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狩人の小屋

※2主の名前はナナオです

 森がにわかに湿気をはらみ、緑の匂いが濃くなった。
 雨が近い。
 雨雲は西からやってくる。上流の空はすでに真っ黒だ。標高の高いところでは土砂降りになっているにちがいない。
 足元を流れる水は飲めるほど透明だが、油断はできない。わずかのあいだに水かさを増し、濁ってくるはずだ。小さな川だからとなめてかかるのは禁物である。とくにこのような谷状地形においては、少しでも判断を誤れば逃げ場を失いかねない。
 ルーファスは釣り竿をたたみ、川からあがった。釣れたのは手のひらほどの小魚ばかりだったので、すべて逃がしてやった。
 しかしまだあきらめたわけではない。むしろこれからが本当の勝負といっても過言ではない。
 緑の空気をたっぷりと肺に取りこみ、
「待ってろよ」
 と言った。
 子どものようにワクワクする。テッドがいたら二人で大はしゃぎしていただろう。ルーファスの釣り好きはテッドの影響である。親友が遊びにいこうと言うのはすなわち、釣りのことだった。
 めったに狙うことのできない大物を釣りあげるチャンスだ。雨季はこれだからおもしろい。
 蜂や野生の動物たちも凶暴化していないこの季節は、山にいるのがよい。宿代も食費もまったく気にせずに自活できる。もちろん知識は必要だが。
 さて、十分ほど散歩だ。
 この先にわりと大きめの滝壺がある。落ちる水の力で釜は深くえぐれ、時を経て豊かな水たまりとなり、たくさんの魚を育んでいるのだ。
 文字どおりうようよと魚がいる。巨大な魚影もみえる。
 ならば最初からそこで釣りをすればよいではないかと仰るだろうが、そうは問屋が卸さない。
 あまりにも川の水がきれいすぎるため、釣り人の姿が丸見えになる。
 こちらから見えるということは、魚からも見えるということだ。魚はとても賢い。なかでも永い時を生きのびて大きくなった者は人間にも勝る炯眼をもつ。
 その滝壺は森厳の気に満ちている。弱き物も強き者も、気高く生きる。
 何度かそこで釣り竿を伸ばしてみたものの、大物はおろか小魚すらかからない。ぼろ布を頭からかぶり周囲の木に擬態して近づいても無駄だった。
 餌が目前を流れているのに見向きもせず、悠然と泳いでいるのだ。
 魚たちには針が見えているのではないか。それは単にひとつの可能性であり、おそらくは何らかの不自然さが彼らに警告を与えているのだろうとルーファスは考えた。
 食べるのが目的ならば、浅瀬で小さな魚をいくつか釣ればよい。聖域に踏みこむ必要はない。だがあきらめてしまっては、戦わずして降参することになる。
 そして考えに考えた挙げ句、ルーファスは時を待つことにしたのだった。
 水がきれいすぎるのが最大の敗因ならば、濁らせればよいのだ。その役目は自然が担ってくれる。そう、雨だ。
 魚に限らず小動物たちにとって雨は捕食の知らせである。雨によって虫は水辺につどい、まだ飛んでいるものを鳥が、力尽きたものを魚が食う。増水すれば、上流からさまざまなものが流れてくる。鹿の死骸やそこにわいた蛆、腐った木に棲む虫、腐葉土、ミミズ。透明な水はけして豊かとはいえない。そこへ慈雨が恵みをもたらす。
 さあ、存分に食えよ。おまちかねの雨だぞ。
 雨季なのに、一週間も日照りが続いてつらかっただろう。ヌシだって腹ぺこのはずだ。
 ルーファスは笑った。
「こういうところにはヌシがいるんだぜ」
 口調を真似てつぶやいてみる。物知り顔で自信満々なところが胡散臭かった親友だが、いまはすべてがなつかしい。
 痛みのいくつかはなつかしさに変わった。いつか顔も思いだせなくなる日がくるのだろうか。名前すらも記憶の底に追いやって、朽ちるがままにまかせるのだろうか。
 テッドはそれを望むかもしれない。いや、望むだろう。自由にならない命ならそんなものはいらないと言った彼だ。記憶も名前も、魂とともに消してしまいたかったのだろうと思う。
「三百年」とルーファスは言った。「三百年たったら、忘れてやってもいい。けど、それまでは、ダメだ」
 頭上の木の葉がぱたぱたと荒い音をたてはじめた。風も急に強くなった。
 むせ返るような森の匂いにルーファスは包まれる。
 雷がこなければよいが。ふと心配になる。
 嫌いというほどではないが、あまり気持ちのよいものでもない。草原で激しい雷雲に遭遇して生きるか死ぬかの思いをしたというテッドの昔話が頭をよぎる。
 多少は誇張されているにしろ、雷には要注意と先達の言う。
 どのみち勝負を長びかせるわけにはいかない。本格的に降りだしたらいさぎよく撤退を決める。
 ヌシとの戦いは、大自然との戦いだ。挑むならば、一本勝負。それしかない。
 ヌシは群れを統べるリーダーである。躯も大きく生命力にあふれ、老戦士の叡智をまとい、額に輝く星を持つ。数百年の時を生きる個体もある。
「信じる、信じない? おれはほんとうのことをいっただけだ。べつに、どっちだっていいんだぜ」
 テッドは大嘘つきだったけれど、悪意に満ちた嘘はつかない。
 ヌシがいるとテッドが言うのなら、根っこのほうは真実なのだろう。騙されてもルーファスが損をするわけでもなし。
 それに、こういう景気のいい話は、いかにもテッドらしい。
 大自然が謎に包まれているということ。
 すべてを見知ったような気にならず、謙虚でいろ。
 三百年生きたテッドにも、予見できないことはたくさんあったはず。
 たとえば、己の末期とか。
(三百年ぽっちじゃ足りないってことかな)
 賢者への道を歩むべく、ルーファスは森へ分け入った。広葉樹の腐葉土に足をとられながら、下へとおりていく。その土はふかふかとやわらかく、手で軽く掘るとたくさんのミミズがでてきた。
 できるだけ大きなミミズがいい。小さいのを埋め戻し、さらに近くを掘ってみると手頃なフトミミズがいた。
 その場で針にかける。黄色い体液がぴゅっととびでた。ミミズはいやがり、くねりながら糸にからみついた。
「よし」
 勝負は一度きりだ。無駄な殺生はしない。ミミズが針から外れるか、魚に盗られたらおしまい。魚が反応しなかったらおしまい。増水しすぎても、濁りが強くなりすぎてもおしまい。
 ルーファスが勝つ条件は大きな魚を釣りあげること。単純明快ですがすがしいではないか。
 彼はまた歩きはじめた。
 歩きながらまた考えた。
 野生の動物は、とりわけ肉食獣は、餌を得られるまで水だけで生きる。水すらもないときもある。飢えや渇きで命を落とすのが、悲劇でもなんでもない。それが日常なのだから、彼らは生まれる子どもを憐れまない。
 生と死が平然と繰り返されるなかで、種の命を継承していくさまには、驚きと畏敬の念をもつよりほかない。本来、生と死はそのようなかたちであるべきなのだ。人間だけがつねに異端だ。なのに生と死を司る紋章は人の手の内にある。
 ひどく矛盾しているように思う。だが、世界はそのようになっている。
 紋章の意志は、道具として使われることを拒んではいない。
 なぜだろう。なぜ、人間だけが『ちがう』のだろう。
 創世の物語も、だれかの都合で捏造されたものだとしたら?
 人の歴史はたかだか千年で、創世の物語はおそらくそれよりはるかに昔のできごとだ。千年より前の歴史は消されたのだろうか。何者かの手によって。なんのために。
 紋章を宿してはじめて、ルーファスは感じた。紋章の記憶は千年などとそんな短いものではないと。ただ感じるだけで、記憶がみえるわけではない。むしろ記憶まで押しつけられなかったことにルーファスは安堵している。呪いだけでも手に余るのに、そんなものを渡されたら発狂してしまう。
 なぜ、を反芻する。紋章はなぜ、宿り木に人を選んだのだろう。人だけが言語や文化を発達させたからか。いや、それらはおそらく、与えられたものだ。
 だれに。
 可能性としてまっ先に思い至るのが、シンダル族である。文字を使い、高度な文明を築いたというシンダル族に関しては、なにひとつ解明されていない。滅んだ理由すら、いっさい謎のままなのだ。なのにシンダル族は存在した民族とされている。
 おかしいとは思わないだろうか。すべてが謎だと仮定して、いったいだれが、シンダル族のことを後世に伝えたのか。
(テッドも、ぼんやり歩きながらこんなことを考えてたのかな)
 想像できないが、親友からあふれでる嘘八百は、とっさに思いついたものとしてはどれもこれもふしぎに魅力的だった。きっと何十年何百年と考えつづけてきた究極のネタなのだろう。
 テッドはすごい。どんなに苦しんでも考えることをやめなかった。三百年という年月は、数字だけではとうてい理解できないけれど、テッドという人間を知れば感じることはできる。
 いつだったか。テッドがマクドールの家にきて間もないころだ。
 邸内に部屋を用意したというのに、ひとりの時間がないと落ち着かないからといってアパートを借りてしまったテッドに、グレミオが言った。
「テッドくん、ここは将軍のお屋敷ですが、テオさまのお考えでわたしたちも住まわせてもらっています。この屋根の下では、みんな家族なんですよ」
 おそらく、悪気があって言ったのではなかった。
 それに対するテッドの言葉はひやりと冷たく、そこにいる者を凍えさせた。
「人は平等でも、人のきまりごとである身分は平等じゃありません。おれは自分に厳しさを課すことでこれまでやってきました。他との比較においてでしか矜持を保てない人間にはなりたくないんです。おれの家族は死にました。もういません。偽りの家族も、いりません。テオさまにはもうしわけないけど、この屋敷には住まない。それだけは譲れません」
 あのときはちょっぴり気が立っていたんだ、とテッドは弁解した。そうかもしれない。だがあれは本心にちがいなかった。
「なあ、ルー」
「なあに、テッド」
「人間が種の頂点だなんて、ひでえ驕りだよな」
「驕りはいけないとおもうけど、人間は種としてはいちばん強いんじゃないの」
「おまえ、エルフやコボルトやドワーフが、どんな差別うけてるか知ってる?」
「ちゃんと知ってるよ。差別は反対だ。だけどさ、あっちだって人間のこと見下してるだろ。互いを理解して歩み寄らないと、差別はなくならないとおもう。むずかしい問題だよね」
「理解して歩み寄る、か。ところで、ルーはなんでやつらがこっちのこと見下しているって言ったんだ?」
 ルーファスは答えにつまった。しどろもどろで言う。
「うーん、やっぱり、種がちがうと価値観もちがうし、あと見た目とか、かなあ」
「なるほどね」とテッドは言い、にやりと笑った。「いまの発言そのまんま、ルーが人間以外を見下している理由になるな」
「なっ……!」
 ルーファスはあわてた。「ぼくが、見下している?」
「そうじゃないのか?」とテッド。
「してないよ! 種族間でいがみあうなんてばかげたことだ。ことばをもってるんだから、話をすれば必ずわかりあえるんだ」
「実際、エルフもコボルトも人間に隷属してるし、ドワーフに至っては地底に引きこもって断絶状態。結局、権力もってんのは人間だけじゃん」
「テッド、さっき自分でそれ驕りだっていったよね」
「ああ、そういや言ったかもな。昔のことなんで忘れちゃったよ」
「なんなの? 喧嘩売ってるの」
 テッドはケタケタと笑った。
「ごめん、ごめん。深く考えてるときって、つい攻撃口調になっちまうんだ。からかったわけじゃない。許してくれる? このとおり。一生のお願い」
「もう! テッドの一生のお願いは聞き飽きた!」
 テッドはなにをそんなに深く考えていたのだろう。種の頂点、とたしかに言った。あれはどういう意味だったのか。
 種の頂点についてルーファスも考えるようになった。それは人間であるような気もするし、ドラゴン族がそうかもしれないと思うこともある。
 確信できるのは、頂点に立つ者がだれであれ、その地位は不動ではないということ。
 人間は弱体化した。生命力が衰えた。その原因として、おそらくは、飢えることがなくなったからだ。
『おれは自分に厳しさを課すことでこれまでやってきました』
 そうだ。貧しかった時代の人間はみなそうしていた。一度だけおとずれたテッドの故郷がまさにそうだった。
 それは三百年もの時をへだてた向こうの世界だったが。
 痩せた土地に麦を植え、粗末なパンを焼く。男たちは狩りをする。獲物は生きるための血肉となり、大地を踏みしめるための革靴となり、暖をとるための衣服となる。村人はひとつきりの井戸にたまる水を飲み、木の家で眠る。
 豊かさとはなんだ。交易が栄えることか。人が平等になることか。
 ちがう。その考えは浅はかである。
 飢えの苦しみから逃れた人々は、厳しさを厭うようになった。富こそが社会の安寧であると勘違いした。結果、官僚は腐敗し、見えないところから貧富の差が生まれた。ひび割れは急激に大きくなり、赤月帝国は内乱ののち落ちた。
 テッドの目に未来はどのように映っていたのだろう。
 呆れ、嘆き、それとも軽蔑?
 情けない。親友と認めあいながら、テッドのことをなにもわかっていなかった。それなのにテッドはルーファスを親友であると最期のときまで言いつづけた。生涯でただひとりの親友だった、と。
 鼻の奥がツンとする。
 ぼくも、歩こう。
 けして急がず、だが確実に。
 水を飲み、歩きつづけ、命を狩って、食う。生きることは苦痛である。右手が闇くささやく。ならば死の苦痛を選ぶか?
『おれのぶんも生きろよ』
 わかってるよテッド。きみの立った高みを見るまで、ぼくは死なない。
 テッドがそうしてきたように、自らに厳しさを課し、渇きと飢えに耐えながら、ひたすらに歩きつづける。
 本質はきっとそこにあると思うから。
 雨脚がさらに強まり、轟きわたる爆音とかさなって咆哮した。
 誰かが設置した古いロープを手がかりに、側壁を壺の近くまで下りてゆく。雨でぐずぐずになった斜面は普段より崩れやすく、ルーファスは二度しりもちをついた。
 棍をもってくればよかった。熊に出くわす危険を失念していた。
 とんっ。
 足場になる岩まで、軽やかに飛び降りる。岩はかなりの重量級で、上面はほぼ平らである。滝壺を見下ろすテラスのようだ。
「いいあんばいに濁ってきたじゃないか」とルーファスはうれしそうに言った。
 水量はさっきの倍ほどになっている。水面すれすれを舞っているのはたくさんのカゲロウだ。魚がさかんに跳ねあがって捕食している。カワセミたちも集まっていた。
 雨が生命活動を活発にさせるのを見ると、畏れの感情がわきおこる。人は雨を厭がり屋内に逃げこむのが常だ。雨が餌を運んでくるという発想はわれわれにはない。
 よく観て記憶しておこう。これが本質的な、生きる力というやつだ。
 足場が高すぎて、いつもの三本継ぎ竿では足りない。こういうときのために、あと二本継ぎたせるように細工してある。五本すべて継ぐと扱いがむずかしくなるが、仕掛けをより遠くに流せるようにするにはこの方法が手っ取り早い。
「糸がこんがらかると頭もこんがらかるからな」
 テッドの口癖がうつったらしい。
 もしも大物がかかって格闘になったら、手元のほうから一本ずつ引っこ抜き、じわじわと寄せていくのだ。タモ網は使わない。あれは重量があって、旅の道具にはふさわしくない。
 道具は持ち運びが容易なもの、入手しやすいもの、手放しやすいもの、これらの条件をすべて満たしている必要がある。歩みを妨げる荷物は選別段階で除外される。ルーファスの釣り竿もただ竹を削ってつなげたものだ。重荷になるならば火にくべればいいし、それすらも面倒ならそのへんに捨ててしまっても自然に還ってくれる。
 うっかり滑り落ちないように細心の注意をはらいながら、滝壺を観察する。
 いいぞ。最高だ。
 細濁り(ささにごり)の状態である。濁流と清流のあいだ。釣り人ならばこれを逃す手はない。テッド師匠いうところのウホウホタイム到来。
 あとは、どこに落とすか、どう流すか、どこで食わせるか。
 最良の筋書きというものがある。
 経験を積めば、瞬時に計算できるようになる、とテッドは言った。
 ざんねんながら、ルーファスの経験値はまだまだだ。
(むずかしいな)
 浅瀬ならば上流から下流へのほぼ一方通行だが、深みのある淵や蛇行地点では流れが複雑になる。表層の流れを見ただけではその下は読めない。見た目が穏やかでも、下層では還流が力強く渦を巻いていることもある。
 真夏の暑いときに油断して飛びこんで、二度と上がってこなかったという話もたまに聞く。渦に引きこまれたり、低温で心臓が止まったりするのだ。
 正直、どこに魚がひそんでいるか、なんてわかるはずもない。魚になってみたことがないから。
 勘と運。当たるときは当たる。だめでもともと。しかし、挑戦しなければ魚はまちがいなく手に入らない。
「来いよ」
 呼吸をして、釣り竿を静かに落とす。狙いは対岸の岸壁直下だ。ミミズの重みと還流を利用して自然に沈めていく。
 むちゃくちゃに暴れるミミズの姿を想像する。魅力的だろ? さあ、食えよ。めったにないごちそうだ。
 鱒は雑食で、カエルも丸呑みするほど食欲旺盛だ。食い気のあるいまなら、ミミズが落ちたことにもう気づいているだろう。
 糸に張力を与えないように。餌が不自然な動きをしたらすぐにばれる。逆に慎重すぎて糸が緩むと、糸は軽いものだからミミズよりも先に流れてしまう。
 目印は水面に出る部分に結びつけた細い毛糸だ。あざやかな黄色で、見失うことはない。
 呼吸を減らし、毛糸だけに意識を集中する。魚がなんらかの行動をおこせば、黄色はぴたりと動きをとめたり、方向を変えたり、突然走りだしたりするだろう。
 まもなく滝に達する。
 ごうごうという音も静寂に感じるその一瞬。
 走った。
 鋭く合わせると、ズシンという強烈な重みが両手に伝わった。かかった!
 竿を立てろ!
 強い引きに、大物であることを確信する。
「クジラか!」
 そんなわけはない。
 とにかく糸を緩めてはだめだ。ルーファスの使う釣り針には返しという尖りがなく、魚が暴れると容易にすっぽ抜けてしまう。返しのついた一般的な針を使わないのは、放流する魚をいたずらに弱らせないためだ。自分は猟師ではないのだから、食べるぶんだけ手に入ればよい。不必要なダメージを与えずに狩りをするにはどうするべきか、自分なりに熟考した結果だ。
 竿先が水中に引きずりこまれそうになり、ルーファスは足を踏ん張って耐えた。
 竹竿が弓の字にしなる。
 ぜったいに糸を緩めるな。
 竿を立てろ。

「あああ、くっそぉ!」
 手応えが霧散したのを知り、テッドは天を仰いだ。
「けっこうでっかかったのになあ」
 重みを喪った竿をあげると、針だけがチャプンと戻ってきた。よっぽどの力が加わったのだろう。無惨に変形している。
 期待しただけ、落胆も大きい。
 ミミズもなし、針もなし。勝負は一度きりと決めてもいる。それに、二度と奴は罠にはまらないだろう。
 未練たらたらでねばった挙げ句、鉄砲水に流されでもしたらこちらの命がなくなってしまう。
 負けだ。おれの負け。
 今夜はメシ抜きで修行僧よろしく瞑想でもしつつ、敗因をまとめるとしよう。
「やれやれ、疲れた。狩人の小屋に帰ろ」
 薪を焚き、濡れた身体をあたためたい。六月でも山の雨は冷たい。空腹は慣れっこだし、風邪をひきさえしなければ、あしたは食べ物を探しに行ける。
 沢蟹ならいくらでも捕れるのだが、蟹の出汁だけのスープは飽きた。
 雨がやみ、川がもとの清流に戻るときにもう一度だけ細濁りのチャンスがある。それまでに小屋をきれいに掃除し、旅立つ準備をしよう。
 一週間と二日。そろそろこの地も離れるころあいだ。分水嶺を越え、別の川を下っていくか。町があったら、矢じりの補充もしておかなきゃな。
 そう思ったとき、背後に気配を感じてテッドは振り向いた。
 黒い影が滝壺を音もなく移動している。
 大きい。
 息を呑む。
 細濁りの水の奥から、”それ”はテッドを見ていた。
 五秒。十秒。十五秒。
 テッドがはっきりと認識できたのは、その額に輝くまばゆい星だけだ。
(紋章、か?)
 思ったことがすぐ口にでるテッドくんである。
「あの、それってひょっとして……真なる川の紋章?」
 相手を馬鹿と見切ったか、それはひるがえって沈んでいった。
「おい、待てよ。行くな。ひとの話を聞け。おーい、ヌシ!」
 待てども待てども、消えた魚は戻ってこなかった。
 テッドは岩の上で三時間ねばりつづけ、まんまと風邪をひいた。

 竿を立てろ!
 張りつめた糸がキュンキュンと甲高く鳴った。
 心配するな、この程度で切れたりしない。道具を信じるんだ。
 たかが魚となめてかかって、がむしゃらに引き寄せたりは素人のすること。熟練者は敵が弱るのを腰を据えて待つ。
 それにしても、名匠の作でないのに、よく頑張る。自慢ではないが、手先の器用さではテッドに負けない。
「竹細工でひともうけできるかも」
 わざと冗談を言って、気合いに変える。
 根もとの一本をはずした。竿がまたぐんと引っ張られる。短くなればなるほど、魚の感触がありありと伝わってくる。
 いま、彼は、口に刺さった針をはずそうと泳ぎまわっている。さぞやびっくりしただろう。食いついたミミズが囮だったのだから。
 さて。
 戦術に満足したら、その先の戦略だ。
 足場の高さはルーファスに不利である。垂直に持ちあげるとき、糸には最大の負荷がかかる。魚が大きすぎたり、岩のギザギザで糸がこすれたりしたら、プツンと切れてさようなら。
 魚は針がはずれないとわかると、それこそ命がけで暴れまわるにちがいない。棲みかである岩のすきまにもぐられてしまったら、引きずりだすのは至難のわざだ。
 三辺の岩に近づけさせず、泳がせて体力を奪う。
 ルーファスは主導権を握っている高揚感が好きだ。
 戦いの本能は人のなかにあるのだ。
 はるか昔、人が狩猟という知恵をさずかったのちも、他者の命を盗って喰らい己の命に替える行為は、ほかの獣と同様、本能であったはずだ。
 やがて人だけが独自の進化を遂げていく。理性的な思考が衝動的な本能に勝ると考えた彼らは、善悪の思想を育んだ。
 一方が善であれば、もう一方が悪であるという。そこに対立が生じる。ときには多数派が善で、逆が悪とされたりする。あるいは強者が善で、弱者が悪。男が善で女が悪。太陽が善で月が悪。魔法は善だが武器は悪。生は善で死は究極の悪。
 人の世の戦いは完全に形骸化されてしまった。意志や信奉、欲望、権威。それらあいまいな宝石で装飾された盾と剣がぶつかりあう。本能などどこにもない。
 人は声高に言う。理性が善、本能は悪。
 だれが決めたのだ。
 本能を忌み嫌う人間が種の頂点だと? ふざけるな。
「魚」とルーファスは言った。「勝負がつくまえに話をしよう」
 竿を逆手に持ちかえる。
「ぼくの名はルーファス。聞いたことがあるかな。赤月帝国を滅ぼしてトラン共和国をつくった愚か者だ。ぼくは、罪のないたくさんの人間を殺したし、食べるために他人の手を使って動物を殺した。いまもぼくを憎んでいる人がたくさんいる。ぼくのなかには、魂を喰われた人たちの呪詛が渦巻いている」
 釣り竿が右に左に大きく振られる。
「ぼくは、正しいことも、まちがったこともした。だからぼくは、すごく苦しい。トランにはいられないとおもった。旅にでるなんてかっこいいことをいって、ほんとうは逃げてきたんだ。情けないよね」
 わずかな間。
「旅にでて気づいたんだけど、お金をもつのを忘れてた。いつもは、お金の管理はグレミオがするんだ。ばかみたいだろ。お金がなくて宿屋にも泊まれないし、食べ物も買えない。おなかがへって、裏通りにあったごみばこをあけて残飯を食べた。あのあと死ぬかとおもったな。吐いても吐いてもらくにならないし、いっそのたれ死んだほうがしあわせじゃないのかって、そこまでおもいつめた」
 もはや独り言だ。言葉があふれでてくる。
「でもね、死ぬのは約束を破ることになるから、ぜったいにだめだって、そうおもってたら、雨が降ってきた。口をあけて飲んだよ。なんとか立ちあがって、歩いていたら、おじいさんが声をかけてきた。おじいさんはぼくを家につれていって、ごはんを食べさせてくれた。そこにはおじいさんと猫しかいなかった。貧しいのに、ごはんを分けてくれた。食べながらぼくは泣いた。涙はでないんだけどね。
 次の日はよく晴れて、ぼくは旅立ったよ。お金がなくても、生きられるんじゃないかって猛烈におもった。町をでて、森にはいった。ぼくは狩りができることをそこでおもいだした。こういうときのためのやり方をいっぱい教わっていたんだ。なんで忘れてたんだろうね。本能なのに。そうだよ、本能で生きることって可能なんだ。もともと、そこが原点だもの。人だって獣だ」
 カゲロウを魚が補食する。その魚を人が狩る。魚の命と虫の命、つながりをたどって考えれば、幾千億という命がルーファスに継承される奇蹟に気づく。
 いらない命などひとつもない。
 思うようにならなくとも、命には必ず存在する意味があるはずだ。
「魚。おまえは強いな。そこまで大きくなるのにどれくらい生きたの?」
 応えるかのように、竿先が水中に没する。
「ウッヒョウ、まだまだ元気って感じだね。もしかしてあなたは、この川のヌシ? ちがう? ヌシだったらバチが当たって雷に撃たれたりしちゃうの?」
 空を仰ぐ。暗雲はすでに全体を覆っており、いつ放電が起こってもおかしくない状況だ。
 さあ、どうする。駆け引きを続けるか、それともあきらめて糸を切る?
「ぼくはどっちでもいいよ」
 判断がつかず、とりあえず強がってみた。できれば持久戦にはしたくない。さらに一本を抜いた。残り三本。
 手も足も冷たい雨にうたれて凍え、感覚が鈍くなっている。
 雨は横殴りになり、視界を遮るほどだ。川の勢いも増すばかり。
「まずいな」
 いよいよ撤退すべきか。判断がぐらつく。
 だが、魚はまだ戦っている。仕掛けた試合を先に放棄してよいものかどうか。
 わずかな岩の突起に足をかけてふんばり、考える。
 強引だが、力で寄せてみるか。竿は三本。ぶっこ抜きというやつだ。
 決意した瞬間、大地が鳴動した。
「うわっ!」
 轟音が耳をつんざいた。雷が落ちた、とルーファスは直感した。
 側壁からカラカラと小石が降ってきた。
 様子がおかしい。雷ではない?
(鉄砲水!)
 ルーファスが確信する間もなく、暴れ川は牙を剥いた。
、濁流が雪崩れおち、咆哮した。岩場がまたたくまに激流となった。流されずにすんだのは、間一髪、常置ロープに手がかかったからだ。
 側壁を必死で上った。波をかぶり、身体が浮いた。水の力は、下半身をつかんでひきずりこもうとする。流されまいと、つかめるものはすべてつかんだ。
 すんでのところで悪魔の手から逃れ、ルーファスは泥に突っ伏した。
 胸が苦しい。息を吸っても、肺に空気が入ってこない。
 力を振り絞って、仰向けになった。雨が痛いほど叩きつける。
 全身がひどく怠い。もはやひとかけらの体力も残っていない。
 根こそぎもぎとられた木を濁流が運んでいくのを、横目で見た。恐ろしい光景だ。あれに巻きこまれていたら、と想像しぞっとした。
 やがて身体ががたがた震えだした。助かった、という気持ちがようやくわいてきたからだ。しかしそれは安堵とはほど遠いものだった。
 怖かった。死ぬかと、思った。
 だれも見ていないところで、ひとりで死ぬのは厭だ。そんなのは絶対に厭だ。
「ヌシのバチにあたったかな」
 自然が下した鉄槌に打ちのめされはしたが、ルーファスは生かされた。ヌシの裁きはこうだ。
 生きながら苦しむがよい。
(最高刑だよ)
 手中にしかけた魚も大切な竿もろとも流されて、自分は泥だらけ。疲れ果て、スープをあたためながら寝落ちてしまうのではなかろうか。
 恐ろしくて、情けなくて、悲しくて、なんだか滑稽だ。
「あはは」
 おかしくもないのに、声に出して笑ってみた。笑いの魔法が、起きあがる力を少しだけくれるはずだ。ここに横たわっていじけていてもしかたがない。
 立って歩こう。
 狩人の小屋に帰ろう。

 狩人の小屋とだれがいつ名づけたのか。
 それは、旅人のあいだで用いられる俗称だ。きまった持ち主がおらず、かといって撤去される見込みもない、辺鄙な場所に建つ山小屋がそう呼ばれる。
 たしかに、狩人でなければおとずれないような場所がほとんどだ。
 旅人の多くは街道を往来するので、狩人の小屋があることはあまり知られていない。街道をはずれるとそこは、熊や狼や、凶暴なモンスターらの縄張りだからだ。
 鍛えあげたルーファスでさえも、単独行のさなかにどんな恐怖と鉢合わせるかわからない。自己責任とはいえ、リスクの大きい旅である。
 ルーファスが街道を好まないのは、彼の顔が功績とともにひろく知られているからだ。トランの英雄がみすぼらしい格好で旅をしているなどと想像する者もおるまいが、名とは厄介なものである。武器屋では『トランの英雄が使っている棍』なる粗悪な模造品が売られているし、『ルーファス・マクドールが宿泊した部屋』を売りにする宿屋もある。商魂たくましくてけっこうなことだ。
 マクドール景気もじきに下火になるだろうし、それまでは鍛錬がてら困難な道を往くのも悪くない、と思った。
 地図などはもちろん売っていないので、土地に詳しい人をつかまえ、書いてもらうのだ。ガイドで生計を立てる者もいる。地図だけならばたいした金はとられない。たまに山賊が貴重品めあてに旅人を物色しているのを見るが、貧乏臭いなりの子どもには用がないらしい。
 地図を書きながら「勇気があるんだな」と言った男がいた。勇気なんてありません、と謙遜すると、男は「そうか、それがいい」と笑った。勇気は慢心につながる。臆病者でいなさい。優れた冒険者はみな、自然の怖さを知っているものだよ。
 そして彼は、地図の中ほどに四角を書いて、ぬりつぶした。
「これは?」
「これか。これはなあ、そう、狩人の小屋さ」
「ああ、はい」
「ほう。知ってるのかい?」
「えっと、聞いただけ」
「ちょうどいいじゃないか。どんなところか、見ていくといいよ。たまには帰らないと、掃除もままならなくてなあ」
「はい、掃除はまかせてください。修理できるところは、直しておきます」
 男は親指を立てて「いいね」の意思表示をした。「無理のない程度にな、英雄のにいちゃん」
 なんでバレたんだ。ルーファスは礼もそこそこに、逃げるようにその場を立ち去った。
 冷静になると、男はルーファスの棍を見て冗談で言っただけだと気づいた。本物の英雄はトラン共和国の大統領府にいるはずで、こんな片田舎で山越えの地図を求めたりしない。うろたえた自分が照れくさくて、ポカポカと頭を叩いた。
 それでも町を出るまでは、尾行している者がいないか、手配書は貼られていないかとびくびくしっぱなしだった。
 テッドの苦悩をかいま見た気がする。天魁星も気苦労が多いが、逃亡者もたいへんだ。
 狩人の小屋のひみつをルーファスに伝授したのは、逃亡者の大先輩にあたる親友テッドだ。
 所有者が不明なのだから「ご自由にお泊まりください」と声高に言うわけにはいかないのだろう。狩人の集団が建て、国も黙認しているというのは単なるうわさだ。土地建物にかかる税金は支払われているのか、なぜ取り壊されないのか、その理由をだれも知らない。
 もっと驚くことには、
「アレは大昔からそういうモンだったの。おれが知ったのは、百五十年くらい前かなあ。狩人の、友だち……から教わったんだけど、クールークで」
「クールーク?」
「おっと、もう赤月だったか。ずうっと南のほうな」
「百五十年前って何さ」
「こまかいこといちいちつっこむなよ! う、疑り深い将軍は民衆から嫌われるぞ」
 とかいう親友同士のあどけない会話によって、狩人の小屋の長い歴史が確証された件。
 発祥はたしかに狩人なのかもしれない。狩人は山とともに生きる特殊な職業だから、知られざる秘密もいっぱい持っていそうだ。
 そういえば、帝国のグレィディ軍政官も税金で私腹を肥やす悪党だったが、官僚が狩人から税金を搾り取ったという話は聞かない。土地の税金を金の亡者どもが見逃すはずはないのだが、いったいどうやって逃れたのだろう。
(まあ、金のためにモンスターに喰われにいく度胸もないだろうし)
 危険な任務に配置されるのはきまって新米兵士だった。ルーファスも使い捨ての駒のひとつだったから、わかる。農家の息子だろうが、将軍の息子だろうが、肩書きをもった役人には関係ない。そんな国が栄えるはずがないのだ。
 トランはよい国になるだろうか。なると願うしかない。故郷から逃げだしたルーファスはもう、祈ることしかできることはない。
 いつかは帰る。しかし、ずっと未来だ。グレッグミンスターの邸宅も、知らない誰かが住んでいるかもしれない。そもそも遺っているだろうか。ぼくの部屋は。テッドの部屋は。父の書斎は。
(やめよう。記憶さえ、遺ればいいんだ。そうだろうテッド)
 大人になったなあ、ルー坊ちゃん。
 先輩風を吹かせるテッドの笑顔がみえるようだ。
 ルーファスは何日もかけて、狩人の小屋にたどり着いた。
 それはルーファスが想像したよりもはるかに粗末な建物だった。急な雨風をしのぐには問題ないが、ここに住めと言われたら困惑するしかない。
 なかに入ったら「ただいま」を言うこと。去るときは「いってきます」を言うこと。
「ただいま」
 きまりの挨拶を口にして、なかに入ってみた。だれもいない。あたりまえか。
 まず土間があり、大きな水瓶が三つと、山積みの薪があった。水瓶は三つとも清涼な水で満たされている。薪は湿気でカビやキノコのついているものもあるが、半数はそのまま使えそうだ。
 火を焚くかまどには赤錆びた鉄の網も置かれていた。魚や肉を炙るのにちょうどよい。
 貼り紙があって、そこにはこう書かれていた。『禁ずる、食べ物の長期放置、及び埋める行為。内臓となまものは狼の餌場へ』 簡単な地図と、犬にしか見えない狼らしき絵。
 ルーファスはくすっと笑った。この犬、いや狼、クロミミが見たら激怒するだろうなあ。
 建物は面積の多くを土間が占めていて、床板部分はとても狭い。それでも、はしごで上がる中二階も含めると、手足を伸ばして六人は寝られそうだ。
 中二階には寝具が積んである。カビの臭いをがまんすればじゅうぶん使える。日中に雨の心配がないときに干しておこうか。屋根にひろげるとよいかもしれない。
 飲料水は湧き水を汲むのだろうか。明るいうちに近くを探しておこうと小屋のまわりを一周して驚いた。なんと、井戸がある。試しに汲んでみると、冷たくて澄んだ水だ。すばらしい。
 粗末だと決めつけた自分を恥じなくてはならなかった。無駄なものはなにひとつないが、必要なものはすべて揃っている。この小屋に救われた旅人がどれだけいることか。
「使ったら掃除をする。壊れたら修理する。次に使う人のために水と薪を補充する。荷物や食糧は残さない。独占しない。火事を出さない」
 テッドから教わったルールを復唱してみる。とてもシンプルで、守るのはさほど困難なことではない。大切にされてきた理由はきっとそこにあるのだ。
 食べ物を残していけないのは、虫がわいたりネズミが荒らしたりするからだ。次の人が食べるだろうという考えは、自己満足にすぎない。荷物もまたしかり。使わないものを寄付のつもりで残していく。皆が同じことをしたらどうなるだろう。そう、ゴミの山が築かれる。
 狩人の小屋は、家を離れた者にとって、ほんのひとときの家だ。故郷を喪ったテッドも、故郷に帰ることのできないルーファスも、家のあたたかみはけして忘れない。
 ただいまを言って入り、いってきますを言って出る。テッドの決めた俺様ルールだとしても、これひとつくらいならば余計に守ってもだいじょうぶだろう。

「帰ろう」
 ルーファスは歩きはじめた。ぬかるんだ斜面に足をとられ、なかなか前に進まない。
 水とは恐ろしいものだ。急激に体力を奪う。今日の経験は、貴重なものだ。負けたけれども、悔しいけれども、恥じることはない。
 苦難を経て強くなられよ。
 武術の師匠のことばだ。ルーファスはあらためてそれを噛みしめる。
 木々のあいだを十歩ほど行ったときだ。
 竹が目の前をふさいでいた。
 よく見ると、それはルーファスの釣り竿だ。
 流される途中で木にひっかかったのだろう。無惨に折れ曲がり、原型をとどめていない。
 捨てていくのも気の毒だ。
 継ぎの部分をはずそうと手をかけた。
「うわっ!」
 勢いよく引っ張られてルーファスはつんのめった。反射的に竿をがっしりと握る。なんということだ。魚の手応えがある!
 釣り竿はもはや役目を果たしそうにない。木の枝が邪魔だ。
 思案している場合か!
 穂先を直接ひっつかみ、糸をたぐりよせて拳に巻きつけた。力と力の真っ向勝負だ。
 糸は革手袋にぎりぎりと食いこんだ。魚の重みと濁流の重みだ。これが最終決戦。伸るか反るか、一丁やってみるか。
「ええい!」
 渾身の力で引っ張った。
 ふっと重みが消えうせた。
 ばしゃん。
 ルーファスがかつて見たこともない大きな鱒が、銀色にきらめきながら水面に躍りでた。
(針が外れた?)
 浮いた身体を支えきれずに、ルーファスは膝をついた。泥がはねあがり、口のなかがじゃりじゃりした。
 右手は断続的に引っ張られた。しぶとい針だ。口元ではなく、喉の奥深くに突き刺さったのかもしれない。
 魚は力尽きたのか、浅いところに浮かんできた。えらがぱくぱくと開閉しているのが見えた。
 慎重に寄せて、引きあげた。
 銀鼠の躯に山吹色の優美な斑紋。なんという美しさだ。
 体表には無数の傷が遺っている。永かった生のあかしである。傷は美しさを損なうものではない。内面から発する崇高な美しさを見て、歴戦の勇者を褒め称えよ。
「おまえ、ヌシじゃないのか?」
 額に星らしきものはない。
 テッドのほら話を信じるわけではないが、星をみつけそこなってルーファスは軽く落胆した。
 そうだよな。ヌシがそう簡単に釣られるはずがないさ。
 だけど。
 ヌシはこの淵のどこかにひそんで、人間と同胞との戦いを見ていたのではないか。
 ヌシが星を持つ者ならば――紋章の祝福を承ける者ならば、ルーファスが普通の人間と違うことに気づいたかもしれない。
 淵はいわば、魚たちの本拠地だ。略奪者がやってきたら、排除するか、適当なみやげを持たせて追い返すか。
「仲間のために身を犠牲にしたのか、おまえは」
 魚はびくびくとうごめいた。断末魔の叫びだ。
 三百年も生きた身を囮とした親友のようだ。
 そう思ったとき、右手が強く拍動した。ぼんやりしていないで早く糸をほどけ。そう訴えているのだ。
 痛みを感じて革手袋をひきはがすと、すり傷ができて血がにじんでいた。これでは中の魂も文句をたれるはずだ。
 ルーファスは濁流に向かってふかぶかと頭をさげた。
「ありがとうございました」
 礼を怠ってはならない。人間は神ではないのだから。
 強大な力と不老を身に宿し、トランの英雄と呼ばれても、神にはなれない。もしも神がいるとしたら、それは姿形をもたないものだ。
 たとえば光、たとえば闇、創世の時代をかたちづくっていたものすべて。名前などない。世界の始まりと終わりに存在するもの、それが神だ。
 ルーファスは何者か。
(ただの臆病者さ)
”勇気は慢心につながる。臆病者でいなさい”
 たまたま出会った男に諭されて、ひとつ利口になった気でいる。
 人との関わりを通じて、多くのことを学んできた。解放軍が勝利したとき、これで終わったと思ったけれど、とんでもない勘違いだった。終わりは始まりなのである。学ぶべきことが多すぎて、途方に暮れそうだ。
 だが、とルーファスは思う。
 なんと豊かな人生を与えられたのだろう。
 人でありながら、人が望んでも得られないものを神さまはくれた。
 その力を、運命という諦めに満ちたことばで呼ぶか、縁という希望を含んだことばで呼ぶかは、ルーファスが決めていいことだ。
 この世は何者かの力によって支配されている。
 だけど絶望するのは真の終焉のときでよい。
 まだだ。もっと学び、もっと強くならないと。
 体内を渦巻く魂たちの怨嗟、父が、オデッサが、テッドが身を投じたその激流に、怯えて耳をふさぐ臆病者だからこそ。
(もっと強くならないと、そこには行けない)
 ソウルイーターが真に悪しき心ならば、呪いの意味とは何であるか。
 テッドは教えてくれなかった。ひとりで答えをみつけて、ひとりで逝ってしまった。
「そいつを遺してやるから、自分のオツムで考えろ!」
 と、いうことなのだろう。テッドめ。
 魚の魂をぼくは喰らう。そしてぐっすり眠ろう。テッドとちがって、眠ることは得意だからな。起きたら小屋を掃除し、雨がやめば出発だ。
 歩きつづけるのが宿命ならばそれに従うまで。彼をトラン湖の城に縛りつける理由がなくなった。晴れて天魁星の任を解かれたいま、ルーファスは自由だ。
「故郷離れたさびしさは、消えていくよ、その心に」
 どこかで覚えた歌を口ずさむ。知人に見られたらおおごとだ。
 熊笹を小刀で切り、鱒のえらに通す。こうすると持ち運びがらくにできる。こういった小さい知識をコツコツ積み重ねながら、旅人として成熟していきたい。
 魚を持ちあげると、ずっしりと重い。
「ひとりで食べきれないよ」
 苦笑いをする。からからに乾くまで遠火で焼いて日持ちさせることもできるが、できるなら今夜のうちに食べきってしまうのが最良だ。
 だれか、旅人が帰ってこないだろうか。そうしたらご馳走と自慢話ができるのに。
 こうなったらもう幽霊のテッドでもいい。食べるのを手伝ってくれ。一生のお願いだよ。
「あははは」
 ひとりで笑っても、べつに虚しくなどない。笑いは薬のようなものである。ひどく気落ちしたとき、怒りや恐怖や孤独を感じたとき、ルーファスは笑う。そうすることによって気持ちがらくになると知った。
 テッドが、よく笑うやつだった。あれは癒しの行為だったのだ。弱い自分を隠すためではなく、精神の救済として、テッドは笑っていたのだ。
 ルーファスは笑うことをしばらくのあいだ忘れていた。デュナン統一戦争のときがいちばんひどかった。付き添いのグレミオとともにバナーの村に隠遁したものの、容赦のない罪悪感に昼夜なく苛まされて、狂人さながらの生活を送った。大勢の人に迷惑をかけたのではないか、と思う。
 辛抱強く支えてくれたグレミオも、宿屋の娘、エリも、いまどうしているだろう。勝手に姿を消したことを怒っているのはまちがいない。グレミオには一度、手紙を送ってみた。むろん返事を受け取るすべはない。あのグレミオのことだ。憔悴しきって、酒浸りのロクデナシになっているかもしれない。
 感情のありかを見失うと、人は記憶を消してしまう。心を守ろうとするごく自然な防衛反応である。戦後の数年間、ルーファスは非現実の闇に囚われていた。ものごとの一切がリアルに感じられず、五感すら鈍くなっていた。
 あのとき、ナナオが慕ってくれなかったら、ルーファスは完全に壊れてしまっただろう。背中を押してくれたのはグレミオだった。テッドと、テッドのおじいさんが守ってきたソウルイーターを恐れることはないでしょう。グレミオはそう言った。
 一度はその紋章に魂を盗られたグレミオなのに、だいじょうぶだと笑った。
「シチューが冷めてしまいますので、夕飯までにはお戻りくださいね」
 グレミオが必ずつけくわえた言葉の意味を、ルーファスは噛みしめる。
 坊ちゃんの帰る家はここですから。
 帰る家、帰る場所。それは、大事な人が待っているところだ。グレミオはテッドにもそう言った。テッドくん、忘れないでください。帰る家はここにありますからね。
 ただいま。
 お帰りなさい。
 なんというあたたかさだろう。帰る場所を見失わなければ、どこまでも歩いていける。宿無しの放浪者ではないのだ。自分も、テッドも。
 ナナオという名の少年は、戦う理由を淡々と話した。ふたつに分けられた真の紋章を、一方を親友が、一方をナナオが継承したと。親友は故郷ハイランドの皇王であり、自分は相対する新同盟軍のリーダーだ。
 狂乱の皇王ルカの死によって、和平を結べると信じている。トラン共和国にその後ろ盾になってもらいたい。
 口実だな、とルーファスは嗤った。穏便のうちに和平を結ぶのであれば、よその国を巻きこむ理由がない。バナーの村くんだりまで軍主みずから足を運んだ、きみの本心を知りたいものだ。
「ぼくは、トランの為政者じゃない。このとおり、引退した身でね。釣りと昼寝ばっかりしてる。そういう話は大統領にしてくれないかな」
「赤月……いいえ、トランとはこれまで国交がありませんでした。こちらの都合でいきなり同盟を結べなんて、虫がよすぎます」
「だから、ぼくなの? なんなんだろうね、その理屈」
 意地悪を言ってみたつもりだったが、ナナオはにっこりとほほえんだ。
「だって、トランに行く途中の村でルーファスさんにばったり会ったんだもの。ラッキーっておもうじゃないですか」
 頬杖をついた右手からかくっと顎が落ちた。
「なんでわざわざ遠回りまでして……!」
「うーん、ぼくも一応、ほら、お忍びですから。エヘッ」
 エヘッ、ではない。
 ルーファスもたいがい若造であったが、ナナオの無邪気さはあまりにも強烈すぎた。こんなのを軍主にまつりあげたジョウストン都市同盟とはいったいどのような組織なんだ。
 出ていけと言っても従いそうにないし、グレミオが夕食を準備しますと大張り切りなのも問題だ。邪険にしたら、ルーファスひとりが悪者にされそうである。
「なんだか、おいしそうなにおいがしますね。たまねぎ?」
 グレミオめ、シチューで懐柔するつもりだな。
 ナナオくん。素でボケているのか、戦略なのか知ったことではないが、ぼくはあまり他人と関わりあいになりたくないんだ。半分とはいえ真の紋章を宿しているきみだったら、その恐ろしさを少しは理解しているだろう。
 ふと、ルーファスは言った。「レックナートに会ったか?」
 ナナオはぱちぱちとまばたきをした。
「レックナート……バランスの執行者の?」
 知っていたか。なるほどね。
 それは、彼が天魁星の名を承けたというあかしだ。
 歴史が大きく動くとき、天魁星のもとに星々が集う。かつて百七の星を率いたルーファスは、ナナオの未来を予見することができる。彼は大きな試練と戦わなくてはならない。心を引き裂くような決断を迫られ、足掻き、苦しみ、つかみとり、喪って、やがて笑うことを忘れる。
 そして、幾つも用意されたエンドのひとつに突き落とされるのだ。
 ぼくのように。
 喉が渇いてひりついた。
 たくさんだ。ぼくが天魁星だったのは、もう過去の話だ。終わったんだ。
 めまいがする。ナナオの姿が二重に見えた。
 やめてくれ。ぼくに構うな。だれとも話をしたくないんだ。さもないと。
「生と死を司る紋章をもっているのは、つらいですか?」
 ナナオが言った。
「ぼくの紋章は半分だけで、これだけでは不完全です。安定していません。力は、もちろんあるけれど、もとのかたちに戻りたがっているから、ときどき暴れます。暴れると、ぼくはつらいです。苦しくて、気を失います。ジョウイも同じです。ひとつにしないと、こいつは宿主の命をどんどん削っていきます。決着がつかなければ、ジョウイもぼくも、死ぬんですよね」
 己の死を語る口調ではなかった。ナナオはうっすらとほほえんでさえいた。
「ぼくたちが宿したのは、始まりの紋章といいます。ぼくの紋章が『輝く盾』で、ジョウイのが『黒き刃』です。剣と盾です。創世の物語の」
「ああ」
「剣と盾は七日七晩戦いました。最後に、相打ちになって砕け散りました」
「砕け散りたいのか?」
「ジョウイを殺して生きのびるくらいなら、砕け散ってもいいかなって」
 おいおい。
 ナナオは口ごもったが、決意したように顔をあげた。
「ルーファスさん。ソウルイーターを宿して、後悔していますか」
「えっ」
「あなたのそれは、真の紋章のなかでもっとも邪悪で、呪われた紋章とききました。しかもあなたの宿しているのは完全体です。大きな力を得て、不老になって、ルーファスさんはなにを考えていますか。失礼な質問だとわかっています。でも、知りたいんです。知って、そして……」
 大きな眼から涙が落ちた。
「ぼくは、始まりの紋章を宿す覚悟がほしい」
 血を吐くような叫びだった。
 ルーファスは混乱した。息ができない。
「ぼくは……」
 息が。たすけて。
「ぼくは、覚悟なんて、ない。そんなもの、ないよ。力なんか、いらない。そんなもの、いらないから、返して、テッド、返して、テッドを」
「ルーファスさん」
 身体ががくがくと震えた。耳鳴りがうるさい。気が遠くなっていく。右の手が、熱い。
 だめだ。暴走してしまう。こんなところで、解放しては――だめだ。
「ぼっちゃん」
 昏倒したルーファスを、いつのまにかそこにいたグレミオが受けとめた。
「ゆっくり息をしてみましょうか。吸うだけではだめですよ。吐いて。そう、ゆっくり、ゆっくり。だいじょうぶですよ」
 あたたかい手のひらが背中をさすった。血の気が戻ってくるのがわかる。
「だいじょうぶですよ、ぼっちゃん。ソウルイーターはテッドくんと、テッドくんのおじいさんが守ってきた紋章です。恐れなくってもいいんですよ」
 ルーファスは小さくうなずいた。
 おろおろしているナナオを椅子に座らせてから、グレミオは言った。
「ナナオさんも、ぼっちゃんも、男の子ですね。強がりすぎです。もう少し不真面目でもバチは当たりませんよ」
 怒られるかと身構えていたナナオは、からくり人形のようにコキリと口をあけた。
「あの、ぼく、たいへん失礼なことを……」
「しっ。そのお話は、あとでまたゆっくりしましょう。ところでお茶をいれようかとおもったんですが、バラとチューリップ、どちらにしましょうか」
「バラと、チューリップ?」とナナオ。
「チューリップ」とルーファスが言った。「バラなんか見るのもいやだ」
 グレミオはくすくすと笑った。
 エプロン姿の大男が台所へ戻っていくのを見送って、ナナオがきまずそうに口をひらいた。
「ごめんなさい」
「いや、こっちこそ、ごめん」
「ルーファスさんの気持ちを考えずに、ぼくはなんてひどいことを」
「ちがう。きみが悪いんじゃない。ぼくが、このとおり、弱いのがいけないんだ」
「でも」
 ルーファスは深く息を吐いた。目を閉じる。
「テッドは、ぼくの親友だったんだ」
 ナナオは背筋を伸ばして、「はい」と言った。
「テッドはね、ソウルイーターの前の宿主だった。赤月帝国の宮廷魔術師がソウルイーターを狙って、テッドを傷つけた。テッドはぼくに、ソウルイーターを継承して、自分は囮になった。ぼくが赤月帝国と戦った、それが理由だ」
「テッドさんは」
「死んだよ。ぼくを守るために」
「そう、ですか」
「ほんとうはもっと長い話があるんだけど、テッドのことはこれ以上話さない。きみに背負わせる荷物じゃない。重すぎる。ぼくも、きみの親友のことは聞かない。それでいい?」
「はい、わかりました。それでいいです」
 グレミオが現れて、「お茶が入りましたよ」と言った。どう考えても、外でタイミングを計っていたとしか思えない。
 チューリップのお茶でひとしきり盛りあがったあと、話はふたたび同盟の件になった。こんどはグレミオも交えて、三名の話しあいである。
 ナナオの側はひとりだ。連れは遠慮して、席を外したらしい。
 さては最初から同盟の依頼ではなく、人生相談が目的だったんじゃないかとルーファスは思った。
 しかしトラン共和国に同盟を提案するという話はほんとうらしい。さすがにこれがでまかせだったらナナオの神経を疑うところだ。
「いちど休戦協定を反故にしたハイランドが、また同じことをするとは考えないのか?」
「たしかに、その前の領土争いはあまりにも長すぎました。二百年ですよ。簡単に許せるものか、という気持ちがあったとしても、責められないです。ですがもう、ハイランドにはアガレスもルカもいません」
「で、いまの皇王がきみの親友ってわけか。話としてはできすぎだな。ブライト王家の派閥もあるだろう。きのうきょう皇王になったばかりの一般人を、ハイランドがどう見ているかだが」
「ジョウイは幾つも手柄をあげて、国民の信頼を得ています。ジョウイの地位はもはやゆるぎないとおもいます。それに、強い軍師がついてるっていうし」
「軍師?」
「ええ。レオン・シルバーバーグ、さん」
 レオン。シルバーバーグ一族の、レオンか。
 ルーファスはきつく眉を寄せた。グレミオの表情も曇る。
 その男はかつて赤月帝国で、皇帝バルバロッサ・ルーグナーの片腕として名をあげた。ルーファスはレオンのことをよく知っていた。何故ならば。
「レオンは危険だぞ。目的のためならば手段を問わない男だ」
「ルーファスさんはそう仰るとおもってました」とナナオは言った。「グリンヒルが陥落したとき、これはジョウイの考えた策ではないとおもいました。それでぼく、調べてみたんです。トランとのつながりも、ぜんぶ。レオンのことをルーファスさんはよくご存じでしたよね。だからぼく、ここに来たんです」
 ルーファスは呆れてしまった。無害な顔をして、切り札を用意してきたか。しかし後出しは、ずるい。いや、ずるいから切り札なのか?
「ぼっちゃん」とグレミオが言った。「よい機会ですから、一度、グレッグミンスターに帰られてはどうでしょう。この話はレパント大統領に通すべきだとおもいます。ぼっちゃん抜きでははじまらない話ですよ。見て見ぬフリは、ぼっちゃんらしくないです」
「うん、でも……」
「不安ですか?」
 ルーファスは口をつぐんだ。
「だいじょうぶですよ。グレミオはぼっちゃんを信じておりますって。わたしはごはんを作りながら、帰りをお待ちしていますから」
「えっ、いっしょに行かないの?」
 言ってからしまったと思った。なんだ、いまのお子さま丸出しのせりふは。ナナオがいるのに、みっともない。
 グレミオはやんわりと笑った。
「ぼっちゃんはもう、お供が必要な歳じゃないでしょう?」
「断っても勝手についてくるのはグレミオじゃないか!」
「おや、そうでしたっけ。うーん、困りました。死ぬ前のことはとんと思いだせなくて。そういえば、飲み屋のツケもたまっていたような気が……」
「あああ、もういい、もういい、わかったよ」
 従者に対しては年相応のふるまいをするルーファスを見て、ナナオはほっとした。よかった。気むずかしい人だったらどうしようかと思った。
 表情が暗く、なにを言っても笑わないけれど、不思議な光を放っている。紋章のこともよく知っている。
 この人と組めば、ジョウイを取り戻せるかもしれない。
 ほのかな希望ではあったが、ナナオは賭けた。
 その日からルーファスはデュナン統一戦争に関与することとなった。
 新同盟軍には、赤月帝国でルーファスとともに戦った人々の顔もあった。ルーファスの事情を知る彼らは無条件でルーファスを迎えいれたが、ひとりルックだけがちがった。
「こんなところにノコノコとあらわれるなんて。とんだ坊ちゃんだな、あんた」
 ひねくれた物言いがなつかしい。
「きみこそ、また、レックナートさまのご命令?」
「まあね。一番弟子はけっこう忙しいんだ。ところで、あんたの名前、石版にないけど?」
 ルーファスは「いいんだよ、なくて」と言った。それを確認したらもう、ノースウィンドゥの城に用事はない。
 ルックは皮肉な笑みをうかべた。
「ねえ、ナナオに手を貸すつもり? こちらとしてはトラン共和国と協定を結べればそれでよかったんだけど、まさかあんたみずからおでましとは、びっくりだな。何を考えてるの」
「べつに、なにも。個人的な理由だ。きみには関係ない」
「つれないこと。そんなだっけ、あんた。なんか変わったよねえ」
「変わらないさ」
 ルックは「ふーん」と言って、ルーファスの耳に口を寄せた。
「まさか、ナナオの話をきいて同情しちゃったとか?」
「同情?」
「わが軍主どのは親友と敵対してるからね。なんか、あんたもそんな感じだったよなっておもっただけ」
「……」
「よけいなお世話かもしれないけど? あんたがいることで、なにかがよくなるってことはないよ。忠告しとくね」
「わかってるさ。あいかわらずだな、ルック」
「まあね。会えてうれしいよ、マクドールのお坊ちゃん」
 ルックは手をひらひらさせて去っていった。とりのこされたルーファスはため息をついた。
(なんでも見透かすんだよな、ルックは)
 同情ではない、そう否定することのできない自分がいやになる。この城ではルーファス・マクドールはよけいなひとりだ。ソウルイーターも制御できないくせに、どうしてぼくはここにいるのか。
「それは、まあ、ムグムグ、個人的なおつきあいってかんじでいいんじゃないですか。おいしいなこれ。あ、どうぞ、遠慮なく食べてくださいね。ルーファスさんはぼくがお招きしたんですから、星とかそういうの関係なく……ゴクッ……ひらふひひへふへはらいいはほ」
「ナナオくん、口にいれたまましゃべるのは、お行儀が悪いよ」
「ほへんははい」
 ああ、ほんとうにこれでよかったのだろうか。なにかまちがえたような気もする。プリンスブリザードとかいうあだ名をつけられて、変な酢の物をごちそうされて、うっかりテレポート娘にわけのわからないところへ飛ばされて、ようやくバナーの村に帰ったと思ったら次の日にはやってくるお迎え。
 お弁当持たせられて戦場に出勤とは、なんの罰ゲームだ。
「ぼくはのんびり釣りをしていたいのに」
 愚痴をいってもはじまらない。乗りかかった船が沈没しないことを祈るのみ。
 そうして時は過ぎ、ナナオの物語は終わった。
 ナナオは勇敢だった。最後まで逃げだすことをせず、悲願のデュナン統一を成し遂げた。
 ナナオはルーファスに、立会人になってくれと言った。決着をつけるから、と。
 約束の地で、ぼくのすることを見ていてほしいんです。許されることではないけれど、ぼくが決めたことだから、それをあなたに記憶してほしい。
 おねがいします。
 ルーファスは承知した。
 ナナオは親友の刃をかわし、防御の態勢に徹していたが、ほんのわずかなスキをついて、致死の一撃をたたきこんだ。
 その一部始終をルーファスは眼に焼きつけた。
 ぼくのぶんも生きるんだ、ナナオ。
 もうひとりの少年はわずかに笑みをうかべ、そのまま動かなくなった。
 黒き光が亡骸を出、ナナオに吸いこまれていった。彼は始まりの紋章をひとつにしたのだった。
 ナナオは静かに立っていたが、やがて振り返り、ルーファスに言った。
「ぜんぶ終わりました。ルーファスさん、ここでお別れです。いままでほんとうにありがとうございました」
 彼が泣いているのではないかと思ったが、その瞳は強く輝いていた。
「デュナン湖の城に帰るのか。それとも、キャロの村に」
「いいえ」とナナオは首を振った。「帰りません。帰れるはずがないでしょう? あなただって、帰らなかったじゃないですか。同じですよ」
 沈黙があった。ナナオはみずからそれを破って、エヘッと笑った。
「さようなら、ルーファスさん」
「ナナオ……?」
 ナナオは踵を返すと、崖に向かって走りだした。ルーファスがとめる間もなく、彼は大瀑布に身を投げた。
「ナナオーっ!」
 ルーファスが崖っぷちまできたとき、少年の姿はもうなかった。ここから飛び降りて、生きていられるはずがない。始まりの紋章が機転を利かしても、彼を救うことはむずかしい。
「くそっ」
 ルーファスはしゃがみこみ、拳を地面に打ちつけた。
「ばかやろう。命を粗末にしやがって。大馬鹿野郎だ……ナナオ」
 ルーファスは咽び泣いた。テッドが死を選んだときからずっと枯れ果てていた涙が、あふれた。

 鎖をもってしても
 おまえの魂を汚すことはできない
 その愛と勇気ある魂を
 おまえの気高い調べは
 清らかな魂と自由を愛する人のもの
 決して囚われの身で奏ではしない

 テッドは歌が好きで、たくさんの歌を知っていた。よく歌詞を覚えられるもんだ、とルーファスが褒めると、おれは吟遊詩人だからさ、とうそぶいた。
 吟遊詩人が音痴なものか。調子をはずすにしても程度というものがある。テッドの歌声は、近所迷惑なだけだ。
 テッドがいなくなり、ルーファスは歌いはじめた。自分のほかに聴く者のない歌を、小さく口ずさみながら旅をした。
 吟遊詩人は戦争で敵に捕らわれるが、最期までけして屈することはなかった。彼は大切なハープが二度と音楽を奏でることのないよう、弦をすべて切った。
 吟遊詩人が処刑されたのち、平和が戻った。人々はみな、その少年がいつか帰ってくると信じた。そして誓うのだ。この世界から戦いの火をすべて消すことを。
 永遠の平和などありえない。詩は美しいが、嘘をつく。死んだ者は帰ってこない。
 それでもルーファスは歌う。歌には人間の祈りがこめられている。本質を求めるとき、歌の意味はよい手がかりになる。
 ルックの忠告どおり、ナナオに手を貸したことで運命はなにひとつ変わらなかった。役目を与えられたわけでもないのに、舞台にあがって、悪目立ちしただけだ。レックナートからはいずれお小言をちょうだいするかもしれない。なんとも気の重い。
 ナナオは広い世界を知りたがって、ルーファスに話をねだった。おしゃべりすることで彼もひとときの安らぎを得るのだろう。ルーファスにできたことといえばそれだけだが、無駄なようでいてあんがい楽しい時間だったと思う。
 狩人の小屋のことも、話したかもしれない。心のどこかで、もしも逃げだしたくなったら小屋のことを思いだしてほしいという願いがあった。
 逃げるのもひとつの手段である。運命なんて振り切って、走って逃げて、どこか森深いところにあるお家で静かに暮らしたいと願うことのどこがいけない? ルーファスは単に可能性のひとつを示しただけだ。選択肢はひとつでも多いほうがいい。分岐のない一本道なんて、好んで歩きたいとも思わない。
 寄り道、裏道、遠回り、近道、軌道逸脱。無駄が多い人生ほど豊かである。昼寝だって同じことだ。活動できる日中にわざわざ睡眠をとるなんて、どんな怠け者だと思うかもしれないが、ぶっ続けで動きまわるよりもよっぽど効率的なのだ。
 狩人の小屋は、大いなる無駄の文化を受け継いだ。これを遺した先人たちに感謝したい。
 ナナオは生きているかもしれないと、長い時間をかけてルーファスは思うことにした。デュナン共和国が建国されても、彼の行方は聞こえてこない。デュナンの初代大統領はテレーズ・ワイズメル。彼女に接触すれば手がかりが得られるかもしれないが、訊いてどうするという気持ちもある。
 生きているとしたら、ナナオはいま、どこで暮らし、どんな顔をしているのだろう。あの、屈託のない笑みを浮かべているのだろうか。それともルーファスのように心を病み、出口のない暗闇に囚われているのか。
 もしも、もしもナナオにチャンスがあったなら。
 元気でいてほしい。足繁く通ったバナーの村を思いだし、会いにきてほしい。ぼくは留守にしているけれど、グレミオがいる。また、お茶でもご馳走になるといい。
 狩人の小屋のことはまだ覚えているだろうか。答えを求めてさまよう旅人たちの家、仮住まいではあるけれど、きっと気に入ると思う。
 キャロにある祖父の家は道場だといっていた。ひょっとしたらどこかの村で、子どもたちに武道を教えているかもしれないな。ナナオは子どもに好かれるから、きっといい先生になるだろう。
 姉と親友を喪い、笑みながら地獄に堕ちたきみ。
 終わりは始まりではなかったか。生と死が繰り返されるように、終わりと始まりも循環するのではなかったか。
「ナナオ」とルーファスは言った。「どこだ、ナナオ」
 ふと。
 声がきこえたような気がした。
 ルーファスは足をとめた。
 猛烈な雨のせいで視界が煙る。
 六月だというのに吐く息が白い。谷にはまだ雪渓が残る。いまのはおそらく、雨でその氷が割れた音だ。
「幻聴だよ」
 心臓を落ち着かせるために声をだしてみる。しかし、うごめきはじめた妄想はじっとしていない。
 旅人が。
 旅人が、帰ってくるかもしれない。今夜。
 ナナオかもしれない。
 真の紋章は互いに引き合うとテッドがいっていた。すぐ近くにあれば、感じると。
 ルーファスはまだその感覚を知らない。覇王の紋章、門の紋章、夜の紋章、さまざまな真の紋章にルーファスは出会ったが、ソウルイーターを通して感じたり見たりすることはできなかった。宿主となり日が浅いからかもしれない。
 ソウルイーターはかなりのへそ曲がりで、宿主であるルーファスの声は無視するくせに、元の宿主であるテッドの願いは聞き入れた。三百年と三年では比較にもならない。
 ナナオが宿していた紋章は片割れだったので、始まりの紋章のもつ力がどんなものかを見る機会はなかった。穏和な紋章ならばよいが。テッドやルーファスならともかく、ナナオ少年がいじめられるのは、なんとなくむごい。
 ともあれ、真の紋章は世界に二十七だけなのである。偶然はそう何度も続きやしない。歴史は必然に導かれている。すなわち秩序である。
 秩序のしもべが真の紋章たちであり、世界が混沌に傾くのを阻んでいる。
 すると、混沌の手先はいったい、どこからやってくるのだろう。
 違う世界、か?
「ああもう、わけがわからない」
 まとわりつくバランスの執行者のけむりをハエのように追い払う。
 今夜来られても、ぜったいに絶対に起きないからな。あられもない寝言でいたたまれない気持ちにしてやる。
 ぐらつく世の中は次の天魁星に全面的におまかせだ。こまっしゃくれの弟子は好きにこき使ってくれ。ごきげんよう。
「バッカバカしい。さっさと帰ろう」
 独り言はもうすっかり癖になった。なにかしゃべらないと、声のだしかたを忘れそうだ。こんなときは歌だ、歌。
「おやまにあーめがふっりまっしたー、あっとからあっとからふってきてー」
 英雄ルーファス・マクドールのプッツンした姿をだれかに見られたら、
「とうとうぼっちゃん破滅っですー、っとくらァ」
 やけくそでスキップする。ねっちゃねっちゃと泥が鳴る。ああ楽しい。ああ寂しい。ほっとけ。
 ほんとうはグレッグミンスターの家に帰りたい。ルーファスを理解してくれる家族に、鬱屈した思いをぶちまけたい。
 英雄から子どもの顔にもどって、泣き叫び、わめきちらしたらどんなにすっきりするだろう。我慢したんだね。つらかったね。がんばったね。そんなことばで飢えを癒せたら。
「グレミオ」と呼んだ。「グレミオの、あったかいシチューが食べたい。クレオ、パーン、迎えにきて。傘をもって、迎えにきてよ」
 返事はなく、雨の音がするばかり。
「……というところで、本日の舞台はおしまい」
 風邪をひく。急ごう。どうせ今夜もひとりだ。食事をとって眠ればまた元気になる。疲れをためこんでは、旅立つのが億劫になる。
 濃く繁った木々に隠されて、狩人の小屋は建つ。川からも道からも見えないかわりに、入り口の目印として赤いバンダナが結ばれている。
 長逗留するようなところではない。居心地は悪くないけれど、わずらわしい生活から離れすぎてしまったら、きっと戻れなくなる。
 魔女ウィンディを倒したから、逃げる必要はもうないのだとほんとうに言えるだろうか? いや。とにかく、ひとつの地にとどまるのだけはだめだ。川も流れていないと澱みになる。長い人生、こんな序盤で停滞してはいけない。
「ただいま」
 重い木戸を押し開けた。返事はなかった。
 中に人のいないことは、赤いバンダナの辻を入った時点でわかった。西陽の射さない小屋は四時を過ぎるともう薄暗く、ろうそくが必要になる。あかりが見えなかったので、ルーファスはほっとしたような、拍子抜けのような、複雑な気持ちになった。
 激しい雨はやみそうにない。小屋は夜のような闇に閉ざされている。
 小屋には窓がないため、月明かりの夜は木戸を開けっぱなしにする。ろうそくには限りがあるので、少しでも節約するためだ。
 魚を木の桶にいれてから、もういちど外に出た。雨をシャワーにしてこびりついた泥を落とし、靴の泥もざっと洗った。
「はっくしょん」
 やりすぎては風邪をひく。もう適当にしよう。
 ごわついた服をぜんぶ脱ぎ、手探りで着替えをひっぱりだす。狭いので、どこになにがあるのかわかりやすくていいな。しかし、乾いたタオルがどうしてもみつからない。干したあとどこに片づけただろうか。
「ろうそく、ろうそく」
 マッチをすり、ろうそくをともす。炎がゆらゆらと立ちあがり、あたたかい光で小屋を包んだ。やはりあかりがあると、ほっとする。
 たたんであるタオルを見つけ、ごしごしと頭をこすった。タオルは小屋の常備品だ。枚数もあるので、洗濯をしながら贅沢に使える。旅人に必要なものはちゃんと置いてあって、逆に不要なものはいっさいない。
 着替えがすむと、次は火熾しに取りかかった。座りこんでしまったら動くのが面倒になるので、仕事は一気にまとめてする。優雅な晩餐のために、労働、労働。
 薪は湿り気をおびて火がつきにくい。焚きつけの松ぼっくりだけがパチパチと爆ぜて消える。
 さて、困った。
 薪の組みかたをいろいろと変えて試し、十個めの松ぼっくりでようやく火が起きた。地道な努力にルーファスは満足した。時間に急かされなければ、どんな努力も実る。憶えておこう。
 身体はクタクタなのに、なんだか愉快だ。きっと魚があるせいだ、とルーファスは思った。
 木桶をろうそくの下に運んで、あらためて魚を観察した。もう動いていない。持って帰るあいだに死んでしまったのだ。
 死は特別なことではないと頭で理解していても、そこには畏怖がある。生と死は普遍的なテーマであり、また、穢れである。
 右手をゆらゆら揺らしてみる。
 紋章を宿しても、ルーファスが代理として生と死を司るわけではない。この躯は仮の棲まいだ。ルーファスは支配者に拘束されているだけ。
 小刀で腹を割き、内臓をとる。精巣がでてきた。雄だ。
 三角形の心臓がポトリと落ちた。こんな小さな臓器が拍動して、肉体を生かすのか。
 最後にえらを切り落として、木桶に張った水できれいに洗った。熊笹の葉で内臓を包み、わきによける。魚を焼いているあいだに、狼の餌場へもっていこう。
 串を刺して塩を振れば、準備は完了。さて、米をどうしようか。魚だけでも多すぎるほどだけど、ルーファスの価値観では魚にはごはんなのだ。
 旅にでたら重い荷物と価値観を捨てよ。
 と、えらそうに言ったのはだれだっけ。
 とりあえず、湯も沸いたようなのでお茶をいれよう。
 ボコボコにへこんだ銅製のカップに茶葉をつまみ入れ、熱湯をそそぐ。皿で蓋をして、茶葉の開くのを待つ。
 マクドールの家では、ポットだの茶漉しだのとたくさんの道具を使ったので、お茶とはそういうものだとルーファスは思っていた。だからテッドがいとも簡単に茶をいれ、砂糖も混ぜずに飲むのを見て、びっくりした。
 茶葉はわざわざすくったりしない。息を吹きかけて、よけながら飲む。三分の一ほどになったら、湯を足す。香りは薄まっていくけれど、このやりかたに慣れてしまえば気にならない。
 茶殻は土に還す。とてもシンプルだ。
 思えば、短いあいだにいろいろなことを教わったものだ。テッドの講義はいつも新鮮で、驚きの連続だった。あまりやんちゃをするなとグレミオが小言をいうけれど、男の子はどうしようもなく冒険が好きだ。悪いことも大好きなのだ。
 期限つきの日々だったが、どれもこれも楽しい思い出ばかり。猶予ということばで片づけたくない。
(ぼくたちは三百年前に出会い、再会を約束した。奇蹟でもおきないかぎり、けしてかなうことのない困難な約束だった。だけどテッドは約束を守った。だからぼくも、テッドとの約束をぜったいに忘れない)
 元気でな。
 おれのぶんも生きろよ。
 これ以上の約束があるだろうか?
「仕返しとか、いうなよ」
 テッドがそこにいるのではないかと思って、ルーファスは話しはじめた。
「だいたいさ、テッドぼくのこと完璧に忘れてたよね? ウィンディのことも忘れてたよね? 適当にごまかすなよ。時効とかいってへらへら笑ってんだろ。おまえのことなんか、すべてお見通しだ。お坊ちゃん時代のルーだとおもうな。こう見えてもぼくは天……」
 その時。
「ただいま」
「うわあぁぁっ!」
「うわっ! な、なに?」
 びっくりした。死ぬほどびっくりした。口から心臓がはみでるかと思った。いつからそこに。どこから聴いていた。おっさん!
「だれと話していたの」
 ルーファスはどもりながら、「えっ、ええと、ゆ、幽霊?」と答えた。
「めずらしい。幽霊がいるのか、きょうは」
 中年の旅人はきょろきょろしながら、重そうな袋を土間に置いた。
「いやあ、ひどい雨だねえ。でもまあ、ちいと降らないと畑が干上がっちまうしなあ。へっくしょっ!」
「ああ、どうぞ、着替えてください。乾いたタオル、どうぞ」
「ありがとう。おっと、ちゃんと洗濯してある。感心、感心」
「すみません、ちょっと、何日も住んじゃってるもので……」
「好きなだけ住むがいいさ。おれらの家だ、遠慮すっこと、ねえ。やれやれ、どっこいしょ」
 火を熾してよかった。彼が風邪をひかなくてすむ。
 男は独特の格好をしていた。旅人や商人ではなさそうだ。
「あなたは狩人ですか?」
「あぁ。群れをつくらないほうの狩人だ。山にいないときは、女房とふたりで百姓をしてる」
「立派な弓をお持ちですね。すごく重そうだ」
「そういう坊ずは狩人にゃあ見えねえが、旅人にも見えねえな。魔法使いの修行かなんか?」
「魔法使いならいいんだけど、すみません。群れをつくらないほうの旅人です」
 男は豪快に笑い、握手を求めてきた。ルーファスはためらったが、右手を握られて振られてしまったら引っこめるわけにもいかない。
「雨がやむまでの相棒、よろしく頼むわ」
「はい。若輩者ですが、よろしくお願いします」
 名乗らないんだな、とルーファスが思っているあいだに、男は魚をみつけた。
「こりゃまた、でっけえ鱒だな。坊ずが捕まえたのか。そこの川で?」
「えへへ」
「ふうむ。こんなのがいるんだなあ。むかし、ヌシが出たって大騒ぎになったことがあるが、こいつはたぶんちがうな。星がない」
「えっ?」
 不意打ちをくらって、ルーファスはどきんとした。
「ヌシは額のところにきらきらする星があるんだと。嘘かほんとかしらねえが」
「それは、有名な話なんですか」
 男はちょっと考えて、「おれの村では有名かな」と曖昧に答えた。
 まさか。とは思うけれど。
(テッド……)
 感動の符合のはずが、先を越されたようなこのもやもや感はいったい。
「坊ず、ちっこいのに腕のたつ釣り師だなあ」
「えっ! あ、あは、あはははは」
 ちっこいはよけいだ。
 気が抜けたら、空腹が現実のものになってきた。ルーファスはいいことを思いついた。
「ちょうどよかったです。こんなのぼくひとりで食べる自信がなくて、どうしようか悩んでいたところでした」
「ウホッ、どうやらいいところに来たようだぞ。つまみのない酒は寂しいからなあ」
 そう言って大袋から取りだしたのはまぎれもなく酒瓶だ。
「あの、ぼく酒は飲めません」
「おれのよ、おれの。こんないい酒、山でしか飲めねえ。女房にブッとばされちまう」
「はあ。たいへんですね、夫婦って。お察しします」
「がはは。おもしろいな、坊ず。ところで」
 男はルーファスをまじまじと見ると、言った。「そっちのちびが、さっき話してた坊ずの連れだな」
「はい?」
 そっちのちび?
 ルーファスは男の視線をたどって右を見た。だれもいない。あたりまえだ。いたら怖い。
「そっちじゃねえ。ここ、ここ」
 男はルーファスの右肩を指さした。黒っぽいものがへばりついている。
「あ、虫だ」
「入ってきたときからあんたのそこにひっついてたぞ。そいつと話してたんじゃなかったのか」
「虫に知り合いはいなし、虫語もしゃべれませんよ」
「ふーん、そうか? ところで、そいつがなんていう虫か知っているか」
 ルーファスは首をかしげた。どこにでもいそうな、地味な虫だ。
「なんだろう」
 男はにやっと笑って、立ちあがった。
「見てな」
 燭台へ歩みよると、ろうそくの火を吹き消した。
 薪の焼ける赤色を残し、周囲が闇に融ける。
「なんですか?」
「まあ、待てって。ほら」
「あっ」
 虫が静かに発光しはじめた。ゆるやかな点滅を繰り返す。そのほのかなあかりは、ルーファスの顔をやさしく照らした。
 ふわりと浮きあがり、そっと肩から離れていく。
「ホタルだ!」
「あたり。いまの時季しか見られないんだぞ。このちび、雨が降ったもんで迷いこんだんだろうな。それとも、坊ずを見守っていたかな」
「見守って?」
 ホタルはふわふわと、ルーファスにまとわりつくように飛びまわった。言われてみれば、守っているようにもみえる。不思議な感じだ。
「蛍火ってのは、人の魂なんだと」
 男は火のそばであぐらをかき、煙草をふかした。
「死んだら魂は躯から抜けて、あの世に往っちまうんだけど、たまーにホタルに姿を変えて大切な人を見守るやつもいる。我が子とか、嫁さんとか、心配でしかたがねえんだよな。そいつも、もしかしたら、坊ずのよく知ってる魂かもしれねえな」
 ひときわ強く発光するとホタルはふたたび右肩にとまった。
「父さん?」
 思わず口をついてでた。
 ばかげている。それに父の魂はもう――。
 だが。
「ああ、すまん。そんな顔をするな。親父さん、か。そうか。悪かったな」
 ことばを継げないルーファスが、泣いていると思ったのだろう。
 涙はでない。ナナオと別れたときに、また枯れてしまった。
 それでも、胸が切なさでじんじんした。
 ようやく笑えるようになった。もう少し時間がたてば、つぎは泣けるようになるのだろう。感情を取り戻しながら、記憶は薄れてゆくのだろうか。テッドとの思い出も、やがておぼろげになって。
 だけど、ぼくは、忘れない。テッドとの約束だけは、なにがあっても。
 ルーファスを男のやさしいひとみがみつめた。
「狩人っていう連中は、こういうおとぎ話もへいきで信じちまうのが多くてな。女々しいな、へへっ」
「いいえ。信じます、ぼくも。狩人じゃないけど」
「そうか、そうか」
 笑おうとしたそのとき、ぽつりとひと粒だけ涙がこぼれおちた。
 ホタルの光が、しずくを照らした。
 ホタルは父ではない。テッドでもない。知っている。
 ルーファスに寄り添うホタル。父と同じ、親友と同じ。はかないけれど、この世に生まれた魂のひとつ。
 屋根にたたきつける雨の音、風のうなり、木々のざわめき。
 静かだ。
 このような沈黙もあるのだと、ルーファスは思った。


引用:
トマス・ムーア「The Minstrel Boy」 (アイルランド民謡)

2013-06-29