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サラディの夜

 建ってからかなりの年月を経た宿だとは思ったが、壁に隙間でもあるのだろうか。それとも、部屋の誰かが窓を空かしているのか。外気がときおり頬をなでる。
 きょう一日、虎狼山の険しい峠道を歩きづめて身体はクタクタのはずなのに、ルーファスは浅い眠りから何度も覚めた。
 粗末だが日向の匂いがするあたたかい毛布と心地よい疲労感。それすらも彼をまどろませることはできないようだった。
 思えば帝国軍に追われたあの雨の夜から、ぐっすり眠ったことなんてない。
 ベッドにもぐりこむと、忙しさで忘れていたいろいろなことがよみがえる。暗闇が思考を後押しし、安息の世界に連れていかせまいとする。
 そのようないたずらな眠りを繰り返し真夜中にどれだけうなされたことか。
 行方のわからない友の名前を叫び。
 行き先のわからない自分に怯える。
 幾度も寝返りをうち、声にならないうめきをあげ続けるうちにまた朝がくるのだ。
 すると、ルーファスの身辺は一変してあわただしくなる。事態はものすごい勢いで彼を押し流し、ルーファスがうなずくだけでどんどん事が決まっていく。
 流されているという自覚はある。ただ、自分はそのことをどうにもできない。
 なにが正しく、なにが狂っているのかを確かめる余裕はいまのルーファスにはない。
 自分の道は自分で選び採るつもりだ。そのひとつに、いますぐ帝都グレッグミンスターに帰り、父と話をし、可能ならば皇帝と謁見し、誤解を解くという道もたしかに、ある。
 何度、そうしようと思ったことか。だが、そのたびに彼のなかで警鐘が鳴る。
 僕は見たはずだ、この目で。
 僕は聞いたはずだ、この耳で。
 揺るぎない真実として信じていたものが狂っていったさまを。だからこそ、自分はいま帝都を離れてサラディへ来ているのではなかったか。
 帝国に刃向かう反乱軍───いや、解放軍のひとりとして。
 どうしてこんなことになったんだろう。闇の中で彼を苛むのはいつもそれ。
 そんなときルーファスは朝が永遠に来なければいいと願い、次の瞬間は早く朝が来てくれることを祈っている。長いながい度々の夜。
(……風)
 今度ははっきりと目をあける。
 さまざまな種類の寝息が狭い部屋に充満している。だが、確かにだれかがベランダに出た気配がした。このまま寝たふりをしていようかと少しだけ戸惑ったあと、ルーファスもゆっくり身体を起こした。
 今夜は月明かりがまぶしいほどで、ベランダの手すりにもたれて空を見あげている人の影をくっきりと浮かびあがらせている。ルーファスが寝ている人を起こさないようそっと戸を開けると、彼女は物静かに振り向いた。
「あら、あなたも眠れないの」
 解放軍の女リーダー、オデッサはやさしくほほえんだ。

 正直な気持ち、寝たふりをしといたほうがよかったな、とルーファスは少し後悔した。
 この女性はあまり得意ではないのだ。女だてらに解放運動を率いているというその事実もさることながら、自信に満ちあふれた行動力はいまのルーファスにはまぶしすぎた。
 あの大男ビクトールや、アジトで一緒だったフリックという青年も平気で叱りとばす。彼女から見たらルーファスなど苦労知らずのヒヨッコにちがいない。
 そんな人とふたりっきりになってしまうとは。迂闊だったかもしれない。
「わたしもそうよ。ときどき、眠れないときがあるの」
 ベランダまで顔を出して、お邪魔しました失礼しますでは不自然なので、ルーファスは腹を据えて少しつきあうことにした。
 イスもないので、床板にぺたりと腰を下ろす。
 サラディは高地ということもあり、肌をなでる風も帝都のものよりひんやりとして澄んでいる。ときおりかすかに森の匂いも運んでくる。
 前回サラディへ来たときはルーファスの親友もいっしょだった。あれからまだ半年もたっていない。それなのにひどく遠い昔のことのように感じる。
 あのときは流星群を見たいという口実をでっちあげて、なかば強引にあいつを連れだした。僕はただ、あいつといっしょにどこか遠くへ行ってみたかっただけだったんだ。結局この宿屋であいつがトラブルを起こして泊まれなくなり、どうもヤケクソっぽかったけれど、山の中で野宿したんだよ。でもあいつだって、けっこう楽しんでいるふしがあったし。僕だけが悪いわけじゃないよな。
 降るような星空の下。ぴったり身体を寄せ合った僕たち。
(テッド)
 ふいに、鼻の奥がツンとした。月明かりがまぶしすぎたのかもしれない。
 ルーファスもオデッサにならい空を仰いだ。星は月明かりが隠してしまって、ひとつも見えない。
「ねえ、知ってる?」ふいにオデッサが訊いた。「この山の裏側から、帝都の夜景が見えるのよ」
「グレッグミンスターの?」
「そうよ。とてもきれいなの」
「裏側って、山道もないんでしょう。危険じゃないんですか」
 オデッサはクスクス笑った。「そうよ。とっても危険よ。むかし一度だけ、兄さんと行ってみたのよ。家出したときね」
「家出?」
 ルーファスは目をみひらいた。オデッサがプライベートなことを話すのをはじめて聞いた。
「家出っていっても、きっかけなんて忘れた。でもねえ、モンスターに襲われかけて、ほんとうに死ぬところだったのよ。すんでのところで大人に助けてもらったけれどね。だけど、あんなに美しいけしきが見られて、もう死んじゃっても仕方がないかなって思ったのは、憶えているわ」
「そんなにすごかったんですか、グレッグミンスターは」
「そう。ほんとうに美しいの。私の大好きな黄金の都よ」
 ルーファスはオデッサを見た。この人は、帝国がきらいなのだと思っていた。
 オデッサ・シルバーバーグ。シルバーバーグ家といえば泣く子も黙る、赤月帝国の由緒正しき貴族の家柄だ。その地位をすててまで解放運動に身を投じた女性。
 いま目の前にいる彼女と、どちらがほんとうのオデッサなのか。
 ルーファスも帝国での地位をすてて逃げた身である。だが、心のどこかに「巻きこまれた」と考える被害者意識の自分がいる。機会があれば帝国に戻り、ふたたび皇帝に仕えたい。グレッグミンスターの家で父と、グレミオと、クレオと、パーンとともに暮らしたい。
 もちろん、その家には彼のいちばんの親友もいるはずだ。
「オデッサさんは」ルーファスは思わず訊ねた。「帝国に帰りたいと思ってらっしゃるんですか」
 オデッサの瞳がその瞬間だけ翳ったように見えた。それを打ち消すように、ふふっと笑う。「そうね。帰れるといいわね」
 ルーファスは眉間にしわを寄せた。オデッサのしぐさが腑に落ちなかった。
 こちらは帝国への未練で夜も眠れないというのに、この女性は達観している。解放運動の情勢はけしてよいとは言えないが、彼女のむかつくほどの自信はなんなのだろう。
「強いんですね、さすがオデッサさんだ」
 トゲのある言い方だったが、構うものかと思った。
 だがオデッサは笑みを崩さずにそれを否定した。
「ちがうよ。わたしは強くなんてない」
「だってオデッサさんは、反乱……解放運動のリーダーじゃありませんか。よっぽどのことでなけりゃ、なかなかできることじゃないでしょ」
 オデッサは月に背を向けてまっすぐルーファスを見た。どこか遠くで、森がざわわと鳴った。
「ルーファス、わたしね、ほんとに強くなんてないの。いまもくじけそうになるの、必死でがまんしているの」
「だって、そんな……」
「みんながわたしに期待を寄せてくれているのが痛いくらいわかるのに、押しつぶされそうになる。自分だから自分のことがわかるのよ。わたしは非力なの。けど、わたしはリーダーでなくてはいけないの。だって、それがみんなの希望だから……」
 オデッサのこんな悲しそうな、絶望的な笑みの表情は見たことがなかった。なぜならば彼女はいつでも自信に満ちあふれた顔をしていたから。
 あれは皆の前での演技だったというのだろうか。
 それとも、ここにいるオデッサが弱い女性を演じているのだろうか。
 ルーファスには図りかねる。
 オデッサが、わからない。
 黙りこくっていると、オデッサが逆に訊ねてきた。
「ルーファスは、テオ・マクドール将軍の息子さんなんでしょう。どうして帝国に追われていたの」
 ルーファスはぎくっとして身をこわばらせた。
「あなただって帝国に反抗したから、お尋ね者になったのでしょう? まあ、たぶんあのこざかしい軍政官どもにはめられたかなんかでしょうけど」
「そんなことを詮索して、どうしようというんです? あなたには関係ないでしょう」
 オデッサはルーファスの剣幕にびっくりして素直に謝った。
「ごめんなさい。そんなつもりじゃなかったの。ただ、あなたの目……」
 ルーファスは聞き返した。「目?」
「あなたの目、見てるとね、なにかとてつもなく重いものを背負っている感じがするの。あなたはビクトールとも、フリックともちがう。とても寂しそう。けど、あなたは力強い。けして負けない。そういう目をしてる。強いのはわたしじゃなくて、あなただわ」
 寂しそう、僕が? 強いって。なぜ?
 胸がチクリとした。無意識にオデッサから目を反らせた。
「ルーファス、夜中にうなされているでしょう」
 不意を突かれて、ルーファスは唸った。まさかリーダーに気づかれているとは。
「ルーファス、泣くときはね、声を押し殺さなくてもいいの。わたしだって泣きたくなったら、外の風に慰めてもらいに行くのよ。風も、星も、泣くことをとがめたりしないわ」
 オデッサのマントが風に軽くひるがえった。なんだかこの女性にすべてを見透かされているような気がした。もしかして、気づいているのだろうか。僕の手の内にある紋章のこと。
 ルーファスは右手をかたく握りしめた。
 いまだ正体のわからないこの紋章のことを、オデッサに語ってよいものかどうか。
「あなたは、信用できるのか」ルーファスは低い声で訊いた。
「信用するかしないかは、あなたが決めることだわ。そりゃわたしだって、あなたみたいな人には信用してもらいたいけど」
 ルーファスは自分でも驚くほど滞りのないしぐさで右手の革手袋をはずした。あらわになったそれを、月の光にさらしながらオデッサの眼前で止める。
 オデッサが息を呑んだ。
「ソウルイーターというんだ。これのせいで、僕は帝国に追われているらしい」
「これは……」オデッサの視線が紋章からルーファスの目に移る。「あなたのものなの?」
「友だちから、あずかった。これを持って逃げるって約束した」
「そうなの……」つぶやきながらオデッサはルーファスの右手をそっと両手で包み込んだ。
「ありがとうルーファス。ごめんなさい。もう手袋をしていいわ」
 しばらくふたりとも無言だった。ルーファスの手にある紋章が「27の真の紋章」のひとつであることにオデッサも気づいたにちがいない。そうでなければたかが紋章ひとつで帝国がこれほどまでに躍起になるわけがない。
 口火を切ったのはオデッサだった。
「まちがっていたらごめんなさい。ルーファス、あなたが苦しんでいるのはそのお友だちのことなのでしょう?」
 ルーファスは無言だった。それが肯定も、否定もしないしるしだった。
 オデッサは歩を進めるとルーファスのとなりに腰を下ろした。まるですぐそこの森で半年前、ルーファスと友がそうしたように。
 オデッサの肩が触れ、その懐かしいあたたかみにルーファスはつぐんでいた口をひらいた。
「あいつは、僕にこれをあずけて、囮になって帝国に捕まった」
「……」
「もう、あいつは、だめかもしれない。死んでるかも……」
 思わず口にしたその言葉に、いちばん動揺したのはルーファスだった。だが、悪い予感というものはあふれ出したら止めることができないのだ。
「僕を逃がしてくれたとき、あいつはひどいケガをしていたんだ。あのまま放っておいたら……そうじゃなくても、紋章を僕にあずけたと気づかれたらあいつがどんな目に遭うか」
 その先をオデッサの鋭い口調がさえぎる。
「あなたはお友だちの死ぬところを見たというの」
 ルーファスは驚いて目を瞬く。
「えっ」
「あなたはその目で見たわけではないのでしょう。なぜ見てもいないことを信じてしまうの。信じていいものはあなたがその目で見たもの、その耳で聞いたことだけよ。どうしてお友だちがグレッグミンスターであなたを待っていると信じてあげられないの」
 そこまで一気にまくし立てると、オデッサはぷいっとそっぽを向いて苦しげにつけ加えた。
「そんな気持ちなら、帝国からなんてぜったいに逃げられやしないわ」
 はじめて。
 解放軍の仲間やグレミオたちをことあるごとに叱りとばしていたオデッサが、はじめてルーファスを叱った。
 だが、ルーファスは。
 どうしようもなく、胸が痛んだ。せいいっぱいの虚勢もいまは無駄に思えた。
 慌ただしく通り過ぎる毎日に流されて、日中だけは辛うじて思い出さずにすんだ友への想いが、抑えきれない勢いであふれはじめた。
 涙がぽろぽろと頬をつたい、嗚咽が漏れる。
 オデッサの前では泣きたくない。泣くもんか。そんな抵抗も手に負えなくなった。
「うっ、うっ」
 オデッサは無言で自分のマントの半分をそっとルーファスに分けた。小刻みにふるえる彼の肩に静かに手をかける。
 姉が弟をいたわるように。

 明け方近くになってようやくルーファスが落ち着きを取り戻すまで、オデッサは彼のそばにつきそった。
「そろそろベッドに戻らないとまずいよね」と互いにうなずきあうまで、たくさんの話をした。もっぱらオデッサが聞き役だったのだが。彼女の過去も言葉を選びながら少しだけ話してくれた。
 むかし、オデッサにも大事な人がいたということ。
 その人は、帝国に無実の罪を着せられて、処刑されてしまったこと。
 オデッサはそのことをいまでも引きずっていて、フリックについ冷たい態度をとってしまうこと。
 すべてを承知しているフリックは、それでもオデッサを見守ってくれているのだということ。
 そうしてオデッサは、たしかになにかをルーファスに言いかけた。
「ねえ、ルーファス。もしわたしが……」
「なに?」
「……いいのよ、ルーファス。なんでもないわ」
 そう言ってほほえんだオデッサの顔を、やさしさを、悲しみを、ルーファスは生涯忘れない。

 ルーファス、しっかりしなさい。強くなりなさい。友だちのことを信じなさい。
 サラディでの夜、それがオデッサの遺した最後のメッセージだった。オデッサが帝国の凶刃に倒れ短い生涯を終えたのは、そのほんの数日後のことだ。解放軍のリーダーとしてではなくひとりの女性として、取り残された子供を救おうとして。
「ルーファス、わたしをその水のなかに投げ入れて。わたしが死んだことを、みなに気づかれてはいけないの。せっかく芽生えた解放運動の芽をつんではいけないの……」
 オデッサの最期の願いに、ルーファスはどうしても首を縦にふることができなかった。
 ビクトールがルーファスの肩をたたいて、言った。「わかった。おれがやる。安心しろ、オデッサ」
 ルーファスは泣いた。オデッサのために。
 オデッサの願いひとつ受けとめてあげられない自分の非力さに、泣いた。
『ルーファス、泣くときはね、声を押し殺さなくてもいいの。わたしだって泣きたくなったら、外の風に慰めてもらいに行くのよ。風も、星も、泣くことをとがめたりしないわ』

 そうしてルーファスは、オデッサの信じた道を歩きはじめる。


2004-12-24