、じっと駒をみつめていたテッドがぽつりと言った。
「ここで、終わろう」
「は?」
 ルーファスは次の一手を構築していた思考を中断した。テッドの茶の瞳が駒を離れ、ルーファスに移ってくる。不機嫌なのか真剣なのか、判断つきかねる複雑な表情をうかべている。
「……どうして。眠くなっちゃった?」
「いや、そういうわけじゃないけど……でも」
「でも、なに」
「ここまで戦ったらもうじゅうぶんじゃないか? 無理に決着をつけることもないかな、と思って」
「ええっ。でもそれって、つまらなくない?」
 ルーファスの非難めいた反論に、テッドはうーんと唸った。どうやらテッド自身もうまく理由を説明できないらしい。困ったように腕を組んだ。
「過程、で満足しちまったからな。なんかおまえをぶっ潰す意味がなくなっちゃったというか……あんまりそういうの見たくない、というか」
「じゃあテッドは勝つ気まんまんなんだ。くやしいな」
 勝機ならルーファスもたっぷり持っていたが、テッドにはそれが逆に見えるらしい。
「いや、五分五分ってとこだろ。おまえは侮れない。おれも負けたくない。だからやめだ、やめやめ」
 ルーファスは唖然とした。こんな敵前逃亡のような真似を、いまのいままで冷酷に戦ってきたテッドが選択するとは信じられない。自信に満ちた薄笑いはどこへいったのか。無言の抗議を繰り出すルーファスの目前で、テッドはごろんと横になってしまった。
 誘っても無駄だということは、わかった。もはや戦闘意欲を消失している。
 ルーファスはため息をついて、カードを無造作に箱へ投げいれた。
「悪いな」
 謝られて、むかっとする。謝るくらいならあと少し、我慢してつきあってくれたらいいのに。
「もうテッドとはゲームしない」
「おいおい、そんなに怒ることかよ」
 ルーファスは答えず、ぶすっとして毛布を一枚テッドに放った。高揚した気分はすっかり萎えていた。ルーファスは何事につけても、中途半端ほどきらいなものはなかった。
 さっさとランプを消して、毛足の長い絨毯に寝ころび頭から毛布をかぶる。あたためられた絨毯は大型犬に抱かれているみたいにふわふわだった。暗がりでテッドがもぞもぞと動く。
「おい。ふて寝……か?」
「うるさい。おやすみ」
 テッドのため息が聞こえたが無視をした。子供っぽいのはお互い様だ。
「気ぃ悪くしたら、ごめんな、ルーファス」
 しつこい。わざとらしく背中を向ける。すぐ背後に気配がした。
 えっ、と思った。
 テッドだ。自分の毛布をひきずったまま、ルーファスの背中に頭を押しつけてきた。胸がどきんとした。
 ふだんのテッドはぜったいにこんなことはしない。じゃれることはおろか、近寄ったら鬱陶しそうに払いのけるやつだ。寒いからひとつのベッドでくっついて寝ようと提案しても、ただの一度もいい顔をしたことがなかった。そのテッドが自分のほうから肌を寄せてくるなんて。
「なあ……怒ンなよ」
 くぐもった声にかすかにただよった寂しさに、これはただごとではないとルーファスは緊張した。息を呑みこみ、平静をよそおう。
「怒るわけないだろ、あれくらいのこと、で」
 語尾が少しわざとらしくて、それを誤魔化すためにルーファスはいきなり百八十度向きを変えるとテッドにしがみついた。
「あ、あったかいね! こうして寝ちゃおうか」
 テッドは腕の中でじっとしていた。目が慣れなかったので、その表情はわからない。まさかもう寝ちゃったんじゃないよね……とルーファスが怪しみはじめたころ、ようやく口をひらいた。
「なんか、さ。急につらくなっちゃって」
 ゲームの話だ。こだわっているらしい。蒸し返す必要ないのにと思いつつ、聞いてやることにした。
「おまえと戦うの」
「どうして。たかがゲームだろ。ほんとに戦うわけじゃない」
「たかがゲームだから、よけいに悪い」
「架空の世界と現実がごっちゃになるから?」
「そうじゃない。ただな、おまえのやり方を見ていると、おれと正反対だ。ルールの定められているゲームだから力は拮抗するけど、現実にはそうはいかない。ずるがしこくて自分のことしか考えてないやつが、たいてい勝つんだ。そういうふうになっている」
「ぼくのやり方が、甘いってことだね」
「けど正当なのはおまえのほうだ。実戦ではひとりで戦うということはあまりない。いろいろな役割の人間がチームになる。おまえは度胸もあるし人も惹きつけるだろうけど、裏をかくことが苦手だな。卑怯なことがだいっきらいだ。それは致命的欠陥ってやつだろ。ただし、いい軍師がついたら大物になる。ぜったいに負けない」
「買いかぶってる」
「ほんとのことだ。見りゃわかる。けどいまのおまえはひとりだ。やっつけるのは簡単だ。おれはズルいから、とことん卑怯な手だって使える。さっきだって、勝てると踏んでいた。そしたらさ、急に、怖くなった」
「どうして。遠慮しないで勝てばよかったのに」
「たかがゲームでおまえの芽を潰すのか、と思ったら……逃げたくなった。バカだな」
 いつもの軽口が得意なテッドではなかった。本気で後悔していた。たかがゲームで、とその同じ台詞を口にしそうになって、ルーファスは押しとどまった。
「テッドは……いつでも真剣なんだね」
「情けないよな。まったく、いくつになっても」
 ルーファスはぷっと吹きだした。
「いくつになっても、って、テッド、いくつのつもりなのさ」
「……知らねー」
「少なくともぼくよりは下だもんね。まったく、そんないい方はもっと大きくなってからじゃないと似あわないよ、ボク」
 ルーファスはぽんぽんと肩をたたいた。なんだか手におえないやんちゃな弟のように思えて、くすくす笑った。
 ランプをつけてみようか。きっと滅多に拝めない赤面したテッドがあらわれて、愉快な展開になるだろう。想像しただけでも楽しすぎる。
 ところが、すぐにそれどころではなくなった。
「ちょっ……ちょっとテッド? 痛いよ」
 つかまれた手に力をこめられて、ルーファスは慌てた。着痩せするたちなので周りからはそうは思われていないけれど、意外にがっしりとしたルーファスの胸板にテッドが顔を埋めてきた。
「ごめん……少しのあいだだけ、いいか」
 泣いてはいないようだったけれど、闇の中だから確信はできない。兎にも角にも、あのテッドが甘えていた。めずらしいどころの騒ぎではなかった。いけないと耐えてきたのであろうか。そもそも、いままでに甘えることのできる者がいたのだろうか。テッドはもうずっと以前から天涯孤独だったと聞いた。
 こういうときどうしたらいいんだろう。
 ルーファスは必死に策を巡らして、遠い昔に父親がしてくれたことを思いだした。柔らかい髪の毛をそっと撫でる。テッドはほんの一瞬だけ硬直したものの、すぐに力を抜いた。
 体温につつまれて、かすかに規則的な鼓動が伝わってくる。
 テッドのことを、ときどきなにを考えているかわからない遠い存在に感じることもあったけれど、それはこの少年が過去の忘れえぬ傷のために壁をつくっているからだと思っていた。焦らずに、少しずつ心を溶かしていけばテッドはきっと純粋で、朗らかで、誰からも愛される少年であるはずだった。そうだ、いつかとびっきりの笑顔を見せてもらうつもりなんだ。翳りのまったくない声で、ぼくの名を呼んでほしい。
「……ごめん」
 ふたりのあいだにスッと薄い幕が下りて、テッドはルーファスから離れた。鼓動を確かめあったのはほんの短い間だけだった。しかしルーファスにとっては、それだけでも有意義なできごとに思えた。
 最初はこれでいい。ゆっくり時間をかけよう。
 変化はおきはじめている。以前はぜったいに一緒の毛布などでは眠らないと拒んでいたテッドが、トラン湖地方の冬の厳しさに音をあげたか、ルーファスを生きた暖房がわりにすることをしぶしぶ承諾するようになった。すきま風はいり放題の家よりもマクドール邸のほうが数倍心地よいのだろう。夕食後に帰宅する頻度もここのところぐっと減った。
 警戒を解いてくれたのかどうかは、わからなかったが。
 少なくとも、出会ったばかりのテッドとは格段のちがいがあった。
「ごめん……ばかなところ、見せちまって」  テッドはまた謝った。さっきから何度目のごめんだろう。胸を貸すことくらいいつでもできるのに、テッドはそれすらも申し訳ないと頭を垂れる。
 頭を下げつづけて生きてきたんだろう。
 でも、ぼくはテッドとは対等でいたい。
 互いを軽んじることなく、理解して、あるがままを認めて、充足しあう。それが一緒に生きるということだ。たしかにテッドとルーファスはあらゆる点で正反対だ。だからこそ、惹かれあうのではないか。ルーファスの知らなかった世界をテッドは持っている。逆もまた同じだ。
 言葉は交わさなかったが、寝息はいつまでたっても聞こえてこなかった。身じろぎする気配すらないけれど、眠ってはいないのだと思う。ルーファスもなかなか眠りの世界に落ちることができず、じっと暗い天井を見あげていた。闇にうつろう、言葉のない会話。
(ルーファス)
(なに? テッド)
(おれと関わって、迷惑じゃないのか)
(それこそ、ばかげた質問だよ)
(おまえは、たくさんの幸福に囲まれている。いまさらおれがいたところで、厄介者でしかない)
(テッドがそう思っているのなら、間違ってる。ぼくよりテッドのほうが、ずっとたくさんのものを持っているじゃないか)
(おれの掌にはなにもない)
(ちゃんと自分を見ないからだ。知識、生きる術、自然の摂理、その身体のどこからあふれてくるんだろうとぼくはいつも驚くばかりだ。そしてきみの眼は外の世界を見てきた眼だ。ぼくにはけして届かなかったもの。はるか遠い海や大陸の話を、きみは聞かせてくれたじゃないか)
(生きたかっただけだ)
(それだけでも、ぼくにとってはすごいことなんだ)
(おまえはいまのままで生きることができるのに)
(ぼくはテッドといっしょに生きたい)
 どちらが先に諦めて、眠りについたのかはわからない。ただ、静かな夜の帳がようやく訪れたことだけはたしかなようだった。
 テッドがうなされていることにルーファスが気づくまでは。
「……テッド?」
 暗がりのなかに薄ぼんやりと確認できる友は苦しそうに顔を両腕で覆い、荒い呼吸を繰り返した。発熱しているのかと疑い、首筋に手を当ててみたが汗をかいているだけで、その兆候は見られなかった。悪い夢を見ているのかもしれない。
「テッド」
「……やっ……」
 起こそうとして、ルーファスは躊躇った。起こしたら起こしたで寝起きの悪いテッドのことだから、罵詈雑言は間違いないだろう。こっちも寝入りばなを挫かれて少しだけむっとしている。
「だいじょうぶだから、おやすみ、テッド」
 むずかる子供に言い聞かせるように小さく耳許へ吹きかける。まったく、オバケにでも追いかけられているのだろうか。
「やだ……そいつを、放、せ……やめろ……ルーファス、を、返せ、殺すな」
 ギクリとした。
 なにを言ってるんだ、テッド。
 続いたのは、夢が発したとは思われぬほど悲惨な絶叫。
「テッド! テッドってば!」
 尋常ではない。そう思ったルーファスはテッドの肩を揺さぶった。
「……あ」
 びっしょりと汗をかいて、テッドが大きく息を吐いた。びっくりしたように跳ね起きる。
「……ったく、驚いたのはこっちだよ……カンベンしてよ、縁起でもない」
「ルーファス」
 テッドはなおも肩で息をしながら急くように名前を呼んだ。夢と現実の境界を彷徨っているらしい。その頬をぴしゃりと叩く。
「さあ、なにがあったの? ぼくがどこかに連れてかれちゃった? でもって殺される寸前? 勇敢なテッドくんはぼくを助けるために暴れてくれたわけ。ふーん」
 できるだけ冗談っぽく、だが声色はいたわるように。
 テッドは「……ばっ」と発声して(バカヤロウ、と言いたかったのだろう)口ごもり、みるみる襲ってきた気まずさに視線を逸らした。
「わ、悪かったな、起こしちまって」
「今夜は何度謝るのかな、テッドくんは」
「るせえ。もうヘーキだから、さっさと寝ろ」
 完璧にふて腐れて、テッドは毛布をすっぽりかぶってしまった。照れている、照れている。
 握った弱味のコレクションがどんどん増えていく。ルーファスは脳内でにやりとした。
 すぐに寝息が聞こえてきたが、今宵の醜態はそれで終わりではなかった。ふだん寝相のよいテッドにしてはめずらしく、寝言をつぶやきながら暴れること暴れること。先ほどのような切羽詰まった感じはなかったがけっこうな暴言を吐いた。
 さすがに途中から腹が立って、ルーファスは毛布の一枚を剥ぎ取ると、テッドを思いっきり蹴りころがした。こんなのとくっついて安眠できるか。
 いったいどうしちゃったんだよ今夜は、テッド。
 そして。
「はっくしょん!」
 喉がイガイガする。寒い。というか冷たい。ここはどこ。ベッドじゃない。ぼくの毛布はどこ。
 前方五メートルの視野内に物証と容疑者を確認する。
 二枚の毛布にぬくぬくと包まれて、胸のあたりを心地よさげに上下させている。容疑者T(仮名・推定年齢十五)、只今熟睡中。
 ブツ。
 ルーファスの血管が断裂した。
 復讐、してやる。オボエトケ。
 救い主グレミオが来なかったらまた別の(おもしろい)展開になっていたことであろうが、なにはともあれグレッグミンスターの石畳を真っ白な霜がおおった朝、テッドの寿命は確実に縮まった。
 少なくともルーファスの鼻水菌ひとつまみぶん程度には。


初出:2005-12-15 再掲:2005-12-31